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史記 / 陳丞相世家

平曰:「陛下即問決獄,責廷尉;問錢穀,責治粟內史。」上曰:「苟各有主者,而君所主者何事也?」平謝曰:「主臣!陛下不知其駑下,使待罪宰相。宰相者,上佐天子理陰陽,順四時,下育萬物之宜,外鎮撫四夷諸侯,內親附百姓,使卿大夫各得任其職焉。」孝文帝乃稱善。右丞相大慚,出而讓陳平曰:「君獨不素教我對!」陳平笑曰:「君居其位,不知其任邪?且陛下即問長安中盜賊數,君欲彊對邪?」於是絳侯自知其能不如平遠矣。居頃之,絳侯謝病請免相,陳平專爲一丞相。孝文帝二年,丞相陳平卒,諡爲獻侯。子共侯買代侯。二年卒,子簡侯恢代侯。二十三年卒,子何代侯。二十三年,何坐略人妻,棄市,國除。始陳平曰:「我多陰謀,是道家之所禁。吾世即廢,亦已矣,終不能復起,以吾多陰禍也。」然其後曾孫陳掌以衞氏親貴戚,願得續封陳氏,然終不得。太史公曰:陳丞相平少時,本好黃帝、老子之術。方其割肉俎上之時,其意固已遠矣。傾側擾攘楚魏之間,卒歸高帝。常出奇計,救紛糾之難,振國家之患。及呂后時,事多故矣,然平竟自脫,定宗廟,以榮名終,稱賢相,豈不善始善終哉!非知謀孰能當此者乎?

新字:平曰:「陛下即問決獄,責廷尉;問銭穀,責治粟内史。」上曰:「苟各有主者,而君所主者何事也?」平謝曰:「主臣!陛下不知其駑下,使待罪宰相。宰相者,上佐天子理陰陽,順四時,下育万物之宜,外鎮撫四夷諸侯,内親附百姓,使卿大夫各得任其職焉。」孝文帝乃称善。右丞相大慚,出而譲陳平曰:「君独不素教我対!」陳平笑曰:「君居其位,不知其任邪?且陛下即問長安中盗賊数,君欲彊対邪?」於是絳侯自知其能不如平遠矣。居頃之,絳侯謝病請免相,陳平専為一丞相。孝文帝二年,丞相陳平卒,諡為献侯。子共侯買代侯。二年卒,子簡侯恢代侯。二十三年卒,子何代侯。二十三年,何坐略人妻,棄市,国除。始陳平曰:「我多陰謀,是道家之所禁。吾世即廃,亦已矣,終不能復起,以吾多陰禍也。」然其後曽孫陳掌以衛氏親貴戚,願得続封陳氏,然終不得。太史公曰:陳丞相平少時,本好黄帝、老子之術。方其割肉俎上之時,其意固已遠矣。傾側擾攘楚魏之間,卒帰高帝。常出奇計,救紛糾之難,振国家之患。及呂后時,事多故矣,然平竟自脱,定宗廟,以栄名終,称賢相,豈不善始善終哉!非知謀孰能当此者乎?

書き下し

平曰く、「陛下即し獄を決するを問はば、廷尉に責めよ。銭穀を問はば、治粟内史に責めよ」と。上曰く、「苟も各々主者有らば、而して君の主る所の者は何事ぞや」と。平謝して曰く、「主臣。陛下其の駑下なるを知らず、罪を宰相に待たしむ。宰相は、上は天子を佐けて陰陽を理め、四時に順ひ、下は万物の宜しきを育み、外は四夷諸侯を鎮撫し、内は百姓を親附し、卿大夫をして各々其の職に任ずるを得しむ」と。孝文帝乃ち善しと称す。右丞相大いに慚ぢ、出でて陳平を譲めて曰く、「君独り素より我に対ふることを教へず」と。陳平笑ひて曰く、「君其の位に居りて、其の任を知らざるか。且つ陛下即し長安中の盗賊の数を問はば、君彊ひて対へんと欲するか」と。是に於て絳侯自ら其の能の平に如かざること遠きを知る。居ること之を頃くして、絳侯病と謝して相を免ぜられんことを請ふ、陳平専ら一丞相と為る。孝文帝二年、丞相陳平卒し、謚して献侯と為す。子共侯買代はりて侯たり。二年にして卒し、子簡侯恢代はりて侯たり。二十三年にして卒し、子何代はりて侯たり。二十三年、何人の妻を略するに坐し、棄市せられ、国除かる。始め陳平曰く、「我陰謀多し、是れ道家の禁ずる所なり。吾が世即し廃せられなば、亦た已みなん、終に復た起こる能はず、吾陰禍多きを以てなり」と。然れども其の後曾孫陳掌衛氏の親貴戚なるを以て、陳氏を続封するを得んことを願ふ、然れども終に得ず。太史公曰く、陳丞相平少き時、本黄帝・老子の術を好む。其の肉を俎上に割くの時に方りて、其の意固より已に遠し。楚魏の間に傾側擾攘し、卒に高帝に帰す。常に奇計を出だし、紛糾の難を救ひ、国家の患ひを振ふ。呂后の時に及び、事故多し、然れども平竟に自ら脱し、宗廟を定め、栄名を以て終はり、賢相と称せらる、豈に始めを善くし終はりを善くするにあらずや。知謀に非ずんば孰か能く此に当たらん者ぞ。

現代語訳

陳平は言った。「陛下がもし訴訟の裁決についてお尋ねなら、廷尉に答えさせればよい。銭と穀物についてお尋ねなら、治粟内史(財政をつかさどる官)に答えさせればよい」。文帝は言った。「それぞれに担当の者がいるのなら、あなたが担当しているのは何なのか」。陳平は詫びて言った。「恐れ入る。陛下は私が愚鈍であることをご存じなく、宰相の職に就かせてくださった。宰相とは、上は天子を補佐して陰陽を整え、四季の運行に従わせ、下は万物がそれぞれあるべき姿で育つようにし、外は四方の異民族や諸侯を鎮め安んじ、内は民を親しみ懐かせ、卿や大夫がそれぞれの職務を十分に果たせるようにする者だ」。孝文帝はそこでよろしいと称賛した。右丞相はたいそう恥じ入り、退出してから陳平を責めて言った。「あなたはどうして前もって私に答え方を教えてくれなかったのか」。陳平は笑って言った。「あなたはその地位にいながら、その職務が分かっていなかったのか。それに陛下がもし長安の盗賊の数をお尋ねになったら、あなたは無理にでも答えようとするつもりか」。これによって絳侯は、自分の能力が陳平に遠く及ばないことを悟った。しばらくして、絳侯は病気を理由に丞相を辞めさせてほしいと願い出て、陳平がただ一人の丞相となった。孝文帝の二年、丞相陳平は亡くなり、献侯と諡された。子の共侯買が代わって侯となった。二年で亡くなり、子の簡侯恢が代わって侯となった。二十三年で亡くなり、子の何が代わって侯となった。二十三年目、何は他人の妻を略奪した罪に問われ、市場で処刑されて国は廃された。かつて陳平はこう言っていた。「私は陰謀を多く用いた。これは道家が禁じることだ。わが家がもし廃されることがあれば、それで終わりだ。二度と再興することはできないだろう。私が陰で多くの禍を積んできたからだ」。その後、曾孫の陳掌が衛氏の親族として尊ばれたので、陳氏の家を継いで封じられたいと願ったが、ついに許されなかった。太史公は言う。陳丞相平は若いころ、もともと黄帝・老子の術を好んだ。まな板の上で肉を切り分けていたころから、その志はすでに遠大であった。楚と魏の間を揺れ動き、ついに高帝に身を寄せた。常に奇策を出して、もつれた難局を救い、国家の憂いを払った。呂后の時代には多くの変事があったが、陳平はついに自ら難を逃れ、宗廟を安定させ、栄誉ある名声のうちに生涯を終え、賢相と称えられた。これこそ始めもよく終わりもよかったと言うべきではないか。知謀がなければ、誰がこれを成し遂げられただろうか。

解説

「宰相の職分」として名高い問答です。文帝に訴訟件数や財政を問われて答えられなかった周勃に対し、陳平は「それは担当の廷尉と治粟内史に聞くべきことだ」と答えます。では宰相は何をするのかと問われると、「天子を補佐して陰陽を整え、四夷を鎮め、民を懐かせ、卿大夫にそれぞれの職務を全うさせることだ」と述べました。細かな数字を把握することではなく、人を適所に置いて全体を動かすことこそトップ補佐の務めだ、という管理職論の古典です。答え方を教えてくれなかったと恨む周勃に「長安の盗賊の数を聞かれたら無理に答えるのか」と笑った陳平に、周勃は及ばないと悟って辞任しました。一方で陳平は「陰謀を多く用いた私の家は、廃されれば再興できまい」と語り、実際そのとおりになります。司馬遷は知謀で始めも終わりも全うした賢相と称えつつ、その影の部分も書き残しました。

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