史記 / 絳侯周勃世家
軍門都尉曰:「將軍令曰『軍中聞將軍令,不聞天子之詔』。」居無何,上至,又不得入。於是上乃使使持節詔將軍:「吾欲入勞軍。」亞夫乃傳言開壁門。壁門士吏謂從屬車騎曰:「將軍約,軍中不得驅馳。」於是天子乃按轡徐行。至營,將軍亞夫持兵揖曰:「介胄之士不拜,請以軍禮見。」天子為動,改容式車。使人稱謝:「皇帝敬勞將軍。」成禮而去。既出軍門,群臣皆驚。文帝曰:「嗟乎,此真將軍矣!曩者霸上、棘門軍,若兒戲耳,其將固可襲而虜也。至於亞夫,可得而犯邪!」稱善者久之。月餘,三軍皆罷。乃拜亞夫為中尉。孝文且崩時,誡太子曰:「即有緩急,周亞夫真可任將兵。」文帝崩,拜亞夫為車騎將軍。孝景三年,吳楚反。亞夫以中尉為太尉,東擊吳楚。因自請上曰:「楚兵剽輕,難與爭鋒。願以梁委之,絕其糧道,乃可制。」上許之。太尉既會兵滎陽,吳方攻梁,梁急,請救。太尉引兵東北走昌邑,深壁而守。梁日使使請太尉,太尉守便宜,不肯往。梁上書言景帝,景帝使使詔救梁。太尉不奉詔,堅壁不出,而使輕騎兵弓高侯等絕吳楚兵後食道。吳兵乏糧,饑,數欲挑戰,終不出。夜,軍中驚,內相攻擊擾亂,至於太尉帳下。太尉終臥不起。頃之,復定。後吳奔壁東南陬,太尉使備西北。
新字:軍門都尉曰:「将軍令曰『軍中聞将軍令,不聞天子之詔』。」居無何,上至,又不得入。於是上乃使使持節詔将軍:「吾欲入労軍。」亜夫乃伝言開壁門。壁門士吏謂従属車騎曰:「将軍約,軍中不得駆馳。」於是天子乃按轡徐行。至営,将軍亜夫持兵揖曰:「介胄之士不拝,請以軍礼見。」天子為動,改容式車。使人称謝:「皇帝敬労将軍。」成礼而去。既出軍門,群臣皆驚。文帝曰:「嗟乎,此真将軍矣!曩者覇上、棘門軍,若児戯耳,其将固可襲而虜也。至於亜夫,可得而犯邪!」称善者久之。月余,三軍皆罷。乃拝亜夫為中尉。孝文且崩時,誡太子曰:「即有緩急,周亜夫真可任将兵。」文帝崩,拝亜夫為車騎将軍。孝景三年,呉楚反。亜夫以中尉為太尉,東撃呉楚。因自請上曰:「楚兵剽軽,難与争鋒。願以梁委之,絶其糧道,乃可制。」上許之。太尉既会兵滎陽,呉方攻梁,梁急,請救。太尉引兵東北走昌邑,深壁而守。梁日使使請太尉,太尉守便宜,不肯往。梁上書言景帝,景帝使使詔救梁。太尉不奉詔,堅壁不出,而使軽騎兵弓高侯等絶呉楚兵後食道。呉兵乏糧,饑,数欲挑戦,終不出。夜,軍中驚,内相攻撃擾乱,至於太尉帳下。太尉終臥不起。頃之,復定。後呉奔壁東南陬,太尉使備西北。
書き下し
軍門の都尉曰く、「将軍令して曰く『軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず』と」。居ること何も無くして、上至るも、又入るを得ず。是に於いて上乃ち使をして節を持ちて将軍に詔せしむ、「吾入りて軍を労はんと欲す」と。亜夫乃ち言を伝へて壁門を開かしむ。壁門の士吏従属の車騎に謂ひて曰く、「将軍約す、軍中は駆馳するを得ず」と。是に於いて天子乃ち轡を按じて徐ろに行く。営に至るや、将軍亜夫兵を持ちて揖して曰く、「介冑の士は拝せず、請ふ軍礼を以て見えん」と。天子為に動き、容を改めて車に式す。人をして称謝せしむ、「皇帝敬みて将軍を労ふ」と。礼を成して去る。既に軍門を出づるや、群臣皆驚く。文帝曰く、「嗟乎、此れ真の将軍なり。曩者の霸上・棘門の軍は、児戯の若きのみ、其の将固より襲ひて虜にすべきなり。亜夫に至りては、得て犯すべけんや」と。善と称すること之を久しくす。月余にして、三軍皆罷む。乃ち亜夫を拝して中尉と為す。孝文且に崩ぜんとする時、太子を誡めて曰く、「即し緩急有らば、周亜夫真に兵を将ゐるに任ずべし」と。文帝崩じ、亜夫を拝して車騎将軍と為す。孝景の三年、呉楚反す。亜夫中尉を以て太尉と為り、東のかた呉楚を撃つ。因りて自ら上に請ひて曰く、「楚兵は剽軽にして、与に鋒を争ひ難し。願はくは梁を以て之に委ね、其の糧道を絶たば、乃ち制すべし」と。上之を許す。太尉既に兵を滎陽に会するに、呉方に梁を攻め、梁急にして、救ひを請ふ。太尉兵を引きて東北のかた昌邑に走り、壁を深くして守る。梁日に使をして太尉に請はしむるも、太尉便宜を守り、往くを肯んぜず。梁上書して景帝に言ひ、景帝使をして詔して梁を救はしむ。太尉詔を奉ぜず、壁を堅くして出でず、而して軽騎兵弓高侯等をして呉楚の兵の後の食道を絶たしむ。呉兵糧に乏しく、饑ゑ、数々挑戦せんと欲するも、終に出でず。夜、軍中驚き、内に相攻撃して擾乱し、太尉の帳下に至る。太尉終に臥して起きず。頃之にして、復た定まる。後に呉壁の東南の陬に奔る、太尉西北に備へしむ。
現代語訳
軍門の都尉は言った。「将軍の命令では『軍中では将軍の命令を聞き、天子の詔は聞かない』とされておりますので。」まもなく帝が到着したが、やはり入れなかった。そこで帝は使者に割符を持たせて将軍に詔を伝えさせた。「わたしは中に入って軍をねぎらいたい。」亜夫はようやく伝令を出して陣営の門を開けさせた。門を守る兵士は、帝の随行の車騎に向かって言った。「将軍の定めで、軍中では馬を走らせてはなりません。」そこで天子は手綱を控えてゆっくりと進んだ。陣営に着くと、将軍亜夫は武器を手にしたまま会釈して言った。「鎧兜の武人は拝礼いたしません。軍礼をもってお目にかかることをお許しください。」天子は心を動かされ、居住まいを正して車の横木に手をかけて敬礼した。人を遣わして「皇帝はつつしんで将軍をねぎらう」と伝えさせ、礼を終えて去った。軍門を出ると、群臣は皆驚いていた。文帝は言った。「ああ、これこそ真の将軍だ。先ほどの霸上や棘門の軍は子どもの遊びのようなもので、その将軍はたやすく襲われて捕虜になるだろう。亜夫に至っては、どうして侵すことができようか。」長いあいだ亜夫を褒め続けた。ひと月あまりで三軍はみな解散した。そこで亜夫を中尉(都の警備長官)に任じた。孝文帝は臨終に際して太子を戒めて言った。「もし急な事態が起これば、周亜夫こそ兵を任せるに足る。」文帝が崩じると、亜夫は車騎将軍に任じられた。孝景帝の三年、呉・楚が反乱を起こした。亜夫は中尉から太尉となり、東へ向かって呉・楚を撃った。そのとき自ら帝に願い出て言った。「楚の兵は素早く身軽で、正面から鋒を交えるのは難しい。梁国にはしばらく敵を引き受けさせ、その間に敵の兵糧の道を断てば、制圧できましょう。」帝はこれを許した。太尉が滎陽に兵を集めたとき、呉はちょうど梁を攻めており、梁は危急に陥って救援を求めた。太尉は兵を率いて東北の昌邑へ走り、塁を深くして守りを固めた。梁は毎日使者をよこして太尉に救援を求めたが、太尉は自分の判断を守って行こうとしなかった。梁は景帝に上書し、景帝は使者を遣わして梁を救えと詔した。太尉は詔に従わず、塁を固めて出ず、軽騎兵の弓高侯(韓頽当)らに呉・楚の兵の背後の兵糧路を断たせた。呉の兵は食糧が尽きて飢え、何度も挑発して戦いを求めたが、太尉はついに出なかった。ある夜、軍中で騒ぎが起き、味方同士が攻め合って混乱し、太尉の帳のもとにまで及んだ。太尉は最後まで寝たまま起きなかった。しばらくすると再び静まった。のちに呉が塁の東南の隅に殺到すると、太尉は西北を備えさせた。
解説
関連する章句
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『長短経』覇図景帝の時、呉・楚反す。征して之を平らぐ。〈帝、太尉周亜夫をして東のかた呉・楚を撃たしむ。亜夫、父の客鄧都尉に問いて曰く「策、将に安くに出でんとするか」と。客曰く「呉兵は鋭きこと甚だし。鋒を争い難し。楚兵は軽し。久しきを持する能わず。方今、将軍の為に計るに、兵を引きて東のかた昌邑に壁し、梁を以て呉に委ぬるに若くは莫し。呉、必ず鋭を尽くして之を攻めん。将軍、溝を深くし塁を高くし、軽兵をして淮泗の口を絶たしめば、呉の糧道絶えん。呉・梁をして相い弊れしめて、糧食竭きなば、乃ち全を以て其の極を制す。呉を破ること必せん」と。条侯曰く「善し」と。因りて上に請いて曰く「楚兵は剽軽にして、与に鋒を争い難し。願わくは梁を以て之に委ね、其の糧道を絶たば、乃ち制す可きなり」と。上、之を許す。亜夫、滎陽に至る。呉、方に急に梁を攻む。梁急にして、救いを請う。亜夫、兵を引きて東北のかた昌邑に走り、深く壁して守る。梁王、使いをして亜夫に請わしむ。夫、便宜を守りて往かず、堅く出でず。而して弓高侯等をして呉・楚の兵の後に屯し、其の餉道を絶たしむ。呉・楚の兵、糧に乏しく、飢う。退かんと欲し、数しば戦いを挑むも、終に出でず。呉・楚、既に餓え、乃ち兵を引きて去る。亜夫、精兵を出だして追撃し、大いに呉を破るなり。〉
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史記 絳侯周勃世家已にして其の精兵果たして西北に奔るも、入るを得ず。呉兵既に餓ゑ、乃ち引きて去る。太尉精兵を出だして追撃し、大いに之を破る。呉王濞其の軍を棄てて、壮士数千人と亡げ走り、江南の丹徒に保つ。漢兵因りて勝ちに乗じ、遂に尽く之を虜にし、其の兵を降し、呉王を購ふこと千金。月余にして、越人呉王の頭を斬りて以て告ぐ。凡そ相攻守すること三月にして、呉楚破れ平らぐ。是に於いて諸将乃ち太尉の計謀を以て是と為す。此に由りて梁孝王太尉と卻有り。帰りて、復た太尉の官を置く。五歳にして、遷りて丞相と為り、景帝甚だ之を重んず。景帝栗太子を廃するに、丞相固く之を争ふも、得ず。景帝此に由りて之を疏んず。而して梁孝王朝する毎に、常に太后と条侯の短を言ふ。竇太后曰く、「皇后の兄王信侯とすべきなり」と。景帝譲りて曰く、「始め南皮・章武侯は先帝侯とせず、臣即位するに及びて乃ち之を侯とす。信は未だ封ずるを得ざるなり」と。竇太后曰く、「人主は各々時を以て行ふのみ。竇長君在りし時より、竟に侯たるを得ず、死後乃ち其の子彭祖を封じて顧つて侯たるを得しむ。吾甚だ之を恨む。帝趣やかに信を侯とせよ」と。景帝曰く、「請ふ丞相と之を議するを得ん」と。丞相之を議するに、亜夫曰く、「高皇帝約すらく『劉氏に非ざれば王たるを得ず、功有るに非ざれば侯たるを得ず。約の如くならずんば、天下共に之を撃て』と。今信皇后の兄なりと雖も、功無し、之を侯とするは、約に非ざるなり」と。景帝黙然として止む。其の後匈奴王唯徐盧等五人降る、景帝之を侯として以て後を勧めんと欲す。丞相亜夫曰く、「彼其の主に背きて陛下に降る、陛下之を侯とせば、則ち何を以て人臣の節を守らざる者を責めんや」と。景帝曰く、「丞相の議用ふべからず」と。乃ち悉く唯徐盧等を封じて列侯と為す。亜夫因りて病と謝す。景帝の中三年、病を以て相を免ぜらる。頃之にして、景帝禁中に居り、条侯を召して、食を賜ふ。
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史記 絳侯周勃世家文帝朝するに、太后冒絮を以て文帝に提げて、曰く、「絳侯皇帝の璽を綰ね、兵を北軍に将ゐしとき、此の時を以て反せず、今一小県に居りて、顧つて反せんと欲するか」と。文帝既に絳侯の獄辞を見て、乃ち謝して曰く、「吏事方に験して之を出ださん」と。是に於いて使をして節を持ちて絳侯を赦さしめ、爵邑を復す。絳侯既に出でて、曰く、「吾嘗て百万の軍を将ゐたり、然れども安くんぞ獄吏の貴きを知らんや」と。絳侯復た国に就く。孝文帝の十一年卒し、謚して武侯と為す。子勝之代はりて侯たり。六歳にして、公主を尚りて、相中らず、人を殺すに坐して、国除かる。絶ゆること一歳、文帝乃ち絳侯勃の子の賢なる者河内の守亜夫を択び、封じて条侯と為し、絳侯の後を続がしむ。条侯亜夫未だ侯たらずして河内の守たりし時より、許負之を相して、曰く、「君後三歳にして侯たらん。侯たること八歳にして将相と為り、国の秉を持し、貴重なること、人臣に於いて両つ無からん。其の後九歳にして君餓死せん」と。亜夫笑ひて曰く、「臣の兄已に父に代はりて侯たり、如し卒すること有らば、子当に代はるべし、亜夫何ぞ侯を説かんや。然れども既已に貴きこと負の言の如くんば、又何ぞ餓死を説かんや。我に指し示せ」と。許負其の口を指して曰く、「従理の口に入る有り、此れ餓死の法なり」と。居ること三歳にして、其の兄絳侯勝之罪有り、孝文帝絳侯の子の賢なる者を択ぶに、皆亜夫を推す、乃ち亜夫を封じて条侯と為し、絳侯の後を続がしむ。文帝の後六年、匈奴大いに辺に入る。乃ち宗正劉礼を以て将軍と為し、霸上に軍せしめ、祝茲侯徐厲を将軍と為し、棘門に軍せしめ、河内の守亜夫を以て将軍と為し、細柳に軍せしめ、以て胡に備ふ。上自ら軍を労ふ。霸上及び棘門の軍に至るや、直ちに馳せ入り、将以下騎して送迎す。已にして細柳の軍に之くに、軍士吏甲を被り、兵刃を鋭くし、弓弩を彀き、満を持す。天子の先駆至るも、入るを得ず。先駆曰く、「天子且に至らんとす」と。
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史記 絳侯周勃世家独り大胾を置き、切肉無く、又櫡を置かず。条侯心平らかならず、顧みて尚席に謂ひて櫡を取らしむ。景帝視て笑ひて曰く、「此れ君の所を足らざるか」と。条侯冠を免ぎて謝す。上起つ、条侯因りて趨りて出づ。景帝目を以て之を送りて、曰く、「此の怏怏たる者は少主の臣に非ざるなり」と。居ること何も無くして、条侯の子父の為に工官尚方の甲楯五百被の以て葬るべき者を買ふ。庸を取りて之を苦しめ、銭を予へず。庸其の県官の器を盗み買ふを知り、怒りて上変して子を告ぐ、事連なりて条侯を汚す。書既に上に聞こゆ、上吏に下す。吏条侯を簿責するも、条侯対へず。景帝之を罵りて曰く、「吾用ひざるなり」と。召して廷尉に詣らしむ。廷尉責めて曰く、「君侯反せんと欲するか」と。亜夫曰く、「臣の買ふ所の器は、乃ち葬器なり、何ぞ反と謂ふや」と。吏曰く、「君侯縦ひ地上に反せずとも、即ち地下に反せんと欲するのみ」と。吏之を侵すこと益々急なり。初め、吏条侯を捕ふるに、条侯自殺せんと欲す、夫人之を止む、故を以て死するを得ず、遂に廷尉に入る。因りて食はざること五日、血を嘔きて死す。国除かる。絶ゆること一歳、景帝乃ち更めて絳侯勃の他の子堅を封じて平曲侯と為し、絳侯の後を続がしむ。十九年にして卒し、謚して共侯と為す。子建徳代はりて侯たり、十三年にして、太子太傅と為る。酎金善からざるに坐し、元鼎五年、罪有りて、国除かる。条侯果たして餓死す。死後、景帝乃ち王信を封じて蓋侯と為す。太史公曰く、絳侯周勃始め布衣たりし時、鄙樸の人なり、才能凡庸に過ぎず。高祖に従ひて天下を定むるに及び、将相の位に在り、諸呂乱を作さんと欲するに、勃国家の難を匡し、之を正に復す。伊尹・周公と雖も、何を以て加へんや。亜夫の兵を用ふる、威重を持し、堅刃を執る、穣苴も曷ぞ加ふること有らん。己に足りて学ばず、節を守りて遜らず、終に以て窮困す。悲しいかな。
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史記 呉王濞列伝今乃ち楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠と約従して反し、逆を為して道無く、兵を起こして以て宗廟を危うくし、大臣及び漢の使者を賊殺し、万民を迫劫し、無罪を夭殺し、民家を焼残し、其の丘冢を掘り、甚だ暴虐を為す。今卬等又重ねて逆にして道無く、宗廟を焼き、御物を鹵む。朕甚だ之を痛む。朕素服して正殿を避く。将軍其れ士大夫に勧めて反虜を撃たしめよ。反虜を撃つ者は、深く入りて多く殺すを功と為す。首を斬り虜を捕ふるに、比三百石以上の者は皆之を殺し、置く所有る無かれ。敢へて詔を議し及び詔の如くせざる者有らば、皆要斬せん」と。初め、呉王の淮を度るや、楚王と遂に西して棘壁に敗り、勝に乗じて前み、鋭きこと甚だし。梁の孝王恐れ、六将軍を遣はして呉を撃たしむるも、又梁の両将を敗り、士卒皆還りて梁に走る。梁数々使をして条侯に報じて救ひを求めしむるも、条侯許さず。又使をして条侯を上に悪しましむ。上人をして条侯に告げて梁を救はしむるも、復た便宜を守りて行かず。梁韓安国及び楚の死事の相の弟張羽をして将軍と為さしめ、乃ち頗る呉の兵を敗るを得たり。呉の兵西せんと欲するも、梁の城守堅く、敢へて西せず。即ち条侯の軍に走り、下邑に会す。戦はんと欲するも、条侯壁して、戦ふを肯ぜず。呉の糧絶え、卒饑ゑ、数々戦ひを挑み、遂に夜条侯の壁に奔り、東南を驚かす。条侯をして西北に備へしむ。果たして西北より入る。呉大いに敗れ、士卒多く饑ゑて死し、乃ち畔き散ず。是に於て呉王乃ち其の麾下の壮士数千人と夜亡げ去り、江を度りて丹徒に走り、東越に保る。東越の兵万余人可り、乃ち人をして亡卒を収聚せしむ。漢人をして利を以て東越に啗はしむ。東越即ち呉王を紿く。呉王出でて軍を労ふ。即ち人をして呉王を鏦殺せしめ、其の頭を盛りて、伝を馳せて以て聞す。呉王の子子華・子駒亡げて閩越に走る。
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史記 呉王濞列伝乃ち盎を拝して太常と為し、呉王の弟の子徳侯を宗正と為す。盎装して行を治む。後十余日、上中尉をして錯を召さしめ、紿きて載せて東市に行く。錯朝衣を衣て東市に斬らる。則ち袁盎をして宗廟を奉ぜしめ、宗正をして親戚を輔けしめ、呉に告ぐること盎の策の如くせしむ。呉に至るに、呉楚の兵已に梁の壁を攻む。宗正は親の故を以て、先づ入りて見え、呉王に諭して拝して詔を受けしめんとす。呉王袁盎の来るを聞き、亦其の己に説かんと欲するを知り、笑ひて応へて曰く、「我已に東帝と為る。尚ほ誰にか拝せん」と。盎に見ゆるを肯ぜずして之を軍中に留め、劫かして将たらしめんと欲す。盎肯ぜず。人をして囲み守らしめ、且に之を殺さんとす。盎夜出づるを得て、歩みて亡げ去り、梁の軍に走り、遂に帰りて報ず。条侯将に六乗の伝に乗り、兵を滎陽に会せんとす。雒陽に至り、劇孟を見て、喜びて曰く、「七国反し、吾伝に乗りて此に至る。自ら全きを意はず。又以為へらく諸侯已に劇孟を得たりと。劇孟今動く無し。吾滎陽に拠らば、以東は憂ふるに足る者無し」と。淮陽に至り、父絳侯の故客鄧都尉に問ひて曰く、「策安くにか出づる」と。客曰く、「呉の兵鋭きこと甚だし。与に鋒を争ひ難し。楚の兵は軽く、久しくする能はず。方今将軍の為に計るに、兵を引きて東北のかた昌邑に壁し、梁を以て呉に委ぬるに若くは莫し。呉必ず鋭を尽くして之を攻めん。将軍は溝を深くし塁を高くし、軽兵をして淮泗の口を絶ち、呉の饟道を塞がしめよ。彼呉梁相敝れて糧食竭きなば、乃ち全彊を以て其の罷極を制せば、呉を破ること必せり」と。条侯曰く、「善し」と。其の策に従ひ、遂に昌邑の南に壁を堅くし、軽兵もて呉の饟道を絶つ。
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