史記 / 留侯世家
項伯嘗殺人,從良匿。後十年,陳涉等起兵,良亦聚少年百餘人。景駒自立為楚假王,在留。良欲往從之,道還沛公。沛公將數千人,略地下邳西,遂屬焉。沛公拜良為廄將。良數以太公兵法說沛公,沛公善之,常用其策。良為他人者,皆不省。良曰:「沛公殆天授。」故遂從之,不去見景駒。及沛公之薛,見項梁。項梁立楚懷王。良乃說項梁曰:「君已立楚後,而韓諸公子橫陽君成賢,可立為王,益樹黨。」項梁使良求韓成,立以為韓王。以良為韓申徒,與韓王將千餘人西略韓地,得數城,秦輒復取之,往來為游兵潁川。沛公之從雒陽南出轘轅,良引兵從沛公,下韓十餘城,擊破楊熊軍。沛公乃令韓王成留守陽翟,與良俱南,攻下宛,西入武關。沛公欲以兵二萬人擊秦嶢下軍,良說曰:「秦兵尚強,未可輕。臣聞其將屠者子,賈豎易動以利。願沛公且留壁,使人先行,為五萬人具食,益為張旗幟諸山上,為疑兵,令酈食其持重寶啗秦將。」秦將果叛,欲連和俱西襲咸陽,沛公欲聽之。良曰:「此獨其將欲叛耳,恐士卒不從。不從必危,不如因其解擊之。」沛公乃引兵擊秦軍,大破之。遂北至藍田,再戰,秦兵竟敗。遂至咸陽,秦王子嬰降沛公。
新字:項伯嘗殺人,従良匿。後十年,陳渉等起兵,良亦聚少年百余人。景駒自立為楚仮王,在留。良欲往従之,道還沛公。沛公将数千人,略地下邳西,遂属焉。沛公拝良為廄将。良数以太公兵法説沛公,沛公善之,常用其策。良為他人者,皆不省。良曰:「沛公殆天授。」故遂従之,不去見景駒。及沛公之薛,見項梁。項梁立楚懐王。良乃説項梁曰:「君已立楚後,而韓諸公子横陽君成賢,可立為王,益樹党。」項梁使良求韓成,立以為韓王。以良為韓申徒,与韓王将千余人西略韓地,得数城,秦輒復取之,往来為游兵潁川。沛公之従雒陽南出轘轅,良引兵従沛公,下韓十余城,撃破楊熊軍。沛公乃令韓王成留守陽翟,与良倶南,攻下宛,西入武関。沛公欲以兵二万人撃秦嶢下軍,良説曰:「秦兵尚強,未可軽。臣聞其将屠者子,賈豎易動以利。願沛公且留壁,使人先行,為五万人具食,益為張旗幟諸山上,為疑兵,令酈食其持重宝啗秦将。」秦将果叛,欲連和倶西襲咸陽,沛公欲聴之。良曰:「此独其将欲叛耳,恐士卒不従。不従必危,不如因其解撃之。」沛公乃引兵撃秦軍,大破之。遂北至藍田,再戦,秦兵竟敗。遂至咸陽,秦王子嬰降沛公。
書き下し
項伯嘗て人を殺し、良に従ひて匿る。後十年、陳渉等兵を起こす、良も亦た少年百余人を聚む。景駒自ら立ちて楚の仮王と為り、留に在り。良往きて之に従はんと欲し、道にして沛公に還ふ。沛公数千人を将ゐ、地を下邳の西に略す、遂に焉に属す。沛公良を拝して廄将と為す。良数々太公兵法を以て沛公に説く、沛公之を善しとし、常に其の策を用ふ。良他人の為にする者は、皆省みず。良曰く、「沛公は殆ど天授なり」と。故に遂に之に従ひ、去りて景駒に見えず。沛公の薛に之きて、項梁に見ゆるに及び、項梁楚の懐王を立つ。良乃ち項梁に説きて曰く、「君已に楚の後を立つ、而して韓の諸公子横陽君成は賢なり、立てて王と為すべし、益々党を樹てん」と。項梁良をして韓成を求めしめ、立てて以て韓王と為す。良を以て韓の申徒と為し、韓王と千余人を将ゐて西のかた韓の地を略し、数城を得るも、秦輒ち復た之を取る、往来して游兵を潁川に為す。沛公の雒陽より南のかた轘轅に出づるや、良兵を引きて沛公に従ひ、韓の十余城を下し、楊熊の軍を撃破す。沛公乃ち韓王成をして陽翟に留守せしめ、良と倶に南し、宛を攻め下し、西のかた武関に入る。沛公兵二万人を以て秦の嶢下の軍を撃たんと欲す、良説きて曰く、「秦の兵尚ほ強し、未だ軽んずべからず。臣聞く、其の将は屠者の子なりと、賈豎は動かすに利を以てし易し。願はくは沛公且く留まりて壁し、人をして先行せしめ、五万人の為に食を具へ、益々為に旗幟を諸山の上に張り、疑兵と為し、酈食其をして重宝を持して秦の将に啗はしめよ」と。秦の将果たして叛き、連和して倶に西のかた咸陽を襲はんと欲す、沛公之を聴かんと欲す。良曰く、「此れ独り其の将叛かんと欲するのみ、恐らくは士卒従はざらん。従はずんば必ず危ふし、其の解くるに因りて之を撃つに如かず」と。沛公乃ち兵を引きて秦軍を撃ち、大いに之を破る。遂に北のかた藍田に至り、再び戦ひ、秦の兵竟に敗る。遂に咸陽に至り、秦王子嬰沛公に降る。
現代語訳
項伯はかつて人を殺し、張良のもとに身を寄せて匿われていた。十年後、陳渉らが兵を挙げると、張良も若者百人余りを集めた。景駒が自ら立って楚の仮王となり、留にいた。張良はそこへ行って従おうとしたが、途中で沛公に出会った。沛公は数千人を率いて下邳の西の地を攻略していたので、張良はそのまま沛公の配下に入った。沛公は張良を廄将(馬を管理する将)に任じた。張良はたびたび太公望の兵法を沛公に説いた。沛公はこれをよしとし、いつもその策を用いた。張良が他の人に説いても、誰も耳を傾けなかった。張良は言った。「沛公はほとんど天から授かったような人だ」。そこで沛公に従い続け、景駒に会いに行くことはなかった。沛公が薛へ行って項梁に会うと、項梁は楚の懐王を立てた。張良はそこで項梁に説いた。「あなたはすでに楚王の子孫を立てた。韓の公子の中でも横陽君の成は賢い。王に立てれば、味方の勢力をいっそう増やせる」。項梁は張良に韓成を探させ、韓王に立てた。張良を韓の申徒(司徒、民政の長)とし、韓王とともに千人余りを率いて西へ韓の地を攻略させた。数城を得たが、秦はすぐに取り返した。張良は潁川で遊撃兵となって行き来していた。沛公が洛陽から南へ轘轅に出ると、張良は兵を率いて沛公に従い、韓の十余城を降し、楊熊の軍を撃破した。沛公はそこで韓王成を陽翟(ようてき)に留守として残し、張良とともに南へ進んで宛を攻め落とし、西へ進んで武関に入った。沛公は兵二万人で秦の嶢関の守備軍を攻撃しようとした。張良は説いた。「秦の兵はまだ強く、侮ってはならない。聞けば、その将は肉屋の息子だという。商売人は利益で動かしやすいものだ。どうか沛公はしばらくここに留まって陣を構え、人を先に行かせて五万人分の食糧を用意し、さらにあちこちの山の上に旗を立てて見せかけの兵とし、酈食其(れきいき)に重い宝物を持たせて秦の将を釣らせていただきたい」。秦の将ははたして寝返り、手を結んで一緒に西の咸陽を襲おうと持ちかけてきた。沛公はそれを受け入れようとした。張良は言った。「これは将が寝返ろうとしているだけで、兵士たちはおそらく従わない。従わなければ必ず危うい。気が緩んだところを討つのが最善だ」。沛公はそこで兵を率いて秦軍を攻撃し、大いに破った。そのまま北へ進んで藍田に至り、再び戦って、秦の兵はついに敗れた。こうして咸陽に至ると、秦王子嬰(しえい)は沛公に降伏した。
解説
関連する章句
-
史記 留侯世家沛公秦の宮に入る、宮室帷帳狗馬重宝婦女千を以て数へ、意に留まりて之に居らんと欲す。樊噲沛公に出でて舎せんことを諫む、沛公聴かず。良曰く、「夫れ秦無道を為す、故に沛公此に至るを得たり。夫れ天下の為に残賊を除かば、宜しく縞素もて資と為すべし。今始めて秦に入り、即ち其の楽しみに安んず、此れ所謂『桀を助けて虐を為す』なり。且つ『忠言は耳に逆らへども行ひに利あり、毒薬は口に苦けれども病に利あり』、願はくは沛公樊噲の言を聴け」と。沛公乃ち還りて霸上に軍す。項羽鴻門の下に至り、沛公を撃たんと欲す、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に入り、私かに張良に見え、与に倶に去らんと欲す。良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、今事急なる有り、亡げ去るは不義なり」と。乃ち具に以て沛公に語る。沛公大いに驚きて曰く、「為に将に奈何せん」と。良曰く、「沛公誠に項羽に背かんと欲するか」と。沛公曰く、「鯫生我に関を距ぎて諸侯を内るること無からしむれば、秦の地尽く王たるべしと教ふ、故に之を聴く」と。良曰く、「沛公自ら度るに能く項羽を卻けんか」と。沛公默然たること良久しくして、曰く、「固より能はざるなり。今為すこと奈何」と。良乃ち固く項伯を要む。項伯沛公に見ゆ。沛公与に飲みて寿を為し、賓婚を結ぶ。項伯をして具に沛公の敢へて項羽に倍かず、関を距ぐ所以の者は、他盗に備ふるなりと言はしむ。項羽に見えし後解くるに及ぶ、語は項羽の事の中に在り。漢元年正月、沛公漢王と為り、巴蜀に王たり。漢王良に金百鎰、珠二斗を賜ふ、良具に以て項伯に献ず。漢王も亦た因りて良をして厚く項伯に遺らしめ、漢中の地を請はしむ。項王乃ち之を許し、遂に漢中の地を得たり。漢王の国に之くや、良送りて襃中に至る、良を遣はして韓に帰らしむ。良因りて漢王に説きて曰く、「王何ぞ過ぐる所の桟道を焼絶し、天下に還る心無きを示し、以て項王の意を固めざる」と。乃ち良をして還らしむ。行くゆく、桟道を焼絶す。良韓に至る、韓王成良の漢王に従ふの故を以て、項王成を遣はして国に之かしめず、従へて与に倶に東す。
-
史記 留侯世家良項王に説きて曰く、「漢王桟道を焼絶す、還る心無し」と。乃ち斉王田栄の反くを以て、項王に書告す。項王此を以て西に漢を憂ふる心無く、而して兵を発して北のかた斉を撃つ。項王竟に肯へて韓王を遣はさず、乃ち以て侯と為し、又之を彭城に殺す。良亡げ、間行して漢王に帰す、漢王も亦た已に還りて三秦を定む。復た良を以て成信侯と為し、従ひて東のかた楚を撃つ。彭城に至り、漢敗れて還る。下邑に至り、漢王馬を下り鞍に踞して問ひて曰く、「吾関以東を捐てて等しく之を棄てんと欲す、誰か与に功を共にすべき者ぞ」と。良進みて曰く、「九江王黥布は、楚の梟将なり、項王と郄有り。彭越は斉王田栄と梁の地に反く。此の両人急ぎ使ふべし。而して漢王の将は独り韓信のみ大事を属し、一面に当たらしむべし。即し之を捐てんと欲せば、之を此の三人に捐てよ、則ち楚破るべきなり」と。漢王乃ち隨何をして九江王布に説かしめ、而して人をして彭越に連ならしむ。魏王豹の反くに及び、韓信をして兵を将ゐて之を撃たしめ、因りて燕・代・斉・趙を挙ぐ。然れども卒に楚を破る者は、此の三人の力なり。張良多病にして、未だ嘗て特に将たらず、常に画策を為し、時時漢王に従ふ。漢三年、項羽急に漢王を滎陽に囲む、漢王恐憂し、酈食其と楚の権を橈めんことを謀る。食其曰く、「昔湯桀を伐ち、其の後を杞に封ず。武王紂を伐ち、其の後を宋に封ず。今秦徳を失ひ義を棄て、諸侯の社稷を侵伐し、六国の後を滅ぼし、錐を立つるの地無からしむ。陛下誠に能く復た六国の後世を立て、畢く已に印を受けしめば、此れ其の君臣百姓必ず皆陛下の徳を戴き、風に郷ひ義を慕ひ、臣妾と為らんことを願はざる莫からん。徳義已に行はれ、陛下南郷して霸を称せば、楚必ず衽を斂めて朝せん」と。漢王曰く、「善し。趣やかに印を刻せ、先生因りて行きて之を佩ばしめよ」と。食其未だ行かず、張良外より来たりて謁す。漢王方に食す、曰く、「子房前め。
-
史記 高祖本紀下邑を攻め、之を抜く。軍を豊に還す。項梁の薛に在るを聞き、騎百余を従へて往きて之に見ゆ。項梁沛公に卒五千人、五大夫の将十人を益す。沛公還り、兵を引きて豊を攻む。項梁に従ふこと月余、項羽已に襄城を抜きて還る。項梁尽く別将を召して薛に居らしむ。陳王の定めて死せるを聞き、因りて楚の後懐王の孫心を立てて楚王と為し、盱台に治す。項梁武信君と号す。居ること数月、北のかた亢父を攻め、東阿を救ひ、秦の軍を破る。斉の軍帰り、楚独り北ぐるを追ひ、沛公・項羽をして別に城陽を攻めしめ、之を屠る。濮陽の東に軍し、秦の軍と戦ひ、之を破る。秦の軍復た振るひ、濮陽を守り、水を環らす。楚の軍去りて定陶を攻む、定陶未だ下らず。沛公項羽と西のかた地を略して雍丘の下に至り、秦の軍と戦ひ、大いに之を破り、李由を斬る。還りて外黄を攻む、外黄未だ下らず。項梁再び秦の軍を破り、驕る色有り。宋義諫むるも、聴かず。秦章邯の兵を益し、夜枚を銜みて項梁を撃ち、大いに之を定陶に破り、項梁死す。沛公項羽と方に陳留を攻む、項梁の死を聞き、兵を引きて呂将軍と倶に東す。呂臣は彭城の東に軍し、項羽は彭城の西に軍し、沛公は碭に軍す。章邯已に項梁の軍を破り、則ち以為へらく楚の地の兵は憂ふるに足らずと、乃ち河を渡り、北のかた趙を撃ち、大いに之を破る。是の時に当たりて、趙歇王為り、秦の将王離之を鉅鹿城に囲む、此れ所謂河北の軍なり。秦の二世三年、楚の懐王項梁の軍の破るるを見て、恐れ、盱台より徙りて彭城に都し、呂臣・項羽の軍を并せて自ら之に将たり。沛公を以て碭郡の長と為し、封じて武安侯と為し、碭郡の兵に将たらしむ。項羽を封じて長安侯と為し、号して魯公と為す。呂臣を司徒と為し、其の父呂青を令尹と為す。趙数(しばしば)救ひを請ふ、懐王乃ち宋義を以て上将軍と為し、項羽を次将と為し、范増を末将と為し、北のかた趙を救はしむ。
-
史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
-
史記 韓信盧綰列伝韓王信は、故の韓の襄王の孽孫なり。長八尺五寸。項梁の楚の後の懐王を立つるに及び、燕・斉・趙・魏は皆已に前に王たり、唯だ韓のみ後有ること無し。故に韓の諸公子横陽君成を立てて韓王と為し、以て韓の故地を撫定せんと欲す。項梁定陶に敗死し、成は懐王に奔る。沛公兵を引ゐて陽城を撃ち、張良をして韓の司徒を以て韓の故地を降下せしめ、信を得て、以て韓の将と為し、其の兵を将ゐて沛公に従ひ武関に入る。沛公立ちて漢王と為るや、韓信従ひて漢中に入り、乃ち漢王に説きて曰く、「項王は諸将を近地に王とし、而して王独り遠く此に居る、此れ左遷なり。士卒は皆山東の人にして、跂ちて帰らんことを望む。其の鋒の東に郷ふに及ばば、以て天下を争ふべし」と。漢王還りて三秦を定め、乃ち信を許して韓王と為し、先づ信を拝して韓の太尉と為し、兵を将ゐて韓の地を略せしむ。項籍の諸王を封ずるや皆国に就くも、韓王成は従はずして功無きを以て、遣はして国に就かしめず、更めて以て列侯と為す。漢の韓信を遣はして韓の地を略せしむと聞くに及び、乃ち故の項籍の呉に游びし時の呉の令鄭昌をして韓王と為し以て漢を距がしむ。漢の二年、韓信韓の十余城を略定す。漢王河南に至り、韓信急に韓王昌を陽城に撃つ。昌降る。漢王乃ち韓信を立てて韓王と為し、常に韓の兵を将ゐて従ふ。三年、漢王滎陽を出で、韓王信・周苛等滎陽を守る。楚の滎陽を敗るに及び、信楚に降り、已にして亡ぐるを得て、復た漢に帰す。漢復た立てて以て韓王と為し、竟に従ひて項籍を撃破し、天下定まる。五年の春、遂に与に符を剖きて韓王と為し、潁川に王たらしむ。
-
史記 高祖本紀楊熊走りて滎陽に之く、二世使者をして斬りて以て徇へしむ。南のかた潁陽を攻め、之を屠る。張良に因りて遂に韓の地轘轅を略す。是の時に当たりて、趙の別将司馬卬方に河を渡りて関に入らんと欲す、沛公乃ち北のかた平陰を攻め、河津を絶つ。南して、雒陽の東に戦ふ、軍利あらず、還りて陽城に至り、軍中の馬騎を収め、南陽の守齮(き)と犨の東に戦ひ、之を破る。南陽郡を略す、南陽の守齮走り、城を保ちて宛を守る。沛公兵を引きて過ぎて西す。張良諫めて曰く、「沛公急ぎ関に入らんと欲すと雖も、秦の兵尚ほ衆く、険を距ぐ。今宛を下さずんば、宛後より撃ち、彊秦前に在り、此れ危道なり。」と。是に於て沛公乃ち夜兵を引きて他道より還り、旗幟を更め、黎明、宛城を囲むこと三匝。南陽の守自剄せんと欲す。其の舎人陳恢曰く、「死すること未だ晩からざるなり。」と。乃ち城を踰えて沛公に見えて、曰く、「臣聞く足下約す、先づ咸陽に入る者は之を王とせんと。今足下留まりて宛を守る。宛は、大郡の都なり、城を連ぬること数十、人民衆く、積蓄多し、吏人自ら以為へらく降らば必ず死せんと、故に皆堅守して城に乗る。今足下尽日止まりて攻めば、士の死傷する者必ず多からん。兵を引きて宛を去らば、宛必ず足下の後に随はん。足下前んでは則ち咸陽の約を失ひ、後ろには又彊宛の患ひ有らん。足下の為に計るに、約して降し、其の守を封じ、因りて止まりて守らしめ、其の甲卒を引きて之と西するに若くは莫し。諸城の未だ下らざる者、声を聞きて争ひて門を開きて待たん、足下通行して累ふ所無からん。」と。沛公曰く、「善し。」と。乃ち宛の守を以て殷侯と為し、陳恢を千戸に封ず。兵を引きて西す、下らざる者無し。丹水に至る、高武侯鰓・襄侯王陵西陵に降る。還りて胡陽を攻め、番君の別将梅鋗に遇ひ、与に皆して、析・酈を降す。魏人甯昌をして秦に使ひせしむ、使者未だ来らず。是の時章邯已に軍を以て項羽に趙に降れり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る