史記 / 曹相国世家
既見蓋公,蓋公為言治道貴清靜而民自定,推此類具言之。參於是避正堂,舍蓋公焉。其治要用黃老術,故相齊九年,齊國安集,大稱賢相。惠帝二年,蕭何卒。參聞之,告舍人趣治行,「吾將入相」。居無何,使者果召參。參去,屬其後相曰:「以齊獄市為寄,慎勿擾也。」後相曰:「治無大於此者乎?」參曰:「不然。夫獄市者,所以并容也,今君擾之,姦人安所容也?吾是以先之。」參始微時,與蕭何善;及為將相,有卻。至何且死,所推賢唯參。參代何為漢相國,舉事無所變更,一遵蕭何約束。擇郡國吏木詘於文辭,重厚長者,即召除為丞相史。吏之言文刻深,欲務聲名者,輒斥去之。日夜飲醇酒。卿大夫已下吏及賓客見參不事事,來者皆欲有言。至者,參輒飲以醇酒,閒之,欲有所言,復飲之,醉而後去,終莫得開說,以為常。相舍後園近吏舍,吏舍日飲歌呼。從吏惡之,無如之何,乃請參游園中,聞吏醉歌呼,從吏幸相國召按之。乃反取酒張坐飲,亦歌呼與相應和。參見人之有細過,專掩匿覆蓋之,府中無事。參子窋為中大夫。惠帝怪相國不治事,以為「豈少朕與」?乃謂窋曰:「若歸,試私從容問而父曰:『高帝新棄群臣,帝富於春秋,君為相,日飲,無所請事,何以憂天下乎?』
新字:既見蓋公,蓋公為言治道貴清静而民自定,推此類具言之。参於是避正堂,舎蓋公焉。其治要用黄老術,故相斉九年,斉国安集,大称賢相。恵帝二年,蕭何卒。参聞之,告舎人趣治行,「吾将入相」。居無何,使者果召参。参去,属其後相曰:「以斉獄市為寄,慎勿擾也。」後相曰:「治無大於此者乎?」参曰:「不然。夫獄市者,所以并容也,今君擾之,姦人安所容也?吾是以先之。」参始微時,与蕭何善;及為将相,有却。至何且死,所推賢唯参。参代何為漢相国,舉事無所変更,一遵蕭何約束。択郡国吏木詘於文辞,重厚長者,即召除為丞相史。吏之言文刻深,欲務声名者,輒斥去之。日夜飲醇酒。卿大夫已下吏及賓客見参不事事,来者皆欲有言。至者,参輒飲以醇酒,閒之,欲有所言,復飲之,酔而後去,終莫得開説,以為常。相舎後園近吏舎,吏舎日飲歌呼。従吏悪之,無如之何,乃請参游園中,聞吏酔歌呼,従吏幸相国召按之。乃反取酒張坐飲,亦歌呼与相応和。参見人之有細過,専掩匿覆蓋之,府中無事。参子窋為中大夫。恵帝怪相国不治事,以為「豈少朕与」?乃謂窋曰:「若帰,試私従容問而父曰:『高帝新棄群臣,帝富於春秋,君為相,日飲,無所請事,何以憂天下乎?』
書き下し
既に蓋公に見ゆ、蓋公為に治道は清静を貴びて民自ら定まると言ひ、此の類を推して具に之を言ふ。参是に於て正堂を避け、蓋公を舎す。其の治は要ず黄老の術を用ふ、故に斉に相たること九年、斉国安集し、大いに賢相と称せらる。恵帝二年、蕭何卒す。参之を聞き、舎人に告げて趣やかに行を治めしむ、「吾将に入りて相たらんとす」と。居ること何くも無く、使者果たして参を召す。参去るに、其の後の相に属して曰く、「斉の獄市を以て寄と為す、慎みて擾すこと勿かれ」と。後の相曰く、「治は此より大なる者無きか」と。参曰く、「然らず。夫れ獄市は、并せ容るる所以なり、今君之を擾せば、姦人安くにか容るる所あらん。吾是を以て之を先にす」と。参始め微なりし時、蕭何と善し。将相と為るに及び、卻有り。何の且に死せんとするに至り、推す所の賢は唯参のみ。参何に代はりて漢の相国と為り、事を挙ぐるに変更する所無く、一に蕭何の約束に遵ふ。郡国の吏の文辞に木詘にして、重厚の長者を択び、即ち召して除して丞相の史と為す。吏の言文刻深にして、声名を務めんと欲する者は、輒ち斥けて之を去らしむ。日夜醇酒を飲む。卿大夫已下の吏及び賓客参の事を事とせざるを見て、来たる者皆言有らんと欲す。至る者、参輒ち飲ましむるに醇酒を以てし、之を間して、言ふ所有らんと欲すれば、復た之を飲ましめ、酔ひて而る後に去る、終に開説するを得る莫し、以て常と為す。相舎の後園吏舎に近し、吏舎日に飲みて歌呼す。従吏之を悪み、之を如何ともする無く、乃ち参に園中に游ばんことを請ひ、吏の酔ひて歌呼するを聞かしめ、従吏相国の召して之を按ぜんことを幸ふ。乃ち反りて酒を取りて坐を張りて飲み、亦た歌呼して与に相応和す。参人の細過有るを見れば、専ら掩匿覆蓋す、府中事無し。参の子窋中大夫と為る。恵帝相国の事を治めざるを怪しみ、以為へらく「豈に朕を少しとするか」と。乃ち窋に謂ひて曰く、「若帰りて、試みに私に従容として而の父に問へ、曰く、『高帝新たに群臣を棄て、帝春秋に富む、君相と為り、日に飲み、請ふ所の事無し、何を以てか天下を憂へん』と。
現代語訳
蓋公に会うと、蓋公は曹参のために、政治の道は清らかで静かであることを尊び、そうすれば民は自然に落ち着くのだと語り、この考えを推し広げて詳しく説いた。曹参はそこで表座敷を明け渡して蓋公を住まわせた。その政治は必ず黄帝・老子の術を用いたので、斉の宰相であった九年間、斉の国は安らかにまとまり、大いに賢い宰相と称えられた。恵帝の二年、蕭何が亡くなった。曹参はそれを聞くと、家臣に命じて急いで旅支度を整えさせ、「私は都に入って宰相になるだろう」と言った。まもなく、はたして使者が来て曹参を召し出した。曹参は斉を去るにあたり、後任の宰相に託して言った。「斉の牢獄と市場のことは、あなたに任せる。慎重にして、かき乱さないように」。後任の宰相は言った。「政治にはこれより大事なことはないのか」。曹参は言った。「そうではない。牢獄と市場は、善も悪も併せて受け入れる場所だ。いまあなたがそこをかき乱せば、悪人はどこに身を置けばよいのか。だから私はこれを第一に言ったのだ」。曹参は若く身分の低かったころ、蕭何と仲が良かった。将軍や宰相となってからは、不和になった。しかし蕭何が死に臨んで推挙した賢者は、曹参ただ一人であった。曹参は蕭何に代わって漢の相国となると、何事も改めることなく、ひたすら蕭何の定めた決まりに従った。郡や国の役人のうち、文章は下手で口べたでも、重厚で誠実な年長者を選んで、すぐに呼び寄せて丞相の属官に任じた。役人のうち、言葉や文章が厳しく細かく、名声を求めようとする者は、そのつど退けて辞めさせた。曹参は日夜うまい酒を飲んでいた。卿・大夫以下の役人や賓客は、曹参が仕事をしないのを見て、訪ねてくる者はみな何か意見を言おうとした。やって来ると、曹参はすぐにうまい酒を飲ませ、話の切れ目に何か言おうとすると、また酒を飲ませ、酔わせてから帰らせたので、結局誰も意見を述べることができず、それがいつものことになった。相国の官舎の裏庭は役人たちの宿舎に近く、宿舎では毎日酒を飲んで歌ったり叫んだりしていた。曹参のお付きの役人はそれを苦々しく思ったが、どうすることもできず、そこで曹参に庭を散策するよう誘い、役人たちが酔って歌い騒ぐのを聞かせ、相国が彼らを呼びつけて取り調べてくれることを期待した。ところが曹参はかえって酒を取り寄せ、席を設けて飲み、自分も歌い叫んで、彼らと唱和した。曹参は人に小さな過ちがあるのを見ると、ひたすら覆い隠してやったので、役所の中は何事もなかった。曹参の子の窋(ちゅつ)は中大夫となった。恵帝は相国が政務を執らないのを不思議に思い、「わたしを若輩と侮っているのではないか」と考えた。そこで窋に言った。「お前は家に帰ったら、試しに内々にさりげなく父親に尋ねてみよ。『高帝が群臣を残して亡くなったばかりで、帝はまだお若い。あなたは宰相でありながら、毎日酒を飲み、上奏することもない。それでどうして天下を憂えていると言えるのか』と。
解説
関連する章句
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史記 曹相国世家然れども吾が若に告ぐと言ふこと無かれ」と。窋既に洗沐して帰り、窋侍し、自ら其の所に従ひて参を諫む。参怒りて、窋を笞うつこと二百、曰く、「趣やかに入りて侍せよ、天下の事は若の当に言ふべき所に非ざるなり」と。朝の時に至り、恵帝参を譲めて曰く、「窋と胡ぞ治むるや。乃者我使はして君を諫めしめしなり」と。参冠を免ぎて謝して曰く、「陛下自ら察するに聖武孰れか高帝に与ける」と。上曰く、「朕乃ち安んぞ敢へて先帝を望まんや」と。曰く、「陛下臣が能を観るに孰れか蕭何に与けて賢なる」と。上曰く、「君は及ばざるに似たり」と。参曰く、「陛下の言是なり。且つ高帝と蕭何と天下を定め、法令既に明らかなり、今陛下垂拱し、参等職を守り、遵ひて失ふこと勿くんば、亦た可ならずや」と。恵帝曰く、「善し。君休め」と。参漢の相国と為り、出入すること三年。卒し、懿侯と謚す。子窋代はりて侯たり。百姓之を歌ひて曰く、「蕭何法を為り、顜として画一の若し。曹参之に代はり、守りて失ふこと勿し。其の清浄を載せ、民以て寧一なり」と。平陽侯窋は、高后の時に御史大夫と為る。孝文帝立ち、免ぜられて侯と為る。立ちて二十九年にして卒し、謚して静侯と為す。子奇代はりて侯たり、立ちて七年にして卒し、謚して簡侯と為す。子時代はりて侯たり。時は平陽公主に尚し、子襄を生む。時癘を病み、国に帰る。立ちて二十三年にして卒し、夷侯と謚す。子襄代はりて侯たり。襄は衛長公主に尚し、子宗を生む。立ちて十六年にして卒し、謚して共侯と為す。子宗代はりて侯たり。征和二年中、宗太子に坐して死し、国除かる。太史公曰く、曹相国参の攻城野戦の功の能く多きこと此の若き所以の者は、淮陰侯と倶にするを以てなり。信已に滅ぶるに及び、而して列侯の成功、唯独り参のみ其の名を擅にす。参漢の相国と為り、清静にして極めて道に合ふを言ふ。然れども百姓秦の酷を離るるの後、参休息無為を与ふ、故に天下俱に其の美を称す。
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史記 曹相国世家韓信已に趙を破り、相国と為り、東のかた斉を撃つ。参右丞相を以て韓信に属し、斉の歴下の軍を攻破し、遂に臨菑を取る。還りて済北郡を定め、著・漯陰・平原・鬲・盧を攻む。已にして韓信に従ひて龍且の軍を上仮密に撃ち、大いに之を破り、龍且を斬り、其の将軍周蘭を虜にす。斉を定め、凡そ七十余県を得たり。故の斉王田広の相田光、其の守相許章、及び故の斉の膠東の将軍田既を得たり。韓信斉王と為り、兵を引きて陳に詣り、漢王と共に項羽を破る、而して参留まりて斉の未だ服せざる者を平らぐ。項籍已に死し、天下定まり、漢王皇帝と為り、韓信徙りて楚王と為り、斉は郡と為る。参漢の相印を帰す。高帝長子肥を以て斉王と為し、而して参を以て斉の相国と為す。高祖六年を以て爵列侯を賜ひ、諸侯と符を剖き、世世絶ゆること勿からしむ。食邑は平陽の万六百三十戸、号して平陽侯と曰ひ、前に食む所の邑を除く。斉の相国を以て陳豨の将張春の軍を撃ち、之を破る。黥布反く、参斉の相国を以て悼恵王に従ひて兵車騎十二万人を将ゐ、高祖と会して黥布の軍を撃ち、大いに之を破る。南のかた蘄に至り、還りて竹邑・相・蕭・留を定む。参の功は、凡そ二国を下し、県百二十二。王二人、相三人、将軍六人、大莫敖・郡守・司馬・候・御史各一人を得たり。孝恵帝元年、諸侯の相国の法を除き、更めて参を以て斉の丞相と為す。参の斉に相たるや、斉は七十城なり。天下初めて定まり、悼恵王春秋に富む、参尽く長老諸生を召し、百姓を安集する所以を問ふ、斉の故[俗]の如く諸儒百を以て数ふ、言人人殊なり、参未だ定むる所を知らず。膠西に蓋公有り、善く黄老の言を治むと聞き、人をして幣を厚くして之を請はしむ。
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『忍経』細過掩匿曹參、國相と爲る。舍の後園は吏舍に近し。日夜飲みて呼ぶ。吏、人を患ひ、參を引きて園に遊ばしめ、國相の召して之を按ぜんことを幸ふ。乃ち反つて、獨り帳して坐して飲み、亦た歌呼して相應ず。人の細過を見れば、則ち掩匿して蓋覆す。
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史記 蕭相国世家上布の軍を罷めて帰る、民道を遮り行きて上書し、相国賤く民の田宅数千万を彊買すと言ふ。上至る、相国謁す。上笑ひて曰く、「夫れ相国乃ち民を利す」と。民の上る所の書皆以て相国に与へて、曰く、「君自ら民に謝せよ」と。相国因りて民の為に請ひて曰く、「長安の地狭し、上林の中空地多く、棄てらる、願はくは民をして入りて田するを得しめ、槁を収めて禽獣の食と為すこと毋からしめん」と。上大いに怒りて曰く、「相国多く賈人の財物を受け、乃ち為に吾が苑を請ふ」と。乃ち相国を廷尉に下し、械して之を繫ぐ。数日にして、王衛尉侍し、前みて問ひて曰く、「相国何の大罪ありて、陛下之を系ぐこと暴なるや」と。上曰く、「吾聞く、李斯秦の皇帝に相たり、善有れば主に帰し、悪有れば自ら与ると。今相国多く賈豎の金を受けて民の為に吾が苑を請ひ、以て自ら民に媚ぶ、故に系ぎて之を治む」と。王衛尉曰く、「夫れ職事苟も民に便有りて之を請ふは、真に宰相の事なり、陛下奈何ぞ乃ち相国の賈人の銭を受くるを疑ふや。且つ陛下楚を距ぐこと数歳、陳豨・黥布反き、陛下自ら将ゐて往く、是の時に当たり、相国関中を守る、足を揺らせば則ち関以西は陛下の有に非ず。相国此の時を以て利を為さず、今乃ち賈人の金を利せんや。且つ秦は其の過ちを聞かざるを以て天下を亡ぼす、李斯の過ちを分かつは、又何ぞ法るに足らんや。陛下何ぞ宰相を疑ふことの浅きや」と。高帝懌ばず。是の日、使をして節を持して赦して相国を出さしむ。相国年老い、素より恭謹なり、入りて、徒跣して謝す。高帝曰く、「相国休めよ。相国民の為に苑を請ふ、吾許さず、我は桀紂の主為るに過ぎず、而して相国は賢相為り。吾故に相国を系ぎしは、百姓をして吾が過ちを聞かしめんと欲すればなり」と。何素より曹参と相能からず、何の病むに及び、孝恵自ら臨みて相国の病を視、因りて問ひて曰く、「君即し百歳の後、誰か君に代はるべき者ぞ」と。対へて曰く、「臣を知るは主に如くは莫し」と。孝恵曰く、「曹参は何如」と。
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史記 蕭相国世家列侯畢く已に封を受け、位次を奏するに及び、皆曰く、「平陽侯曹参は身に七十創を被り、城を攻め地を掠め、功最も多し、宜しく第一なるべし」と。上已に功臣を橈め、多く蕭何を封じ、位次に至りては未だ以て複た之を難ずる有らず、然れども心に何を第一にせんと欲す。関内侯鄂君進みて曰く、「群臣の議皆誤れり。夫れ曹参は野戦略地の功有りと雖も、此れ特だ一時の事なり。夫れ上楚と相距ぐこと五歳、常に軍を失ひ衆を亡ひ、身を逃れて遁るる者数々なり。然れども蕭何常に関中より軍を遣はして其の処を補ふ、上の詔令して召す所に非ずして、数万の衆上の乏絶に会する者数々なり。夫れ漢楚と滎陽を相守ること数年、軍に見糧無し、蕭何関中より転漕し、食を給して乏しからず。陛下数々山東を亡ふと雖も、蕭何常に関中を全うして以て陛下を待つ、此れ万世の功なり。今曹参等百数を亡ふと雖も、何ぞ漢に缺けん。漢之を得るも必ずしも待ちて以て全からず。奈何ぞ一旦の功を以て万世の功に加へんと欲するや。蕭何第一、曹参之に次ぐ」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち蕭何に令し、剣を帯び履をはきて殿に上り、朝に入りて趨らざることを賜ふ。上曰く、「吾聞く、賢を進むる者は上賞を受くと。蕭何の功高しと雖も、鄂君を得て乃ち益々明らかなり」と。是に於て鄂君の故の食む所の関内侯の邑に因りて封じて安平侯と為す。是の日、悉く何の父子兄弟十余人を封じ、皆食邑有り。乃ち何を益封すること二千戸、帝の嘗て咸陽に繇せし時何我を送るに独り銭二を贏せしを以てなり。漢十一年、陳豨反き、高祖自ら将ゐ、邯鄲に至る。未だ罷まず、淮陰侯関中に反かんと謀る、呂后蕭何の計を用ひ、淮陰侯を誅す、語は淮陰の事の中に在り。上已に淮陰侯の誅を聞き、使をして丞相何を拝して相国と為さしめ、益封すること五千戸、卒五百人一都尉をして相国の衛と為さしむ。諸君皆賀す、召平独り弔す。
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史記 陳丞相世家平曰く、「陛下即し獄を決するを問はば、廷尉に責めよ。銭穀を問はば、治粟内史に責めよ」と。上曰く、「苟も各々主者有らば、而して君の主る所の者は何事ぞや」と。平謝して曰く、「主臣。陛下其の駑下なるを知らず、罪を宰相に待たしむ。宰相は、上は天子を佐けて陰陽を理め、四時に順ひ、下は万物の宜しきを育み、外は四夷諸侯を鎮撫し、内は百姓を親附し、卿大夫をして各々其の職に任ずるを得しむ」と。孝文帝乃ち善しと称す。右丞相大いに慚ぢ、出でて陳平を譲めて曰く、「君独り素より我に対ふることを教へず」と。陳平笑ひて曰く、「君其の位に居りて、其の任を知らざるか。且つ陛下即し長安中の盗賊の数を問はば、君彊ひて対へんと欲するか」と。是に於て絳侯自ら其の能の平に如かざること遠きを知る。居ること之を頃くして、絳侯病と謝して相を免ぜられんことを請ふ、陳平専ら一丞相と為る。孝文帝二年、丞相陳平卒し、謚して献侯と為す。子共侯買代はりて侯たり。二年にして卒し、子簡侯恢代はりて侯たり。二十三年にして卒し、子何代はりて侯たり。二十三年、何人の妻を略するに坐し、棄市せられ、国除かる。始め陳平曰く、「我陰謀多し、是れ道家の禁ずる所なり。吾が世即し廃せられなば、亦た已みなん、終に復た起こる能はず、吾陰禍多きを以てなり」と。然れども其の後曾孫陳掌衛氏の親貴戚なるを以て、陳氏を続封するを得んことを願ふ、然れども終に得ず。太史公曰く、陳丞相平少き時、本黄帝・老子の術を好む。其の肉を俎上に割くの時に方りて、其の意固より已に遠し。楚魏の間に傾側擾攘し、卒に高帝に帰す。常に奇計を出だし、紛糾の難を救ひ、国家の患ひを振ふ。呂后の時に及び、事故多し、然れども平竟に自ら脱し、宗廟を定め、栄名を以て終はり、賢相と称せらる、豈に始めを善くし終はりを善くするにあらずや。知謀に非ずんば孰か能く此に当たらん者ぞ。
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