師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 斉悼恵王世家

城陽景王章,齊悼惠王子,以朱虛侯與大臣共誅諸呂,而章身首先斬相國呂王產於未央宮。孝文帝既立,益封章二千戶,賜金千斤。,以齊之城陽郡立章為城陽王。立二年卒,子喜立,是為共王。共王八年,徙王淮南。四年,復還王城陽。凡三十三年卒,子建延立,是為頃王。頃王二十八年卒,子義立,是為敬王。敬王九年卒,子武立,是為惠王。惠王十一年卒,子順立,是為荒王。荒王四十六年卒,子恢立,是為戴王。戴王八年卒,子景立,至,十五歲,卒。濟北王興居,齊悼惠王子,以東牟侯助大臣誅諸呂,功少。及文帝從代來,興居曰:「請與太仆嬰入清宮。」廢少帝,共與大臣尊立孝文帝。孝文帝二年,以齊之濟北郡立興居為濟北王,與城陽王俱立。立二年,反。始大臣誅呂氏時,朱虛侯功尤大,許盡以趙地王朱虛侯,盡以梁地王東牟侯。及孝文帝立,聞朱虛、東牟之初欲立齊王,故絀其功。及二年,王諸子,乃割齊二郡以王章、興居。章、興居自以失職奪功。章死,而興居聞匈奴大入漢,漢多發兵,使丞相灌嬰擊之,文帝親幸太原,以為天子自擊胡,遂發兵反於濟北。天子聞之,罷丞相及行兵,皆歸長安。

新字:城陽景王章,斉悼恵王子,以朱虚侯与大臣共誅諸呂,而章身首先斬相国呂王産於未央宮。孝文帝既立,益封章二千戸,賜金千斤。,以斉之城陽郡立章為城陽王。立二年卒,子喜立,是為共王。共王八年,徙王淮南。四年,復還王城陽。凡三十三年卒,子建延立,是為頃王。頃王二十八年卒,子義立,是為敬王。敬王九年卒,子武立,是為恵王。恵王十一年卒,子順立,是為荒王。荒王四十六年卒,子恢立,是為戴王。戴王八年卒,子景立,至,十五歳,卒。済北王興居,斉悼恵王子,以東牟侯助大臣誅諸呂,功少。及文帝従代来,興居曰:「請与太仆嬰入清宮。」廃少帝,共与大臣尊立孝文帝。孝文帝二年,以斉之済北郡立興居為済北王,与城陽王倶立。立二年,反。始大臣誅呂氏時,朱虚侯功尤大,許尽以趙地王朱虚侯,尽以梁地王東牟侯。及孝文帝立,聞朱虚、東牟之初欲立斉王,故絀其功。及二年,王諸子,乃割斉二郡以王章、興居。章、興居自以失職奪功。章死,而興居聞匈奴大入漢,漢多発兵,使丞相灌嬰撃之,文帝親幸太原,以為天子自撃胡,遂発兵反於済北。天子聞之,罷丞相及行兵,皆帰長安。

書き下し

城陽の景王章は、斉の悼恵王の子なり、朱虚侯を以て大臣と共に諸呂を誅す、而して章身づから首め先づ相国呂王産を未央宮に斬る。孝文帝既に立ち、章を益封すること二千戸、金千斤を賜ふ。斉の城陽郡を以て章を立てて城陽王と為す。立ちて二年にして卒し、子喜立つ、是れを共王と為す。共王八年、徙りて淮南に王たり。四年にして、復た還りて城陽に王たり。凡そ三十三年にして卒し、子[建]延立つ、是れを頃王と為す。頃王二十八年にして卒し、子義立つ、是れを敬王と為す。敬王九年にして卒し、子武立つ、是れを恵王と為す。恵王十一年にして卒し、子順立つ、是れを荒王と為す。荒王四十六年にして卒し、子恢立つ、是れを戴王と為す。戴王八年にして卒し、子景立つ、至りて、十五歳にして、卒す。済北王興居は、斉の悼恵王の子なり、東牟侯を以て大臣を助けて諸呂を誅す、功少なし。文帝の代より来たるに及び、興居曰く、「請ふ太仆嬰と入りて宮を清めん」と。少帝を廃し、共に大臣と孝文帝を尊立す。孝文帝二年、斉の済北郡を以て興居を立てて済北王と為し、城陽王と倶に立つ。立ちて二年にして、反く。始め大臣の呂氏を誅する時、朱虚侯の功尤も大なり、尽く趙の地を以て朱虚侯を王とし、尽く梁の地を以て東牟侯を王とせんことを許す。孝文帝立つに及び、朱虚・東牟の初め斉王を立てんと欲せしを聞き、故に其の功を絀く。二年に及び、諸子を王とし、乃ち斉の二郡を割きて以て章・興居を王とす。章・興居自ら職を失ひ功を奪はると以へり。章死し、而して興居匈奴の大いに漢に入り、漢多く兵を発し、丞相灌嬰をして之を撃たしめ、文帝親ら太原に幸するを聞き、以為へらく天子自ら胡を撃つと、遂に兵を済北に発して反く。天子之を聞き、丞相及び行兵を罷め、皆長安に帰らしむ。

現代語訳

城陽の景王劉章は、斉の悼恵王の子である。朱虚侯として大臣たちとともに呂氏一族を誅し、劉章自身が真っ先に相国の呂王呂産を未央宮で斬った。孝文帝が即位すると、劉章に二千戸を加増し、金千斤を賜った。斉の城陽郡をもって劉章を城陽王に立てた。立って二年で亡くなり、子の喜が立った。これが共王である。共王の八年、淮南王に移された。四年後、再び城陽王に戻った。在位は通算三十三年で亡くなり、子の(建)延が立った。これが頃王である。頃王は二十八年で亡くなり、子の義が立った。これが敬王である。敬王は九年で亡くなり、子の武が立った。これが恵王である。恵王は十一年で亡くなり、子の順が立った。これが荒王である。荒王は四十六年で亡くなり、子の恢が立った。これが戴王である。戴王は八年で亡くなり、子の景が立ったが、十五年目に亡くなった。済北王劉興居は、斉の悼恵王の子である。東牟侯として大臣たちを助けて呂氏一族を誅したが、功績は少なかった。文帝が代からやって来ると、劉興居は言った。「どうか太仆(天子の車馬をつかさどる官)の夏侯嬰とともに宮中に入って、宮殿を清めさせていただきたい」。そして少帝を廃し、大臣たちとともに孝文帝を尊んで立てた。孝文帝の二年、斉の済北郡をもって劉興居を済北王に立て、城陽王とともに王とした。立って二年で反乱を起こした。もともと大臣たちが呂氏を誅したとき、朱虚侯の功績が最も大きかったので、趙の地をすべて与えて朱虚侯を王とし、梁の地をすべて与えて東牟侯を王とすると約束していた。ところが孝文帝が即位すると、朱虚侯と東牟侯が当初斉王を帝に立てようとしていたと聞き、そのためにその功績を低く扱った。二年になって皇子たちを王に立てたとき、ようやく斉の二郡を割いて劉章と劉興居を王とした。劉章と劉興居は、しかるべき地位を失い、功績を奪われたと思っていた。劉章が死ぬと、劉興居は、匈奴が大挙して漢に侵入し、漢が多くの兵を発して丞相灌嬰に迎え撃たせ、文帝自ら太原に行幸したと聞き、天子自ら匈奴を討ちに出たと思って、ついに済北で兵を挙げて反乱を起こした。天子はこれを聞くと、丞相と出陣中の兵を引き揚げさせ、みな長安に帰らせた。

解説

呂氏誅滅の最大の功労者、劉章と劉興居の兄弟のその後です。大臣たちは当初、劉章に趙の全土、劉興居に梁の全土を与えると約束していました。ところが即位した文帝は、二人が当初兄の斉王を帝に推していたと知ると、功績を低く扱い、斉の一郡ずつを与えるにとどめます。劉章は失意のうちに亡くなり、劉興居は文帝が匈奴討伐に出た隙を突いて反乱を起こしました。約束された報酬が、政治的な警戒心から反故にされたことが反乱の火種となったのです。文帝は即座に匈奴への出兵を止めて反乱鎮圧に切り替えました。前半に並ぶ城陽王家八代の系譜は、劉章の家が細々と続いたことを示しています。功労者への約束を破れば、たとえ理由があっても、それは組織への不信として必ず返ってきます。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る