史記 / 外戚世家
褚先生曰:丈夫龍變。傳曰:「蛇化為龍,不變其文;家化為國,不變其姓。」丈夫當時富貴,百惡滅除,光耀榮華,貧賤之時何足累之哉!武帝時,幸夫人尹婕妤。邢夫人號娙娥,眾人謂之「娙何」。娙何秩比中二千石,容華秩比二千石,婕妤秩比列侯。常從婕妤遷為皇后。尹夫人與邢夫人同時并幸,有詔不得相見。尹夫人自請武帝,願望見邢夫人,帝許之。即令他夫人飾,從御者數十人,為邢夫人來前。尹夫人前見之,曰:「此非邢夫人身也。」帝曰:「何以言之?」對曰:「視其身貌形狀,不足以當人主矣。」於是帝乃詔使邢夫人衣故衣,獨身來前。尹夫人望見之,曰:「此真是也。」於是乃低頭俛而泣,自痛其不如也。諺曰:「美女入室,惡女之仇。」褚先生曰:浴不必江海,要之去垢;馬不必騏驥,要之善走;士不必賢世,要之知道;女不必貴種,要之貞好。傳曰:「女無美惡,入室見妒;士無賢不肖,入朝見嫉。」美女者,惡女之仇。豈不然哉!鉤弋夫人姓趙氏,河閒人也。得幸武帝,生子一人,昭帝是也。武帝年七十,乃生昭帝。昭帝立時,年五歲耳。衛太子廢後,未復立太子。而燕王旦上書,願歸國入宿衛。武帝怒,立斬其使者於北闕。上居甘泉宮,召畫工圖畫周公負成王也。
新字:褚先生曰:丈夫竜変。伝曰:「蛇化為竜,不変其文;家化為国,不変其姓。」丈夫当時富貴,百悪滅除,光耀栄華,貧賤之時何足累之哉!武帝時,幸夫人尹婕妤。邢夫人号娙娥,衆人謂之「娙何」。娙何秩比中二千石,容華秩比二千石,婕妤秩比列侯。常従婕妤遷為皇后。尹夫人与邢夫人同時并幸,有詔不得相見。尹夫人自請武帝,願望見邢夫人,帝許之。即令他夫人飾,従御者数十人,為邢夫人来前。尹夫人前見之,曰:「此非邢夫人身也。」帝曰:「何以言之?」対曰:「視其身貌形状,不足以当人主矣。」於是帝乃詔使邢夫人衣故衣,独身来前。尹夫人望見之,曰:「此真是也。」於是乃低頭俛而泣,自痛其不如也。諺曰:「美女入室,悪女之仇。」褚先生曰:浴不必江海,要之去垢;馬不必騏驥,要之善走;士不必賢世,要之知道;女不必貴種,要之貞好。伝曰:「女無美悪,入室見妬;士無賢不肖,入朝見嫉。」美女者,悪女之仇。豈不然哉!鉤弋夫人姓趙氏,河閒人也。得幸武帝,生子一人,昭帝是也。武帝年七十,乃生昭帝。昭帝立時,年五歳耳。衛太子廃後,未復立太子。而燕王旦上書,願帰国入宿衛。武帝怒,立斬其使者於北闕。上居甘泉宮,召画工図画周公負成王也。
書き下し
褚先生曰く、丈夫は龍変す。伝に曰く、「蛇化して龍と為るも、其の文を変ぜず。家化して国と為るも、其の姓を変ぜず」と。丈夫当時富貴なれば、百悪滅除し、光耀栄華、貧賤の時何ぞ之を累すに足らんや。武帝の時、夫人尹婕妤を幸す。邢夫人は娙娥と号す、衆人之を「娙何」と謂ふ。娙何の秩は中二千石に比し、容華の秩は二千石に比し、婕妤の秩は列侯に比す。常に婕妤より遷りて皇后と為る。尹夫人と邢夫人と同時に并びに幸せられ、詔有りて相見るを得ず。尹夫人自ら武帝に請ひ、邢夫人を望見せんことを願ふ、帝之を許す。即ち他の夫人をして飾らしめ、従ふ御者数十人、邢夫人と為りて来たり前ましむ。尹夫人前みて之を見て、曰く、「此れ邢夫人の身に非ざるなり」と。帝曰く、「何を以て之を言ふ」と。対へて曰く、「其の身貌形状を視るに、以て人主に当たるに足らざるなり」と。是に於て帝乃ち詔して邢夫人をして故衣を衣て、独身にて来たり前ましむ。尹夫人之を望み見て、曰く、「此れ真に是なり」と。是に於て乃ち低頭し俛して泣き、自ら其の如かざるを痛む。諺に曰く、「美女室に入れば、悪女の仇なり」と。褚先生曰く、浴するは必ずしも江海ならず、之を要するに垢を去るなり。馬は必ずしも騏驥ならず、之を要するに善く走るなり。士は必ずしも世に賢ならず、之を要するに道を知るなり。女は必ずしも貴種ならず、之を要するに貞好なり。伝に曰く、「女は美悪と無く、室に入れば妬まる。士は賢不肖と無く、朝に入れば嫉まる」と。美女は、悪女の仇なり。豈に然らずや。鉤弋夫人は姓は趙氏、河間の人なり。武帝に幸せらるるを得て、子一人を生む、昭帝是なり。武帝年七十にして、乃ち昭帝を生む。昭帝立つ時、年五歳のみ。衛太子廃せられて後、未だ復た太子を立てず。而して燕王旦上書して、国を帰して入りて宿衛せんことを願ふ。武帝怒り、立ちどころに其の使者を北闕に斬る。上甘泉宮に居り、画工を召して周公の成王を負ふを図画せしむ。
現代語訳
褚先生は言う。男子は龍のように変化する。伝にこうある。「蛇が化して龍となっても、その模様は変わらない。家が化して国となっても、その姓は変わらない」。男子がひとたび富貴となれば、あらゆる悪評は消え失せ、光り輝き栄えるのであって、貧しく賤しかったころのことなど、どうして足かせになろうか。武帝の時代、尹婕妤(いんしょうよ)という夫人が寵愛を受けた。邢(けい)夫人は娙娥(けいが)と号し、人々は「娙何」と呼んだ。娙何の俸禄は中二千石に相当し、容華の俸禄は二千石に相当し、婕妤の俸禄は列侯に相当した。婕妤から昇進して皇后となるのが常であった。尹夫人と邢夫人は同じ時期にともに寵愛を受けていたが、互いに会ってはならないという詔があった。尹夫人は自ら武帝に頼み、邢夫人を一目見たいと願い、帝は許した。そこで別の夫人を着飾らせ、侍女数十人を従えさせ、邢夫人に仕立てて前に進ませた。尹夫人は進み出てそれを見て言った。「これは邢夫人ご本人ではない」。帝は言った。「なぜそう言うのか」。尹夫人は答えた。「その姿かたちを見るに、君主のお相手にふさわしいほどではない」。そこで帝は詔して、邢夫人に普段着を着せ、ひとりで前に進ませた。尹夫人はそれを見て言った。「こちらこそ本物だ」。そしてうなだれて泣き、自分が及ばないことを悲しんだ。諺にこうある。「美女が部屋に入れば、醜女の仇となる」。褚先生は言う。水浴びは必ずしも大河や海でなくてよい。要は垢を落とせばよいのだ。馬は必ずしも駿馬でなくてよい。要はよく走ればよいのだ。士人は必ずしも世に名高い賢者でなくてよい。要は道をわきまえていればよいのだ。女性は必ずしも高貴な家柄でなくてよい。要は貞淑で美しければよいのだ。伝にこうある。「女は美しくても醜くても、部屋に入れば妬まれる。士人は賢くても愚かでも、朝廷に入れば嫉まれる」。美女は醜女の仇である。まことにそのとおりではないか。鉤弋(こうよく)夫人は姓を趙氏といい、河間の人である。武帝の寵愛を受けて子を一人生んだ。昭帝がその子である。武帝は七十歳で昭帝を得た。昭帝が即位したときは、わずか五歳であった。衛太子が廃された後、武帝はまだ新たに太子を立てていなかった。すると燕王旦(たん)が上書して、封国を返上して都に入り、宮中の警護に当たりたいと願い出た。武帝は怒り、すぐにその使者を宮殿の北門で斬った。武帝は甘泉宮にいて、画工を呼び、周公が幼い成王を背負っている図を描かせた。
解説
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史記 外戚世家是に於て左右の群臣武帝の意の少子を立てんと欲するを知る。後数日、帝鉤弋夫人を譴責す。夫人簪珥を脱ぎて叩頭す。帝曰く、「引き持ちて去り、掖庭の獄に送れ」と。夫人還顧す、帝曰く、「趣やかに行け、女は活くるを得ず」と。夫人雲陽宮に死す。時に暴風塵を揚げ、百姓感傷す。使者夜棺を持ちて往きて之を葬り、其の処を封識す。其の後帝間居し、左右に問ひて曰く、「人言ふこと云何」と。左右対へて曰く、「人言ふ、且に其の子を立てんとするに、何ぞ其の母を去るやと」と。帝曰く、「然り。是れ児曹愚人の知る所に非ざるなり。往古国家の乱るる所以は、主少くして母壮なるに由るなり。女主独り居りて驕蹇、淫乱自ら恣にし、能く禁ずる莫きなり。女は呂后を聞かずや」と。故に諸々の武帝の為に子を生む者は、男女と無く、其の母譴死せざるは無し、豈に賢聖に非ずと謂ふべけんや。昭然として遠く見、後世の為に計慮す、固より浅聞愚儒の及ぶ所に非ざるなり。謚して「武」と為す、豈に虚ならんや。
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