史記 / 陳丞相世家
上曰:「吾用先生謀計,戰勝剋敵,非功而何?」平曰:「非魏無知臣安得進?」上曰;「若子可謂不背本矣。」乃復賞魏無知。其明年,以護軍中尉從攻反者韓王信於代。卒至平城,爲匈奴所圍,七日不得食。高帝用陳平奇計,使單于閼氏,圍以得開。高帝既出,其計祕,世莫得聞。高帝南過曲逆,上其城,望見其屋室甚大,曰:「壯哉縣!吾行天下,獨見洛陽與是耳。」顧問御史曰:「曲逆戸口幾何?」對曰:「始秦時三萬餘戸,間者兵數起,多亡匿,今見五千戸。」於是乃詔御史,更以陳平爲曲逆侯,盡食之,除前所食戸牖。其後常以護軍中尉從攻陳豨及黥布。凡六出奇計,輒益邑,凡六益封。奇計或頗祕,世莫能聞也。高帝從破布軍還,病創,徐行至長安。燕王盧綰反,上使樊噲以相國將兵攻之。既行,人有短惡噲者。高帝怒曰:「噲見吾病,乃冀我死也。」用陳平謀而召絳侯周勃受詔牀下,曰:「陳平亟馳傳載勃代噲將,平至軍中即斬噲頭!」二人既受詔,馳傳未至軍,行計之曰:「樊噲,帝之故人也,功多,且又乃呂后弟呂嬃之夫,有親且貴,帝以忿怒故,欲斬之,則恐後悔。寧囚而致上,上自誅之。」未至軍,爲壇,以節召樊噲。
新字:上曰:「吾用先生謀計,戦勝剋敵,非功而何?」平曰:「非魏無知臣安得進?」上曰;「若子可謂不背本矣。」乃復賞魏無知。其明年,以護軍中尉従攻反者韓王信於代。卒至平城,為匈奴所囲,七日不得食。高帝用陳平奇計,使単于閼氏,囲以得開。高帝既出,其計秘,世莫得聞。高帝南過曲逆,上其城,望見其屋室甚大,曰:「壮哉県!吾行天下,独見洛陽与是耳。」顧問御史曰:「曲逆戸口幾何?」対曰:「始秦時三万余戸,間者兵数起,多亡匿,今見五千戸。」於是乃詔御史,更以陳平為曲逆侯,尽食之,除前所食戸牖。其後常以護軍中尉従攻陳豨及黥布。凡六出奇計,輒益邑,凡六益封。奇計或頗秘,世莫能聞也。高帝従破布軍還,病創,徐行至長安。燕王盧綰反,上使樊噲以相国将兵攻之。既行,人有短悪噲者。高帝怒曰:「噲見吾病,乃冀我死也。」用陳平謀而召絳侯周勃受詔牀下,曰:「陳平亟馳伝載勃代噲将,平至軍中即斬噲頭!」二人既受詔,馳伝未至軍,行計之曰:「樊噲,帝之故人也,功多,且又乃呂后弟呂嬃之夫,有親且貴,帝以忿怒故,欲斬之,則恐後悔。寧囚而致上,上自誅之。」未至軍,為壇,以節召樊噲。
書き下し
上曰く、「吾先生の謀計を用ひ、戦ひ勝ち敵に剋つ、功に非ずして何ぞ」と。平曰く、「魏無知に非ずんば臣安んぞ進むを得ん」と。上曰く、「子の若きは本に背かずと謂ふべし」と。乃ち復た魏無知を賞す。其の明年、護軍中尉を以て従ひて反者韓王信を代に攻む。卒に平城に至り、匈奴の囲む所と為り、七日食を得ず。高帝陳平の奇計を用ひ、単于の閼氏に使ひせしめ、囲み以て開くを得たり。高帝既に出づ、其の計秘にして、世聞くを得る莫し。高帝南のかた曲逆を過ぎ、其の城に上り、其の屋室の甚だ大なるを望見して、曰く、「壮なるかな県。吾天下を行くに、独り洛陽と是とを見るのみ」と。顧みて御史に問ひて曰く、「曲逆の戸口は幾何ぞ」と。対へて曰く、「始め秦の時三万余戸、間者兵数々起こり、多く亡げ匿れ、今見に五千戸なり」と。是に於て乃ち御史に詔し、更めて陳平を以て曲逆侯と為し、尽く之を食ましめ、前に食む所の戸牖を除く。其の後常に護軍中尉を以て従ひて陳豨及び黥布を攻む。凡そ六たび奇計を出だし、輒ち邑を益し、凡そ六たび封を益す。奇計或いは頗る秘にして、世聞く能ふ莫きなり。高帝布の軍を破るに従ひて還り、創を病み、徐行して長安に至る。燕王盧綰反く、上樊噲をして相国を以て兵を将ゐて之を攻めしむ。既に行く、人の噲を短悪する者有り。高帝怒りて曰く、「噲吾が病むを見て、乃ち我が死を冀ふなり」と。陳平の謀を用ひて絳侯周勃を召して詔を牀下に受けしめて、曰く、「陳平亟やかに馳伝して勃を載せて噲に代はりて将たらしめ、平軍中に至らば即ち噲の頭を斬れ」と。二人既に詔を受け、馳伝して未だ軍に至らず、行くゆく之を計りて曰く、「樊噲は、帝の故人なり、功多く、且つ又乃ち呂后の弟呂嬃の夫なり、親有り且つ貴し、帝忿怒の故を以て、之を斬らんと欲す、則ち恐らくは後に悔いん。寧ろ囚へて上に致し、上自ら之を誅せしめん」と。未だ軍に至らず、壇を為り、節を以て樊噲を召す。
現代語訳
高祖は言った。「わしは先生の計略を用いて、戦いに勝ち敵に打ち克った。これが功でなくて何だというのか」。陳平は言った。「魏無知がいなければ、私はどうして取り立てていただけたろうか」。高祖は言った。「あなたのような人こそ、恩を忘れない者と言うべきだ」。そこで改めて魏無知にも褒美を与えた。その翌年、陳平は護軍中尉として高祖に従い、代で謀反を起こした韓王信を攻めた。ついに平城に至ったところで匈奴に包囲され、七日間食事もとれなかった。高帝は陳平の奇策を用い、単于の閼氏(あつし、后)のもとに使者を遣わして、包囲を解かせることができた。高帝は脱出できたが、その策は秘密にされ、世間の人は誰も知ることができなかった。高帝は南へ向かって曲逆(きょくげき)を通ったとき、その城に登り、家々がたいそう大きいのを見渡して言った。「立派な県だ。わしは天下を巡ったが、これほどのものは洛陽とここしか見たことがない」。振り返って御史に尋ねた。「曲逆の戸数はどれほどか」。御史は答えた。「秦の時代の初めは三万戸余りあったが、近ごろたびたび戦が起こり、多くの者が逃げ隠れて、今は五千戸だ」。そこで御史に詔して、改めて陳平を曲逆侯とし、その全戸を領地として与え、それまでの戸牖の領地は取り上げた。その後もいつも護軍中尉として高祖に従い、陳豨と黥布を攻めた。陳平は合わせて六度奇策を出し、そのたびに領地を加増され、合わせて六度封を増やされた。奇策の中にはひどく秘密にされたものもあり、世間では誰も知ることができなかった。高帝は黥布の軍を破って帰る途中、傷を負って病み、ゆっくりと長安に戻った。燕王盧綰が反乱を起こしたので、高祖は樊噲に相国の身分で兵を率いて討伐させた。樊噲が出発した後、樊噲を中傷する者がいた。高帝は怒って言った。「噲はわしが病気なのを見て、わしが死ぬのを望んでいるのだ」。そして陳平の策を用い、絳侯周勃を枕元に呼んで詔を授けて言った。「陳平は急いで駅伝の車を走らせて周勃を乗せていき、樊噲に代わって将とせよ。陳平は陣中に着いたら、すぐに樊噲の首を斬れ」。二人は詔を受けて駅伝の車を走らせたが、まだ陣に着かないうちに、道すがら相談して言った。「樊噲は帝の古なじみで、手柄も多い。しかも呂后の妹の呂嬃(りょしゅ)の夫で、身内であり身分も高い。帝は怒りにまかせて斬ろうとしているが、後で悔やまれるおそれがある。いっそ捕らえて帝のもとへ送り、帝ご自身に誅していただくほうがよい」。まだ陣に着かないうちに壇を築き、天子の使いの節によって樊噲を呼び出した。
解説
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史記 陳丞相世家漢王大いに怒りて罵る、陳平漢王を躡む。漢王も亦た悟り、乃ち厚く斉の使を遇し、張子房をして卒に信を立てて斉王と為さしむ。平を封ずるに戸牖郷を以てす。其の奇計策を用ひ、卒に楚を滅ぼす。常に護軍中尉を以て従ひて燕王臧荼を定む。漢六年、人の上書して楚王韓信の反くを告ぐる者有り。高帝諸将に問ふ、諸将曰く、「亟やかに兵を発して豎子を阬にせんのみ」と。高帝黙然たり。陳平に問ふ、平固く辞謝して、曰く、「諸将は云何」と。上具に之を告ぐ。陳平曰く、「人の上書して信の反くを言ふ、之を知る者有るか」と。曰く、「未だ有らず」と。曰く、「信之を知るか」と。曰く、「知らず」と。陳平曰く、「陛下の精兵は楚に孰与ぞ」と。上曰く、「過ぐる能はず」と。平曰く、「陛下の将の兵を用ふるに能く韓信に過ぐる者有るか」と。上曰く、「及ぶ莫きなり」と。平曰く、「今兵は楚の精に如かず、而して将は及ぶ能はず、而して兵を挙げて之を攻むるは、是れ之に戦ひを趣すなり、窃かに陛下の為に之を危ぶむ」と。上曰く、「之を為すこと奈何」と。平曰く、「古者天子巡狩し、諸侯を会す。南方に雲夢有り、陛下弟だ出でて偽りて雲夢に遊び、諸侯を陳に会せよ。陳は、楚の西界なり、信天子の好を以て出遊するを聞かば、其の勢必ず事無くして郊迎し謁せん。謁せば、而して陛下因りて禽にせよ、此れ特だ一力士の事のみ」と。高帝以て然りと為し、乃ち使を発して諸侯に陳に会せんことを告げしむ、「吾将に南のかた雲夢に遊ばんとす」と。上因りて随ひて以て行く。行きて未だ陳に至らざるに、楚王信果たして道中に郊迎す。高帝豫め武士を具へ、信の至るを見て、即ち之を執縛し、後車に載す。信呼びて曰く、「天下已に定まる、我固より当に烹らるべし」と。高帝顧みて信に謂ひて曰く、「若声すること毋かれ。而の反くこと、明らかなり」と。武士反接す。遂に諸侯に陳に会し、尽く楚の地を定む。還りて雒陽に至り、信を赦して以て淮陰侯と為し、而して功臣と符を剖きて封を定む。是に於て平と符を剖き、世世絶ゆること勿からしめ、戸牖侯と為す。平辞して曰く、「此れ臣の功に非ざるなり」と。
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史記 陳丞相世家臣聞く、平家に居りし時、其の嫂を盗む。魏に事へて容れられず、亡げて楚に帰す。楚に帰して中らず、又亡げて漢に帰す。今日大王官を尊くして、護軍せしむ。臣聞く、平諸将の金を受け、金多き者は善き処を得、金少なき者は悪しき処を得と。平は、反覆の乱臣なり、願はくは王之を察せよ」と。漢王之を疑ひ、魏無知を召して譲む。無知曰く、「臣の言ふ所の者は、能なり。陛下の問ふ所の者は、行なり。今尾生・孝己の行ひ有りて勝負の数に益無きは、陛下何の暇ありて之を用ひんや。楚漢相距ぐ、臣奇謀の士を進む、顧だ其の計誠に以て国家を利するに足るや不やのみ。且つ嫂を盗み金を受くるも又何ぞ疑ふに足らんや」と。漢王平を召して譲めて曰く、「先生魏に事へて中らず、遂に楚に事へて去る、今又吾に従ひて遊ぶ、信なる者は固より多心なるか」と。平曰く、「臣魏王に事ふ、魏王臣の説を用ふる能はず、故に去りて項王に事ふ。項王は人を信ずる能はず、其の任愛する所は、諸項に非ずんば即ち妻の昆弟なり、奇士有りと雖も用ふる能はず、平乃ち楚を去る。漢王の能く人を用ふるを聞く、故に大王に帰す。臣躶身にして来たる、金を受けずんば以て資と為す無し。誠に臣の計画に采るべき者有らば、顧だ大王之を用ひよ。用ふべき者無からしめば、金具に在り、請ふ封じて官に輸し、骸骨を請ふを得ん」と。漢王乃ち謝し、厚く賜ひ、拝して護軍中尉と為し、尽く諸将を護らしむ。諸将乃ち敢へて復た言はず。其の後、楚急に攻め、漢の甬道を絶ち、漢王を滎陽城に囲む。之を久しくして、漢王之を患ひ、滎陽以西を割きて以て和せんことを請ふ。項王聴かず。漢王陳平に謂ひて曰く、「天下紛紛たり、何れの時か定まらん」と。陳平曰く、「項王の人と為り、恭敬にして人を愛す、士の廉節にして礼を好む者多く之に帰す。行功爵邑に至りては、之を重んず、士も亦た此を以て附かず。
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史記 陳丞相世家噲詔を受け、即ち反接して檻車に載せ、伝へて長安に詣らしめ、而して絳侯勃をして代はりて将たらしめ、兵を将ゐて燕の反県を定めしむ。平行くゆく高帝の崩ずるを聞き、平呂太后及び呂嬃の讒怒せんことを恐れ、乃ち馳伝して先づ去る。使者に逢ひ平と灌嬰とに詔して滎陽に屯せしむ。平詔を受け、立ちどころに復た馳せて宮に至り、哭すること甚だ哀し、因りて事を喪前に奏す。呂太后之を哀れみて、曰く、「君労せり、出でて休め」と。平讒の就らんことを畏れ、因りて固く請ひて宿衛の中に宿るを得たり。太后乃ち以て郎中令と為して、曰く、「孝恵を傅教せよ」と。是の後呂嬃の讒乃ち行はるるを得ず。樊噲至り、則ち赦して爵邑を復す。孝恵帝六年、相国曹参卒し、安国侯王陵を以て右丞相と為し、陳平を左丞相と為す。王陵は、故の沛人なり、始め県の豪為り、高祖微なりし時、陵に兄事す。陵は文少なく、気に任せ、直言を好む。高祖沛に起こり、入りて咸陽に至るに及び、陵も亦た自ら党数千人を聚め、南陽に居り、沛公に従ふを肯ぜず。漢王の還りて項籍を攻むるに及び、陵乃ち兵を以て漢に属す。項羽陵の母を取りて軍中に置く、陵の使至れば、則ち陵の母を東郷して坐せしめ、以て陵を招かんと欲す。陵の母既に私かに使者を送り、泣きて曰く、「老妾の為に陵に語れ、謹んで漢王に事へよ。漢王は、長者なり、老妾の故を以て、二心を持すること無かれ。妾死を以て使者を送る」と。遂に剣に伏して死す。項王怒り、陵の母を烹る。陵卒に漢王に従ひて天下を定む。雍歯に善きを以て、雍歯は、高帝の仇なり、而して陵本より高帝に従ふに意無し、故を以て晩く封ぜられ、安国侯と為る。安国侯既に右丞相と為りて、二歳、孝恵帝崩ず。高后諸呂を立てて王と為さんと欲し、王陵に問ふ、王陵曰く、「不可なり」と。陳平に問ふ、陳平曰く、「可なり」と。呂太后怒り、乃ち詳りて陵を遷して帝の太傅と為し、実は陵を用ひず。陵怒り、疾と謝して免ぜられ、門を杜ぢて竟に朝請せず、七年にして卒す。
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史記 陳丞相世家魏王に説くも聴かれず、人或いは之を讒す、陳平亡げ去る。之を久しくして、項羽地を略して河上に至る、陳平往きて之に帰し、従ひて入りて秦を破る、平に爵卿を賜ふ。項羽の東のかた彭城に王たるや、漢王還りて三秦を定めて東す、殷王楚に反く。項羽乃ち平を以て信武君と為し、魏王咎の客の楚に在る者を将ゐて以て往かしめ、殷王を撃ち降して還る。項王項悍をして平を拝して都尉と為さしめ、金二十溢を賜ふ。居ること何くも無く、漢王攻めて殷を下す。項王怒り、将に殷を定めし者の将吏を誅せんとす。陳平誅せらるるを懼れ、乃ち其の金と印とを封じ、使をして項王に帰さしめ、而して平身づから間行して剣を杖つきて亡ぐ。河を渡る、船人其の美丈夫の独り行くを見、其の亡将にして、要中に当に金玉宝器有るべしと疑ひ、之を目し、平を殺さんと欲す。平恐れ、乃ち衣を解き躶にして刺船を佐く。船人其の有ること無きを知り、乃ち止む。平遂に修武に至りて漢に降り、魏無知に因りて漢王に見えんことを求む、漢王召し入る。是の時万石君奮漢王の中涓為り、平の謁を受け、平を入れ見えしむ。平等七人俱に進み、食を賜ふ。王曰く、「罷めよ、舎に就け」と。平曰く、「臣事の為に来たる、言ふ所は以て今日を過ぐべからず」と。是に於て漢王与に語りて之を説び、問ひて曰く、「子の楚に居りしときは何の官ぞ」と。曰く、「都尉為り」と。是の日乃ち平を拝して都尉と為し、参乗為らしめ、護軍を典らしむ。諸将尽く讙しくして、曰く、「大王一日にして楚の亡卒を得、未だ其の高下を知らず、而して即ち与に同載し、反りて長者を監護せしむ」と。漢王之を聞き、愈々益々平を幸す。遂に与に東のかた項王を伐つ。彭城に至り、楚の敗る所と為る。引きて還り、散兵を収めて滎陽に至り、平を以て亜将と為し、韓王信に属せしめ、広武に軍す。絳侯・灌嬰等咸陳平を讒して曰く、「平は美丈夫なりと雖も、冠玉の如きのみ、其の中未だ必ずしも有らざるなり。
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