史記 / 陳丞相世家
噲受詔,即反接載檻車,傳詣長安,而令絳侯勃代將,將兵定燕反縣。平行聞高帝崩,平恐呂太后及呂嬃讒怒,乃馳傳先去。逢使者詔平與灌嬰屯於滎陽。平受詔,立復馳至宮,哭甚哀,因奏事喪前。呂太后哀之,曰:「君勞,出休矣。」平畏讒之就,因固請得宿衞中。太后乃以爲郎中令,曰:「傅敎孝惠。」是後呂嬃讒乃不得行。樊噲至,則赦復爵邑。孝惠帝六年,相國曹參卒,以安國侯王陵爲右丞相,陳平爲左丞相。王陵者,故沛人,始爲縣豪,高祖微時,兄事陵。陵少文,任氣,好直言。及高祖起沛,入至咸陽,陵亦自聚黨數千人,居南陽,不肯從沛公。及漢王之還攻項籍,陵乃以兵屬漢。項羽取陵母置軍中,陵使至,則東鄕坐陵母,欲以招陵。陵母既私送使者,泣曰:「爲老妾語陵,謹事漢王。漢王,長者也,無以老妾故,持二心。妾以死送使者。」遂伏劍而死。項王怒,烹陵母。陵卒從漢王定天下。以善雍齒,雍齒,高帝之仇,而陵本無意從高帝,以故晩封,爲安國侯。安國侯既爲右丞相,二歳,孝惠帝崩。高后欲立諸呂爲王,問王陵,王陵曰:「不可。」問陳平,陳平曰:「可。」呂太后怒,乃詳遷陵爲帝太傅,實不用陵。陵怒,謝疾免,杜門竟不朝請,七年而卒。
新字:噲受詔,即反接載檻車,伝詣長安,而令絳侯勃代将,将兵定燕反県。平行聞高帝崩,平恐呂太后及呂嬃讒怒,乃馳伝先去。逢使者詔平与灌嬰屯於滎陽。平受詔,立復馳至宮,哭甚哀,因奏事喪前。呂太后哀之,曰:「君労,出休矣。」平畏讒之就,因固請得宿衛中。太后乃以為郎中令,曰:「傅教孝恵。」是後呂嬃讒乃不得行。樊噲至,則赦復爵邑。孝恵帝六年,相国曹参卒,以安国侯王陵為右丞相,陳平為左丞相。王陵者,故沛人,始為県豪,高祖微時,兄事陵。陵少文,任気,好直言。及高祖起沛,入至咸陽,陵亦自聚党数千人,居南陽,不肯従沛公。及漢王之還攻項籍,陵乃以兵属漢。項羽取陵母置軍中,陵使至,則東郷坐陵母,欲以招陵。陵母既私送使者,泣曰:「為老妾語陵,謹事漢王。漢王,長者也,無以老妾故,持二心。妾以死送使者。」遂伏剣而死。項王怒,烹陵母。陵卒従漢王定天下。以善雍歯,雍歯,高帝之仇,而陵本無意従高帝,以故晩封,為安国侯。安国侯既為右丞相,二歳,孝恵帝崩。高后欲立諸呂為王,問王陵,王陵曰:「不可。」問陳平,陳平曰:「可。」呂太后怒,乃詳遷陵為帝太傅,実不用陵。陵怒,謝疾免,杜門竟不朝請,七年而卒。
書き下し
噲詔を受け、即ち反接して檻車に載せ、伝へて長安に詣らしめ、而して絳侯勃をして代はりて将たらしめ、兵を将ゐて燕の反県を定めしむ。平行くゆく高帝の崩ずるを聞き、平呂太后及び呂嬃の讒怒せんことを恐れ、乃ち馳伝して先づ去る。使者に逢ひ平と灌嬰とに詔して滎陽に屯せしむ。平詔を受け、立ちどころに復た馳せて宮に至り、哭すること甚だ哀し、因りて事を喪前に奏す。呂太后之を哀れみて、曰く、「君労せり、出でて休め」と。平讒の就らんことを畏れ、因りて固く請ひて宿衛の中に宿るを得たり。太后乃ち以て郎中令と為して、曰く、「孝恵を傅教せよ」と。是の後呂嬃の讒乃ち行はるるを得ず。樊噲至り、則ち赦して爵邑を復す。孝恵帝六年、相国曹参卒し、安国侯王陵を以て右丞相と為し、陳平を左丞相と為す。王陵は、故の沛人なり、始め県の豪為り、高祖微なりし時、陵に兄事す。陵は文少なく、気に任せ、直言を好む。高祖沛に起こり、入りて咸陽に至るに及び、陵も亦た自ら党数千人を聚め、南陽に居り、沛公に従ふを肯ぜず。漢王の還りて項籍を攻むるに及び、陵乃ち兵を以て漢に属す。項羽陵の母を取りて軍中に置く、陵の使至れば、則ち陵の母を東郷して坐せしめ、以て陵を招かんと欲す。陵の母既に私かに使者を送り、泣きて曰く、「老妾の為に陵に語れ、謹んで漢王に事へよ。漢王は、長者なり、老妾の故を以て、二心を持すること無かれ。妾死を以て使者を送る」と。遂に剣に伏して死す。項王怒り、陵の母を烹る。陵卒に漢王に従ひて天下を定む。雍歯に善きを以て、雍歯は、高帝の仇なり、而して陵本より高帝に従ふに意無し、故を以て晩く封ぜられ、安国侯と為る。安国侯既に右丞相と為りて、二歳、孝恵帝崩ず。高后諸呂を立てて王と為さんと欲し、王陵に問ふ、王陵曰く、「不可なり」と。陳平に問ふ、陳平曰く、「可なり」と。呂太后怒り、乃ち詳りて陵を遷して帝の太傅と為し、実は陵を用ひず。陵怒り、疾と謝して免ぜられ、門を杜ぢて竟に朝請せず、七年にして卒す。
現代語訳
樊噲は詔を受けると、すぐに後ろ手に縛られて檻車に乗せられ、駅伝で長安へ送られた。そして絳侯周勃が代わって将となり、兵を率いて燕の背いた県を平定した。陳平は長安へ向かう途中で高帝が崩じたと聞き、呂太后や呂嬃から讒言され怒りを買うことを恐れ、駅伝の車を飛ばして先に都へ向かった。途中で使者に出会い、陳平と灌嬰に滎陽に駐屯せよとの詔が伝えられた。陳平は詔を受けたが、すぐにまた車を飛ばして宮中に至り、たいそう悲しげに泣き、そのまま高帝の霊前で事の次第を奏上した。呂太后は陳平を哀れんで言った。「あなたはご苦労であった。下がって休まれよ」。陳平は讒言が通ってしまうのを恐れ、固く願い出て宮中の宿直の中に泊まることを許された。太后はそこで陳平を郎中令(宮中の警護の長)とし、「孝恵帝を補佐して教え導くように」と言った。これ以後、呂嬃の讒言は通らなくなった。樊噲が都に着くと、赦されて爵位と領地を元に戻された。孝恵帝の六年、相国曹参が亡くなり、安国侯王陵を右丞相、陳平を左丞相とした。王陵はもとは沛の人で、初めは県の顔役であった。高祖が身分の低かったころ、王陵を兄のように仕えていた。王陵は教養に乏しく、気性のままに動き、率直に物を言うのを好んだ。高祖が沛で兵を挙げて咸陽に入ったころ、王陵も自分で仲間数千人を集めて南陽におり、沛公に従おうとはしなかった。漢王が引き返して項籍を攻めるに及んで、王陵はようやく兵を率いて漢に属した。項羽は王陵の母を捕らえて軍中に置き、王陵の使者が来ると、王陵の母を東向きの上座に座らせて、王陵を招き寄せようとした。王陵の母はひそかに使者を見送り、泣いて言った。「この年寄りのために陵に伝えておくれ。謹んで漢王にお仕えせよ。漢王は長者だ。この年寄りのために二心を抱いてはならない。私は死をもって使者を送り出す」。そして剣の上に身を伏せて死んだ。項王は怒り、王陵の母を煮た。王陵はついに漢王に従って天下を平定した。王陵は雍歯と親しく、雍歯は高帝の仇であり、また王陵はもともと高帝に従う気がなかったので、封じられるのが遅く、安国侯となった。安国侯が右丞相となって二年、孝恵帝が崩じた。高后は呂氏の者たちを王に立てようとして王陵に尋ねた。王陵は言った。「なりません」。陳平に尋ねると、陳平は言った。「よろしい」。呂太后は怒り、王陵を表向きは帝の太傅に昇進させたが、実際には用いなかった。王陵は怒り、病気を理由に辞職し、門を閉ざしてついに朝廷に出仕せず、七年後に亡くなった。
解説
関連する章句
-
史記 陳丞相世家陵の丞相を免ぜらるるや、呂太后乃ち平を徙して右丞相と為し、辟陽侯審食其を以て左丞相と為す。左丞相治めず、常に中に給事す。食其も亦た沛人なり。漢王の彭城の西に敗るるや、楚太上皇・呂后を取りて質と為す、食其舎人を以て呂后に侍す。其の後項籍を破るに従ひて侯と為り、呂太后に幸せらる。相と為るに及び、中に居り、百官皆因りて事を決す。呂嬃常に前に陳平の高帝の為に樊噲を執へんことを謀りしを以て、数々讒して曰く、「陳平相と為りて事を治むるに非ず、日に醇酒を飲み、婦女に戯る」と。陳平聞きて、日に益々甚だし。呂太后之を聞き、私かに独り喜ぶ。面りに呂嬃を陳平に質して曰く、「鄙語に曰く『児婦人の口は用ふべからず』と、顧ふに君と我と何如なるのみ。呂嬃の讒を畏るること無かれ」と。呂太后諸呂を立てて王と為す、陳平偽りて之を聴く。呂太后崩ずるに及び、平太尉勃と合謀し、卒に諸呂を誅し、孝文皇帝を立つ、陳平の本謀なり。審食其相を免ぜらる。孝文帝立ち、以為へらく太尉勃親ら兵を以て呂氏を誅す、功多しと。陳平勃に尊位を譲らんと欲し、乃ち病と謝す。孝文帝初めて立ち、平の病むを怪しみ、之を問ふ。平曰く、「高祖の時、勃の功臣平に如かず。諸呂を誅するに及び、臣の功も亦た勃に如かず。願はくは右丞相を以て勃に譲らん」と。是に於て孝文帝乃ち絳侯勃を以て右丞相と為し、位次第一。平徙りて左丞相と為り、位次第二。平に金千斤を賜ひ、益封すること三千戸。居ること之を頃くして、孝文皇帝既に益々国家の事に明習し、朝して右丞相勃に問ひて曰く、「天下一歳に獄を決すること幾何ぞ」と。勃謝して曰く、「知らず」と。問ふ、「天下一歳の銭穀の出入幾何ぞ」と。勃又知らずと謝し、汗出でて背を沾し、対ふる能はざるを愧づ。是に於て上亦た左丞相平に問ふ。平曰く、「主者有り」と。上曰く、「主者とは誰を謂ふ」と。
-
史記 呂太后本紀王陵陳平・絳侯を讓めて曰く、「始め高帝と啑血して盟ふ、諸君在らざるか。今高帝崩じ、太后女主なり、呂氏を王とせんと欲す、諸君欲に従ひ意に阿りて約に背く、何の面目ありてか高帝を地下に見ん」と。陳平・絳侯曰く、「今に於て面折廷争するは、臣君に如かず。夫れ社稷を全うし、劉氏の後を定むるは、君も亦た臣に如かず」と。王陵以て之に応ふる無し。
-
史記 陳丞相世家上曰く、「吾先生の謀計を用ひ、戦ひ勝ち敵に剋つ、功に非ずして何ぞ」と。平曰く、「魏無知に非ずんば臣安んぞ進むを得ん」と。上曰く、「子の若きは本に背かずと謂ふべし」と。乃ち復た魏無知を賞す。其の明年、護軍中尉を以て従ひて反者韓王信を代に攻む。卒に平城に至り、匈奴の囲む所と為り、七日食を得ず。高帝陳平の奇計を用ひ、単于の閼氏に使ひせしめ、囲み以て開くを得たり。高帝既に出づ、其の計秘にして、世聞くを得る莫し。高帝南のかた曲逆を過ぎ、其の城に上り、其の屋室の甚だ大なるを望見して、曰く、「壮なるかな県。吾天下を行くに、独り洛陽と是とを見るのみ」と。顧みて御史に問ひて曰く、「曲逆の戸口は幾何ぞ」と。対へて曰く、「始め秦の時三万余戸、間者兵数々起こり、多く亡げ匿れ、今見に五千戸なり」と。是に於て乃ち御史に詔し、更めて陳平を以て曲逆侯と為し、尽く之を食ましめ、前に食む所の戸牖を除く。其の後常に護軍中尉を以て従ひて陳豨及び黥布を攻む。凡そ六たび奇計を出だし、輒ち邑を益し、凡そ六たび封を益す。奇計或いは頗る秘にして、世聞く能ふ莫きなり。高帝布の軍を破るに従ひて還り、創を病み、徐行して長安に至る。燕王盧綰反く、上樊噲をして相国を以て兵を将ゐて之を攻めしむ。既に行く、人の噲を短悪する者有り。高帝怒りて曰く、「噲吾が病むを見て、乃ち我が死を冀ふなり」と。陳平の謀を用ひて絳侯周勃を召して詔を牀下に受けしめて、曰く、「陳平亟やかに馳伝して勃を載せて噲に代はりて将たらしめ、平軍中に至らば即ち噲の頭を斬れ」と。二人既に詔を受け、馳伝して未だ軍に至らず、行くゆく之を計りて曰く、「樊噲は、帝の故人なり、功多く、且つ又乃ち呂后の弟呂嬃の夫なり、親有り且つ貴し、帝忿怒の故を以て、之を斬らんと欲す、則ち恐らくは後に悔いん。寧ろ囚へて上に致し、上自ら之を誅せしめん」と。未だ軍に至らず、壇を為り、節を以て樊噲を召す。
-
史記 呂太后本紀十一月、太后王陵を廃せんと欲し、乃ち拝して帝の太傅と為し、之が相権を奪ふ。王陵遂に病みて免ぜられて帰る。乃ち左丞相平を以て右丞相と為し、辟陽侯審食其を以て左丞相と為す。左丞相事を治めず、宮中を監せしむること、郎中令の如し。食其故より太后に幸せらるるを得て、常に事を用ゐ、公卿皆因りて事を決す。乃ち酈侯の父を追尊して悼武王と為し、以て諸呂を王とする漸と為さんと欲す。四月、太后諸呂を侯とせんと欲し、乃ち先づ高祖の功臣郎中令無択を封じて博城侯と為す。魯元公主薨ず、謚を賜ひて魯元太后と為す。子偃を魯王と為す。魯王の父は、宣平侯張敖なり。斉の悼恵王の子章を封じて朱虚侯と為し、呂禄の女を以て之に妻はす。斉の丞相寿を平定侯と為す。少府延を梧侯と為す。乃ち呂種を封じて沛侯と為し、呂平を扶柳侯と為し、張買を南宮侯と為す。太后呂氏を王とせんと欲し、先づ孝恵の後宮の子彊を立てて淮陽王と為し、子不疑を常山王と為し、子山を襄城侯と為し、子朝を軹侯と為し、子武を壺関侯と為す。太后大臣に風す、大臣酈侯呂台を立てて呂王と為さんことを請ふ、太后之を許す。建成の康侯釈之卒す、嗣子罪有り、廃す、其の弟呂禄を立てて胡陵侯と為し、康侯の後を続がしむ。二年、常山王薨ず、其の弟襄城侯山を以て常山王と為し、名を義と更む。十一月、呂王台薨ず、謚して粛王と為す、太子嘉代はり立ちて王と為る。三年、事無し。四年、呂嬃を封じて臨光侯と為し、呂他を兪侯と為し、呂更始を贅其侯と為し、呂忿を呂城侯と為し、及び諸侯の丞相五人を封ず。宣平侯の女孝恵の皇后為りし時、子無し、詳りて身有りと為し、美人の子を取りて之に名づけ、其の母を殺し、名づくる所の子を立てて太子と為す。孝恵崩じ、太子立ちて帝と為る。
-
史記 樊酈滕灌列伝其の後盧綰反し、高帝噲をして相国を以て燕を撃たしむ。是の時高帝病甚だし、人噲の呂氏に党するを悪む有り、即し上一日宮車晏駕せば、則ち噲兵を以て尽く戚氏・趙王如意の属を誅滅せんと欲すと。高帝之を聞きて大いに怒り、乃ち陳平をして絳侯を載せて代りて将たらしめ、而して即ち軍中にて噲を斬らしむ。陳平呂后を畏れ、噲を執へて長安に詣る。至れば則ち高祖已に崩じ、呂后噲を釈し、復た爵邑せしむ。孝恵六年、樊噲卒し、諡して武侯と為す。子伉代りて侯たり。而して伉の母呂須も亦た臨光侯と為り、高后の時事を用ひ権を専らにし、大臣尽く之を畏る。伉侯に代ること九歳にして、高后崩ず。大臣諸呂・呂須の婘属を誅し、因りて伉を誅す。舞陽侯中ごろ絶ゆること数月。孝文帝既に立ち、乃ち復た噲の他の庶子市人を封じて舞陽侯と為し、故の爵邑に復す。市人立つこと二十九歳にして卒し、諡して荒侯と為す。子他広代りて侯たり。六歳、侯家の舎人他広に罪を得て、之を怨み、乃ち上書して曰く「荒侯市人病みて人と為る能はず、其の夫人をして其の弟と乱して他広を生ましむ、他広は実は荒侯の子に非ず、当に後に代るべからず」と。詔して吏に下す。孝景中六年、他広侯を奪はれて庶人と為り、国除かる。曲周侯酈商は、高陽の人なり。陳勝起こる時、商少年を聚めて東西に人を略し、数千を得。沛公地を略して陳留に至ること、六月余、商卒四千人を将ゐて沛公に岐に属す。従ひて長社を攻め、先登し、爵を賜ひて信成君と封ず。沛公に従ひて緱氏を攻め、河津を絶ち、秦軍を洛陽の東に破る。従ひて宛・穣を攻め下し、十七県を定む。別将として旬関を攻め、漢中を定む。項羽秦を滅ぼし、沛公を立てて漢王と為す。漢王商に爵信成君を賜ひ、将軍を以て隴西都尉と為す。別将として北地・上郡を定む。
-
史記 陳丞相世家平曰く、「陛下即し獄を決するを問はば、廷尉に責めよ。銭穀を問はば、治粟内史に責めよ」と。上曰く、「苟も各々主者有らば、而して君の主る所の者は何事ぞや」と。平謝して曰く、「主臣。陛下其の駑下なるを知らず、罪を宰相に待たしむ。宰相は、上は天子を佐けて陰陽を理め、四時に順ひ、下は万物の宜しきを育み、外は四夷諸侯を鎮撫し、内は百姓を親附し、卿大夫をして各々其の職に任ずるを得しむ」と。孝文帝乃ち善しと称す。右丞相大いに慚ぢ、出でて陳平を譲めて曰く、「君独り素より我に対ふることを教へず」と。陳平笑ひて曰く、「君其の位に居りて、其の任を知らざるか。且つ陛下即し長安中の盗賊の数を問はば、君彊ひて対へんと欲するか」と。是に於て絳侯自ら其の能の平に如かざること遠きを知る。居ること之を頃くして、絳侯病と謝して相を免ぜられんことを請ふ、陳平専ら一丞相と為る。孝文帝二年、丞相陳平卒し、謚して献侯と為す。子共侯買代はりて侯たり。二年にして卒し、子簡侯恢代はりて侯たり。二十三年にして卒し、子何代はりて侯たり。二十三年、何人の妻を略するに坐し、棄市せられ、国除かる。始め陳平曰く、「我陰謀多し、是れ道家の禁ずる所なり。吾が世即し廃せられなば、亦た已みなん、終に復た起こる能はず、吾陰禍多きを以てなり」と。然れども其の後曾孫陳掌衛氏の親貴戚なるを以て、陳氏を続封するを得んことを願ふ、然れども終に得ず。太史公曰く、陳丞相平少き時、本黄帝・老子の術を好む。其の肉を俎上に割くの時に方りて、其の意固より已に遠し。楚魏の間に傾側擾攘し、卒に高帝に帰す。常に奇計を出だし、紛糾の難を救ひ、国家の患ひを振ふ。呂后の時に及び、事故多し、然れども平竟に自ら脱し、宗廟を定め、栄名を以て終はり、賢相と称せらる、豈に始めを善くし終はりを善くするにあらずや。知謀に非ずんば孰か能く此に当たらん者ぞ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る