韓非子 / 難一第三十六
主有術,兩用不爲患;無術,兩用則争事而外市,一則專制。
新字:主有術,両用不為患;無術,両用則争事而外市,一則専制。
書き下し
主に術有らば、両用うるも患いと為らず。術無くんば、両用うれば則ち事を争いて外に市し、一なれば則ち専制す。
現代語訳
君主に術があれば、二人を並べて用いても患いにならない。術が無ければ、二人を用いれば互いに争って外部と取引し、一人に絞れば専横する。
解説
二人を用いるか一人に絞るかという問題に、韓非子は直接答えていない。どちらも術の有無で結果が変わる、と答えている。術とは、実績で人を測り、権限の範囲を定め、それを守らせる仕組みのことだ。仕組みがあれば人数は問題にならず、仕組みが無ければ何人にしても壊れる。この答え方が優れている。人数や配置は、多くの組織で議論の的になる。二人体制にするか、一人に任せるか。だが韓非子の見方では、それは本質ではない。仕組みが無いまま二人にすれば派閥ができ、一人にすれば独走する。どちらの失敗も、配置の失敗ではなく仕組みの不在から来る。議論が配置の話に終始しているなら、まだ本題に入っていない可能性がある。
この章句が説くこと
術マネジメント能力組織設計配置仕組み権力闘争
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