史記 / 斉悼恵王世家
且甲,齊貧人,急乃為宦者,入事漢,無補益,乃欲亂吾王家!且主父偃何為者?乃欲以女充後宮!」徐甲大窮,還報皇太后曰:「王已願尚娥,然有一害,恐如燕王。」燕王者,與其子昆弟姦,新坐以死,亡國,故以燕感太后。太后曰:「無復言嫁女齊事。」事浸潯不得聞於天子。主父偃由此亦與齊有卻。主父偃方幸於天子,用事,因言:「齊臨菑十萬戶,市租千金,人眾殷富,巨於長安,此非天子親弟愛子不得王此。今齊王於親屬益疏。」乃從容言:「呂太后時齊欲反,吳楚時孝王幾為亂。今聞齊王與其姊亂。」於是天子乃拜主父偃為齊相,且正其事。主父偃既至齊,乃急治王後宮宦者為王通於姊翁主所者,令其辭證皆引王。王年少,懼大罪為吏所執誅,乃飲藥自殺。絕無後。是時趙王懼主父偃一出廢齊,恐其漸疏骨肉,乃上書言偃受金及輕重之短。天子亦既囚偃。公孫弘言:「齊王以憂死毋後,國入漢,非誅偃無以塞天下之望。」遂誅偃。齊厲王立五年死,毋後,國入于漢。齊悼惠王後尚有二國,城陽及菑川。菑川地比齊。天子憐齊,為悼惠王冢園在郡,割臨菑東環悼惠王冢園邑盡以予菑川,以奉悼惠王祭祀。
新字:且甲,斉貧人,急乃為宦者,入事漢,無補益,乃欲乱吾王家!且主父偃何為者?乃欲以女充後宮!」徐甲大窮,還報皇太后曰:「王已願尚娥,然有一害,恐如燕王。」燕王者,与其子昆弟姦,新坐以死,亡国,故以燕感太后。太后曰:「無復言嫁女斉事。」事浸潯不得聞於天子。主父偃由此亦与斉有却。主父偃方幸於天子,用事,因言:「斉臨菑十万戸,市租千金,人衆殷富,巨於長安,此非天子親弟愛子不得王此。今斉王於親属益疏。」乃従容言:「呂太后時斉欲反,呉楚時孝王幾為乱。今聞斉王与其姊乱。」於是天子乃拝主父偃為斉相,且正其事。主父偃既至斉,乃急治王後宮宦者為王通於姊翁主所者,令其辞証皆引王。王年少,懼大罪為吏所執誅,乃飲薬自殺。絶無後。是時趙王懼主父偃一出廃斉,恐其漸疏骨肉,乃上書言偃受金及軽重之短。天子亦既囚偃。公孫弘言:「斉王以憂死毋後,国入漢,非誅偃無以塞天下之望。」遂誅偃。斉厲王立五年死,毋後,国入于漢。斉悼恵王後尚有二国,城陽及菑川。菑川地比斉。天子憐斉,為悼恵王冢園在郡,割臨菑東環悼恵王冢園邑尽以予菑川,以奉悼恵王祭祀。
書き下し
且つ甲は、斉の貧人なり、急にして乃ち宦者と為り、入りて漢に事へ、補益する無く、乃ち吾が王家を乱さんと欲す。且つ主父偃は何為る者ぞ、乃ち女を以て後宮に充てんと欲す」と。徐甲大いに窮し、還りて皇太后に報じて曰く、「王已に娥を尚せんことを願ふ、然れども一害有り、恐らくは燕王の如くならん」と。燕王は、其の子昆弟と姦し、新たに坐して以て死し、国を亡ぼす、故に燕を以て太后を感ぜしむ。太后曰く、「復た女を斉に嫁する事を言ふ無かれ」と。事浸潯として[天子に聞するを得ず]。主父偃此に由りて亦た斉と卻有り。主父偃方に天子に幸せられ、事を用ふ、因りて言ふ、「斉の臨菑は十万戸、市租千金、人衆殷富にして、長安より巨なり、此れ天子の親弟愛子に非ずんば此に王たるを得ず。今斉王は親属に於て益々疏なり」と。乃ち従容として言ふ、「呂太后の時斉反かんと欲し、呉楚の時孝王幾ど乱を為さんとす。今聞く、斉王其の姊と乱すと」と。是に於て天子乃ち主父偃を拝して斉の相と為し、且つ其の事を正さしむ。主父偃既に斉に至り、乃ち急に王の後宮の宦者の王の為に姊翁主の所に通ずる者を治め、其の辞証をして皆王を引かしむ。王年少く、大罪を懼れて吏の為に執へ誅せられんとし、乃ち薬を飲みて自殺す。絶えて後無し。是の時趙王主父偃の一たび出でて斉を廃するを懼れ、其の漸く骨肉を疏んぜんことを恐れ、乃ち上書して偃の金を受くること及び軽重の短を言ふ。天子も亦た既に偃を囚ふ。公孫弘言ふ、「斉王憂ひを以て死して後毋く、国漢に入る、偃を誅するに非ずんば以て天下の望みを塞ぐ無し」と。遂に偃を誅す。斉の厲王立ちて五年にして死し、後毋く、国漢に入る。斉の悼恵王の後尚ほ二国有り、城陽及び菑川なり。菑川の地斉に比す。天子斉を憐れみ、悼恵王の冢園郡に在るが為に、臨菑の東の悼恵王の冢園を環る邑を割きて尽く以て菑川に予へ、以て悼恵王の祭祀を奉ぜしむ。
現代語訳
それに徐甲は斉の貧しい者で、食い詰めて宦官となり、都に入って漢に仕えているが、何の役にも立たず、それでいてわが王家を乱そうとしている。しかも主父偃とは何者か。娘を後宮に入れたいなどと」。徐甲は大いに困り、都に戻って皇太后に報告した。「斉王は娥を后に迎えたいと願っているが、一つ差し障りがあり、燕王の二の舞になるおそれがある」。燕王とは、子や兄弟と密通し、最近その罪で死んで国を失った者である。徐甲は燕王のことを持ち出して太后の心を動かしたのである。太后は言った。「もう娘を斉に嫁がせる話はするな」。この話はしだいに広まり(天子の耳には入らなかった)。主父偃もこれ以来、斉と仲たがいした。主父偃はちょうど天子の寵愛を受けて権勢を振るっていたので、天子にこう言った。「斉の臨菑は十万戸、市場の税は千金にのぼり、人口は多く豊かで、長安よりも大きい。これは天子の実の弟か愛する子でなければ王とすべきではない所だ。いまの斉王は天子との血縁がますます遠くなっている」。さらにさりげなく言った。「呂太后の時代、斉は反乱を起こそうとし、呉楚の乱のときも孝王は危うく乱に加わるところだった。いま聞けば、斉王は姉と乱れた関係にあるという」。そこで天子は主父偃を斉の宰相に任じ、その件を取り調べさせた。主父偃は斉に着くと、王のために姉の翁主のもとへの手引きをした後宮の宦官たちを急いで取り調べ、その供述がみな王に及ぶようにした。王は年若く、大罪に問われて役人に捕らえられ誅殺されることを恐れ、毒を飲んで自殺した。跡継ぎはおらず、家は絶えた。このとき趙王は、主父偃が一度出向いただけで斉を廃したことを恐れ、次第に皇族の骨肉が遠ざけられていくのを心配して、上書して主父偃が賄賂を受け取ったことや、その不正な手口を訴えた。天子もすでに主父偃を捕らえていた。公孫弘は言った。「斉王は憂いのうちに死んで跡継ぎがなく、国は漢の直轄となった。主父偃を誅さなければ、天下の人々の不満を鎮めることはできない」。こうしてついに主父偃を誅した。斉の厲王は立って五年で死に、跡継ぎがなかったので、国は漢の直轄となった。斉の悼恵王の子孫の国としては、なお城陽と菑川の二国が残っていた。菑川の地は斉に隣接していた。天子は斉を哀れみ、悼恵王の墓所が郡内にあったので、臨菑の東の悼恵王の墓所を囲む邑を割いてすべて菑川に与え、悼恵王の祭祀を守らせた。
解説
関連する章句
-
史記 平津侯主父列伝偃盛んに言ふ、朔方の地は肥饒にして、外は河に阻まれ、蒙恬之に城きて以て匈奴を逐ふ、内は転輸戍漕を省き、中国を広む、胡を滅ぼすの本なりと。上其の説を覧て、公卿に下して議せしむ、皆便ならずと言ふ。公孫弘曰く、「秦の時常に三十万の衆を発して北河に築くも、終に就すべからず、已にして之を棄つ」と。主父偃盛んに其の便を言ひ、上竟に主父の計を用ひ、朔方郡を立つ。元朔二年、主父言ふ、斉王内に淫佚にして行ひ僻なりと、上主父を拝して斉の相と為す。斉に至り、遍く昆弟賓客を召し、五百金を散じて之に予へ、之を数めて曰く、「始め吾貧しき時、昆弟我に衣食せしめず、賓客我を門に内れず。今吾斉に相たり、諸君我を迎ふること或いは千里。吾諸君と絶てり、復た偃の門に入ること毋かれ」と。乃ち人をして王と姊との姦事を以て王を動かさしむ、王以為へらく終に罪を脱るるを得ずと、燕王に效ひて死を論ぜられんことを恐れ、乃ち自殺す。有司以て聞す。主父始め布衣為りし時、嘗て燕・趙に游び、其の貴きに及び、燕の事を発す。趙王其の国の患ひと為らんことを恐れ、上書して其の陰事を言はんと欲するも、偃中に居るが為に、敢て発せず。斉の相と為りて、関を出づるに及び、即ち人をして上書せしめ、主父偃諸侯の金を受け、故を以て諸侯の子弟多く以て封を得る者ありと告言す。斉王自殺するに及び、上聞きて大いに怒り、以為へらく主父其の王を劫して自殺せしむと、乃ち徴して吏に下して治む。主父諸侯の金を受くるに服するも、実は王を劫して自殺せしめず。上誅すること勿からんと欲す、是の時公孫弘御史大夫為り、乃ち言ひて曰く、「斉王自殺して後無く、国除かれて郡と為り、漢に入る、主父偃は本首悪なり、陛下主父偃を誅せずんば、以て天下に謝する無し」と。乃ち遂に主父偃を族す。主父方に貴幸なりし時、賓客千を以て数ふ、其の族死するに及び、一人の収むる者無し、唯だ独り洨の孔車之を収めて葬る。天子後に之を聞き、以為へらく孔車は長者なりと。
-
史記 斉悼恵王世家路中大夫既に之を許し、城下に至り、斉王を望見して、曰く、「漢已に兵百万を発し、太尉周亜夫をして呉楚を撃破せしめ、方に兵を引きて斉を救はんとす、斉必ず堅守して下ること無かれ」と。三国の将路中大夫を誅す。斉初め囲まれて急なり、陰かに三国と通謀し、約未だ定まらず、会々路中大夫の漢より来たるを聞き、喜び、其の大臣に及びて乃ち復た王に三国に下ること毋からんことを勧む。居ること何くも無く、漢の将欒布・平陽侯等の兵斉に至り、三国の兵を撃破し、斉の囲みを解く。已にして復た斉の初め三国と謀有るを聞き、将に兵を移して斉を伐たんとす。斉の孝王懼れ、乃ち薬を飲みて自殺す。景帝之を聞き、以為へらく斉は首め善なり、迫劫を以て謀有り、其の罪に非ざるなりと、乃ち孝王の太子寿を立てて斉王と為す、是れを懿王と為す、斉の後を続がしむ。而して膠西・膠東・済南・菑川の王咸誅滅せられ、地漢に入る。済北王を徙して菑川に王とす。斉の懿王立ちて二十二年にして卒し、子次景立つ、是れを厲王と為す。斉の厲王、其の母を紀太后と曰ふ。太后其の弟紀氏の女を取りて厲王の后と為す。王紀氏の女を愛せず。太后其の家の重寵ならんことを欲し、其の長女紀翁主をして王宮に入り、其の後宮を正さしめ、王に近づくを得しむる毋からしめ、紀氏の女を愛せしめんと欲す。王因りて其の姊翁主と姦す。斉に宦者徐甲有り、入りて漢の皇太后に事ふ。皇太后に愛女有り修成君と曰ふ、修成君は劉氏に非ず、太后之を憐れむ。修成君に女有り名は娥、太后之を諸侯に嫁せんと欲す、宦者甲乃ち斉に使ひせんことを請ひ、必ず王をして上書して娥を請はしめんとす。皇太后喜び、甲をして斉に之かしむ。是の時斉人主父偃甲の斉に使ひして以て后を取るの事を知り、亦た因りて甲に謂ふ、「即し事成らば、幸はくは偃の女後宮に充たるを得んことを願ふと言へ」と。甲既に斉に至り、風するに此の事を以てす。紀太后大いに怒りて曰く、「王に后有り、後宮具備す。
-
史記 斉悼恵王世家瑯邪王之を信じ、以て然りと為し、[迺ち]馳せて斉王に見ゆ。斉王魏勃等と因りて瑯邪王を留め、而して祝午をして尽く瑯邪国を発して并せて其の兵を将ゐしむ。瑯邪王劉沢既に欺かれ、国に反るを得ず、乃ち斉王に説きて曰く、「斉の悼恵王は高皇帝の長子なり、本を推して之を言へば、而して大王は高皇帝の適長孫なり、当に立つべし。今諸大臣狐疑して未だ定まる所有らず、而して沢は劉氏に於て最も長年為り、大臣固より沢の決計を待つ。今大王臣を留むるも為す無きなり、我をして関に入りて事を計らしむるに如かず」と。斉王以て然りと為し、乃ち益々車を具へて瑯邪王を送る。瑯邪王既に行き、斉遂に兵を挙げて西のかた呂国の済南を攻む。是に於て斉の哀王諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王を斉に王とす。悼恵王薨じ、恵帝留侯張良をして臣を立てて斉王と為さしむ。恵帝崩じ、高后事を用ひ、春秋高く、諸呂の擅に高帝の立つる所を廃するを聴し、又三趙王を殺し、梁・燕・趙を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉国を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、皇帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸[侯]を恃む。今諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚め威を厳にし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。今寡人兵を率ゐて入りて当に王為るべからざる者を誅せん」と。漢斉の兵を発して西するを聞き、相国呂産乃ち大将軍灌嬰を遣はして東のかた之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を将ゐて関中に居り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。我今斉を破りて還報せば、是れ呂氏の資を益すなり」と。乃ち兵を留めて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に喩さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて共に之を誅せんとす。
-
史記 呂太后本紀朱虚侯中より大臣と応を為さんと欲す。斉王兵を発せんと欲す、其の相聴かず。八月丙午、斉王人をして相を誅せしめんと欲す、相召平乃ち反し、兵を挙げて王を囲まんと欲す、王因りて其の相を殺し、遂に兵を発して東し、詐りて瑯邪王の兵を奪ひ、并せて之に将として西す。語は斉王の語中に在り。斉王乃ち諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王斉に王たり。悼恵王薨ず、孝恵帝留侯良をして臣を立てて斉王と為さしむ。孝恵崩じ、高后事を用ゐ、春秋高く、諸呂に聴き、擅に帝を廃して更に立て、又比(しき)りに三趙王を殺し、梁・趙・燕を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、而して帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸侯を恃む。而るに諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚めて威を厳しくし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。寡人兵を率ゐて入りて当に王たるべからざる者を誅せん。」と。漢之を聞き、相国呂産等乃ち潁陰侯灌嬰を遣はして兵を将ゐて之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を関中に権(にぎ)り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。今我斉を破りて還り報ぜば、此れ呂氏の資を益すなり。」と。乃ち留まりて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に諭さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて、共に之を誅せんとす。斉王之を聞き、乃ち兵を還して西界に約を待つ。呂禄・呂産乱を関中に発せんと欲す、内には絳侯・朱虚等を憚り、外には斉・楚の兵を畏れ、又灌嬰の之に畔(そむ)かんことを恐れ、灌嬰の兵の斉と合するを待ちて発せんと欲し、猶予して未だ決せず。是の時に当たりて、済川王太・淮陽王武・常山王朝は名づけて少帝の弟と為し、及び魯元王は呂后の外孫にして、皆年少くして未だ国に之かず、長安に居る。趙王禄・梁王産各々兵を将ゐて南北軍に居る、皆呂氏の人なり。
-
史記 斉悼恵王世家棘蒲侯柴将軍をして撃ちて済北王を破虜せしむ、王自殺し、地漢に入り、郡と為る。後十二年、復た斉の悼恵王の子安都侯志を以て済北王と為す。十一年、呉楚反く時、志堅守し、諸侯と合謀せず。呉楚已に平らぎ、志を徙して菑川に王とす。済南王辟光は、斉の悼恵王の子なり、勒侯を以て孝文十六年に済南王と為る。十一年、呉楚と反く。漢撃破し、辟光を殺し、済南を以て郡と為し、地漢に入る。菑川王賢は、斉の悼恵王の子なり、武城侯を以て文帝十六年に菑川王と為る。十一年、呉楚と反く、漢撃破し、賢を殺す。天子因りて済北王志を徙して菑川に王とす。志も亦た斉の悼恵王の子なり、安都侯を以て済北に王たり。菑川王反き、後毋し、乃ち済北王を徙して菑川に王とす。凡そ立ちて三十五年にして卒し、謚して懿王と為す。子建代はりて立つ、是れを靖王と為す。二十年にして卒し、子遺代はりて立つ、是れを頃王と為す。三十六年にして卒し、子終古立つ、是れを思王と為す。二十八年にして卒し、子尚立つ、是れを孝王と為す。五年にして卒し、子横立つ、建始三年に至り、十一歳にして、卒す。膠西王卬は、斉の悼恵王の子なり、昌平侯を以て文帝十六年に膠西王と為る。十一年、呉楚と反く。漢撃破し、卬を殺し、地漢に入り、膠西郡と為る。膠東王雄渠は、斉の悼恵王の子なり、白石侯を以て文帝十六年に膠東王と為る。十一年、呉楚と反く、漢撃破し、雄渠を殺し、地漢に入り、膠東郡と為る。太史公曰く、諸侯の大国は斉の悼恵王に過ぐるは無し。海内初めて定まり、子弟少なきを以て、秦の尺土の封無きに激し、故に大いに同姓を封じ、以て万民の心を填む。後に分裂するに及ぶは、固より其の理なり。
-
史記 斉悼恵王世家悼恵王卒して哀王立つに及び、勃事を用ひ、斉の相より重し。王既に兵を罷めて帰り、而して代王来たりて立つ、是れを孝文帝と為す。孝文帝元年、尽く高后の時に割く所の斉の城陽・瑯邪・済南郡を以て復た斉に与へ、而して瑯邪王を徙して燕に王とし、朱虚侯・東牟侯を益封すること各々二千戸。是の歳、斉の哀王卒し、太子則立つ、是れを文王と為す。斉の文王元年、漢斉の城陽郡を以て朱虚侯を立てて城陽王と為し、斉の済北郡を以て東牟侯を立てて済北王と為す。二年、済北王反く、漢之を誅殺し、地漢に入る。後二年、孝文帝尽く斉の悼恵王の子罷軍等七人を封じて皆列侯と為す。斉の文王立ちて十四年にして卒し、子無く、国除かれ、地漢に入る。後一歳、孝文帝封ずる所の悼恵王の子を以て斉を分かちて王と為す、斉の孝王将閭は悼恵王の子楊虚侯を以て斉王と為る。故の斉の別郡尽く以て悼恵王の子を王とす。子志は済北王と為り、子辟光は済南王と為り、子賢は菑川王と為り、子卬は膠西王と為り、子雄渠は膠東王と為る、城陽・斉と凡そ七王なり。斉の孝王十一年、呉王濞・楚王戊反き、兵を興して西し、諸侯に告げて曰く「将に漢の賊臣晁錯を誅して以て宗廟を安んぜんとす」と。膠西・膠東・菑川・済南皆擅に兵を発して呉楚に応ず。斉に与せんと欲す、斉の孝王狐疑し、城守して聴かず、三国の兵共に斉を囲む。斉王路中大夫をして天子に告げしむ。天子復た路中大夫をして還りて斉王に告げしむ、「善く堅守せよ、吾が兵今呉楚を破らん」と。路中大夫至るに、三国の兵臨菑を囲むこと数重、従りて入る無し。三国の将劫かして路中大夫と盟ひて曰く、「若反りて漢已に破れたりと言ひ、斉趣やかに三国に下れ、且に屠らるるを見ざれ」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る