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史記 / 斉悼恵王世家

使棘蒲侯柴將軍擊破虜濟北王,王自殺,地入于漢,為郡。後十二年,復以齊悼惠王子安都侯志為濟北王。十一年,吳楚反時,志堅守,不與諸侯合謀。吳楚已平,徙志王菑川。濟南王辟光,齊悼惠王子,以勒侯孝文十六年為濟南王。十一年,與吳楚反。漢擊破,殺辟光,以濟南為郡,地入于漢。菑川王賢,齊悼惠王子,以武城侯文帝十六年為菑川王。十一年,與吳楚反,漢擊破,殺賢。天子因徙濟北王志王菑川。志亦齊悼惠王子,以安都侯王濟北。菑川王反,毋後,乃徙濟北王王菑川。凡立三十五年卒,謚為懿王。子建代立,是為靖王。二十年卒,子遺代立,是為頃王。三十六年卒,子終古立,是為思王。二十八年卒,子尚立,是為孝王。五年卒,子橫立,至建始三年,十一歲,卒。膠西王卬,齊悼惠王子,以昌平侯文帝十六年為膠西王。十一年,與吳楚反。漢擊破,殺卬,地入于漢,為膠西郡。膠東王雄渠,齊悼惠王子,以白石侯文帝十六年為膠東王。十一年,與吳楚反,漢擊破,殺雄渠,地入于漢,為膠東郡。太史公曰:諸侯大國無過齊悼惠王。以海內初定,子弟少,激秦之無尺土封,故大封同姓,以填萬民之心。及後分裂,固其理也。

新字:使棘蒲侯柴将軍撃破虜済北王,王自殺,地入于漢,為郡。後十二年,復以斉悼恵王子安都侯志為済北王。十一年,呉楚反時,志堅守,不与諸侯合謀。呉楚已平,徙志王菑川。済南王辟光,斉悼恵王子,以勒侯孝文十六年為済南王。十一年,与呉楚反。漢撃破,殺辟光,以済南為郡,地入于漢。菑川王賢,斉悼恵王子,以武城侯文帝十六年為菑川王。十一年,与呉楚反,漢撃破,殺賢。天子因徙済北王志王菑川。志亦斉悼恵王子,以安都侯王済北。菑川王反,毋後,乃徙済北王王菑川。凡立三十五年卒,謚為懿王。子建代立,是為靖王。二十年卒,子遺代立,是為頃王。三十六年卒,子終古立,是為思王。二十八年卒,子尚立,是為孝王。五年卒,子横立,至建始三年,十一歳,卒。膠西王卬,斉悼恵王子,以昌平侯文帝十六年為膠西王。十一年,与呉楚反。漢撃破,殺卬,地入于漢,為膠西郡。膠東王雄渠,斉悼恵王子,以白石侯文帝十六年為膠東王。十一年,与呉楚反,漢撃破,殺雄渠,地入于漢,為膠東郡。太史公曰:諸侯大国無過斉悼恵王。以海内初定,子弟少,激秦之無尺土封,故大封同姓,以填万民之心。及後分裂,固其理也。

書き下し

棘蒲侯柴将軍をして撃ちて済北王を破虜せしむ、王自殺し、地漢に入り、郡と為る。後十二年、復た斉の悼恵王の子安都侯志を以て済北王と為す。十一年、呉楚反く時、志堅守し、諸侯と合謀せず。呉楚已に平らぎ、志を徙して菑川に王とす。済南王辟光は、斉の悼恵王の子なり、勒侯を以て孝文十六年に済南王と為る。十一年、呉楚と反く。漢撃破し、辟光を殺し、済南を以て郡と為し、地漢に入る。菑川王賢は、斉の悼恵王の子なり、武城侯を以て文帝十六年に菑川王と為る。十一年、呉楚と反く、漢撃破し、賢を殺す。天子因りて済北王志を徙して菑川に王とす。志も亦た斉の悼恵王の子なり、安都侯を以て済北に王たり。菑川王反き、後毋し、乃ち済北王を徙して菑川に王とす。凡そ立ちて三十五年にして卒し、謚して懿王と為す。子建代はりて立つ、是れを靖王と為す。二十年にして卒し、子遺代はりて立つ、是れを頃王と為す。三十六年にして卒し、子終古立つ、是れを思王と為す。二十八年にして卒し、子尚立つ、是れを孝王と為す。五年にして卒し、子横立つ、建始三年に至り、十一歳にして、卒す。膠西王卬は、斉の悼恵王の子なり、昌平侯を以て文帝十六年に膠西王と為る。十一年、呉楚と反く。漢撃破し、卬を殺し、地漢に入り、膠西郡と為る。膠東王雄渠は、斉の悼恵王の子なり、白石侯を以て文帝十六年に膠東王と為る。十一年、呉楚と反く、漢撃破し、雄渠を殺し、地漢に入り、膠東郡と為る。太史公曰く、諸侯の大国は斉の悼恵王に過ぐるは無し。海内初めて定まり、子弟少なきを以て、秦の尺土の封無きに激し、故に大いに同姓を封じ、以て万民の心を填む。後に分裂するに及ぶは、固より其の理なり。

現代語訳

(天子は)棘蒲侯(きょくほこう)柴将軍に済北王を攻撃させて破り、捕らえた。済北王は自殺し、その地は漢の直轄となって郡とされた。その十二年後、再び斉の悼恵王の子の安都侯劉志を済北王とした。十一年目、呉楚が反乱を起こしたとき、劉志は堅く守って、諸侯と共謀しなかった。呉楚が平定されると、劉志を菑川王に移した。済南王劉辟光は斉の悼恵王の子で、勒侯(ろくこう)から孝文帝の十六年に済南王となった。十一年目、呉楚とともに反乱を起こした。漢はこれを撃破して辟光を殺し、済南を郡として、その地は漢の直轄となった。菑川王劉賢は斉の悼恵王の子で、武城侯から文帝の十六年に菑川王となった。十一年目、呉楚とともに反乱を起こし、漢はこれを撃破して劉賢を殺した。天子はそこで済北王劉志を菑川王に移した。劉志もまた斉の悼恵王の子で、安都侯から済北王となっていた。菑川王が反乱を起こして跡継ぎがいなかったので、済北王を移して菑川王としたのである。劉志は在位通算三十五年で亡くなり、懿王と諡された。子の建が代わって立った。これが靖王である。二十年で亡くなり、子の遺が代わって立った。これが頃王である。三十六年で亡くなり、子の終古が立った。これが思王である。二十八年で亡くなり、子の尚が立った。これが孝王である。五年で亡くなり、子の横が立ったが、建始三年、在位十一年目に亡くなった。膠西王劉卬は斉の悼恵王の子で、昌平侯から文帝の十六年に膠西王となった。十一年目、呉楚とともに反乱を起こした。漢はこれを撃破して劉卬を殺し、その地は漢の直轄となって膠西郡とされた。膠東王劉雄渠は斉の悼恵王の子で、白石侯から文帝の十六年に膠東王となった。十一年目、呉楚とともに反乱を起こし、漢はこれを撃破して劉雄渠を殺し、その地は漢の直轄となって膠東郡とされた。太史公は言う。諸侯の大国で、斉の悼恵王の国を上回るものはなかった。天下が平定されたばかりで、皇帝の子弟が少なかったうえ、秦が一族に一尺の土地も封じなかった(ために孤立して滅んだ)ことへの反省から、同姓の一族を大いに封じて万民の心を鎮めたのである。後に分裂していったのも、もとより当然の道理である。

解説

斉悼恵王世家の結びです。悼恵王の子たちのうち、済北王劉志だけが呉楚七国の乱で堅く守って加わらず、その家は菑川王として代々続きました。一方、済南・菑川・膠西・膠東の王たちは反乱に加わってことごとく殺され、国は漢の郡となります。ここで系譜が淡々と並ぶのは、誰が生き残り誰が滅んだかを記録すること自体が、史記の重要な役割だからです。司馬遷は評で、漢初に同姓の諸侯を大いに封じたのは、秦が一族に土地を与えず孤立して滅んだことへの反省であり、天下が安定すれば大国が分割されていくのは当然の理だと述べます。創業期に必要だった分権体制は、成熟期には分裂の火種になる。事業部や子会社への権限委譲の設計にも、同じ時間軸の発想が求められます。

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