史記 / 絳侯周勃世家
文帝朝,太后以冒絮提文帝,曰:「絳侯綰皇帝璽,將兵於北軍,不以此時反,今居一小縣,顧欲反邪!」文帝既見絳侯獄辭,乃謝曰:「吏事方驗而出之。」於是使使持節赦絳侯,復爵邑。絳侯既出,曰:「吾嘗將百萬軍,然安知獄吏之貴乎!」絳侯復就國。孝文帝十一年卒,謚為武侯。子勝之代侯。六歲,尚公主,不相中,坐殺人,國除。絕一歲,文帝乃擇絳侯勃子賢者河內守亞夫,封為條侯,續絳侯後。條侯亞夫自未侯為河內守時,許負相之,曰:「君後三歲而侯。侯八歲為將相,持國秉,貴重矣,於人臣無兩。其後九歲而君餓死。」亞夫笑曰:「臣之兄已代父侯矣,有如卒,子當代,亞夫何說侯乎?然既已貴如負言,又何說餓死?指示我。」許負指其口曰:「有從理入口,此餓死法也。」居三歲,其兄絳侯勝之有罪,孝文帝擇絳侯子賢者,皆推亞夫,乃封亞夫為條侯,續絳侯後。文帝之後六年,匈奴大入邊。乃以宗正劉禮為將軍,軍霸上;祝茲侯徐厲為將軍,軍棘門;以河內守亞夫為將軍,軍細柳:以備胡。上自勞軍。至霸上及棘門軍,直馳入,將以下騎送迎。已而之細柳軍,軍士吏被甲,銳兵刃,彀弓弩,持滿。天子先驅至,不得入。先驅曰:「天子且至!」
新字:文帝朝,太后以冒絮提文帝,曰:「絳侯綰皇帝璽,将兵於北軍,不以此時反,今居一小県,顧欲反邪!」文帝既見絳侯獄辞,乃謝曰:「吏事方験而出之。」於是使使持節赦絳侯,復爵邑。絳侯既出,曰:「吾嘗将百万軍,然安知獄吏之貴乎!」絳侯復就国。孝文帝十一年卒,謚為武侯。子勝之代侯。六歳,尚公主,不相中,坐殺人,国除。絶一歳,文帝乃択絳侯勃子賢者河内守亜夫,封為条侯,続絳侯後。条侯亜夫自未侯為河内守時,許負相之,曰:「君後三歳而侯。侯八歳為将相,持国秉,貴重矣,於人臣無両。其後九歳而君餓死。」亜夫笑曰:「臣之兄已代父侯矣,有如卒,子当代,亜夫何説侯乎?然既已貴如負言,又何説餓死?指示我。」許負指其口曰:「有従理入口,此餓死法也。」居三歳,其兄絳侯勝之有罪,孝文帝択絳侯子賢者,皆推亜夫,乃封亜夫為条侯,続絳侯後。文帝之後六年,匈奴大入辺。乃以宗正劉礼為将軍,軍覇上;祝茲侯徐厲為将軍,軍棘門;以河内守亜夫為将軍,軍細柳:以備胡。上自労軍。至覇上及棘門軍,直馳入,将以下騎送迎。已而之細柳軍,軍士吏被甲,鋭兵刃,彀弓弩,持満。天子先駆至,不得入。先駆曰:「天子且至!」
書き下し
文帝朝するに、太后冒絮を以て文帝に提げて、曰く、「絳侯皇帝の璽を綰ね、兵を北軍に将ゐしとき、此の時を以て反せず、今一小県に居りて、顧つて反せんと欲するか」と。文帝既に絳侯の獄辞を見て、乃ち謝して曰く、「吏事方に験して之を出ださん」と。是に於いて使をして節を持ちて絳侯を赦さしめ、爵邑を復す。絳侯既に出でて、曰く、「吾嘗て百万の軍を将ゐたり、然れども安くんぞ獄吏の貴きを知らんや」と。絳侯復た国に就く。孝文帝の十一年卒し、謚して武侯と為す。子勝之代はりて侯たり。六歳にして、公主を尚りて、相中らず、人を殺すに坐して、国除かる。絶ゆること一歳、文帝乃ち絳侯勃の子の賢なる者河内の守亜夫を択び、封じて条侯と為し、絳侯の後を続がしむ。条侯亜夫未だ侯たらずして河内の守たりし時より、許負之を相して、曰く、「君後三歳にして侯たらん。侯たること八歳にして将相と為り、国の秉を持し、貴重なること、人臣に於いて両つ無からん。其の後九歳にして君餓死せん」と。亜夫笑ひて曰く、「臣の兄已に父に代はりて侯たり、如し卒すること有らば、子当に代はるべし、亜夫何ぞ侯を説かんや。然れども既已に貴きこと負の言の如くんば、又何ぞ餓死を説かんや。我に指し示せ」と。許負其の口を指して曰く、「従理の口に入る有り、此れ餓死の法なり」と。居ること三歳にして、其の兄絳侯勝之罪有り、孝文帝絳侯の子の賢なる者を択ぶに、皆亜夫を推す、乃ち亜夫を封じて条侯と為し、絳侯の後を続がしむ。文帝の後六年、匈奴大いに辺に入る。乃ち宗正劉礼を以て将軍と為し、霸上に軍せしめ、祝茲侯徐厲を将軍と為し、棘門に軍せしめ、河内の守亜夫を以て将軍と為し、細柳に軍せしめ、以て胡に備ふ。上自ら軍を労ふ。霸上及び棘門の軍に至るや、直ちに馳せ入り、将以下騎して送迎す。已にして細柳の軍に之くに、軍士吏甲を被り、兵刃を鋭くし、弓弩を彀き、満を持す。天子の先駆至るも、入るを得ず。先駆曰く、「天子且に至らんとす」と。
現代語訳
文帝が朝見に来ると、薄太后は頭巾を文帝に投げつけて言った。「絳侯は皇帝の璽を身につけ、北軍(都の近衛軍)を率いていたとき、その好機にさえ謀反しなかった。それが今、小さな県にいて、かえって謀反しようとするものか。」文帝は絳侯の供述書を読むと、太后に詫びて言った。「役人がちょうど取り調べを終えたので、釈放いたしましょう。」こうして使者に割符を持たせて絳侯を赦し、爵位と封邑を元に戻した。絳侯は出獄すると言った。「わたしはかつて百万の軍を率いた。だが獄吏がこれほど偉いとは知らなかった。」絳侯は再び封国に帰った。孝文帝の十一年に亡くなり、武侯と諡(おくりな)された。子の勝之が跡を継いで侯となった。六年後、公主を妻としていたが夫婦仲が悪く、殺人の罪に問われて国は取り潰された。一年間絶えたのち、文帝は絳侯勃の子のうち賢い者として河内太守の亜夫を選び、条侯に封じて絳侯の家を継がせた。条侯亜夫がまだ侯でなく河内太守だったころ、人相見の許負(きょふ)が彼を占って言った。「あなたは三年後に侯になるでしょう。侯になって八年で将軍・宰相となり、国の大権を握り、その貴さは臣下として並ぶ者がないほどになりましょう。その九年後、あなたは餓死なさいましょう。」亜夫は笑って言った。「わたしの兄がすでに父の跡を継いで侯になっている。もし兄が死んでも、兄の子が継ぐはずだ。どうしてわたしが侯になれようか。それに、あなたの言うほど貴くなるのなら、どうして餓死などするのか。教えてくれ。」許負は亜夫の口元を指して言った。「縦の筋が口に入り込んでおりましょう。これが餓死の相でございましょう。」三年たって、兄の絳侯勝之が罪を犯し、孝文帝が絳侯の子の中から賢い者を選ばせると、皆が亜夫を推したので、亜夫を条侯に封じて絳侯の跡を継がせた。文帝の後元六年、匈奴が大挙して辺境に侵入した。そこで宗正の劉礼を将軍として霸上に、祝茲侯の徐厲を将軍として棘門に、河内太守の亜夫を将軍として細柳に駐屯させ、匈奴に備えた。帝はみずから軍を慰労に出かけた。霸上と棘門の軍では、そのまま馬を馳せて中に入り、将軍以下が馬に乗って送り迎えした。やがて細柳の軍へ行くと、兵士も役人も鎧を着け、刃を研ぎ澄まし、弓や弩を引き絞って構えていた。天子の先払いが着いても、中に入れなかった。先払いは「天子がまもなくお着きになる」と言った。
解説
関連する章句
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史記 絳侯周勃世家独り大胾を置き、切肉無く、又櫡を置かず。条侯心平らかならず、顧みて尚席に謂ひて櫡を取らしむ。景帝視て笑ひて曰く、「此れ君の所を足らざるか」と。条侯冠を免ぎて謝す。上起つ、条侯因りて趨りて出づ。景帝目を以て之を送りて、曰く、「此の怏怏たる者は少主の臣に非ざるなり」と。居ること何も無くして、条侯の子父の為に工官尚方の甲楯五百被の以て葬るべき者を買ふ。庸を取りて之を苦しめ、銭を予へず。庸其の県官の器を盗み買ふを知り、怒りて上変して子を告ぐ、事連なりて条侯を汚す。書既に上に聞こゆ、上吏に下す。吏条侯を簿責するも、条侯対へず。景帝之を罵りて曰く、「吾用ひざるなり」と。召して廷尉に詣らしむ。廷尉責めて曰く、「君侯反せんと欲するか」と。亜夫曰く、「臣の買ふ所の器は、乃ち葬器なり、何ぞ反と謂ふや」と。吏曰く、「君侯縦ひ地上に反せずとも、即ち地下に反せんと欲するのみ」と。吏之を侵すこと益々急なり。初め、吏条侯を捕ふるに、条侯自殺せんと欲す、夫人之を止む、故を以て死するを得ず、遂に廷尉に入る。因りて食はざること五日、血を嘔きて死す。国除かる。絶ゆること一歳、景帝乃ち更めて絳侯勃の他の子堅を封じて平曲侯と為し、絳侯の後を続がしむ。十九年にして卒し、謚して共侯と為す。子建徳代はりて侯たり、十三年にして、太子太傅と為る。酎金善からざるに坐し、元鼎五年、罪有りて、国除かる。条侯果たして餓死す。死後、景帝乃ち王信を封じて蓋侯と為す。太史公曰く、絳侯周勃始め布衣たりし時、鄙樸の人なり、才能凡庸に過ぎず。高祖に従ひて天下を定むるに及び、将相の位に在り、諸呂乱を作さんと欲するに、勃国家の難を匡し、之を正に復す。伊尹・周公と雖も、何を以て加へんや。亜夫の兵を用ふる、威重を持し、堅刃を執る、穣苴も曷ぞ加ふること有らん。己に足りて学ばず、節を守りて遜らず、終に以て窮困す。悲しいかな。
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史記 絳侯周勃世家軍門の都尉曰く、「将軍令して曰く『軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず』と」。居ること何も無くして、上至るも、又入るを得ず。是に於いて上乃ち使をして節を持ちて将軍に詔せしむ、「吾入りて軍を労はんと欲す」と。亜夫乃ち言を伝へて壁門を開かしむ。壁門の士吏従属の車騎に謂ひて曰く、「将軍約す、軍中は駆馳するを得ず」と。是に於いて天子乃ち轡を按じて徐ろに行く。営に至るや、将軍亜夫兵を持ちて揖して曰く、「介冑の士は拝せず、請ふ軍礼を以て見えん」と。天子為に動き、容を改めて車に式す。人をして称謝せしむ、「皇帝敬みて将軍を労ふ」と。礼を成して去る。既に軍門を出づるや、群臣皆驚く。文帝曰く、「嗟乎、此れ真の将軍なり。曩者の霸上・棘門の軍は、児戯の若きのみ、其の将固より襲ひて虜にすべきなり。亜夫に至りては、得て犯すべけんや」と。善と称すること之を久しくす。月余にして、三軍皆罷む。乃ち亜夫を拝して中尉と為す。孝文且に崩ぜんとする時、太子を誡めて曰く、「即し緩急有らば、周亜夫真に兵を将ゐるに任ずべし」と。文帝崩じ、亜夫を拝して車騎将軍と為す。孝景の三年、呉楚反す。亜夫中尉を以て太尉と為り、東のかた呉楚を撃つ。因りて自ら上に請ひて曰く、「楚兵は剽軽にして、与に鋒を争ひ難し。願はくは梁を以て之に委ね、其の糧道を絶たば、乃ち制すべし」と。上之を許す。太尉既に兵を滎陽に会するに、呉方に梁を攻め、梁急にして、救ひを請ふ。太尉兵を引きて東北のかた昌邑に走り、壁を深くして守る。梁日に使をして太尉に請はしむるも、太尉便宜を守り、往くを肯んぜず。梁上書して景帝に言ひ、景帝使をして詔して梁を救はしむ。太尉詔を奉ぜず、壁を堅くして出でず、而して軽騎兵弓高侯等をして呉楚の兵の後の食道を絶たしむ。呉兵糧に乏しく、饑ゑ、数々挑戦せんと欲するも、終に出でず。夜、軍中驚き、内に相攻撃して擾乱し、太尉の帳下に至る。太尉終に臥して起きず。頃之にして、復た定まる。後に呉壁の東南の陬に奔る、太尉西北に備へしむ。
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史記 絳侯周勃世家勃は人と為り木彊敦厚にして、高帝以為へらく大事を属すべしと。勃は文学を好まず、諸生説士を召す毎に、東郷して坐して之を責む、「趣やかに我が為に語れ」と。其の椎にして文少なきこと此くの如し。勃既に燕を定めて帰るに、高祖已に崩ぜり、列侯を以て孝恵帝に事ふ。孝恵帝の六年、太尉の官を置き、勃を以て太尉と為す。十歳にして、高后崩ず。呂禄趙王を以て漢の上将軍と為り、呂産呂王を以て漢の相国と為り、漢の権を秉り、劉氏を危うくせんと欲す。勃太尉たれども、軍門に入るを得ず。陳平丞相たれども、事に任ずるを得ず。是に於いて勃平と謀り、卒に諸呂を誅して孝文皇帝を立つ。其の語は呂后・孝文の事の中に在り。文帝既に立ち、勃を以て右丞相と為し、金五千斤を賜ひ、食邑万戸なり。居ること月余、人或ひと勃に説きて曰く、「君既に諸呂を誅し、代王を立て、威天下を震はす、而して君厚賞を受け、尊位に処り、寵を以てす、之を久しくせば即ち禍身に及ばん」と。勃懼れ、亦自ら危ぶみ、乃ち謝して相印を帰さんことを請ふ。上之を許す。歳余にして、丞相平卒し、上復た勃を以て丞相と為す。十余月にして、上曰く、「前日吾列侯に詔して国に就かしむるに、或いは未だ行く能はず、丞相は吾が重んずる所なり、其れ之に率先せよ」と。乃ち相を免ぜられて国に就く。歳余、河東の守尉県を行りて絳に至る毎に、絳侯勃自ら誅せらるるを畏れ恐れ、常に甲を被り、家人をして兵を持たしめて以て之に見ゆ。其の後人上書して勃反せんと欲すと告ぐる有り、廷尉に下す。廷尉其の事を長安に下し、勃を逮捕して之を治む。勃恐れ、辞を置くを知らず。吏稍く之を侵辱す。勃千金を以て獄吏に与ふ、獄吏乃ち牘の背に書して之に示して曰く、「公主を以て証と為せ」と。公主は、孝文帝の女なり、勃の太子勝之之を尚る、故に獄吏引きて証と為さしむ。勃の益封受賜は、尽く以て薄昭に予ふ。係ること急なるに及び、薄昭為に薄太后に言ひ、太后も亦以為へらく反事無しと。
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史記 絳侯周勃世家已にして其の精兵果たして西北に奔るも、入るを得ず。呉兵既に餓ゑ、乃ち引きて去る。太尉精兵を出だして追撃し、大いに之を破る。呉王濞其の軍を棄てて、壮士数千人と亡げ走り、江南の丹徒に保つ。漢兵因りて勝ちに乗じ、遂に尽く之を虜にし、其の兵を降し、呉王を購ふこと千金。月余にして、越人呉王の頭を斬りて以て告ぐ。凡そ相攻守すること三月にして、呉楚破れ平らぐ。是に於いて諸将乃ち太尉の計謀を以て是と為す。此に由りて梁孝王太尉と卻有り。帰りて、復た太尉の官を置く。五歳にして、遷りて丞相と為り、景帝甚だ之を重んず。景帝栗太子を廃するに、丞相固く之を争ふも、得ず。景帝此に由りて之を疏んず。而して梁孝王朝する毎に、常に太后と条侯の短を言ふ。竇太后曰く、「皇后の兄王信侯とすべきなり」と。景帝譲りて曰く、「始め南皮・章武侯は先帝侯とせず、臣即位するに及びて乃ち之を侯とす。信は未だ封ずるを得ざるなり」と。竇太后曰く、「人主は各々時を以て行ふのみ。竇長君在りし時より、竟に侯たるを得ず、死後乃ち其の子彭祖を封じて顧つて侯たるを得しむ。吾甚だ之を恨む。帝趣やかに信を侯とせよ」と。景帝曰く、「請ふ丞相と之を議するを得ん」と。丞相之を議するに、亜夫曰く、「高皇帝約すらく『劉氏に非ざれば王たるを得ず、功有るに非ざれば侯たるを得ず。約の如くならずんば、天下共に之を撃て』と。今信皇后の兄なりと雖も、功無し、之を侯とするは、約に非ざるなり」と。景帝黙然として止む。其の後匈奴王唯徐盧等五人降る、景帝之を侯として以て後を勧めんと欲す。丞相亜夫曰く、「彼其の主に背きて陛下に降る、陛下之を侯とせば、則ち何を以て人臣の節を守らざる者を責めんや」と。景帝曰く、「丞相の議用ふべからず」と。乃ち悉く唯徐盧等を封じて列侯と為す。亜夫因りて病と謝す。景帝の中三年、病を以て相を免ぜらる。頃之にして、景帝禁中に居り、条侯を召して、食を賜ふ。
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史記 外戚世家大臣之を征し、天其の統を誘き、卒に呂氏を滅ぼす。唯独り孝恵皇后を置きて北宮に居らしむ。代王を迎立す、是れを孝文帝と為し、漢の宗廟を奉ず。此れ豈に天に非ずや。天命に非ずんば孰か能く之に当たらん。薄太后は、父は呉人、姓は薄氏、秦の時に故の魏王の宗家の女魏媼と通じ、薄姫を生む、而して薄父山陰に死し、因りて焉に葬る。諸侯の秦に畔くに及び、魏豹立ちて魏王と為る、而して魏媼其の女を魏の宮に内る。媼の許負の所に之きて相せしむ、薄姫を相して、当に天子を生むべしと云ふ。是の時項羽方に漢王と滎陽に相距ぎ、天下未だ定まる所有らず。豹初め漢と楚を撃つ、許負の言を聞くに及び、心に独り喜び、因りて漢に背きて畔き、中立し、更に楚と連和す。漢、曹参等をして魏王豹を撃虜せしめ、其の国を以て郡と為す、而して薄姫は織室に輸さる。豹已に死す、漢王織室に入り、薄姫の色有るを見て、詔して後宮に内る、歳余幸を得ず。始め姫少き時、管夫人・趙子児と相愛し、約して曰く、「先に貴くならば相忘るること無からん」と。已にして管夫人・趙子児先に漢王に幸せらる。漢王河南宮の成皋台に坐す、此の両美人相与に薄姫の初時の約を笑ふ。漢王之を聞き、其の故を問ふ、両人具に実を以て漢王に告ぐ。漢王心惨然として、薄姫を憐れみ、是の日召して之を幸す。薄姫曰く、「昨暮夜、妾夢みるに蒼龍吾が腹に拠る」と。高帝曰く、「此れ貴徴なり、吾女の為に遂に之を成さん」と。一たび幸せられて男を生む、是れを代王と為す。其の後薄姫希に高祖に見ゆ。高祖崩じ、諸々の御幸の姫戚夫人の属、呂太后怒りて、皆之を幽し、宮を出づるを得ず。而して薄姫は希に見ゆるの故を以て、出づるを得、子に従ひて代に之き、代王の太后と為る。太后の弟薄昭従ひて代に如く。代王立ちて十七年、高后崩ず。
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史記 絳侯周勃世家籍已に死し、因りて東のかた楚の地の泗水・東海郡を定め、凡そ二十二県を得。還りて雒陽・櫟陽を守り、潁陰侯と共に鍾離を食むことを賜はる。将軍を以て高帝に従ひて反する者燕王臧荼を撃ち、之を易の下に破る。将ゐる所の卒の馳道に当たること多しと為す。爵列侯を賜はり、符を剖きて世世絶ゆること勿からしむ。絳の八千一百八十戸を食み、絳侯と号す。将軍を以て高帝に従ひて反せる韓王信を代に撃ち、霍人を降し下す。以て前みて武泉に至り、胡騎を撃ち、之を武泉の北に破る。転じて韓信の軍を銅鞮に攻め、之を破る。還りて、太原の六城を降す。韓信の胡騎を晋陽の下に撃ち、之を破り、晋陽を下す。後に韓信の軍を硰石に撃ち、之を破り、北ぐるを追ふこと八十里。還りて楼煩の三城を攻め、因りて胡騎を平城の下に撃つ、将ゐる所の卒の馳道に当たること多しと為す。勃遷りて太尉と為る。陳豨を撃ち、馬邑を屠る。将ゐる所の卒豨の将軍乗馬絺を斬る。韓信・陳豨・趙利の軍を楼煩に撃ち、之を破る。豨の将宋最、鴈門の守圂を得。因りて転じて攻めて雲中の守遬、丞相箕肆、将勲を得。鴈門郡十七県、雲中郡十二県を定む。因りて復た豨を霊丘に撃ち、之を破り、豨を斬り、豨の丞相程縦、将軍陳武、都尉高肆を得。代郡九県を定む。燕王盧綰反し、勃相国を以て樊噲に代はりて将たり、撃ちて薊を下し、綰の大将抵、丞相偃、守陘、太尉弱、御史大夫施を得、渾都を屠る。綰の軍を上蘭に破り、復た撃ちて綰の軍を沮陽に破る。追ひて長城に至り、上谷十二県、右北平十六県、遼西・遼東二十九県、漁陽二十二県を定む。最も高帝に従ひて相国一人、丞相二人、将軍・二千石各三人を得。別に軍二を破り、城三を下し、郡五、県七十九を定め、丞相・大将各一人を得。
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