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史記 / 曹相国世家

然無言吾告若也。」窋既洗沐歸,窋侍,自從其所諫參。參怒,而笞窋二百,曰:「趣入侍,天下事非若所當言也。」至朝時,惠帝讓參曰:「與窋胡治乎?乃者我使諫君也。」參免冠謝曰:「陛下自察聖武孰與高帝?」上曰:「朕乃安敢望先帝乎!」曰:「陛下觀臣能孰與蕭何賢?」上曰:「君似不及也。」參曰:「陛下言之是也。且高帝與蕭何定天下,法令既明,今陛下垂拱,參等守職,遵而勿失,不亦可乎?」惠帝曰:「善。君休矣!」參為漢相國,出入三年。卒,謚懿侯。子窋代侯。百姓歌之曰:「蕭何為法,顜若畫一;曹參代之,守而勿失。載其清凈,民以寧一。」平陽侯窋,高后時為御史大夫。孝文帝立,免為侯。立二十九年卒,謚為靜侯。子奇代侯,立七年卒,謚為簡侯。子時代侯。時尚平陽公主,生子襄。時病癘,歸國。立二十三年卒,謚夷侯。子襄代侯。襄尚衛長公主,生子宗。立十六年卒,謚為共侯。子宗代侯。征和二年中,宗坐太子死,國除。太史公曰:曹相國參攻城野戰之功所以能多若此者,以與淮陰侯俱。及信已滅,而列侯成功,唯獨參擅其名。參為漢相國,清靜極言合道。然百姓離秦之酷後,參與休息無為,故天下俱稱其美矣。

新字:然無言吾告若也。」窋既洗沐帰,窋侍,自従其所諫参。参怒,而笞窋二百,曰:「趣入侍,天下事非若所当言也。」至朝時,恵帝譲参曰:「与窋胡治乎?乃者我使諫君也。」参免冠謝曰:「陛下自察聖武孰与高帝?」上曰:「朕乃安敢望先帝乎!」曰:「陛下観臣能孰与蕭何賢?」上曰:「君似不及也。」参曰:「陛下言之是也。且高帝与蕭何定天下,法令既明,今陛下垂拱,参等守職,遵而勿失,不亦可乎?」恵帝曰:「善。君休矣!」参為漢相国,出入三年。卒,謚懿侯。子窋代侯。百姓歌之曰:「蕭何為法,顜若画一;曹参代之,守而勿失。載其清浄,民以寧一。」平陽侯窋,高后時為御史大夫。孝文帝立,免為侯。立二十九年卒,謚為静侯。子奇代侯,立七年卒,謚為簡侯。子時代侯。時尚平陽公主,生子襄。時病癘,帰国。立二十三年卒,謚夷侯。子襄代侯。襄尚衛長公主,生子宗。立十六年卒,謚為共侯。子宗代侯。征和二年中,宗坐太子死,国除。太史公曰:曹相国参攻城野戦之功所以能多若此者,以与淮陰侯倶。及信已滅,而列侯成功,唯独参擅其名。参為漢相国,清静極言合道。然百姓離秦之酷後,参与休息無為,故天下倶称其美矣。

書き下し

然れども吾が若に告ぐと言ふこと無かれ」と。窋既に洗沐して帰り、窋侍し、自ら其の所に従ひて参を諫む。参怒りて、窋を笞うつこと二百、曰く、「趣やかに入りて侍せよ、天下の事は若の当に言ふべき所に非ざるなり」と。朝の時に至り、恵帝参を譲めて曰く、「窋と胡ぞ治むるや。乃者我使はして君を諫めしめしなり」と。参冠を免ぎて謝して曰く、「陛下自ら察するに聖武孰れか高帝に与ける」と。上曰く、「朕乃ち安んぞ敢へて先帝を望まんや」と。曰く、「陛下臣が能を観るに孰れか蕭何に与けて賢なる」と。上曰く、「君は及ばざるに似たり」と。参曰く、「陛下の言是なり。且つ高帝と蕭何と天下を定め、法令既に明らかなり、今陛下垂拱し、参等職を守り、遵ひて失ふこと勿くんば、亦た可ならずや」と。恵帝曰く、「善し。君休め」と。参漢の相国と為り、出入すること三年。卒し、懿侯と謚す。子窋代はりて侯たり。百姓之を歌ひて曰く、「蕭何法を為り、顜として画一の若し。曹参之に代はり、守りて失ふこと勿し。其の清浄を載せ、民以て寧一なり」と。平陽侯窋は、高后の時に御史大夫と為る。孝文帝立ち、免ぜられて侯と為る。立ちて二十九年にして卒し、謚して静侯と為す。子奇代はりて侯たり、立ちて七年にして卒し、謚して簡侯と為す。子時代はりて侯たり。時は平陽公主に尚し、子襄を生む。時癘を病み、国に帰る。立ちて二十三年にして卒し、夷侯と謚す。子襄代はりて侯たり。襄は衛長公主に尚し、子宗を生む。立ちて十六年にして卒し、謚して共侯と為す。子宗代はりて侯たり。征和二年中、宗太子に坐して死し、国除かる。太史公曰く、曹相国参の攻城野戦の功の能く多きこと此の若き所以の者は、淮陰侯と倶にするを以てなり。信已に滅ぶるに及び、而して列侯の成功、唯独り参のみ其の名を擅にす。参漢の相国と為り、清静にして極めて道に合ふを言ふ。然れども百姓秦の酷を離るるの後、参休息無為を与ふ、故に天下俱に其の美を称す。

現代語訳

ただし、わたしがお前に言わせたとは言うな」。窋は休暇で家に帰ると、父のそばに仕え、自分の考えとして曹参を諫めた。曹参は怒って窋を二百回鞭打ち、言った。「さっさと宮中に戻ってお仕えしろ。天下のことはお前が口を出すことではない」。朝廷に出仕したとき、恵帝は曹参を責めて言った。「なぜ窋を懲らしめたのか。この前はわたしが彼に命じてあなたを諫めさせたのだ」。曹参は冠を脱いで謝罪して言った。「陛下ご自身、ご聡明さと武勇において、高帝と比べていかがお考えか」。恵帝は言った。「わたしがどうして先帝に及ぶなどと望めようか」。曹参は言った。「陛下は、私の能力を蕭何と比べてどちらが優れているとご覧になるか」。恵帝は言った。「あなたは及ばないようだ」。曹参は言った。「陛下のおっしゃるとおりだ。しかも高帝と蕭何が天下を平定し、法令はすでに明らかに整っている。いま陛下は手をこまねいて治め、私どもは職務を守り、それに従って失うことがなければ、それでよいのではないか」。恵帝は言った。「よくわかった。あなたはもう下がって休まれよ」。曹参は漢の相国となって三年であった。亡くなって懿侯と諡された。子の窋が代わって侯となった。民は曹参をこう歌った。「蕭何が法を作れば、まっすぐで一本の線を引いたよう。曹参がこれに代わり、守って失うことがない。その清らかで静かな治めを受けて、民は安らかにまとまる」。平陽侯窋は高后の時代に御史大夫となった。孝文帝が即位すると免職となり、侯に戻った。侯となって二十九年で亡くなり、静侯と諡された。子の奇が代わって侯となり、七年で亡くなり、簡侯と諡された。子の時が代わって侯となった。時は平陽公主を娶り、子の襄を生んだ。時は悪い病にかかって領国に帰った。侯となって二十三年で亡くなり、夷侯と諡された。子の襄が代わって侯となった。襄は衛長公主を娶り、子の宗を生んだ。十六年で亡くなり、共侯と諡された。子の宗が代わって侯となった。征和二年、宗は衛太子の事件に連座して死に、国は廃された。太史公は言う。曹相国参が城を攻め野で戦った功績がこれほど多かったのは、淮陰侯(韓信)と行動をともにしていたからである。韓信が滅びると、列侯の功績の中で、ただ曹参だけがその名を独り占めにした。曹参は漢の相国となると、清らかで静かであることを説き、それはきわめて道にかなっていた。民が秦の苛酷な政治から離れた後であったので、曹参は休息と無為を与えた。だから天下の人々はそろってその善政を称えたのである。

解説

「蕭規曹随(蕭何が定め、曹参が従う)」の故事として名高い場面です。仕事をしない相国を不審に思った恵帝が、息子の窋に諫めさせると、曹参は窋を鞭打ちます。恵帝に問い詰められた曹参は、「陛下は高帝に及ぶか」「私は蕭何に及ぶか」と二つの問いを返し、どちらも「及ばない」と答えさせたうえで、「優れた先人が定めた法令を、及ばぬ者が守って失わない。それでよいではないか」と説きました。自分と主君の限界を率直に認め、それを統治の方針に変える見事な論法です。民は「蕭何が法を作り、曹参が守った」と歌いました。司馬遷は評で、曹参の戦功は韓信と一緒だったからだと辛口に述べつつ、秦の苛政に疲れた民に休息を与えたことを高く評価しています。何もしないことが最善の打ち手となる局面を見極めるのも、リーダーの力量です。

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