史記 / 蕭相国世家
客有りて相国に説きて曰、君族を滅ぼすこと久しからず。君初め関中に入り、百姓の心を得ること十餘年、皆君に附く。上の数しば君を問ふ所以の者は、君の関中を傾動するを畏るればなり。今君胡ぞ多く田地を買ひ、賤しく貰貸して以て自ら汙さざる。上の心乃ち安からん。是に於て相国其の計に従ふ、上乃ち大いに説ぶ。
新字:客有りて相国に説きて曰、君族を滅ぼすこと久しからず。君初め関中に入り、百姓の心を得ること十余年、皆君に附く。上の数しば君を問ふ所以の者は、君の関中を傾動するを畏るればなり。今君胡ぞ多く田地を買ひ、賤しく貰貸して以て自ら汙さざる。上の心乃ち安からん。是に於て相国其の計に従ふ、上乃ち大いに説ぶ。
書き下し
客有りて相国に説きて曰く、「君族を滅ぼすこと久しからず。君初め関中に入り、百姓の心を得ること十餘年、皆君に附く。上の数しば君を問ふ所以の者は、君の関中を傾動するを畏るればなり。今君胡ぞ多く田地を買ひ、賤しく貰貸して以て自ら汙さざる。上の心乃ち安からん」と。是に於て相国其の計に従ふ、上乃ち大いに説ぶ。
現代語訳
「あまりに人望が高く、非の打ちどころがないと、かえって上から疑われる——時に、あえて自らを低くする」——名臣・蕭何が、あえて自分の評判を落として、主君の疑いを解いた、微妙な一段です。蕭何は、長年、関中の地を、誠実に治め、民から、絶大な人望を集めていました。清廉で、有能で、非の打ちどころがなかったのです。しかし——それが、かえって、危険を招きました。(黥布の反乱を、自ら討ちに出ていた)高祖が、戦地から、たびたび、使者を送っては、「相国(蕭何)は、何をしているか」と、しつこく、様子を尋ねてくるのです。ある食客が、蕭何に、その、恐ろしい意味を、教えました。「あなたは、遠からず、一族皆殺しになりますぞ。あなたは、関中に入って以来、十年余り、民の心を、すっかり、つかんでいる。皆が、あなたに、心から、なびいている。上(高祖)が、しきりに、あなたの様子を尋ねるのは——あなたが、(あまりに人望が高いので、留守中に、)関中を、(あなたの意のままに)動かして、(謀反を起こすのでは、)と、恐れているからです(畏君傾動關中)」と。あまりに人望が高く、完璧であることが、かえって、猜疑心の強い主君の、警戒を招いていたのです。食客は、意外な策を、授けます。「今、あなたは、なぜ、(わざと、)多くの田地を、(強引に安く)買い占め、(民に)安く貸し付けるなどして、自分の評判を、(あえて、)汚さないのですか(多買田地、賤貰貸以自汙)。そうすれば、上の心も、(『蕭何も、しょせん、私利をむさぼる、ただの人間か』と、安心して、)落ち着くでしょう」と。蕭何は、この策に従い、あえて、民の恨みを買うような、あくどい財産集めをして、自らの、清廉な評判を、汚しました。すると、はたして、高祖は、(蕭何を、警戒するに足りない人物と見て、)大いに、安心し、喜んだのです。ここに、微妙で、しかし、現実的な教訓があります。第一に、あまりに人望が高く、非の打ちどころがなく、完璧であることが、かえって、(力を持つ者や、猜疑心の強い上位者から、)警戒され、疑われる原因になる場合がある、という、人間関係の、暗い一面。突出しすぎることの、危うさ。第二に、そうした状況では、時に、あえて、自らを低くし、(小さな欠点や、私欲を、あえて見せることで、)相手の警戒を解く、という、身を守る知恵があるということ(自汙)。完璧すぎる者は、隙を見せることで、かえって、安全になる。第三に、ただし——これは、清廉さそのものを、否定するものではなく、あくまで、猜疑心の強い上位者のもとで、身を守るための、やむを得ない、高度な処世術として、理解すべきものだということ。組織や人間関係で、突出しすぎ完璧すぎることがかえって警戒や疑いを招きうると知ること、時にあえて自らを低くし隙を見せて相手の警戒を解く知恵があると理解すること、そしてそれが清廉さの否定でなく身を守る処世術だとわきまえること——蕭何が自らを污した逸話は、突出することの危うさと、身を処す知恵の、微妙な一面を教えます。