史記 / 外戚世家
於是左右群臣知武帝意欲立少子也。後數日,帝譴責鉤弋夫人。夫人脫簪珥叩頭。帝曰:「引持去,送掖庭獄!」夫人還顧,帝曰:「趣行,女不得活!」夫人死雲陽宮。時暴風揚塵,百姓感傷。使者夜持棺往葬之,封識其處。其後帝閒居,問左右曰:「人言云何?」左右對曰:「人言且立其子,何去其母乎?」帝曰:「然。是非兒曹愚人所知也。往古國家所以亂也,由主少母壯也。女主獨居驕蹇,淫亂自恣,莫能禁也。女不聞呂后邪?」故諸為武帝生子者,無男女,其母無不譴死,豈可謂非賢聖哉!昭然遠見,為後世計慮,固非淺聞愚儒之所及也。謚為「武」,豈虛哉!
新字:於是左右群臣知武帝意欲立少子也。後数日,帝譴責鉤弋夫人。夫人脱簪珥叩頭。帝曰:「引持去,送掖庭獄!」夫人還顧,帝曰:「趣行,女不得活!」夫人死雲陽宮。時暴風揚塵,百姓感傷。使者夜持棺往葬之,封識其処。其後帝閒居,問左右曰:「人言云何?」左右対曰:「人言且立其子,何去其母乎?」帝曰:「然。是非児曹愚人所知也。往古国家所以乱也,由主少母壮也。女主独居驕蹇,淫乱自恣,莫能禁也。女不聞呂后邪?」故諸為武帝生子者,無男女,其母無不譴死,豈可謂非賢聖哉!昭然遠見,為後世計慮,固非浅聞愚儒之所及也。謚為「武」,豈虚哉!
書き下し
是に於て左右の群臣武帝の意の少子を立てんと欲するを知る。後数日、帝鉤弋夫人を譴責す。夫人簪珥を脱ぎて叩頭す。帝曰く、「引き持ちて去り、掖庭の獄に送れ」と。夫人還顧す、帝曰く、「趣やかに行け、女は活くるを得ず」と。夫人雲陽宮に死す。時に暴風塵を揚げ、百姓感傷す。使者夜棺を持ちて往きて之を葬り、其の処を封識す。其の後帝間居し、左右に問ひて曰く、「人言ふこと云何」と。左右対へて曰く、「人言ふ、且に其の子を立てんとするに、何ぞ其の母を去るやと」と。帝曰く、「然り。是れ児曹愚人の知る所に非ざるなり。往古国家の乱るる所以は、主少くして母壮なるに由るなり。女主独り居りて驕蹇、淫乱自ら恣にし、能く禁ずる莫きなり。女は呂后を聞かずや」と。故に諸々の武帝の為に子を生む者は、男女と無く、其の母譴死せざるは無し、豈に賢聖に非ずと謂ふべけんや。昭然として遠く見、後世の為に計慮す、固より浅聞愚儒の及ぶ所に非ざるなり。謚して「武」と為す、豈に虚ならんや。
現代語訳
これによって左右の群臣は、武帝が末の子を立てようとしていることを知った。数日後、武帝は鉤弋夫人を責めた。夫人はかんざしと耳飾りを外して額を地につけて詫びた。武帝は言った。「引っ立てて連れて行き、掖庭(後宮)の獄に送れ」。夫人は振り返ったが、武帝は言った。「早く行け。お前は生きてはいられない」。夫人は雲陽宮で死んだ。そのとき暴風が吹いて砂塵を巻き上げ、民は心を痛めた。使者が夜のうちに棺を運んで葬り、その場所に土を盛って目印をつけた。その後、武帝がくつろいでいるとき、左右の者に尋ねた。「人々は何と言っているか」。左右の者は答えた。「人々は、その子を立てようというのに、なぜその母を除いたのかと言っている」。武帝は言った。「そうか。これは子どもや愚か者に分かることではない。昔から国家が乱れた原因は、君主が幼くて母が若く盛んであったことにある。女主がひとりで権力を握れば、驕り高ぶって、淫乱で勝手放題になり、誰も止めることができない。お前たちは呂后のことを聞いていないのか」。だから武帝のために子を生んだ女性は、男子であれ女子であれ、その母はみな罪を責められて死んだ。これをどうして賢明で聖なる判断でないと言えようか。はっきりと遠くを見通し、後世のために考えを巡らせたのであって、もとより見聞の浅い愚かな儒者の及ぶところではない。武という諡(おくりな)を贈られたのは、決して名ばかりではないのである。
解説
関連する章句
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史記 外戚世家褚先生曰く、丈夫は龍変す。伝に曰く、「蛇化して龍と為るも、其の文を変ぜず。家化して国と為るも、其の姓を変ぜず」と。丈夫当時富貴なれば、百悪滅除し、光耀栄華、貧賤の時何ぞ之を累すに足らんや。武帝の時、夫人尹婕妤を幸す。邢夫人は娙娥と号す、衆人之を「娙何」と謂ふ。娙何の秩は中二千石に比し、容華の秩は二千石に比し、婕妤の秩は列侯に比す。常に婕妤より遷りて皇后と為る。尹夫人と邢夫人と同時に并びに幸せられ、詔有りて相見るを得ず。尹夫人自ら武帝に請ひ、邢夫人を望見せんことを願ふ、帝之を許す。即ち他の夫人をして飾らしめ、従ふ御者数十人、邢夫人と為りて来たり前ましむ。尹夫人前みて之を見て、曰く、「此れ邢夫人の身に非ざるなり」と。帝曰く、「何を以て之を言ふ」と。対へて曰く、「其の身貌形状を視るに、以て人主に当たるに足らざるなり」と。是に於て帝乃ち詔して邢夫人をして故衣を衣て、独身にて来たり前ましむ。尹夫人之を望み見て、曰く、「此れ真に是なり」と。是に於て乃ち低頭し俛して泣き、自ら其の如かざるを痛む。諺に曰く、「美女室に入れば、悪女の仇なり」と。褚先生曰く、浴するは必ずしも江海ならず、之を要するに垢を去るなり。馬は必ずしも騏驥ならず、之を要するに善く走るなり。士は必ずしも世に賢ならず、之を要するに道を知るなり。女は必ずしも貴種ならず、之を要するに貞好なり。伝に曰く、「女は美悪と無く、室に入れば妬まる。士は賢不肖と無く、朝に入れば嫉まる」と。美女は、悪女の仇なり。豈に然らずや。鉤弋夫人は姓は趙氏、河間の人なり。武帝に幸せらるるを得て、子一人を生む、昭帝是なり。武帝年七十にして、乃ち昭帝を生む。昭帝立つ時、年五歳のみ。衛太子廃せられて後、未だ復た太子を立てず。而して燕王旦上書して、国を帰して入りて宿衛せんことを願ふ。武帝怒り、立ちどころに其の使者を北闕に斬る。上甘泉宮に居り、画工を召して周公の成王を負ふを図画せしむ。
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『十善法語』巻第七・不兩舌戒又漢武帝ノ小子ヲ昭帝ト云。漢書ニ。武帝元始三年。昭帝身妊。十四月生鈎弋宮。上曰。昔聞堯十四月而生。今鉤弋亦然。通命其所生門曰堯母門。常言類我。又感其生与衆異。心欲立焉以其年称母少。猶預久之。鈎弋倢伃従幸甘泉。有過見譴。以憂死。年八歳即皇帝位壮大多知。年二十余崩ト云。此モ前ノ烏仗那国ノ縁ニ準シテ見ハ。此昭帝ノ早世モ。其母鈎弋夫人ノ良死ヲ得ヌニ由ナルヘシ。総シテ其子ヲ貴セント欲セハ其母ヲ安ンスヘシ。其子孫ヲ福セント欲セハ。其民ヲ撫育スヘシ。此ガ此戒ノ趣ナルコトシヤ。
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史記 外戚世家衛皇后の謂ふ所の姊衛少児に及び、少児子霍去病を生む、軍功を以て冠軍侯に封ぜられ、驃騎将軍と号す。青は大将軍と号す。衛皇后の子据を立てて太子と為す。衛氏の枝属軍功を以て家を起こし、五人侯と為る。衛后色衰ふるに及び、趙の王夫人幸せられ、子有り、斉王と為る。王夫人蚤く卒す。而して中山の李夫人寵有り、男一人有り、昌邑王と為る。李夫人蚤く卒す、其の兄李延年音を以て幸せられ、協律と号す。協律は、故の倡なり。兄弟皆姦に坐し、族せらる。是の時其の長兄広利は弐師将軍為り、大宛を伐ち、誅に及ばず、還る、而して上既に李氏を夷らげ、後に其の家を憐れみ、乃ち封じて海西侯と為す。他の姫の子二人燕王・広陵王と為る。其の母寵無く、憂ひを以て死す。李夫人卒するに及び、則ち尹婕妤の属有り、更々寵有り。然れども皆倡を以て見ゆ、王侯有土の士女に非ず、以て人主に配すべからざるなり。褚先生曰く、臣郎為りし時、漢家の故事に習ふ者鐘離生に問ふ。曰く、王太后民間に在りし時生む所の[一]女は、父は金王孫為り。王孫已に死し、景帝崩じて後、武帝已に立ち、王太后独り在り。而して韓王孫名は嫣素より武帝に幸せらる、間を承けて太后に女有りて長陵に在りと白言す。武帝曰く、「何ぞ蚤く言はざる」と。乃ち使をして往きて先づ之を視しむ、其の家に在り。武帝乃ち自ら往きて之を迎へ取る。蹕道し、先駆の旄騎横城門を出で、乗輿馳せて長陵に至る。小市の西に当たりて里に入る、里門閉づ、暴かに門を開き、乗輿直ちに此の里に入り、通じて金氏の門外に至りて止まり、武騎をして其の宅を囲ましむ、其の亡走するが為に、身自ら往きて取るも得ざればなり。即ち左右の群臣をして入りて之を呼び求めしむ。家人驚き恐る、女亡げて内中の床下に匿る。扶持して門を出でしめ、拝謁せしむ。
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史記 外戚世家長公主怒り、而して日々に栗姫の短を景帝に讒して曰く、「栗姫、諸貴夫人幸姫と会するに、常に侍者をして其の背に祝唾せしめ、邪媚の道を挟む」と。景帝故を以て之を望む。景帝嘗て体安からず、心楽しまず、諸子の王為る者を栗姫に属して、曰く、「百歳の後、善く之を視よ」と。栗姫怒り、肯へて応ぜず、言遜らず。景帝恚り、心に之を嗛むも未だ発せざるなり。長公主日々に王夫人の男の美を誉む、景帝も亦た之を賢とし、又曩者の夢みる所の日の符有り、計未だ定まる所有らず。王夫人帝の栗姫を望むを知り、因りて怒り未だ解けざるに、陰かに人をして大臣を趣して栗姫を立てて皇后と為さしむ。大行事を奏し畢はり、曰く、「『子は母を以て貴く、母は子を以て貴し』、今太子の母号無し、宜しく立てて皇后と為すべし」と。景帝怒りて曰く、「是れ而の宜しく言ふべき所ならんや」と。遂に案じて大行を誅し、而して太子を廃して臨江王と為す。栗姫愈々恚恨し、見ゆるを得ず、憂ひを以て死す。卒に王夫人を立てて皇后と為し、其の男を太子と為し、皇后の兄信を封じて蓋侯と為す。景帝崩じ、太子号を襲ひて皇帝と為る。皇太后の母臧児を尊びて平原君と為す。田蚡を封じて武安侯と為し、勝を周陽侯と為す。景帝の十三男、一男は帝と為り、十二男は皆王と為る。而して児姁早く卒し、其の四子皆王と為る。王太后の長女は号を平陽公主と曰ひ、次は南宮公主と為し、次は林慮公主と為す。蓋侯信は酒を好む。田蚡・勝は貪にして、文辞に巧みなり。王仲蚤く死し、槐裏に葬る、追尊して共侯と為し、園邑二百家を置く。平原君卒するに及び、田氏に従ひて長陵に葬り、園を置くこと共侯の園に比す。而して王太后は孝景帝に後るること十六歳、元朔四年を以て崩じ、陽陵に合葬す。王太后の家凡そ三人侯と為る。衛皇后は字は子夫、生まれ微なり。蓋し其の家号して衛氏と曰ひ、平陽侯の邑に出づ。
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史記 外戚世家子夫は平陽主の謳者為り。武帝初めて即位し、数歳子無し。平陽主諸々の良家の子女十余人を求め、飾りて家に置く。武帝霸上に祓して還り、因りて平陽主に過る。主侍する所の美人を見えしむ。上説ばず。既に飲み、謳者進む、上望み見て、独り衛子夫を説ぶ。是の日、武帝起ちて衣を更む、子夫尚衣の軒中に侍し、幸を得たり。上還りて坐し、驩ぶこと甚だし。平陽主に金千斤を賜ふ。主因りて子夫を奉送して宮に入れんことを奏す。子夫車に上る、平陽主其の背を拊ちて曰く、「行け、彊ひて飯し、之を勉めよ。即し貴くならば、相忘るること無かれ」と。宮に入りて歳余、竟に復た幸せられず。武帝宮人の用に中らざる者を択び、斥け出して之を帰す。衛子夫見ゆるを得、涕泣して出でんことを請ふ。上之を憐れみ、復た幸す、遂に身有り、尊寵日に隆し。其の兄衛長君・弟青を召して侍中と為す。而して子夫後に大いに幸せられ、寵有り、凡そ三女一男を生む。男の名は据。初め、上太子為りし時、長公主の女を娶りて妃と為す。立ちて帝と為り、妃立ちて皇后と為る、姓は陳氏、子無し。上の嗣と為るを得たるは、大長公主力有り、故を以て陳皇后驕貴なり。衛子夫の大いに幸せらるるを聞き、恚りて、死に幾き者数々なり。上愈々怒る。陳皇后婦人の媚道を挟み、其の事頗る覚る、是に於て陳皇后を廃し、而して衛子夫を立てて皇后と為す。陳皇后の母大長公主は、景帝の姊なり、数々武帝の姊平陽公主を譲めて曰く、「帝は我に非ずんば立つを得ず、已にして吾が女を棄捐す、壹に何ぞ自ら喜ばずして本に倍くや」と。平陽公主曰く、「子無きの故を用て廃せらるるのみ」と。陳皇后子を求め、医に与ふる銭凡そ九千万、然れども竟に子無し。衛子夫已に立ちて皇后と為る、是より先衛長君死す、乃ち衛青を以て将軍と為し、胡を撃ちて功有り、封じて長平侯と為す。青の三子襁褓の中に在るも、皆封じて列侯と為す。
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史記 魏其武安侯列伝主爵都尉汲黯魏其を是とす。内史鄭当時魏其を是とするも、後に敢へて堅く対へず。余は皆敢へて対ふる莫し。上内史を怒りて曰く、「公平生数々魏其・武安の長短を言ふ。今日廷論するに、局趣して轅下の駒に効ふ。吾並びに若の属を斬らん」と。即ち罷めて起ちて入り、太后に食を上る。太后も亦已に人をして候伺せしめ、具に以て太后に告ぐ。太后怒りて、食はずして、曰く、「今我在るに、人皆吾が弟を藉く。我が百歳の後をして、皆之を魚肉にせしめん。且つ帝寧ぞ能く石人為らんや。此れ特だ帝在ればこそ、即ち録録たり。設し百歳の後ならば、是の属寧ぞ信ずべき者有らんや」と。上謝して曰く、「倶に宗室外家なり。故に之を廷弁せしむ。然らずんば、此れ一獄吏の決する所のみ」と。是の時郎中令石建上の為に別に両人の事を言ふ。武安已に朝を罷め、止車門を出で、韓御史大夫を召して載せ、怒りて曰く、「長孺と共に一老禿翁なり。何為れぞ首鼠両端なる」と。韓御史良久しくして丞相に謂ひて曰く、「君何ぞ自ら喜せざる。夫れ魏其君を毀らば、君当に冠を免ぎ印綬を解きて帰り、『臣肺腑を以て幸ひに罪を待つを得たるも、固より其の任に非ず。魏其の言は皆是なり』と曰ふべし。此の如くんば、上必ず君の譲る有るを多として、君を廃せざらん。魏其必ず内に愧ぢ、門を杜ぢ舌を齰みて自殺せん。今人君を毀り、君も亦人を毀る。譬へば賈豎・女子の言を争ふが如し。何ぞ其の大体無きや」と。武安謝罪して曰く、「争ふ時急にして、此に出づるを知らず」と。是に於て上御史をして魏其の灌夫を言ふ所を簿責せしむるに、頗る讎はず、欺謾なり。劾して都司空に系ぐ。孝景の時、魏其常に遺詔を受く、曰く「事に便ならざる有らば、便宜を以て上に論ぜよ」と。系がるるに及び、灌夫の罪族に至り、事日に急にして、諸公敢へて復た明らかに上に言ふ莫し。魏其乃ち昆弟の子をして上書して之を言はしめ、幸ひに復た召見せらるるを得んとす。書上に奏せらるるも、尚書を案ずるに大行に遺詔無し。
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