史記 / 斉悼恵王世家
路中大夫既許之,至城下,望見齊王,曰:「漢已發兵百萬,使太尉周亞夫擊破吳楚,方引兵救齊,齊必堅守無下!」三國將誅路中大夫。齊初圍急,陰與三國通謀,約未定,會聞路中大夫從漢來,喜,及其大臣乃復勸王毋下三國。居無何,漢將欒布、平陽侯等兵至齊,擊破三國兵,解齊圍。已而復聞齊初與三國有謀,將欲移兵伐齊。齊孝王懼,乃飲藥自殺。景帝聞之,以為齊首善,以迫劫有謀,非其罪也,乃立孝王太子壽為齊王,是為懿王,續齊後。而膠西、膠東、濟南、菑川王咸誅滅,地入于漢。徙濟北王王菑川。齊懿王立二十二年卒,子次景立,是為厲王。齊厲王,其母曰紀太后。太后取其弟紀氏女為厲王后。王不愛紀氏女。太后欲其家重寵,令其長女紀翁主入王宮,正其後宮,毋令得近王,欲令愛紀氏女。王因與其姊翁主姦。齊有宦者徐甲,入事漢皇太后。皇太后有愛女曰修成君,修成君非劉氏,太后憐之。修成君有女名娥,太后欲嫁之於諸侯,宦者甲乃請使齊,必令王上書請娥。皇太后喜,使甲之齊。是時齊人主父偃知甲之使齊以取后事,亦因謂甲:「即事成,幸言偃女願得充王後宮。」甲既至齊,風以此事。紀太后大怒,曰:「王有后,後宮具備。
新字:路中大夫既許之,至城下,望見斉王,曰:「漢已発兵百万,使太尉周亜夫撃破呉楚,方引兵救斉,斉必堅守無下!」三国将誅路中大夫。斉初囲急,陰与三国通謀,約未定,会聞路中大夫従漢来,喜,及其大臣乃復勧王毋下三国。居無何,漢将欒布、平陽侯等兵至斉,撃破三国兵,解斉囲。已而復聞斉初与三国有謀,将欲移兵伐斉。斉孝王懼,乃飲薬自殺。景帝聞之,以為斉首善,以迫劫有謀,非其罪也,乃立孝王太子寿為斉王,是為懿王,続斉後。而膠西、膠東、済南、菑川王咸誅滅,地入于漢。徙済北王王菑川。斉懿王立二十二年卒,子次景立,是為厲王。斉厲王,其母曰紀太后。太后取其弟紀氏女為厲王后。王不愛紀氏女。太后欲其家重寵,令其長女紀翁主入王宮,正其後宮,毋令得近王,欲令愛紀氏女。王因与其姊翁主姦。斉有宦者徐甲,入事漢皇太后。皇太后有愛女曰修成君,修成君非劉氏,太后憐之。修成君有女名娥,太后欲嫁之於諸侯,宦者甲乃請使斉,必令王上書請娥。皇太后喜,使甲之斉。是時斉人主父偃知甲之使斉以取后事,亦因謂甲:「即事成,幸言偃女願得充王後宮。」甲既至斉,風以此事。紀太后大怒,曰:「王有后,後宮具備。
書き下し
路中大夫既に之を許し、城下に至り、斉王を望見して、曰く、「漢已に兵百万を発し、太尉周亜夫をして呉楚を撃破せしめ、方に兵を引きて斉を救はんとす、斉必ず堅守して下ること無かれ」と。三国の将路中大夫を誅す。斉初め囲まれて急なり、陰かに三国と通謀し、約未だ定まらず、会々路中大夫の漢より来たるを聞き、喜び、其の大臣に及びて乃ち復た王に三国に下ること毋からんことを勧む。居ること何くも無く、漢の将欒布・平陽侯等の兵斉に至り、三国の兵を撃破し、斉の囲みを解く。已にして復た斉の初め三国と謀有るを聞き、将に兵を移して斉を伐たんとす。斉の孝王懼れ、乃ち薬を飲みて自殺す。景帝之を聞き、以為へらく斉は首め善なり、迫劫を以て謀有り、其の罪に非ざるなりと、乃ち孝王の太子寿を立てて斉王と為す、是れを懿王と為す、斉の後を続がしむ。而して膠西・膠東・済南・菑川の王咸誅滅せられ、地漢に入る。済北王を徙して菑川に王とす。斉の懿王立ちて二十二年にして卒し、子次景立つ、是れを厲王と為す。斉の厲王、其の母を紀太后と曰ふ。太后其の弟紀氏の女を取りて厲王の后と為す。王紀氏の女を愛せず。太后其の家の重寵ならんことを欲し、其の長女紀翁主をして王宮に入り、其の後宮を正さしめ、王に近づくを得しむる毋からしめ、紀氏の女を愛せしめんと欲す。王因りて其の姊翁主と姦す。斉に宦者徐甲有り、入りて漢の皇太后に事ふ。皇太后に愛女有り修成君と曰ふ、修成君は劉氏に非ず、太后之を憐れむ。修成君に女有り名は娥、太后之を諸侯に嫁せんと欲す、宦者甲乃ち斉に使ひせんことを請ひ、必ず王をして上書して娥を請はしめんとす。皇太后喜び、甲をして斉に之かしむ。是の時斉人主父偃甲の斉に使ひして以て后を取るの事を知り、亦た因りて甲に謂ふ、「即し事成らば、幸はくは偃の女後宮に充たるを得んことを願ふと言へ」と。甲既に斉に至り、風するに此の事を以てす。紀太后大いに怒りて曰く、「王に后有り、後宮具備す。
現代語訳
路中大夫は脅しを承知したふりをして城の下まで行き、斉王の姿を望み見ると、叫んだ。「漢はすでに百万の兵を発し、太尉周亜夫に呉楚を撃破させた。今まさに兵を率いて斉を救いに来るところだ。斉は必ず堅く守って、降伏してはならない」。三国の将軍たちは路中大夫を誅殺した。斉は包囲された当初、戦況が切迫していたので、ひそかに三国と内通しようとしていたが、約束はまだまとまっていなかった。そこへ路中大夫が漢から戻ったと聞いて喜び、大臣たちも改めて王に三国に降伏しないよう勧めた。まもなく漢の将軍欒布・平陽侯らの兵が斉に到着し、三国の兵を撃破して斉の包囲を解いた。ところがその後、斉が当初三国と内通しようとしていたことが漢に伝わり、漢は兵を移して斉を討とうとした。斉の孝王は恐れて、毒を飲んで自殺した。景帝はこれを聞いて、斉は最初は善く守っていたのであり、脅されて内通を図っただけで、その罪ではないと考え、孝王の太子の寿を斉王に立てた。これが懿王(いおう)で、斉の家を継がせた。一方、膠西・膠東・済南・菑川の王はことごとく誅滅され、その地は漢の直轄となった。済北王を菑川王に移した。斉の懿王は立って二十二年で亡くなり、子の次景が立った。これが厲王である。斉の厲王の母は紀太后という。紀太后は自分の弟の紀氏の娘を厲王の后とした。しかし厲王は紀氏の娘を愛さなかった。紀太后は実家がますます重んじられるよう望み、自分の長女の紀翁主(おうしゅ、王の娘)を王宮に入れて後宮を取り締まらせ、他の女性を王に近づけず、紀氏の娘を愛させようとした。ところが王はそれがきっかけで、姉の翁主と密通してしまった。斉の出身の宦官に徐甲という者がいて、都に入って漢の皇太后(王太后)に仕えていた。皇太后には修成君という愛娘がいた。修成君は劉氏の血筋ではなかったので、皇太后は哀れに思っていた。修成君には娥(が)という娘がいて、皇太后は彼女を諸侯に嫁がせたいと思っていた。宦官の徐甲は斉への使者となることを願い出て、必ず斉王に上書させて娥を后に迎えたいと願わせてみせると言った。皇太后は喜び、徐甲を斉へ遣わした。このとき、斉の人主父偃(しゅほえん)は徐甲が斉へ后を取る話で使いに行くことを知り、徐甲にこう頼んだ。「もし事がうまくいったら、どうか私の娘も後宮に入れていただきたいと願っている、と伝えてくれ」。徐甲は斉に着くと、それとなくこの話を持ち出した。紀太后は大いに怒って言った。「王にはもう后がいるし、後宮も整っている。
解説
関連する章句
-
史記 斉悼恵王世家且つ甲は、斉の貧人なり、急にして乃ち宦者と為り、入りて漢に事へ、補益する無く、乃ち吾が王家を乱さんと欲す。且つ主父偃は何為る者ぞ、乃ち女を以て後宮に充てんと欲す」と。徐甲大いに窮し、還りて皇太后に報じて曰く、「王已に娥を尚せんことを願ふ、然れども一害有り、恐らくは燕王の如くならん」と。燕王は、其の子昆弟と姦し、新たに坐して以て死し、国を亡ぼす、故に燕を以て太后を感ぜしむ。太后曰く、「復た女を斉に嫁する事を言ふ無かれ」と。事浸潯として[天子に聞するを得ず]。主父偃此に由りて亦た斉と卻有り。主父偃方に天子に幸せられ、事を用ふ、因りて言ふ、「斉の臨菑は十万戸、市租千金、人衆殷富にして、長安より巨なり、此れ天子の親弟愛子に非ずんば此に王たるを得ず。今斉王は親属に於て益々疏なり」と。乃ち従容として言ふ、「呂太后の時斉反かんと欲し、呉楚の時孝王幾ど乱を為さんとす。今聞く、斉王其の姊と乱すと」と。是に於て天子乃ち主父偃を拝して斉の相と為し、且つ其の事を正さしむ。主父偃既に斉に至り、乃ち急に王の後宮の宦者の王の為に姊翁主の所に通ずる者を治め、其の辞証をして皆王を引かしむ。王年少く、大罪を懼れて吏の為に執へ誅せられんとし、乃ち薬を飲みて自殺す。絶えて後無し。是の時趙王主父偃の一たび出でて斉を廃するを懼れ、其の漸く骨肉を疏んぜんことを恐れ、乃ち上書して偃の金を受くること及び軽重の短を言ふ。天子も亦た既に偃を囚ふ。公孫弘言ふ、「斉王憂ひを以て死して後毋く、国漢に入る、偃を誅するに非ずんば以て天下の望みを塞ぐ無し」と。遂に偃を誅す。斉の厲王立ちて五年にして死し、後毋く、国漢に入る。斉の悼恵王の後尚ほ二国有り、城陽及び菑川なり。菑川の地斉に比す。天子斉を憐れみ、悼恵王の冢園郡に在るが為に、臨菑の東の悼恵王の冢園を環る邑を割きて尽く以て菑川に予へ、以て悼恵王の祭祀を奉ぜしむ。
-
史記 斉悼恵王世家瑯邪王之を信じ、以て然りと為し、[迺ち]馳せて斉王に見ゆ。斉王魏勃等と因りて瑯邪王を留め、而して祝午をして尽く瑯邪国を発して并せて其の兵を将ゐしむ。瑯邪王劉沢既に欺かれ、国に反るを得ず、乃ち斉王に説きて曰く、「斉の悼恵王は高皇帝の長子なり、本を推して之を言へば、而して大王は高皇帝の適長孫なり、当に立つべし。今諸大臣狐疑して未だ定まる所有らず、而して沢は劉氏に於て最も長年為り、大臣固より沢の決計を待つ。今大王臣を留むるも為す無きなり、我をして関に入りて事を計らしむるに如かず」と。斉王以て然りと為し、乃ち益々車を具へて瑯邪王を送る。瑯邪王既に行き、斉遂に兵を挙げて西のかた呂国の済南を攻む。是に於て斉の哀王諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王を斉に王とす。悼恵王薨じ、恵帝留侯張良をして臣を立てて斉王と為さしむ。恵帝崩じ、高后事を用ひ、春秋高く、諸呂の擅に高帝の立つる所を廃するを聴し、又三趙王を殺し、梁・燕・趙を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉国を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、皇帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸[侯]を恃む。今諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚め威を厳にし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。今寡人兵を率ゐて入りて当に王為るべからざる者を誅せん」と。漢斉の兵を発して西するを聞き、相国呂産乃ち大将軍灌嬰を遣はして東のかた之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を将ゐて関中に居り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。我今斉を破りて還報せば、是れ呂氏の資を益すなり」と。乃ち兵を留めて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に喩さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて共に之を誅せんとす。
-
史記 斉悼恵王世家悼恵王卒して哀王立つに及び、勃事を用ひ、斉の相より重し。王既に兵を罷めて帰り、而して代王来たりて立つ、是れを孝文帝と為す。孝文帝元年、尽く高后の時に割く所の斉の城陽・瑯邪・済南郡を以て復た斉に与へ、而して瑯邪王を徙して燕に王とし、朱虚侯・東牟侯を益封すること各々二千戸。是の歳、斉の哀王卒し、太子則立つ、是れを文王と為す。斉の文王元年、漢斉の城陽郡を以て朱虚侯を立てて城陽王と為し、斉の済北郡を以て東牟侯を立てて済北王と為す。二年、済北王反く、漢之を誅殺し、地漢に入る。後二年、孝文帝尽く斉の悼恵王の子罷軍等七人を封じて皆列侯と為す。斉の文王立ちて十四年にして卒し、子無く、国除かれ、地漢に入る。後一歳、孝文帝封ずる所の悼恵王の子を以て斉を分かちて王と為す、斉の孝王将閭は悼恵王の子楊虚侯を以て斉王と為る。故の斉の別郡尽く以て悼恵王の子を王とす。子志は済北王と為り、子辟光は済南王と為り、子賢は菑川王と為り、子卬は膠西王と為り、子雄渠は膠東王と為る、城陽・斉と凡そ七王なり。斉の孝王十一年、呉王濞・楚王戊反き、兵を興して西し、諸侯に告げて曰く「将に漢の賊臣晁錯を誅して以て宗廟を安んぜんとす」と。膠西・膠東・菑川・済南皆擅に兵を発して呉楚に応ず。斉に与せんと欲す、斉の孝王狐疑し、城守して聴かず、三国の兵共に斉を囲む。斉王路中大夫をして天子に告げしむ。天子復た路中大夫をして還りて斉王に告げしむ、「善く堅守せよ、吾が兵今呉楚を破らん」と。路中大夫至るに、三国の兵臨菑を囲むこと数重、従りて入る無し。三国の将劫かして路中大夫と盟ひて曰く、「若反りて漢已に破れたりと言ひ、斉趣やかに三国に下れ、且に屠らるるを見ざれ」と。
-
史記 呂太后本紀朱虚侯中より大臣と応を為さんと欲す。斉王兵を発せんと欲す、其の相聴かず。八月丙午、斉王人をして相を誅せしめんと欲す、相召平乃ち反し、兵を挙げて王を囲まんと欲す、王因りて其の相を殺し、遂に兵を発して東し、詐りて瑯邪王の兵を奪ひ、并せて之に将として西す。語は斉王の語中に在り。斉王乃ち諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王斉に王たり。悼恵王薨ず、孝恵帝留侯良をして臣を立てて斉王と為さしむ。孝恵崩じ、高后事を用ゐ、春秋高く、諸呂に聴き、擅に帝を廃して更に立て、又比(しき)りに三趙王を殺し、梁・趙・燕を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、而して帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸侯を恃む。而るに諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚めて威を厳しくし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。寡人兵を率ゐて入りて当に王たるべからざる者を誅せん。」と。漢之を聞き、相国呂産等乃ち潁陰侯灌嬰を遣はして兵を将ゐて之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を関中に権(にぎ)り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。今我斉を破りて還り報ぜば、此れ呂氏の資を益すなり。」と。乃ち留まりて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に諭さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて、共に之を誅せんとす。斉王之を聞き、乃ち兵を還して西界に約を待つ。呂禄・呂産乱を関中に発せんと欲す、内には絳侯・朱虚等を憚り、外には斉・楚の兵を畏れ、又灌嬰の之に畔(そむ)かんことを恐れ、灌嬰の兵の斉と合するを待ちて発せんと欲し、猶予して未だ決せず。是の時に当たりて、済川王太・淮陽王武・常山王朝は名づけて少帝の弟と為し、及び魯元王は呂后の外孫にして、皆年少くして未だ国に之かず、長安に居る。趙王禄・梁王産各々兵を将ゐて南北軍に居る、皆呂氏の人なり。
-
史記 斉悼恵王世家棘蒲侯柴将軍をして撃ちて済北王を破虜せしむ、王自殺し、地漢に入り、郡と為る。後十二年、復た斉の悼恵王の子安都侯志を以て済北王と為す。十一年、呉楚反く時、志堅守し、諸侯と合謀せず。呉楚已に平らぎ、志を徙して菑川に王とす。済南王辟光は、斉の悼恵王の子なり、勒侯を以て孝文十六年に済南王と為る。十一年、呉楚と反く。漢撃破し、辟光を殺し、済南を以て郡と為し、地漢に入る。菑川王賢は、斉の悼恵王の子なり、武城侯を以て文帝十六年に菑川王と為る。十一年、呉楚と反く、漢撃破し、賢を殺す。天子因りて済北王志を徙して菑川に王とす。志も亦た斉の悼恵王の子なり、安都侯を以て済北に王たり。菑川王反き、後毋し、乃ち済北王を徙して菑川に王とす。凡そ立ちて三十五年にして卒し、謚して懿王と為す。子建代はりて立つ、是れを靖王と為す。二十年にして卒し、子遺代はりて立つ、是れを頃王と為す。三十六年にして卒し、子終古立つ、是れを思王と為す。二十八年にして卒し、子尚立つ、是れを孝王と為す。五年にして卒し、子横立つ、建始三年に至り、十一歳にして、卒す。膠西王卬は、斉の悼恵王の子なり、昌平侯を以て文帝十六年に膠西王と為る。十一年、呉楚と反く。漢撃破し、卬を殺し、地漢に入り、膠西郡と為る。膠東王雄渠は、斉の悼恵王の子なり、白石侯を以て文帝十六年に膠東王と為る。十一年、呉楚と反く、漢撃破し、雄渠を殺し、地漢に入り、膠東郡と為る。太史公曰く、諸侯の大国は斉の悼恵王に過ぐるは無し。海内初めて定まり、子弟少なきを以て、秦の尺土の封無きに激し、故に大いに同姓を封じ、以て万民の心を填む。後に分裂するに及ぶは、固より其の理なり。
-
史記 斉悼恵王世家斉の悼恵王劉肥は、高祖の長庶男なり。其の母は外婦なり、曹氏と曰ふ。高祖六年、肥を立てて斉王と為し、七十城を食ましめ、諸民の能く斉言する者は皆斉王に予ふ。斉王は、孝恵帝の兄なり。孝恵帝二年、斉王入朝す。恵帝斉王と燕飲し、亢礼すること家人の如し。呂太后怒り、且に斉王を誅せんとす。斉王懼れて脱るるを得ざらんとし、乃ち其の内史勲の計を用ひ、城陽郡を献じ、以て魯元公主の湯沐邑と為す。呂太后喜び、乃ち辞して国に就くを得たり。悼恵王即位して十三年、恵帝六年を以て卒す。子襄立つ、是れを哀王と為す。哀王元年、孝恵帝崩じ、呂太后制を称し、天下の事皆高后に決す。二年、高后其の兄の子酈侯呂台を立てて呂王と為し、斉の済南郡を割きて呂王の奉邑と為す。哀王三年、其の弟章入りて漢に宿衛す、呂太后封じて朱虚侯と為し、呂禄の女を以て之に妻はす。後四年、章の弟興居を封じて東牟侯と為し、皆長安中に宿衛す。哀王八年、高后斉の瑯邪郡を割きて営陵侯劉沢を立てて瑯邪王と為す。其の明年、趙王友入朝し、邸に幽死す。三趙王皆廃せらる。高后諸呂を立て諸呂を三王と為し、権を擅にし事を用ふ。朱虚侯年二十、気力有り、劉氏の職を得ざるを忿る。嘗て入りて高后の燕飲に侍す、高后朱虚侯劉章をして酒吏為らしむ。章自ら請ひて曰く、「臣は、将種なり、請ふ軍法を以て酒を行ふを得ん」と。高后曰く、「可なり」と。酒酣にして、章進みて飲み歌舞す。已にして曰く、「請ふ太后の為に耕田の歌を言はん」と。高后之を児子として畜ひ、笑ひて曰く、「顧ふに而の父は田を知るのみ。若は生まれて王子為り、安んぞ田を知らんや」と。章曰く、「臣之を知る」と。太后曰く、「試みに我が為に田を言へ」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る