史記 / 留侯世家
雖有矰繳,尚安所施!」歌數闋,戚夫人噓唏流涕,上起去,罷酒。竟不易太子者,留侯本招此四人之力也。留侯從上擊代,出奇計馬邑下,及立蕭何相國,所與上從容言天下事甚衆,非天下所以存亡,故不著。留侯乃稱曰:「家世相韓,及韓滅,不愛萬金之資,為韓報讐彊秦,天下振動。今以三寸舌為帝者師,封萬戶,位列侯,此布衣之極,於良足矣。願棄人間事,欲從赤松子游耳。」乃學辟穀,道引輕身。會高帝崩,呂后德留侯,乃彊食之,曰:「人生一世間,如白駒過隙,何至自苦如此乎!」留侯不得已,彊聽而食。後八年卒,謚為文成侯。子不疑代侯。子房始所見下邳圯上老父與太公書者,後十三年從高帝過濟北,果見穀城山下黃石,取而葆祠之。留侯死,并葬黃石冢。每上冢伏臘,祠黃石。留侯不疑,孝文帝五年坐不敬,國除。太史公曰:學者多言無鬼神,然言有物。至如留侯所見老父予書,亦可怪矣。高祖離困者數矣,而留侯常有功力焉,豈可謂非天乎?上曰:「夫運籌筴帷帳之中,決勝千里外,吾不如子房。」余以為其人計魁梧奇偉,至見其圖,狀貌如婦人好女。蓋孔子曰:「以貌取人,失之子羽。」留侯亦云。
新字:雖有矰繳,尚安所施!」歌数闋,戚夫人噓唏流涕,上起去,罷酒。竟不易太子者,留侯本招此四人之力也。留侯従上撃代,出奇計馬邑下,及立蕭何相国,所与上従容言天下事甚衆,非天下所以存亡,故不著。留侯乃称曰:「家世相韓,及韓滅,不愛万金之資,為韓報讐彊秦,天下振動。今以三寸舌為帝者師,封万戸,位列侯,此布衣之極,於良足矣。願棄人間事,欲従赤松子游耳。」乃学辟穀,道引軽身。会高帝崩,呂后徳留侯,乃彊食之,曰:「人生一世間,如白駒過隙,何至自苦如此乎!」留侯不得已,彊聴而食。後八年卒,謚為文成侯。子不疑代侯。子房始所見下邳圯上老父与太公書者,後十三年従高帝過済北,果見穀城山下黄石,取而葆祠之。留侯死,并葬黄石冢。毎上冢伏臘,祠黄石。留侯不疑,孝文帝五年坐不敬,国除。太史公曰:学者多言無鬼神,然言有物。至如留侯所見老父予書,亦可怪矣。高祖離困者数矣,而留侯常有功力焉,豈可謂非天乎?上曰:「夫運籌筴帷帳之中,決勝千里外,吾不如子房。」余以為其人計魁梧奇偉,至見其図,状貌如婦人好女。蓋孔子曰:「以貌取人,失之子羽。」留侯亦云。
書き下し
矰繳有りと雖も、尚ほ安くにか施す所あらん」と。歌ふこと数闋、戚夫人噓唏して流涕す、上起ちて去り、酒を罷む。竟に太子を易へざりし者は、留侯の本此の四人を招きし力なり。留侯上に従ひて代を撃ち、奇計を馬邑の下に出だし、及び蕭何を相国に立つ、上と従容として天下の事を言ふ所甚だ衆きも、天下の存亡する所以に非ず、故に著さず。留侯乃ち称して曰く、「家世々韓に相たり、韓の滅ぶるに及び、万金の資を愛しまず、韓の為に讐を彊秦に報い、天下振動す。今三寸の舌を以て帝者の師と為り、万戸に封ぜられ、列侯に位す、此れ布衣の極みなり、良に於て足れり。願はくは人間の事を棄て、赤松子に従ひて游ばんと欲するのみ」と。乃ち辟穀を学び、道引して身を軽くす。会々高帝崩じ、呂后留侯を徳とし、乃ち彊ひて之に食はしめて、曰く、「人生一世の間、白駒の隙を過ぐるが如し、何ぞ自ら苦しむこと此くの如きに至るや」と。留侯已むを得ず、彊ひて聴きて食ふ。後八年にして卒し、謚して文成侯と為す。子不疑代はりて侯たり。子房始め見る所の下邳の圯上の老父の太公の書を与へし者、後十三年高帝に従ひて済北を過ぎ、果たして穀城山下の黄石を見、取りて之を葆祠す。留侯死し、并せて黄石と葬る。冢に上る伏臘毎に、黄石を祠る。留侯不疑、孝文帝五年不敬に坐し、国除かる。太史公曰く、学者多く鬼神無しと言ふ、然れども物有りと言ふ。留侯の見る所の老父の書を予ふるが如きに至りては、亦た怪しむべし。高祖困しみに離ること数々なり、而して留侯常に功力有り、豈に天に非ずと謂ふべけんや。上曰く、「夫れ策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、吾子房に如かず」と。余以為へらく其の人は計魁梧奇偉ならんと、其の図を見るに至りては、状貌婦人好女の如し。蓋し孔子曰く、「貌を以て人を取れば、之を子羽に失ふ」と。留侯も亦た云ふ。
現代語訳
いぐるみ(糸つきの矢)があったとしても、もはやどこに射かけられよう」。何度も繰り返して歌うと、戚夫人はすすり泣いて涙を流した。高祖は立ち上がって去り、酒宴はお開きとなった。結局太子が替えられなかったのは、もとはといえば留侯がこの四人を招いた力によるのである。留侯は高祖に従って代を攻め、馬邑のもとで奇策を出し、また蕭何を相国に立てることにも関わった。高祖とくつろいで天下のことを語り合ったことはとても多かったが、天下の存亡に関わることではないので、ここには記さない。留侯はそこで言った。「わが家は代々韓の宰相を務めた。韓が滅びると、万金の財産も惜しまず、韓のために強い秦に仇討ちをして、天下を震え上がらせた。いま三寸の舌で皇帝の師となり、一万戸に封じられ、列侯の位にある。これは庶民として極みであり、私にとっては十分だ。どうか俗世のことを捨てて、仙人の赤松子に従って遊びたいと思う」。そこで穀物を断つ術を学び、導引を行って身を軽くした。ちょうど高帝が崩じると、呂后は留侯に恩を感じていたので、無理に食事をさせて言った。「人の一生は、白い馬が戸の隙間を走り過ぎるのを見るように短いものだ。どうしてそこまで自分を苦しめることがあろうか」。留侯はやむを得ず、無理をして言うとおりに食事をとった。それから八年後に亡くなり、文成侯と諡された。子の不疑が代わって侯となった。子房が初めて下邳の土橋の上で会い、太公望の兵法書を授けてくれた老人のことである。十三年後、子房は高帝に従って済北を通ったとき、はたして穀城山の麓に黄色い石を見つけ、持ち帰って宝として祀った。留侯が死ぬと、その黄色い石も一緒に葬った。墓参りの伏(夏の祭り)と臘(冬の祭り)のたびに、黄色い石も祀った。留侯不疑は、孝文帝の五年、不敬の罪に問われて国は廃された。太史公は言う。学者の多くは鬼神などいないと言うが、それでも怪異のものはあるとも言う。留侯が会った老人が書物を授けた話などは、やはり不思議なことである。高祖はたびたび窮地に陥ったが、留侯はいつもそれを救う働きをした。これがどうして天の配剤でないと言えようか。高祖は言った。「策を陣営の帳の中でめぐらし、千里の外で勝ちを決することにかけては、わしは子房に及ばない」。私は、その人は並外れて大柄で立派な体格なのだろうと思っていたが、その肖像画を見ると、姿かたちは美しい女性のようであった。孔子は「容貌で人を判断して、子羽を見誤った」と言ったが、留侯についても同じことが言えるのである。
解説
関連する章句
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史記 留侯世家留侯張良は、其の先は韓人なり。大父開地、韓の昭侯・宣恵王・襄哀王に相たり。父平、釐王・悼恵王に相たり。悼恵王二十三年、平卒す。卒して二十歳、秦韓を滅ぼす。良年少く、未だ韓に宦事せず。韓破る、良の家僮三百人、弟死して葬らず、悉く家財を以て客を求めて秦王を刺さしめ、韓の為に仇に報いんとす、大父・父五世韓に相たるの故を以てなり。良嘗て礼を淮陽に学ぶ。東のかた倉海君に見ゆ。力士を得て、鉄椎の重さ百二十斤なるを為る。秦の皇帝東游す、良客と秦の皇帝を博浪沙の中に狙撃し、誤りて副車に中つ。秦の皇帝大いに怒り、大いに天下を索め、賊を求むること甚だ急なり、張良の為の故なり。良乃ち名姓を更め、亡げて下邳に匿る。良嘗て間に従容として下邳の圯上に歩游す、一老父有り、褐を衣て、良の所に至り、直ちに其の履を圯下に墮とし、顧みて良に謂ひて曰く、「孺子、下りて履を取れ」と。良鄂然とし、之を殴たんと欲す。其の老いたるが為に、彊ひて忍び、下りて履を取る。父曰く、「我に履かせよ」と。良業に為に履を取る、因りて長跪して之を履かしむ。父足を以て受け、笑ひて去る。良殊に大いに驚き、随ひて之を目す。父去ること里所にして、復た還りて曰く、「孺子教ふべし。後五日平明、我と此に会せよ」と。良因りて之を怪しみ、跪きて曰く、「諾」と。五日平明、良往く。父已に先に在り、怒りて曰く、「老人と期して、後るるは、何ぞや」と。去りて、曰く、「後五日早く会せよ」と。五日鶏鳴、良往く。父又先に在り、復た怒りて曰く、「後るるは、何ぞや」と。去りて、曰く、「後五日復た早く来たれ」と。五日、良夜未だ半ばならざるに往く。頃有りて、父も亦た来たり、喜びて曰く、「当に是くの如くすべし」と。一編の書を出だして、曰く、「此を読まば則ち王者の師と為らん。後十年にして興らん。十三年にして孺子我を済北に見ん、穀城山下の黄石は即ち我なり」と。遂に去り、他言無く、復た見えず。旦日其の書を視れば、乃ち太公兵法なり。良因りて之を異とし、常に習ひて之を誦読す。下邳に居り、任俠を為す。
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史記 留侯世家且つ夫れ楚唯彊きこと無からしめば、六国の立つ者復た橈みて之に従はん、陛下焉んぞ得て之を臣とせん。誠に客の謀を用ひば、陛下の事去らん」と。漢王食を輟め哺を吐き、罵りて曰く、「豎儒、幾ど而公の事を敗らんとす」と。趣やかに印を銷さしむ。漢四年、韓信斉を破りて自ら立ちて斉王と為らんと欲す、漢王怒る。張良漢王に説き、漢王良をして斉王信に印を授けしむ、語は淮陰の事の中に在り。其の秋、漢王楚を追ひて陽夏の南に至り、戦ひ利あらずして固陵に壁す、諸侯期して至らず。良漢王に説く、漢王其の計を用ひ、諸侯皆至る。語は項籍の事の中に在り。漢六年正月、功臣を封ず。良未だ嘗て戦闘の功有らず、高帝曰く、「策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、子房の功なり。自ら斉の三万戸を択べ」と。良曰く、「始め臣下邳に起こり、上と留に会す、此れ天臣を以て陛下に授くるなり。陛下臣の計を用ひ、幸ひにして時に中る、臣願はくは留に封ぜらるれば足れり、敢へて三万戸に当たらず」と。乃ち張良を封じて留侯と為し、蕭何等と倶に封ず。六年、上已に大功臣二十余人を封ず、其の余は日夜功を争ひて決せず、未だ封を行ふを得ず。上雒陽の南宮に在り、複道より諸将の往往に相与に沙中に坐して語るを望み見る。上曰く、「此れ何をか語る」と。留侯曰く、「陛下知らざるか。此れ反を謀るのみ」と。上曰く、「天下属々安定す、何の故にか反せん」と。留侯曰く、「陛下布衣より起こり、此の属を以て天下を取る、今陛下天子と為り、而して封ずる所は皆蕭・曹の故人の親愛する所、而して誅する所は皆生平の仇怨する所なり。今軍吏功を計り、天下を以て遍く封ずるに足らずとす、此の属陛下の尽く封ずる能はざるを畏れ、恐らくは又平生の過失を疑はれて誅せられんことを恐る、故に即ち相聚まりて反を謀るのみ」と。上乃ち憂ひて曰く、「之を為すこと奈何」と。留侯曰く、「上の平生憎む所にして、羣臣の共に知る所、誰か最も甚だしき者ぞ」と。
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史記 留侯世家是に於て呂沢立ちどころに夜呂后に見ゆ、呂后間を承けて上の為に泣涕して言ふこと、四人の意の如し。上曰く、「吾惟ふに豎子は固より遣はすに足らず、而公自ら行かんのみ」と。是に於て上自ら兵を将ゐて東す、羣臣居守し、皆送りて灞上に至る。留侯病むも、自ら彊ひて起ち、曲郵に至り、上に見えて曰く、「臣宜しく従ふべきも、病甚だし。楚人は剽疾なり、願はくは上楚人と鋒を争ふこと無かれ」と。因りて上に説きて曰く、「太子をして将軍と為し、関中の兵を監せしめよ」と。上曰く、「子房病むと雖も、彊ひて臥して太子を傅けよ」と。是の時叔孫通太傅為り、留侯少傅の事を行ふ。漢十二年、上布の軍を撃破して帰るに従ひ、疾益々甚だしく、愈々太子を易へんと欲す。留侯諫むるも、聴かず、疾に因りて事を視ず。叔孫太傅称説して古今を引き、死を以て太子を争ふ。上詳りて之を許すも、猶ほ之を易へんと欲す。燕に及び、置酒し、太子侍す。四人太子に従ふ、年皆八十有余、鬚眉皓白にして、衣冠甚だ偉なり。上之を怪しみ、問ひて曰く、「彼は何為る者ぞ」と。四人前みて対へ、各々名姓を言ふ、東園公、角里先生、綺里季、夏黄公と曰ふ。上乃ち大いに驚きて曰く、「吾公を求むること数歳、公我を辟逃す、今公何ぞ自ら吾が児に従ひて游ぶや」と。四人皆曰く、「陛下士を軽んじ善く罵る、臣等義として辱めを受けず、故に恐れて亡げ匿る。窃かに聞く、太子の人と為り仁孝、恭敬にして士を愛す、天下頸を延べて太子の為に死せんと欲せざる者莫しと、故に臣等来たるのみ」と。上曰く、「煩はしくも公幸ひに卒に太子を調護せよ」と。四人寿を為すこと已に畢はり、趨りて去る。上目送し、戚夫人を召して四人の者を指し示して曰く、「我之を易へんと欲す、彼の四人之を輔く、羽翼已に成る、動かし難し。呂后は真に而の主なり」と。戚夫人泣く、上曰く、「我が為に楚舞せよ、吾若の為に楚歌せん」と。歌ひて曰く、「鴻鴈高く飛び、一挙千里。羽翮已に就り、四海を横絶す。四海を横絶す、当に奈何すべき。
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史記 留侯世家上曰く、「雍歯は我と故あり、数々嘗て我を窘辱す。我之を殺さんと欲するも、其の功多きが為に、故に忍びず」と。留侯曰く、「今急ぎ先づ雍歯を封じて以て羣臣に示せ、羣臣雍歯の封ぜらるるを見ば、則ち人人自ら堅からん」と。是に於て上乃ち酒を置き、雍歯を封じて什方侯と為し、而して急ぎ丞相・御史を趣して功を定め封を行はしむ。羣臣酒を罷め、皆喜びて曰く、「雍歯すら尚ほ侯と為る、我が属患ひ無し」と。劉敬高帝に説きて曰く、「関中に都せよ」と。上之を疑ふ。左右の大臣皆山東の人にして、多く上に雒陽に都せんことを勧む、「雒陽は東に成皋有り、西に殽黽有り、河を倍にし、伊雒に向かふ、其の固めも亦た恃むに足る」と。留侯曰く、「雒陽は此の固め有りと雖も、其の中小にして、数百里に過ぎず、田地薄く、四面より敵を受く、此れ武を用ふるの国に非ざるなり。夫れ関中は殽函を左にし、隴蜀を右にし、沃野千里、南に巴蜀の饒有り、北に胡苑の利有り、三面を阻みて守り、独り一面を以て東のかた諸侯を制す。諸侯安定すれば、河渭漕輓して天下より、西のかた京師に給す。諸侯変有らば、流れに順ひて下り、以て委輸するに足る。此れ所謂金城千里、天府の国なり、劉敬の説是なり」と。是に於て高帝即日駕し、西のかた関中に都す。留侯従ひて関に入る。留侯性多病にして、即ち道引して穀を食はず、門を杜ぢて出でざること歳余。上太子を廃し、戚夫人の子趙王如意を立てんと欲す。大臣多く諫争するも、未だ堅決を得る者あらざるなり。呂后恐れ、為す所を知らず。人或ひと呂后に謂ひて曰く、「留侯は善く計筴を画し、上之を信用す」と。呂后乃ち建成侯呂沢をして留侯を劫かしめて、曰く、「君常に上の謀臣為り、今上太子を易へんと欲す、君安んぞ枕を高くして臥するを得んや」と。留侯曰く、「始め上数々困急の中に在り、幸ひにして臣の筴を用ふ。今天下安定し、愛欲を以て太子を易へんとす、骨肉の間は、臣等百余人と雖も何ぞ益せん」と。
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史記 留侯世家呂沢彊ひて要めて曰く、「我が為に計を画せよ」と。留侯曰く、「此れ口舌を以て争ひ難きなり。顧ふに上の致す能はざる者、天下に四人有り。四人は年老いたり、皆以為へらく上は慢りて人を侮ると、故に逃れて山中に匿れ、義として漢の臣と為らず。然れども上此の四人を高しとす。今公誠に能く金玉璧帛を愛しむこと無く、太子をして書を為らしめ、辞を卑くし安車もて、因りて辯士をして固く請はしめば、宜しく来たるべし。来たらば、以て客と為し、時時従ひて朝に入り、上をして之を見しめよ、則ち必ず異として之を問はん。之を問ひて、上此の四人の賢なるを知らば、則ち一助なり」と。是に於て呂后呂沢をして人をして太子の書を奉ぜしめ、辞を卑くし礼を厚くして、此の四人を迎へしむ。四人至り、建成侯の所に客たり。漢十一年、黥布反く、上病み、太子をして将たらしめ、往きて之を撃たしめんと欲す。四人相謂ひて曰く、「凡そ来たる者は、将に以て太子を存せんとするなり。太子兵を将ゐば、事危ふし」と。乃ち建成侯に説きて曰く、「太子兵を将ゐて、功有らば則ち位太子に益さず。功無くして還らば、則ち此より禍を受けん。且つ太子の与に倶にする所の諸将は、皆嘗て上と天下を定めし梟将なり、今太子をして之に将たらしむるは、此れ羊をして狼に将たらしむるに異なる無きなり、皆肯へて為に力を尽くさず、其の功無きは必せり。臣聞く、『母愛せらるる者は子抱かる』と、今戚夫人日夜待御し、趙王如意常に抱かれて前に居る、上曰く『終に不肖の子をして愛子の上に居らしめず』と、明らかなり其の太子の位に代はること必せり。君何ぞ急ぎ呂后に請ひて間を承けて上の為に泣きて言はしめざる、『黥布は、天下の猛将なり、善く兵を用ふ、今諸将は皆陛下の故の等夷なり、乃ち太子をして此の属に将たらしむるは、羊をして狼に将たらしむるに異なる無し、肯へて用を為す莫し、且つ布をして之を聞かしめば、則ち鼓行して西せんのみ。上病むと雖も、彊ひて輜車に載り、臥して之を護らば、諸将敢へて力を尽くさずんばあらず。上苦しむと雖も、妻子の為に自ら彊めよ』と」と。
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史記 留侯世家良項王に説きて曰く、「漢王桟道を焼絶す、還る心無し」と。乃ち斉王田栄の反くを以て、項王に書告す。項王此を以て西に漢を憂ふる心無く、而して兵を発して北のかた斉を撃つ。項王竟に肯へて韓王を遣はさず、乃ち以て侯と為し、又之を彭城に殺す。良亡げ、間行して漢王に帰す、漢王も亦た已に還りて三秦を定む。復た良を以て成信侯と為し、従ひて東のかた楚を撃つ。彭城に至り、漢敗れて還る。下邑に至り、漢王馬を下り鞍に踞して問ひて曰く、「吾関以東を捐てて等しく之を棄てんと欲す、誰か与に功を共にすべき者ぞ」と。良進みて曰く、「九江王黥布は、楚の梟将なり、項王と郄有り。彭越は斉王田栄と梁の地に反く。此の両人急ぎ使ふべし。而して漢王の将は独り韓信のみ大事を属し、一面に当たらしむべし。即し之を捐てんと欲せば、之を此の三人に捐てよ、則ち楚破るべきなり」と。漢王乃ち隨何をして九江王布に説かしめ、而して人をして彭越に連ならしむ。魏王豹の反くに及び、韓信をして兵を将ゐて之を撃たしめ、因りて燕・代・斉・趙を挙ぐ。然れども卒に楚を破る者は、此の三人の力なり。張良多病にして、未だ嘗て特に将たらず、常に画策を為し、時時漢王に従ふ。漢三年、項羽急に漢王を滎陽に囲む、漢王恐憂し、酈食其と楚の権を橈めんことを謀る。食其曰く、「昔湯桀を伐ち、其の後を杞に封ず。武王紂を伐ち、其の後を宋に封ず。今秦徳を失ひ義を棄て、諸侯の社稷を侵伐し、六国の後を滅ぼし、錐を立つるの地無からしむ。陛下誠に能く復た六国の後世を立て、畢く已に印を受けしめば、此れ其の君臣百姓必ず皆陛下の徳を戴き、風に郷ひ義を慕ひ、臣妾と為らんことを願はざる莫からん。徳義已に行はれ、陛下南郷して霸を称せば、楚必ず衽を斂めて朝せん」と。漢王曰く、「善し。趣やかに印を刻せ、先生因りて行きて之を佩ばしめよ」と。食其未だ行かず、張良外より来たりて謁す。漢王方に食す、曰く、「子房前め。
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