史記 / 蕭相国世家
上罷布軍歸,民道遮行上書,言相國賤彊買民田宅數千萬。上至,相國謁。上笑曰:「夫相國乃利民!」民所上書皆以與相國,曰:「君自謝民。」相國因為民請曰:「長安地狹,上林中多空地,棄,原令民得入田,毋收槁為禽獸食。」上大怒曰:「相國多受賈人財物,乃為請吾苑!」乃下相國廷尉,械繫之。數日,王衛尉侍,前問曰:「相國何大罪,陛下系之暴也?」上曰:「吾聞李斯相秦皇帝,有善歸主,有惡自與。今相國多受賈豎金而為民請吾苑,以自媚於民,故系治之。」王衛尉曰:「夫職事苟有便於民而請之,真宰相事,陛下奈何乃疑相國受賈人錢乎!且陛下距楚數歲,陳豨、黥布反,陛下自將而往,當是時,相國守關中,搖足則關以西非陛下有也。相國不以此時為利,今乃利賈人之金乎?且秦以不聞其過亡天下,李斯之分過,又何足法哉。陛下何疑宰相之淺也。」高帝不懌。是日,使使持節赦出相國。相國年老,素恭謹,入,徒跣謝。高帝曰:「相國休矣!相國為民請苑,吾不許,我不過為桀紂主,而相國為賢相。吾故系相國,欲令百姓聞吾過也。」何素不與曹參相能,及何病,孝惠自臨視相國病,因問曰:「君即百歲後,誰可代君者?」對曰:「知臣莫如主。」孝惠曰:「曹參何如?」
新字:上罷布軍帰,民道遮行上書,言相国賤彊買民田宅数千万。上至,相国謁。上笑曰:「夫相国乃利民!」民所上書皆以与相国,曰:「君自謝民。」相国因為民請曰:「長安地狭,上林中多空地,棄,原令民得入田,毋収槁為禽獣食。」上大怒曰:「相国多受賈人財物,乃為請吾苑!」乃下相国廷尉,械繋之。数日,王衛尉侍,前問曰:「相国何大罪,陛下系之暴也?」上曰:「吾聞李斯相秦皇帝,有善帰主,有悪自与。今相国多受賈豎金而為民請吾苑,以自媚於民,故系治之。」王衛尉曰:「夫職事苟有便於民而請之,真宰相事,陛下奈何乃疑相国受賈人銭乎!且陛下距楚数歳,陳豨、黥布反,陛下自将而往,当是時,相国守関中,揺足則関以西非陛下有也。相国不以此時為利,今乃利賈人之金乎?且秦以不聞其過亡天下,李斯之分過,又何足法哉。陛下何疑宰相之浅也。」高帝不懌。是日,使使持節赦出相国。相国年老,素恭謹,入,徒跣謝。高帝曰:「相国休矣!相国為民請苑,吾不許,我不過為桀紂主,而相国為賢相。吾故系相国,欲令百姓聞吾過也。」何素不与曹参相能,及何病,孝恵自臨視相国病,因問曰:「君即百歳後,誰可代君者?」対曰:「知臣莫如主。」孝恵曰:「曹参何如?」
書き下し
上布の軍を罷めて帰る、民道を遮り行きて上書し、相国賤く民の田宅数千万を彊買すと言ふ。上至る、相国謁す。上笑ひて曰く、「夫れ相国乃ち民を利す」と。民の上る所の書皆以て相国に与へて、曰く、「君自ら民に謝せよ」と。相国因りて民の為に請ひて曰く、「長安の地狭し、上林の中空地多く、棄てらる、願はくは民をして入りて田するを得しめ、槁を収めて禽獣の食と為すこと毋からしめん」と。上大いに怒りて曰く、「相国多く賈人の財物を受け、乃ち為に吾が苑を請ふ」と。乃ち相国を廷尉に下し、械して之を繫ぐ。数日にして、王衛尉侍し、前みて問ひて曰く、「相国何の大罪ありて、陛下之を系ぐこと暴なるや」と。上曰く、「吾聞く、李斯秦の皇帝に相たり、善有れば主に帰し、悪有れば自ら与ると。今相国多く賈豎の金を受けて民の為に吾が苑を請ひ、以て自ら民に媚ぶ、故に系ぎて之を治む」と。王衛尉曰く、「夫れ職事苟も民に便有りて之を請ふは、真に宰相の事なり、陛下奈何ぞ乃ち相国の賈人の銭を受くるを疑ふや。且つ陛下楚を距ぐこと数歳、陳豨・黥布反き、陛下自ら将ゐて往く、是の時に当たり、相国関中を守る、足を揺らせば則ち関以西は陛下の有に非ず。相国此の時を以て利を為さず、今乃ち賈人の金を利せんや。且つ秦は其の過ちを聞かざるを以て天下を亡ぼす、李斯の過ちを分かつは、又何ぞ法るに足らんや。陛下何ぞ宰相を疑ふことの浅きや」と。高帝懌ばず。是の日、使をして節を持して赦して相国を出さしむ。相国年老い、素より恭謹なり、入りて、徒跣して謝す。高帝曰く、「相国休めよ。相国民の為に苑を請ふ、吾許さず、我は桀紂の主為るに過ぎず、而して相国は賢相為り。吾故に相国を系ぎしは、百姓をして吾が過ちを聞かしめんと欲すればなり」と。何素より曹参と相能からず、何の病むに及び、孝恵自ら臨みて相国の病を視、因りて問ひて曰く、「君即し百歳の後、誰か君に代はるべき者ぞ」と。対へて曰く、「臣を知るは主に如くは莫し」と。孝恵曰く、「曹参は何如」と。
現代語訳
高祖が黥布との戦いを終えて帰ってくると、民が道をふさいで上書し、相国が民の田地や邸宅を数千万銭分も安値で無理やり買い上げていると訴えた。高祖が都に着くと、相国が拝謁した。高祖は笑って言った。「相国ともあろう者が、民から利をむさぼるとはな」。そして民が差し出した上書をすべて相国に渡して言った。「自分で民に謝ってこい」。相国はそこで民のために願い出た。「長安は土地が狭い。上林苑(天子の狩猟場)の中には空き地が多く、放置されている。どうか民がそこに入って耕作できるようにし、刈り取った後の藁は禽獣の餌としないでいただきたい」。高祖は激怒して言った。「相国は商人どもから財物をたっぷり受け取って、そのためにわしの狩猟場を求めてきたのだな」。そして相国を廷尉(司法長官)に下し、手かせ足かせをはめて獄につないだ。数日後、王衛尉が側に仕えていたとき、進み出て尋ねた。「相国にどんな大罪があって、陛下はこれほど手荒に獄につながれたのか」。高祖は言った。「李斯は秦の皇帝の宰相であったとき、善いことがあれば主君の手柄とし、悪いことがあれば自分がかぶったと聞く。ところが今の相国は、商人からたっぷり金を受け取り、民のためと称してわしの狩猟場を求め、自分が民に取り入ろうとしている。だから獄につないで取り調べているのだ」。王衛尉は言った。「職務上、民の便宜になることを願い出るのは、まことに宰相の務めだ。陛下はなぜ相国が商人の金を受け取ったなどと疑われるのか。それに陛下は楚と数年にわたって対峙し、陳豨や黥布が反乱を起こすと自ら兵を率いて出陣された。そのとき相国は関中を守っていた。相国が少しでも足を動かせば、関より西はもう陛下のものではなかった。相国はそのような時にさえ私利をはからなかったのに、今になって商人の金を利とするだろうか。それに秦は自らの過ちを聞こうとしなかったために天下を失ったのだ。李斯が主君の過ちをかぶったことなど、どうして手本にする必要があろう。陛下が宰相を疑われるのは、なんと浅はかなことか」。高帝は不機嫌であった。その日、使者に節(天子の使いの印)を持たせて、相国を赦して獄から出させた。相国は年老いており、日ごろから恭しく慎み深かったので、宮中に入ると裸足になって謝罪した。高帝は言った。「相国、もうよい。相国は民のために狩猟場を求めたが、わしは許さなかった。わしは桀や紂のような暴君にすぎず、相国は賢い宰相というわけだ。わしがわざと相国を獄につないだのは、民にわしの過ちを知らしめたかったからだ」。蕭何は日ごろから曹参と折り合いが悪かった。蕭何が病気になると、孝恵帝は自ら見舞いに訪れ、尋ねた。「あなたにもしものことがあったら、誰があなたの代わりを務められるか」。蕭何は答えた。「臣下のことを最もよく知るのは主君にかなう者はいない」。孝恵帝は言った。「曹参はどうか」。
解説
関連する章句
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史記 蕭相国世家客有りて相国に説きて曰く、「君族を滅ぼすこと久しからず。君初め関中に入り、百姓の心を得ること十餘年、皆君に附く。上の数しば君を問ふ所以の者は、君の関中を傾動するを畏るればなり。今君胡ぞ多く田地を買ひ、賤しく貰貸して以て自ら汙さざる。上の心乃ち安からん」と。是に於て相国其の計に従ふ、上乃ち大いに説ぶ。
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史記 蕭相国世家列侯畢く已に封を受け、位次を奏するに及び、皆曰く、「平陽侯曹参は身に七十創を被り、城を攻め地を掠め、功最も多し、宜しく第一なるべし」と。上已に功臣を橈め、多く蕭何を封じ、位次に至りては未だ以て複た之を難ずる有らず、然れども心に何を第一にせんと欲す。関内侯鄂君進みて曰く、「群臣の議皆誤れり。夫れ曹参は野戦略地の功有りと雖も、此れ特だ一時の事なり。夫れ上楚と相距ぐこと五歳、常に軍を失ひ衆を亡ひ、身を逃れて遁るる者数々なり。然れども蕭何常に関中より軍を遣はして其の処を補ふ、上の詔令して召す所に非ずして、数万の衆上の乏絶に会する者数々なり。夫れ漢楚と滎陽を相守ること数年、軍に見糧無し、蕭何関中より転漕し、食を給して乏しからず。陛下数々山東を亡ふと雖も、蕭何常に関中を全うして以て陛下を待つ、此れ万世の功なり。今曹参等百数を亡ふと雖も、何ぞ漢に缺けん。漢之を得るも必ずしも待ちて以て全からず。奈何ぞ一旦の功を以て万世の功に加へんと欲するや。蕭何第一、曹参之に次ぐ」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち蕭何に令し、剣を帯び履をはきて殿に上り、朝に入りて趨らざることを賜ふ。上曰く、「吾聞く、賢を進むる者は上賞を受くと。蕭何の功高しと雖も、鄂君を得て乃ち益々明らかなり」と。是に於て鄂君の故の食む所の関内侯の邑に因りて封じて安平侯と為す。是の日、悉く何の父子兄弟十余人を封じ、皆食邑有り。乃ち何を益封すること二千戸、帝の嘗て咸陽に繇せし時何我を送るに独り銭二を贏せしを以てなり。漢十一年、陳豨反き、高祖自ら将ゐ、邯鄲に至る。未だ罷まず、淮陰侯関中に反かんと謀る、呂后蕭何の計を用ひ、淮陰侯を誅す、語は淮陰の事の中に在り。上已に淮陰侯の誅を聞き、使をして丞相何を拝して相国と為さしめ、益封すること五千戸、卒五百人一都尉をして相国の衛と為さしむ。諸君皆賀す、召平独り弔す。
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史記 蕭相国世家語は淮陰侯の事の中に在り。漢王兵を引きて東のかた三秦を定む、何丞相を以て留まりて巴蜀を収め、填撫諭告し、軍食に給せしむ。漢二年、漢王諸侯と楚を撃つ、何関中を守り、太子に侍し、櫟陽を治む。法令約束を為り、宗廟社稷宮室県邑を立て、輒ち奏上し、可とせらるれば、許して以て事に従ふ。即し奏上するに及ばざれば、輒ち便宜を以て施行し、上来たれば以て聞す。関中の事は戸口を計りて転漕して軍に給す、漢王数々軍を失ひて遁れ去る、何常に関中の卒を興し、輒ち缺を補ふ。上此を以て専ら何に関中の事を属任す。漢三年、漢王項羽と京索の間に相距ぐ、上数々使をして丞相を労苦せしむ。鮑生丞相に謂ひて曰く、「王衣を暴し蓋を露す、数々使をして君を労苦せしむる者は、君を疑ふの心有るなり。君の為に計るに、君の子孫昆弟の能く兵に勝ふる者を遣はして悉く軍所に詣らしむるに若くは莫し、上必ず益々君を信ぜん」と。是に於て何其の計に従ふ、漢王大いに説ぶ。漢五年、既に項羽を殺し、天下を定め、功を論じて封を行ふ。群臣功を争ひ、歳余にして功決せず。高祖蕭何の功最も盛んなるを以て、封じて酇侯と為し、食む所の邑多し。功臣皆曰く、「臣等身は堅を被り鋭を執り、多き者は百余戦、少なき者は数十合、城を攻め地を掠むること、大小各々差有り。今蕭何未だ嘗て汗馬の労有らず、徒だ文墨を持して議論し、戦はず、顧て反りて臣等の上に居るは、何ぞや」と。高帝曰く、「諸君猟を知るか」と。曰く、「之を知る」と。
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史記 曹相国世家然れども吾が若に告ぐと言ふこと無かれ」と。窋既に洗沐して帰り、窋侍し、自ら其の所に従ひて参を諫む。参怒りて、窋を笞うつこと二百、曰く、「趣やかに入りて侍せよ、天下の事は若の当に言ふべき所に非ざるなり」と。朝の時に至り、恵帝参を譲めて曰く、「窋と胡ぞ治むるや。乃者我使はして君を諫めしめしなり」と。参冠を免ぎて謝して曰く、「陛下自ら察するに聖武孰れか高帝に与ける」と。上曰く、「朕乃ち安んぞ敢へて先帝を望まんや」と。曰く、「陛下臣が能を観るに孰れか蕭何に与けて賢なる」と。上曰く、「君は及ばざるに似たり」と。参曰く、「陛下の言是なり。且つ高帝と蕭何と天下を定め、法令既に明らかなり、今陛下垂拱し、参等職を守り、遵ひて失ふこと勿くんば、亦た可ならずや」と。恵帝曰く、「善し。君休め」と。参漢の相国と為り、出入すること三年。卒し、懿侯と謚す。子窋代はりて侯たり。百姓之を歌ひて曰く、「蕭何法を為り、顜として画一の若し。曹参之に代はり、守りて失ふこと勿し。其の清浄を載せ、民以て寧一なり」と。平陽侯窋は、高后の時に御史大夫と為る。孝文帝立ち、免ぜられて侯と為る。立ちて二十九年にして卒し、謚して静侯と為す。子奇代はりて侯たり、立ちて七年にして卒し、謚して簡侯と為す。子時代はりて侯たり。時は平陽公主に尚し、子襄を生む。時癘を病み、国に帰る。立ちて二十三年にして卒し、夷侯と謚す。子襄代はりて侯たり。襄は衛長公主に尚し、子宗を生む。立ちて十六年にして卒し、謚して共侯と為す。子宗代はりて侯たり。征和二年中、宗太子に坐して死し、国除かる。太史公曰く、曹相国参の攻城野戦の功の能く多きこと此の若き所以の者は、淮陰侯と倶にするを以てなり。信已に滅ぶるに及び、而して列侯の成功、唯独り参のみ其の名を擅にす。参漢の相国と為り、清静にして極めて道に合ふを言ふ。然れども百姓秦の酷を離るるの後、参休息無為を与ふ、故に天下俱に其の美を称す。
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史記 蕭相国世家召平は、故の秦の東陵侯なり。秦破れ、布衣と為り、貧しく、瓜を長安城の東に種う、瓜美し、故に世俗之を「東陵瓜」と謂ふ、召平に従ひて以て名と為すなり。召平相国に謂ひて曰く、「禍此より始まらん。上外に暴露し、而して君中を守る、矢石の事を被るに非ずして君の封を益し衛を置く者は、今者淮陰侯新たに中に反くを以て、君の心を疑ふなり。夫れ衛を置きて君を衛るは、以て君を寵するに非ざるなり。願はくは君封を譲りて受くること勿く、悉く家の私財を以て軍を佐けよ、則ち上の心説ばん」と。相国其の計に従ふ、高帝乃ち大いに喜ぶ。漢十二年秋、黥布反く、上自ら将ゐて之を撃つ、数々使をして相国の何を為すかを問はしむ。相国上の軍に在るが為に、乃ち百姓を拊循勉力し、悉く有する所を以て軍を佐くること、陳豨の時の如し。
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史記 蕭相国世家蕭相国何は、沛の豊の人なり。文無害なるを以て沛の主吏掾と為る。高祖布衣為りし時、何数々吏事を以て高祖を護る。高祖亭長と為るや、常に之を左右す。高祖吏を以て咸陽に繇するに、吏皆銭三を送奉す、何独り五を以てす。秦の御史の郡を監する者与に事に従ひ、常に之を辨ず。何乃ち泗水の卒史の事を給し、第一なり。秦の御史入りて言ひて何を徴せんと欲す、何固く請ひ、行くこと毋きを得たり。高祖起ちて沛公と為るに及び、何常に丞と為りて事を督す。
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