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史記 / 斉悼恵王世家

及悼惠王卒而哀王立,勃用事,重於齊相。王既罷兵歸,而代王來立,是為孝文帝。孝文帝元年,盡以高后時所割齊之城陽、瑯邪、濟南郡復與齊,而徙瑯邪王王燕,益封朱虛侯、東牟侯各二千戶。是歲,齊哀王卒,太子則立,是為文王。齊文王元年,漢以齊之城陽郡立朱虛侯為城陽王,以齊濟北郡立東牟侯為濟北王。二年,濟北王反,漢誅殺之,地入于漢。後二年,孝文帝盡封齊悼惠王子罷軍等七人皆為列侯。齊文王立十四年卒,無子,國除,地入于漢。後一歲,孝文帝以所封悼惠王子分齊為王,齊孝王將閭以悼惠王子楊虛侯為齊王。故齊別郡盡以王悼惠王子:子志為濟北王,子辟光為濟南王,子賢為菑川王,子卬為膠西王,子雄渠為膠東王,與城陽、齊凡七王。齊孝王十一年,吳王濞、楚王戊反,興兵西,告諸侯曰「將誅漢賊臣晁錯以安宗廟」。膠西、膠東、菑川、濟南皆擅發兵應吳楚。欲與齊,齊孝王狐疑,城守不聽,三國兵共圍齊。齊王使路中大夫告於天子。天子復令路中大夫還告齊王:「善堅守,吾兵今破吳楚矣。」路中大夫至,三國兵圍臨菑數重,無從入。三國將劫與路中大夫盟,曰:「若反言漢已破矣,齊趣下三國,不且見屠。」

新字:及悼恵王卒而哀王立,勃用事,重於斉相。王既罷兵帰,而代王来立,是為孝文帝。孝文帝元年,尽以高后時所割斉之城陽、瑯邪、済南郡復与斉,而徙瑯邪王王燕,益封朱虚侯、東牟侯各二千戸。是歳,斉哀王卒,太子則立,是為文王。斉文王元年,漢以斉之城陽郡立朱虚侯為城陽王,以斉済北郡立東牟侯為済北王。二年,済北王反,漢誅殺之,地入于漢。後二年,孝文帝尽封斉悼恵王子罷軍等七人皆為列侯。斉文王立十四年卒,無子,国除,地入于漢。後一歳,孝文帝以所封悼恵王子分斉為王,斉孝王将閭以悼恵王子楊虚侯為斉王。故斉別郡尽以王悼恵王子:子志為済北王,子辟光為済南王,子賢為菑川王,子卬為膠西王,子雄渠為膠東王,与城陽、斉凡七王。斉孝王十一年,呉王濞、楚王戊反,興兵西,告諸侯曰「将誅漢賊臣晁錯以安宗廟」。膠西、膠東、菑川、済南皆擅発兵応呉楚。欲与斉,斉孝王狐疑,城守不聴,三国兵共囲斉。斉王使路中大夫告於天子。天子復令路中大夫還告斉王:「善堅守,吾兵今破呉楚矣。」路中大夫至,三国兵囲臨菑数重,無従入。三国将劫与路中大夫盟,曰:「若反言漢已破矣,斉趣下三国,不且見屠。」

書き下し

悼恵王卒して哀王立つに及び、勃事を用ひ、斉の相より重し。王既に兵を罷めて帰り、而して代王来たりて立つ、是れを孝文帝と為す。孝文帝元年、尽く高后の時に割く所の斉の城陽・瑯邪・済南郡を以て復た斉に与へ、而して瑯邪王を徙して燕に王とし、朱虚侯・東牟侯を益封すること各々二千戸。是の歳、斉の哀王卒し、太子則立つ、是れを文王と為す。斉の文王元年、漢斉の城陽郡を以て朱虚侯を立てて城陽王と為し、斉の済北郡を以て東牟侯を立てて済北王と為す。二年、済北王反く、漢之を誅殺し、地漢に入る。後二年、孝文帝尽く斉の悼恵王の子罷軍等七人を封じて皆列侯と為す。斉の文王立ちて十四年にして卒し、子無く、国除かれ、地漢に入る。後一歳、孝文帝封ずる所の悼恵王の子を以て斉を分かちて王と為す、斉の孝王将閭は悼恵王の子楊虚侯を以て斉王と為る。故の斉の別郡尽く以て悼恵王の子を王とす。子志は済北王と為り、子辟光は済南王と為り、子賢は菑川王と為り、子卬は膠西王と為り、子雄渠は膠東王と為る、城陽・斉と凡そ七王なり。斉の孝王十一年、呉王濞・楚王戊反き、兵を興して西し、諸侯に告げて曰く「将に漢の賊臣晁錯を誅して以て宗廟を安んぜんとす」と。膠西・膠東・菑川・済南皆擅に兵を発して呉楚に応ず。斉に与せんと欲す、斉の孝王狐疑し、城守して聴かず、三国の兵共に斉を囲む。斉王路中大夫をして天子に告げしむ。天子復た路中大夫をして還りて斉王に告げしむ、「善く堅守せよ、吾が兵今呉楚を破らん」と。路中大夫至るに、三国の兵臨菑を囲むこと数重、従りて入る無し。三国の将劫かして路中大夫と盟ひて曰く、「若反りて漢已に破れたりと言ひ、斉趣やかに三国に下れ、且に屠らるるを見ざれ」と。

現代語訳

悼恵王が亡くなって哀王が立つと、魏勃は政務を任され、斉の宰相よりも重んじられた。斉王が兵を引いて帰国すると、代王が迎えられて即位した。これが孝文帝である。孝文帝の元年、高后の時代に割き取られていた斉の城陽・瑯邪・済南郡をすべて斉に返し、瑯邪王を燕王に移し、朱虚侯と東牟侯にそれぞれ二千戸を加増した。この年、斉の哀王が亡くなり、太子の則が立った。これが文王である。斉の文王の元年、漢は斉の城陽郡で朱虚侯を城陽王に立て、斉の済北郡で東牟侯を済北王に立てた。二年、済北王が反乱を起こし、漢はこれを誅殺して、その地は漢の直轄となった。その二年後、孝文帝は斉の悼恵王の子の罷軍(ひぐん)ら七人をみな列侯に封じた。斉の文王は立って十四年で亡くなったが、子がなかったので国は廃され、その地は漢の直轄となった。その一年後、孝文帝は侯に封じていた悼恵王の子たちに斉を分けて王とした。斉の孝王将閭(しょうりょ)は、悼恵王の子で楊虚侯であったが、斉王となった。もとの斉の他の郡も、すべて悼恵王の子たちを王とした。子の志は済北王、子の辟光(へきこう)は済南王、子の賢は菑川(しせん)王、子の卬(ごう)は膠西(こうせい)王、子の雄渠(ゆうきょ)は膠東(こうとう)王となり、城陽と斉と合わせて七人の王となった。斉の孝王の十一年、呉王劉濞と楚王劉戊が反乱を起こし、兵を挙げて西へ向かい、諸侯に告げた。「漢の賊臣晁錯を誅して宗廟を安んじようとするのだ」。膠西・膠東・菑川・済南はみな勝手に兵を発して呉楚に呼応した。彼らは斉も味方に引き入れようとしたが、斉の孝王は迷って決めかね、城に籠もって応じなかったので、三国の兵がともに斉を包囲した。斉王は路中大夫を天子のもとに遣わして急を告げた。天子は路中大夫を戻らせて斉王にこう伝えさせた。「しっかり守り抜け。わが軍は今に呉楚を破る」。路中大夫が戻ってくると、三国の兵が臨菑を幾重にも囲んでおり、入る道がなかった。三国の将軍たちは路中大夫を脅して盟約させ、言った。「お前は城に戻ったら、漢はすでに敗れたと言え。斉は急いで三国に降伏せよ、さもなければ皆殺しにされるぞ、とな」。

解説

文帝が即位すると、呂后時代に奪われた斉の領地は返され、呂氏誅滅に功のあった朱虚侯と東牟侯はそれぞれ王となります。やがて斉の本家が絶えると、文帝は悼恵王の子たちに斉を分けて七人の王としました。一つの大国を分割して力を削ぐ、漢の諸侯王対策の始まりです。しかしこれが呉楚七国の乱で裏目に出ます。膠西・膠東・菑川・済南の四国が呉楚に呼応し、態度を決めかねた斉の孝王は三国の兵に都の臨菑を包囲されました。天子への使者路中大夫は帰り道で捕らえられ、「漢は敗れた、降伏せよと言え」と脅されます。迷って態度を明らかにしない者は、両方から攻められる。孝王の「狐疑」が、次の段の悲劇を招くことになります。危機の中で立場をはっきりさせることの重さを考えさせます。

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