史記 / 曹相国世家
從還定三秦,初攻下辯、故道、雍、斄。擊章平軍於好畤南,破之,圍好畤,取壤鄉。擊三秦軍壤東及高櫟,破之。復圍章平,章平出好畤走。因擊趙賁、內史保軍,破之。東取咸陽,更名曰新城。參將兵守景陵二十日,三秦使章平等攻參,參出擊,大破之。賜食邑於寧秦。參以將軍引兵圍章邯於廢丘。以中尉從漢王出臨晉關。至河內,下修武,渡圍津,東擊龍且、項他定陶,破之。東取碭、蕭、彭城。擊項籍軍,漢軍大敗走。參以中尉圍取雍丘。王武反於外黃,程處反於燕,往擊,盡破之。柱天侯反於衍氏,又進破取衍氏。擊羽嬰於昆陽,追至葉。還攻武彊,因至滎陽。參自漢中為將軍中尉,從擊諸侯,及項羽敗,還至滎陽,凡二歲。高祖二年,拜為假左丞相,入屯兵關中。月餘,魏王豹反,以假左丞相別與韓信東攻魏將軍孫遬軍東張,大破之。因攻安邑,得魏將王襄。擊魏王於曲陽,追至武垣,生得魏王豹。取平陽,得魏王母妻子,盡定魏地,凡五十二城。賜食邑平陽。因從韓信擊趙相國夏說軍於鄔東,大破之,斬夏說。韓信與故常山王張耳引兵下井陘,擊成安君,而令參還圍趙別將戚將軍於鄔城中。戚將軍出走,追斬之。乃引兵詣敖倉漢王之所。
新字:従還定三秦,初攻下弁、故道、雍、斄。撃章平軍於好畤南,破之,囲好畤,取壤郷。撃三秦軍壤東及高櫟,破之。復囲章平,章平出好畤走。因撃趙賁、内史保軍,破之。東取咸陽,更名曰新城。参将兵守景陵二十日,三秦使章平等攻参,参出撃,大破之。賜食邑於寧秦。参以将軍引兵囲章邯於廃丘。以中尉従漢王出臨晋関。至河内,下修武,渡囲津,東撃竜且、項他定陶,破之。東取碭、蕭、彭城。撃項籍軍,漢軍大敗走。参以中尉囲取雍丘。王武反於外黄,程処反於燕,往撃,尽破之。柱天侯反於衍氏,又進破取衍氏。撃羽嬰於昆陽,追至葉。還攻武彊,因至滎陽。参自漢中為将軍中尉,従撃諸侯,及項羽敗,還至滎陽,凡二歳。高祖二年,拝為仮左丞相,入屯兵関中。月余,魏王豹反,以仮左丞相別与韓信東攻魏将軍孫遬軍東張,大破之。因攻安邑,得魏将王襄。撃魏王於曲陽,追至武垣,生得魏王豹。取平陽,得魏王母妻子,尽定魏地,凡五十二城。賜食邑平陽。因従韓信撃趙相国夏説軍於鄔東,大破之,斬夏説。韓信与故常山王張耳引兵下井陘,撃成安君,而令参還囲趙別将戚将軍於鄔城中。戚将軍出走,追斬之。乃引兵詣敖倉漢王之所。
書き下し
従ひて還りて三秦を定め、初めて下辯・故道・雍・斄を攻む。章平の軍を好畤の南に撃ち、之を破り、好畤を囲み、壌郷を取る。三秦の軍を壌の東及び高櫟に撃ち、之を破る。復た章平を囲む、章平好畤を出でて走る。因りて趙賁・内史保の軍を撃ち、之を破る。東のかた咸陽を取り、名を更めて新城と曰ふ。参兵を将ゐて景陵を守ること二十日、三秦章平等をして参を攻めしむ、参出でて撃ち、大いに之を破る。食邑を寧秦に賜ふ。参将軍を以て兵を引きて章邯を廃丘に囲む。中尉を以て漢王に従ひて臨晋関を出づ。河内に至り、修武を下し、囲津を渡り、東のかた龍且・項他を定陶に撃ち、之を破る。東のかた碭・蕭・彭城を取る。項籍の軍を撃つ、漢軍大いに敗れて走る。参中尉を以て雍丘を囲み取る。王武外黄に反き、程処燕に反く、往きて撃ち、尽く之を破る。柱天侯衍氏に反く、又進みて衍氏を破り取る。羽嬰を昆陽に撃ち、追ひて葉に至る。還りて武彊を攻め、因りて滎陽に至る。参漢中より将軍中尉と為り、従ひて諸侯を撃ち、項羽の敗るるに及び、還りて滎陽に至る、凡そ二歳。高祖[二]年、拝して仮の左丞相と為し、入りて兵を関中に屯せしむ。月余にして、魏王豹反く、仮の左丞相を以て別に韓信と東のかた魏の将軍孫遬の軍を東張に攻め、大いに之を破る。因りて安邑を攻め、魏の将王襄を得たり。魏王を曲陽に撃ち、追ひて武垣に至り、魏王豹を生け得たり。平陽を取り、魏王の母妻子を得て、尽く魏の地を定む、凡そ五十二城。食邑を平陽に賜ふ。因りて韓信に従ひて趙の相国夏説の軍を鄔の東に撃ち、大いに之を破り、夏説を斬る。韓信故の常山王張耳と兵を引きて井陘に下り、成安君を撃つ、而して参をして還りて趙の別将戚将軍を鄔城の中に囲ましむ。戚将軍出でて走る、追ひて之を斬る。乃ち兵を引きて敖倉の漢王の所に詣る。
現代語訳
曹参は漢王に従って引き返し、三秦を平定した。まず下辯(かべん)・故道・雍・斄(たい)を攻めた。章平の軍を好畤(こうし)の南で攻撃して破り、好畤を包囲して壌郷を取った。三秦の軍を壌の東と高櫟で攻撃して破った。再び章平を包囲すると、章平は好畤を出て逃げた。そのまま趙賁と内史保の軍を攻撃して破った。東へ進んで咸陽を取り、名を新城と改めた。曹参は兵を率いて景陵を二十日間守ったが、三秦は章平らに曹参を攻撃させた。曹参は打って出て大いに破った。寧秦に領地を賜った。曹参は将軍として兵を率い、章邯を廃丘に包囲した。中尉として漢王に従い、臨晋関を出た。河内に至って修武を降し、囲津を渡り、東へ進んで龍且(りゅうしょ)と項他を定陶で攻撃して破った。東へ進んで碭・蕭・彭城を取った。項籍の軍を攻撃したが、漢軍は大敗して逃げた。曹参は中尉として雍丘を包囲して取った。王武が外黄で背き、程処が燕で背いたので、出向いて攻撃し、ことごとく破った。柱天侯が衍氏(えんし)で背いたので、さらに進んで衍氏を破って取った。羽嬰を昆陽で攻撃し、葉まで追撃した。引き返して武彊を攻め、そのまま滎陽に至った。曹参は漢中から将軍・中尉となって漢王に従って諸侯を攻め、項羽に敗れると引き返して滎陽に至るまで、あわせて二年であった。高祖(二)年、仮の左丞相に任じられ、関中に入って兵を駐屯させた。一か月余りして魏王豹が背くと、仮の左丞相として別動隊を率い、韓信とともに東へ進んで魏の将軍孫遬(そんそく)の軍を東張で攻めて大いに破った。そのまま安邑を攻め、魏の将軍王襄を捕らえた。魏王を曲陽で攻撃し、武垣まで追撃して、魏王豹を生け捕りにした。平陽を取って魏王の母と妻子を捕らえ、魏の地をすべて平定した。あわせて五十二城であった。平陽に領地を賜った。続いて韓信に従って趙の相国夏説(かえつ)の軍を鄔(う)の東で攻撃して大いに破り、夏説を斬った。韓信はもとの常山王張耳とともに兵を率いて井陘(せいけい)を下り、成安君(陳余)を攻撃したが、曹参には引き返させて趙の別働隊の将である戚将軍を鄔城の中に包囲させた。戚将軍が城を出て逃げると、曹参は追って斬った。そして兵を率いて敖倉の漢王のもとに赴いた。
解説
関連する章句
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史記 曹相国世家韓信已に趙を破り、相国と為り、東のかた斉を撃つ。参右丞相を以て韓信に属し、斉の歴下の軍を攻破し、遂に臨菑を取る。還りて済北郡を定め、著・漯陰・平原・鬲・盧を攻む。已にして韓信に従ひて龍且の軍を上仮密に撃ち、大いに之を破り、龍且を斬り、其の将軍周蘭を虜にす。斉を定め、凡そ七十余県を得たり。故の斉王田広の相田光、其の守相許章、及び故の斉の膠東の将軍田既を得たり。韓信斉王と為り、兵を引きて陳に詣り、漢王と共に項羽を破る、而して参留まりて斉の未だ服せざる者を平らぐ。項籍已に死し、天下定まり、漢王皇帝と為り、韓信徙りて楚王と為り、斉は郡と為る。参漢の相印を帰す。高帝長子肥を以て斉王と為し、而して参を以て斉の相国と為す。高祖六年を以て爵列侯を賜ひ、諸侯と符を剖き、世世絶ゆること勿からしむ。食邑は平陽の万六百三十戸、号して平陽侯と曰ひ、前に食む所の邑を除く。斉の相国を以て陳豨の将張春の軍を撃ち、之を破る。黥布反く、参斉の相国を以て悼恵王に従ひて兵車騎十二万人を将ゐ、高祖と会して黥布の軍を撃ち、大いに之を破る。南のかた蘄に至り、還りて竹邑・相・蕭・留を定む。参の功は、凡そ二国を下し、県百二十二。王二人、相三人、将軍六人、大莫敖・郡守・司馬・候・御史各一人を得たり。孝恵帝元年、諸侯の相国の法を除き、更めて参を以て斉の丞相と為す。参の斉に相たるや、斉は七十城なり。天下初めて定まり、悼恵王春秋に富む、参尽く長老諸生を召し、百姓を安集する所以を問ふ、斉の故[俗]の如く諸儒百を以て数ふ、言人人殊なり、参未だ定むる所を知らず。膠西に蓋公有り、善く黄老の言を治むと聞き、人をして幣を厚くして之を請はしむ。
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史記 曹相国世家平陽侯曹参は、沛の人なり。秦の時に沛の獄掾と為り、而して蕭何は主吏為り、県に居りて豪吏為り。高祖沛公と為りて初めて起こるや、参中涓を以て従ふ。将として胡陵・方与を撃ち、秦の監公の軍を攻め、大いに之を破る。東のかた薛に下り、泗水の守の軍を薛の郭の西に撃つ。復た胡陵を攻め、之を取る。徙りて方与を守る。方与反きて魏と為る、之を撃つ。豊反きて魏と為る、之を攻む。爵七大夫を賜ふ。秦の司馬夷の軍を碭の東に撃ち、之を破り、碭・狐父・祁の善置を取る。又下邑より以西を攻め、虞に至り、章邯の車騎を撃つ。爰戚及び亢父を攻め、先登す。遷りて五大夫と為る。北のかた阿を救ひ、章邯の軍を撃ち、陳を陥れ、追ひて濮陽に至る。定陶を攻め、臨済を取る。南のかた雍丘を救ふ。李由の軍を撃ち、之を破り、李由を殺し、秦の候一人を虜にす。秦将章邯項梁を破り殺すや、沛公項羽と引きて東す。楚の懐王沛公を以て碭郡の長と為し、碭郡の兵を将ゐしむ。是に於て乃ち参を封じて執帛と為し、号して建成君と曰ふ。遷りて戚公と為り、碭郡に属す。其の後従ひて東郡の尉の軍を攻め、之を成武の南に破る。王離の軍を成陽の南に撃ち、復た之を杠裏に攻め、大いに之を破る。北ぐるを追ひ、西のかた開封に至り、趙賁の軍を撃ち、之を破り、趙賁を開封城中に囲む。西のかた将楊熊の軍を曲遇に撃ち、之を破り、秦の司馬及び御史各一人を虜にす。遷りて執珪と為る。従ひて陽武を攻め、轘轅・緱氏を下し、河津を絶ち、還りて趙賁の軍を尸の北に撃ち、之を破る。従ひて南のかた犨を攻め、南陽の守齮と陽城の郭の東に戦ひ、陳を陥れ、宛を取り、齮を虜にし、尽く南陽郡を定む。従ひて西のかた武関・嶢関を攻め、之を取る。前みて秦軍を藍田の南に攻め、又夜其の北を撃つ、秦軍大いに破れ、遂に咸陽に至り、秦を滅ぼす。項羽至り、沛公を以て漢王と為す。漢王参を封じて建成侯と為す。従ひて漢中に至り、遷りて将軍と為る。
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史記 淮陰侯列伝義兵を以て東帰を思ふの士に従はば、何の散ぜざる所あらん。且つ三秦の王は秦の将と為り、秦の子弟を将ゐること数歳なり。殺亡する所勝げて計ふべからず。又其の衆を欺きて諸侯に降る。新安に至り、項王詐りて秦の降卒二十余万を阬にし、唯独り邯・欣・翳のみ脱するを得たり。秦の父兄此の三人を怨み、痛み骨髄に入る。今楚彊にして威を以て此の三人を王とす。秦の民愛するもの莫きなり。大王の武関に入るや、秋豪も害する所無く、秦の苛法を除き、秦の民と約するに、法三章のみ。秦の民大王の秦に王たるを得んと欲せざる者無し。諸侯の約に於て、大王当に関中に王たるべし。関中の民咸之を知る。大王職を失ひて漢中に入る。秦の民恨まざる者無し。今大王挙げて東せば、三秦は檄を伝へて定むべきなり」と。是に於て漢王大いに喜び、自ら以て信を得ること晩しと為す。遂に信の計を聴き、諸将の撃つ所を部署す。八月、漢王兵を挙げて東し陳倉に出で、三秦を定む。漢の二年、関を出で、魏・河南を収む。韓・殷の王皆降る。斉・趙と合して共に楚を撃つ。四月、彭城に至り、漢兵敗散して還る。信復た兵を収めて漢王と滎陽に会し、復た楚を京・索の間に撃破す。故を以て楚の兵卒に西すること能はず。漢の彭城に敗却するや、塞王欣・翟王翳漢を亡げて楚に降る。斉・趙も亦漢に反きて楚と和す。六月、魏王豹謁して帰りて親の疾を視んとし、国に至るや、即ち河関を絶ちて漢に反き、楚と約和す。漢王酈生をして豹に説かしむるも、下らず。其の八月、信を以て左丞相と為し、魏を撃たしむ。魏王兵を蒲阪に盛んにし、臨晋を塞ぐ。信乃ち益々疑兵を為し、船を陳ねて臨晋を度らんと欲するも、伏兵夏陽より木罌缻を以て軍を渡し、安邑を襲ふ。魏王豹驚き、兵を引きて信を迎ふ。信遂に豹を虜にし、魏を定めて河東郡と為す。漢王張耳を遣はして信と倶にせしめ、兵を引きて東し、北のかた趙・代を撃たしむ。
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史記 魏豹彭越列伝千余人を得たり。沛公の碭より北のかた昌邑を撃つや、彭越之を助く。昌邑未だ下らず、沛公兵を引きて西す。彭越も亦其の衆を将ゐて鉅野の中に居り、魏の散卒を収む。項籍関に入り、諸侯に王とし、還り帰る。彭越の衆万余人属する所毋し。漢の元年秋、斉王田栄項王に畔き、乃ち人をして彭越に将軍の印を賜はしめ、済陰を下して以て楚を撃たしむ。楚、蕭公角をして兵を将ゐて越を撃たしむ。越大いに楚軍を破る。漢王の二年春、魏王豹及び諸侯と東のかた楚を撃つ。彭越其の兵三万余人を将ゐて漢に外黄に帰す。漢王曰く、「彭将軍魏の地を収めて十余城を得、急ぎ魏の後を立てんと欲す。今西魏王豹も亦魏王咎の従弟なり。真の魏の後なり」と。乃ち彭越を拝して魏の相国と為し、其の兵を擅に将ゐて、梁の地を略定せしむ。漢王の彭城に敗れて解けて西するや、彭越皆復た其の下す所の城を亡ひ、独り其の兵を将ゐて北のかた河上に居る。漢王の三年、彭越常に往来して漢の游兵と為り、楚を撃ち、其の後糧を梁の地に絶つ。漢の四年冬、項王と漢王と滎陽に相距ぐ。彭越睢陽・外黄の十七城を攻め下す。項王之を聞き、乃ち曹咎をして成皋を守らしめ、自ら東して彭越の下す所の城邑を収め、皆復た楚と為す。越其の兵を将ゐて北のかた穀城に走る。漢の五年秋、項王の南のかた陽夏に走るや、彭越復た昌邑の旁の二十余城を下し、穀十余万斛を得て、以て漢王の食に給す。漢王敗れ、使をして彭越を召して力を并せて楚を撃たしめんとす。越曰く、「魏の地初めて定まり、尚ほ楚を畏る。未だ去るべからず」と。漢王楚を追ひ、項籍の為に碧陵に敗らる。乃ち留侯に謂ひて曰く、「諸侯の兵従はず。之を為すこと柰何」と。留侯曰く、「斉王信の立つは、君王の意に非ず。信も亦自ら堅からず。
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史記 曹相国世家然れども吾が若に告ぐと言ふこと無かれ」と。窋既に洗沐して帰り、窋侍し、自ら其の所に従ひて参を諫む。参怒りて、窋を笞うつこと二百、曰く、「趣やかに入りて侍せよ、天下の事は若の当に言ふべき所に非ざるなり」と。朝の時に至り、恵帝参を譲めて曰く、「窋と胡ぞ治むるや。乃者我使はして君を諫めしめしなり」と。参冠を免ぎて謝して曰く、「陛下自ら察するに聖武孰れか高帝に与ける」と。上曰く、「朕乃ち安んぞ敢へて先帝を望まんや」と。曰く、「陛下臣が能を観るに孰れか蕭何に与けて賢なる」と。上曰く、「君は及ばざるに似たり」と。参曰く、「陛下の言是なり。且つ高帝と蕭何と天下を定め、法令既に明らかなり、今陛下垂拱し、参等職を守り、遵ひて失ふこと勿くんば、亦た可ならずや」と。恵帝曰く、「善し。君休め」と。参漢の相国と為り、出入すること三年。卒し、懿侯と謚す。子窋代はりて侯たり。百姓之を歌ひて曰く、「蕭何法を為り、顜として画一の若し。曹参之に代はり、守りて失ふこと勿し。其の清浄を載せ、民以て寧一なり」と。平陽侯窋は、高后の時に御史大夫と為る。孝文帝立ち、免ぜられて侯と為る。立ちて二十九年にして卒し、謚して静侯と為す。子奇代はりて侯たり、立ちて七年にして卒し、謚して簡侯と為す。子時代はりて侯たり。時は平陽公主に尚し、子襄を生む。時癘を病み、国に帰る。立ちて二十三年にして卒し、夷侯と謚す。子襄代はりて侯たり。襄は衛長公主に尚し、子宗を生む。立ちて十六年にして卒し、謚して共侯と為す。子宗代はりて侯たり。征和二年中、宗太子に坐して死し、国除かる。太史公曰く、曹相国参の攻城野戦の功の能く多きこと此の若き所以の者は、淮陰侯と倶にするを以てなり。信已に滅ぶるに及び、而して列侯の成功、唯独り参のみ其の名を擅にす。参漢の相国と為り、清静にして極めて道に合ふを言ふ。然れども百姓秦の酷を離るるの後、参休息無為を与ふ、故に天下俱に其の美を称す。
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史記 高祖本紀田栄怒り、因りて自ら立ちて斉王と為り、田都を殺して楚に反す。彭越に将軍の印を予へ、梁の地に反せしむ。楚蕭公角をして彭越を撃たしむ、彭越大いに之を破る。陳余項羽の己を王とせざるを怨み、夏説をして田栄に説かしめ、兵を請ひて張耳を撃たんとす。斉陳余に兵を予へ、常山王張耳を撃破す、張耳亡げて漢に帰す。趙王歇を代に迎へ、復た立てて趙王と為す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。項羽大いに怒り、北のかた斉を撃つ。八月、漢王韓信の計を用ゐ、故道より還り、雍王章邯を襲ふ。邯漢を陳倉に迎撃す、雍の兵敗れ、還り走る。止まりて好畤に戦ふ、又復た敗れ、廃丘に走る。漢王遂に雍の地を定む。東して咸陽に至り、兵を引きて雍王を廃丘に囲み、而して諸将を遣はして隴西・北地・上郡を略定せしむ。将軍薛欧・王吸をして武関を出でしめ、王陵の兵の南陽に在るに因り、以て太公・呂后を沛に迎へしむ。楚之を聞き、兵を発して之を陽夏に距ぐ、前むを得ず。故の呉の令鄭昌をして韓王と為し、漢の兵を距がしむ。二年、漢王東のかた地を略す、塞王欣・翟王翳・河南王申陽皆降る。韓王昌聴かず、韓信をして撃ちて之を破らしむ。是に於て隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の郡を置く。関外に河南郡を置く。更めて韓の太尉信を立てて韓王と為す。諸将の万人若しくは一郡を以て降る者は、万戸に封ず。河上の塞を繕治す。諸々の故の秦の苑囿園池は、皆人をして之を田(たがや)すを得しむ。正月、雍王の弟章平を虜にす。大いに罪人を赦す。漢王の関を出でて陝に至るや、関外の父老を撫し、還るに、張耳来り見ゆ、漢王厚く之を遇す。二月、秦の社稷を除き、更めて漢の社稷を立てしむ。三月、漢王臨晋より渡る、魏王豹兵を将ゐて従ふ。河内を下し、殷王を虜にし、河内郡を置く。南のかた平陰津を渡り、雒陽に至る。
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