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史記 / 留侯世家

於是呂澤立夜見呂后,呂后承間為上泣涕而言,如四人意。上曰:「吾惟豎子固不足遣,而公自行耳。」於是上自將兵而東,羣臣居守,皆送至灞上。留侯病,自彊起,至曲郵,見上曰:「臣宜從,病甚。楚人剽疾,願上無與楚人爭鋒。」因說上曰:「令太子為將軍,監關中兵。」上曰:「子房雖病,彊臥而傅太子。」是時叔孫通為太傅,留侯行少傅事。漢十二年,上從擊破布軍歸,疾益甚,愈欲易太子。留侯諫,不聽,因疾不視事。叔孫太傅稱說引古今,以死爭太子。上詳許之,猶欲易之。及燕,置酒,太子侍。四人從太子,年皆八十有餘,鬚眉皓白,衣冠甚偉。上怪之,問曰:「彼何為者?」四人前對,各言名姓,曰東園公,角里先生,綺里季,夏黃公。上乃大驚,曰:「吾求公數歲,公辟逃我,今公何自從吾兒游乎?」四人皆曰:「陛下輕士善罵,臣等義不受辱,故恐而亡匿。竊聞太子為人仁孝,恭敬愛士,天下莫不延頸欲為太子死者,故臣等來耳。」上曰:「煩公幸卒調護太子。」四人為壽已畢,趨去。上目送之,召戚夫人指示四人者曰:「我欲易之,彼四人輔之,羽翼已成,難動矣。呂后真而主矣。」戚夫人泣,上曰:「為我楚舞,吾為若楚歌。」歌曰:「鴻鴈高飛,一舉千里。羽翮已就,橫絕四海。橫絕四海,當可奈何!

新字:於是呂沢立夜見呂后,呂后承間為上泣涕而言,如四人意。上曰:「吾惟豎子固不足遣,而公自行耳。」於是上自将兵而東,羣臣居守,皆送至灞上。留侯病,自彊起,至曲郵,見上曰:「臣宜従,病甚。楚人剽疾,願上無与楚人争鋒。」因説上曰:「令太子為将軍,監関中兵。」上曰:「子房雖病,彊臥而傅太子。」是時叔孫通為太傅,留侯行少傅事。漢十二年,上従撃破布軍帰,疾益甚,愈欲易太子。留侯諫,不聴,因疾不視事。叔孫太傅称説引古今,以死争太子。上詳許之,猶欲易之。及燕,置酒,太子侍。四人従太子,年皆八十有余,鬚眉皓白,衣冠甚偉。上怪之,問曰:「彼何為者?」四人前対,各言名姓,曰東園公,角里先生,綺里季,夏黄公。上乃大驚,曰:「吾求公数歳,公辟逃我,今公何自従吾児游乎?」四人皆曰:「陛下軽士善罵,臣等義不受辱,故恐而亡匿。窃聞太子為人仁孝,恭敬愛士,天下莫不延頸欲為太子死者,故臣等来耳。」上曰:「煩公幸卒調護太子。」四人為寿已畢,趨去。上目送之,召戚夫人指示四人者曰:「我欲易之,彼四人輔之,羽翼已成,難動矣。呂后真而主矣。」戚夫人泣,上曰:「為我楚舞,吾為若楚歌。」歌曰:「鴻鴈高飛,一舉千里。羽翮已就,横絶四海。横絶四海,当可奈何!

書き下し

是に於て呂沢立ちどころに夜呂后に見ゆ、呂后間を承けて上の為に泣涕して言ふこと、四人の意の如し。上曰く、「吾惟ふに豎子は固より遣はすに足らず、而公自ら行かんのみ」と。是に於て上自ら兵を将ゐて東す、羣臣居守し、皆送りて灞上に至る。留侯病むも、自ら彊ひて起ち、曲郵に至り、上に見えて曰く、「臣宜しく従ふべきも、病甚だし。楚人は剽疾なり、願はくは上楚人と鋒を争ふこと無かれ」と。因りて上に説きて曰く、「太子をして将軍と為し、関中の兵を監せしめよ」と。上曰く、「子房病むと雖も、彊ひて臥して太子を傅けよ」と。是の時叔孫通太傅為り、留侯少傅の事を行ふ。漢十二年、上布の軍を撃破して帰るに従ひ、疾益々甚だしく、愈々太子を易へんと欲す。留侯諫むるも、聴かず、疾に因りて事を視ず。叔孫太傅称説して古今を引き、死を以て太子を争ふ。上詳りて之を許すも、猶ほ之を易へんと欲す。燕に及び、置酒し、太子侍す。四人太子に従ふ、年皆八十有余、鬚眉皓白にして、衣冠甚だ偉なり。上之を怪しみ、問ひて曰く、「彼は何為る者ぞ」と。四人前みて対へ、各々名姓を言ふ、東園公、角里先生、綺里季、夏黄公と曰ふ。上乃ち大いに驚きて曰く、「吾公を求むること数歳、公我を辟逃す、今公何ぞ自ら吾が児に従ひて游ぶや」と。四人皆曰く、「陛下士を軽んじ善く罵る、臣等義として辱めを受けず、故に恐れて亡げ匿る。窃かに聞く、太子の人と為り仁孝、恭敬にして士を愛す、天下頸を延べて太子の為に死せんと欲せざる者莫しと、故に臣等来たるのみ」と。上曰く、「煩はしくも公幸ひに卒に太子を調護せよ」と。四人寿を為すこと已に畢はり、趨りて去る。上目送し、戚夫人を召して四人の者を指し示して曰く、「我之を易へんと欲す、彼の四人之を輔く、羽翼已に成る、動かし難し。呂后は真に而の主なり」と。戚夫人泣く、上曰く、「我が為に楚舞せよ、吾若の為に楚歌せん」と。歌ひて曰く、「鴻鴈高く飛び、一挙千里。羽翮已に就り、四海を横絶す。四海を横絶す、当に奈何すべき。

現代語訳

そこで呂沢はすぐにその夜のうちに呂后に会い、呂后は折を見て高祖の前で泣きながら、四人の言ったとおりに訴えた。高祖は言った。「わしも思っていた。あの小僧はもともと行かせるには足りない。このわし自身が行くしかあるまい」。そこで高祖は自ら兵を率いて東へ向かった。群臣は都に残って守り、みな霸上まで見送った。留侯は病気であったが、無理をして起き上がり、曲郵まで行って高祖に会い、言った。「私もお供すべきところだが、病が重い。楚の兵は素早く勇猛だ。どうか主上は楚の兵と正面から鋒を交えないでいただきたい」。さらに高祖に説いた。「太子を将軍として関中の兵を監督させられたい」。高祖は言った。「子房は病気でも、横になったままでよいから太子の補佐をしてくれ」。このとき叔孫通が太傅(太子の師)であり、留侯は少傅(太子の副師)の職務を代行した。漢十二年、高祖は黥布の軍を撃破して帰ってきたが、病はますます重くなり、いよいよ太子を替えようとした。留侯が諫めたが聞き入れられず、病気を理由に政務を見なくなった。叔孫太傅は古今の例を引いて説き、死を覚悟して太子のために争った。高祖は聞き入れたふりをしたが、なお太子を替えようと思っていた。宴会の席で酒宴を設けたとき、太子が侍っていた。四人が太子に従っていた。みな年は八十余りで、ひげも眉も真っ白で、衣冠はたいそう立派であった。高祖は不思議に思って尋ねた。「あれは何者か」。四人は進み出て答え、それぞれ名を名乗った。東園公、角里先生、綺里季、夏黄公である。高祖は大いに驚いて言った。「わしはあなた方を何年も探し求めていたのに、あなた方はわしから逃げ隠れていた。いまなぜ自分から我が子に従っているのか」。四人はみな言った。「陛下は士を軽んじてよく罵られる。我々は義として辱めを受けるわけにはいかないので、恐れて逃げ隠れていた。ひそかに聞けば、太子は人となりが情け深く孝行で、恭しく士を大切にされるので、天下に首を長くして太子のために死にたいと願わない者はいないという。だから我々はやって来たのだ」。高祖は言った。「ご苦労だが、どうか最後まで太子を守り導いてやってほしい」。四人は長寿を祝う杯をささげ終わると、小走りに退出した。高祖はその後ろ姿を見送り、戚夫人を呼んで四人を指さして言った。「わしは太子を替えたかったが、あの四人が補佐している。羽も翼もすでにそろってしまい、もう動かしがたい。呂后こそ本当にお前の主人となるのだ」。戚夫人は泣いた。高祖は言った。「わしのために楚の舞を舞ってくれ。わしはお前のために楚の歌を歌おう」。そして歌った。「鴻(おおとり)は高く飛び、ひと飛びで千里を行く。羽も翼もすでにそろい、四海を横切って飛んでいく。四海を横切って飛んでいく、いったいどうしたらよいのか。

解説

太子の地位が決着する劇的な場面です。四皓の策どおり、呂后が泣いて訴えると、劉邦は病身をおして自ら黥布討伐に出陣しました。張良も病を押して見送り、「楚兵と正面から争うな」と助言します。しかし凱旋した劉邦は、いよいよ太子を替えようとし、張良の諫めも叔孫通の命がけの訴えも退けます。決め手になったのは、宴席に現れた四人の白髪の老人でした。劉邦が何年招いても応じなかった賢者たちが、「陛下は士を罵るので逃げた。太子は士を愛するので来た」と答えたのです。劉邦は「羽翼すでに成る」と悟り、戚夫人に楚の舞を舞わせて、自らの無力を歌います。言葉で説得できない相手に、事実で示す。張良の策は、四皓という「見える証拠」で劉邦自身に判断させた点に妙があります。人は理屈より目の前の事実で動くのです。

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