史記 / 外戚世家
武帝下車泣曰:「嚄!大姊,何藏之深也!」詔副車載之,迴車馳還,而直入長樂宮。行詔門著引籍,通到謁太后。太后曰:「帝倦矣,何從來?」帝曰:「今者至長陵得臣姊,與俱來。」顧曰:「謁太后!」太后曰:「女某邪?」曰:「是也。」太后為下泣,女亦伏地泣。武帝奉酒前為壽,奉錢千萬,奴婢三百人,公田百頃,甲第,以賜姊。太后謝曰:「為帝費焉。」於是召平陽主、南宮主、林慮主三人俱來謁見姊,因號曰修成君。有子男一人,女一人。男號為修成子仲,女為諸侯王王后。此二子非劉氏,以故太后憐之。修成子仲驕恣,陵折吏民,皆患苦之。衛子夫立為皇后,后弟衛青字仲卿,以大將軍封為長平侯。四子,長子伉為侯世子,侯世子常侍中,貴幸。其三弟皆封為侯,各千三百戶,一曰陰安侯,二曰發干侯,三曰宜春侯,貴震天下。天下歌之曰:「生男無喜,生女無怒,獨不見衛子夫霸天下!」是時平陽主寡居,當用列侯尚主。主與左右議長安中列侯可為夫者,皆言大將軍可。主笑曰:「此出吾家,常使令騎從我出入耳,柰何用為夫乎?」左右侍御者曰:「今大將軍姊為皇后,三子為侯,富貴振動天下,主何以易之乎?」於是主乃許之。言之皇后,令白之武帝,乃詔衛將軍尚平陽公主焉。
新字:武帝下車泣曰:「嚄!大姊,何蔵之深也!」詔副車載之,迴車馳還,而直入長楽宮。行詔門著引籍,通到謁太后。太后曰:「帝倦矣,何従来?」帝曰:「今者至長陵得臣姊,与倶来。」顧曰:「謁太后!」太后曰:「女某邪?」曰:「是也。」太后為下泣,女亦伏地泣。武帝奉酒前為寿,奉銭千万,奴婢三百人,公田百頃,甲第,以賜姊。太后謝曰:「為帝費焉。」於是召平陽主、南宮主、林慮主三人倶来謁見姊,因号曰修成君。有子男一人,女一人。男号為修成子仲,女為諸侯王王后。此二子非劉氏,以故太后憐之。修成子仲驕恣,陵折吏民,皆患苦之。衛子夫立為皇后,后弟衛青字仲卿,以大将軍封為長平侯。四子,長子伉為侯世子,侯世子常侍中,貴幸。其三弟皆封為侯,各千三百戸,一曰陰安侯,二曰発干侯,三曰宜春侯,貴震天下。天下歌之曰:「生男無喜,生女無怒,独不見衛子夫覇天下!」是時平陽主寡居,当用列侯尚主。主与左右議長安中列侯可為夫者,皆言大将軍可。主笑曰:「此出吾家,常使令騎従我出入耳,柰何用為夫乎?」左右侍御者曰:「今大将軍姊為皇后,三子為侯,富貴振動天下,主何以易之乎?」於是主乃許之。言之皇后,令白之武帝,乃詔衛将軍尚平陽公主焉。
書き下し
武帝車を下りて泣きて曰く、「嚄、大姊、何ぞ之を蔵すことの深きや」と。詔して副車に之を載せしめ、車を迴らして馳せ還り、而して直ちに長楽宮に入る。行くゆく詔して門に引籍を著けしめ、通じて到りて太后に謁す。太后曰く、「帝倦めり、何れより来たる」と。帝曰く、「今者長陵に至りて臣が姊を得たり、与に倶に来たる」と。顧みて曰く、「太后に謁せよ」と。太后曰く、「女は某か」と。曰く、「是なり」と。太后為に下りて泣き、女も亦た地に伏して泣く。武帝酒を奉じて前みて寿を為し、銭千万、奴婢三百人、公田百頃、甲第を奉じ、以て姊に賜ふ。太后謝して曰く、「帝の為に費せり」と。是に於て平陽主・南宮主・林慮主の三人を召して倶に来たりて姊に謁見せしめ、因りて号して修成君と曰ふ。子男一人、女一人有り。男は号して修成子仲と為し、女は諸侯王の王后と為る。此の二子は劉氏に非ず、故を以て太后之を憐れむ。修成子仲驕恣にして、吏民を陵折す、皆之を患苦す。衛子夫立ちて皇后と為り、后の弟衛青字は仲卿、大将軍を以て封じて長平侯と為す。四子あり、長子伉は侯の世子為り、侯の世子常に侍中し、貴幸せらる。其の三弟皆封じて侯と為す、各々千三百戸、一は陰安侯と曰ひ、二は発干侯と曰ひ、三は宜春侯と曰ふ、貴きこと天下を震はす。天下之を歌ひて曰く、「男を生むも喜ぶ無かれ、女を生むも怒る無かれ、独り衛子夫の天下に霸たるを見ずや」と。是の時平陽主寡居す、当に列侯を用て主に尚すべし。主左右と長安中の列侯の夫と為すべき者を議す、皆大将軍可なりと言ふ。主笑ひて曰く、「此れ吾が家より出づ、常に騎をして我に従ひて出入せしめしのみ、柰何ぞ用ひて夫と為さんや」と。左右侍御の者曰く、「今大将軍の姊は皇后為り、三子は侯為り、富貴天下を振動す、主何を以て之を易へんや」と。是に於て主乃ち之を許す。之を皇后に言ひ、之を武帝に白さしむ、乃ち詔して衛将軍をして平陽公主に尚せしむ。
現代語訳
武帝は車を下りて泣きながら言った。「ああ、姉上、なんと深く隠れておられたことか」。詔して副車に姉を乗せ、車を返して駆け戻り、まっすぐ長楽宮に入った。道すがら詔して宮門の通行名簿に姉の名を記させ、そのまま通って太后に拝謁した。太后は言った。「帝はお疲れのようだ。どこから来られたのか」。武帝は言った。「いま長陵へ行って私の姉を見つけ、一緒に連れて来た」。そして振り返って言った。「太后にご挨拶なさい」。太后は言った。「お前は某か」。娘は言った。「そうだ」。太后はそのために座を下りて泣き、娘もまた地に伏して泣いた。武帝は酒を捧げて進み出て長寿を祝い、銭千万、奴婢三百人、公田百頃、立派な邸宅を姉に賜った。太后は礼を述べて言った。「帝に散財をさせてしまった」。そこで平陽公主・南宮公主・林慮公主の三人を呼んで一緒に姉に拝謁させ、姉を修成君と号した。修成君には男子一人、娘一人がいた。男子は修成子仲と号し、娘は諸侯王の王后となった。この二人は劉氏の血筋ではなかったので、太后はことさら哀れんだ。修成子仲は驕って勝手気ままにふるまい、役人や民をしのぎ虐げたので、みな苦しんだ。衛子夫が皇后に立つと、皇后の弟の衛青、字は仲卿が、大将軍として長平侯に封じられた。衛青には四人の子がいた。長男の伉(こう)は侯の世継ぎで、いつも侍中として仕え、寵愛を受けていた。その三人の弟もみな侯に封じられ、それぞれ千三百戸で、一人は陰安侯、一人は発干侯、一人は宜春侯といい、その貴さは天下を震わせた。天下の人々はこう歌った。「男が生まれても喜ぶな、女が生まれても怒るな。見よ、衛子夫ひとりが天下に覇を唱えているではないか」。このころ平陽公主は夫を亡くして独り身であり、列侯の中から公主の夫を迎えることになった。公主は側近たちと、長安の列侯の中で夫にふさわしい者を相談したところ、みな大将軍がよいと言った。公主は笑って言った。「あれはうちから出た者で、いつも騎馬の供として私の外出に従っていただけだ。どうして夫にできようか」。側近の侍女たちは言った。「いま大将軍の姉は皇后となり、三人の子は侯となり、その富貴は天下を揺り動かしている。公主はどうして彼を差し置いて他の者を選べようか」。そこで公主はようやく承知した。このことを皇后に話し、武帝に申し上げてもらうと、詔が下って衛将軍が平陽公主を娶ることになった。
解説
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史記 外戚世家子夫は平陽主の謳者為り。武帝初めて即位し、数歳子無し。平陽主諸々の良家の子女十余人を求め、飾りて家に置く。武帝霸上に祓して還り、因りて平陽主に過る。主侍する所の美人を見えしむ。上説ばず。既に飲み、謳者進む、上望み見て、独り衛子夫を説ぶ。是の日、武帝起ちて衣を更む、子夫尚衣の軒中に侍し、幸を得たり。上還りて坐し、驩ぶこと甚だし。平陽主に金千斤を賜ふ。主因りて子夫を奉送して宮に入れんことを奏す。子夫車に上る、平陽主其の背を拊ちて曰く、「行け、彊ひて飯し、之を勉めよ。即し貴くならば、相忘るること無かれ」と。宮に入りて歳余、竟に復た幸せられず。武帝宮人の用に中らざる者を択び、斥け出して之を帰す。衛子夫見ゆるを得、涕泣して出でんことを請ふ。上之を憐れみ、復た幸す、遂に身有り、尊寵日に隆し。其の兄衛長君・弟青を召して侍中と為す。而して子夫後に大いに幸せられ、寵有り、凡そ三女一男を生む。男の名は据。初め、上太子為りし時、長公主の女を娶りて妃と為す。立ちて帝と為り、妃立ちて皇后と為る、姓は陳氏、子無し。上の嗣と為るを得たるは、大長公主力有り、故を以て陳皇后驕貴なり。衛子夫の大いに幸せらるるを聞き、恚りて、死に幾き者数々なり。上愈々怒る。陳皇后婦人の媚道を挟み、其の事頗る覚る、是に於て陳皇后を廃し、而して衛子夫を立てて皇后と為す。陳皇后の母大長公主は、景帝の姊なり、数々武帝の姊平陽公主を譲めて曰く、「帝は我に非ずんば立つを得ず、已にして吾が女を棄捐す、壹に何ぞ自ら喜ばずして本に倍くや」と。平陽公主曰く、「子無きの故を用て廃せらるるのみ」と。陳皇后子を求め、医に与ふる銭凡そ九千万、然れども竟に子無し。衛子夫已に立ちて皇后と為る、是より先衛長君死す、乃ち衛青を以て将軍と為し、胡を撃ちて功有り、封じて長平侯と為す。青の三子襁褓の中に在るも、皆封じて列侯と為す。
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史記 外戚世家衛皇后の謂ふ所の姊衛少児に及び、少児子霍去病を生む、軍功を以て冠軍侯に封ぜられ、驃騎将軍と号す。青は大将軍と号す。衛皇后の子据を立てて太子と為す。衛氏の枝属軍功を以て家を起こし、五人侯と為る。衛后色衰ふるに及び、趙の王夫人幸せられ、子有り、斉王と為る。王夫人蚤く卒す。而して中山の李夫人寵有り、男一人有り、昌邑王と為る。李夫人蚤く卒す、其の兄李延年音を以て幸せられ、協律と号す。協律は、故の倡なり。兄弟皆姦に坐し、族せらる。是の時其の長兄広利は弐師将軍為り、大宛を伐ち、誅に及ばず、還る、而して上既に李氏を夷らげ、後に其の家を憐れみ、乃ち封じて海西侯と為す。他の姫の子二人燕王・広陵王と為る。其の母寵無く、憂ひを以て死す。李夫人卒するに及び、則ち尹婕妤の属有り、更々寵有り。然れども皆倡を以て見ゆ、王侯有土の士女に非ず、以て人主に配すべからざるなり。褚先生曰く、臣郎為りし時、漢家の故事に習ふ者鐘離生に問ふ。曰く、王太后民間に在りし時生む所の[一]女は、父は金王孫為り。王孫已に死し、景帝崩じて後、武帝已に立ち、王太后独り在り。而して韓王孫名は嫣素より武帝に幸せらる、間を承けて太后に女有りて長陵に在りと白言す。武帝曰く、「何ぞ蚤く言はざる」と。乃ち使をして往きて先づ之を視しむ、其の家に在り。武帝乃ち自ら往きて之を迎へ取る。蹕道し、先駆の旄騎横城門を出で、乗輿馳せて長陵に至る。小市の西に当たりて里に入る、里門閉づ、暴かに門を開き、乗輿直ちに此の里に入り、通じて金氏の門外に至りて止まり、武騎をして其の宅を囲ましむ、其の亡走するが為に、身自ら往きて取るも得ざればなり。即ち左右の群臣をして入りて之を呼び求めしむ。家人驚き恐る、女亡げて内中の床下に匿る。扶持して門を出でしめ、拝謁せしむ。
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史記 衛将軍驃騎列伝青壮にして、侯家の騎と為り、平陽主に従ふ。建元二年春、青の姊子夫入宮して上に幸せらるるを得たり。皇后は、堂邑の大長公主の女なり。子無くして、妒む。大長公主衛子夫の幸せられて、身有るを聞き、之を妒み、乃ち人をして青を捕へしむ。青時に建章に給事し、未だ名を知られず。大長公主青を執囚し、之を殺さんと欲す。其の友騎郎公孫敖壮士と往きて之を篡取す。故を以て死せざるを得たり。上聞き、乃ち青を召して建章監・侍中と為し、及び同母の昆弟貴く、賞賜すること数日の間に千金を累ぬ。孺は太僕公孫賀の妻と為る。少児は故より陳掌と通ず。上召して掌を貴くす。公孫敖此に由りて益々貴し。子夫夫人と為る。青大中大夫と為る。青車騎将軍と為り、匈奴を撃ちて、上谷より出づ。太僕公孫賀軽車将軍と為り、雲中より出づ。大中大夫公孫敖騎将軍と為り、代郡より出づ。衛尉李広驍騎将軍と為り、雁門より出づ。軍各々万騎。青蘢城に至り、首虜を斬ること数百。騎将軍敖は七千騎を亡ふ。衛尉李広は虜の得る所と為り、脱して帰るを得たり。皆斬に当たり、贖ひて庶人と為る。賀も亦功無し。春、衛夫人男有り、立ちて皇后と為る。其の秋、青車騎将軍と為り、雁門より出で、三万騎もて匈奴を撃ち、首虜を斬ること数千人。明年、匈奴入りて遼西の太守を殺し、漁陽の二千余人を虜略し、韓将軍の軍を敗る。漢将軍李息をして之を撃たしめ、代より出でしめ、車騎将軍青をして雲中より以西高闕に至るまで出でしむ。遂に河南の地を略し、隴西に至り、首虜数千、畜数十万を捕へ、白羊・楼煩王を走らす。遂に河南の地を以て朔方郡と為す。三千八百戸を以て青を封じて長平侯と為す。青の校尉蘇建功有り、千一百戸を以て建を封じて平陵侯と為す。建をして朔方の城を築かしむ。
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史記 衛将軍驃騎列伝大将軍衛青は、平陽の人なり。其の父鄭季、吏と為り、平陽侯の家に給事し、侯の妾衛媼と通じ、青を生む。青の同母兄衛長子、而して姊衛子夫平陽公主の家より天子に幸せらるるを得たり。故に姓を冒して衛氏と為す。字は仲卿。長子は更めて長君と字す。長君の母は号して衛媼と為す。媼の長女は衛孺、次女は少児、次女は即ち子夫なり。後に子夫の男弟歩・広皆衛氏を冒す。
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史記 外戚世家長公主怒り、而して日々に栗姫の短を景帝に讒して曰く、「栗姫、諸貴夫人幸姫と会するに、常に侍者をして其の背に祝唾せしめ、邪媚の道を挟む」と。景帝故を以て之を望む。景帝嘗て体安からず、心楽しまず、諸子の王為る者を栗姫に属して、曰く、「百歳の後、善く之を視よ」と。栗姫怒り、肯へて応ぜず、言遜らず。景帝恚り、心に之を嗛むも未だ発せざるなり。長公主日々に王夫人の男の美を誉む、景帝も亦た之を賢とし、又曩者の夢みる所の日の符有り、計未だ定まる所有らず。王夫人帝の栗姫を望むを知り、因りて怒り未だ解けざるに、陰かに人をして大臣を趣して栗姫を立てて皇后と為さしむ。大行事を奏し畢はり、曰く、「『子は母を以て貴く、母は子を以て貴し』、今太子の母号無し、宜しく立てて皇后と為すべし」と。景帝怒りて曰く、「是れ而の宜しく言ふべき所ならんや」と。遂に案じて大行を誅し、而して太子を廃して臨江王と為す。栗姫愈々恚恨し、見ゆるを得ず、憂ひを以て死す。卒に王夫人を立てて皇后と為し、其の男を太子と為し、皇后の兄信を封じて蓋侯と為す。景帝崩じ、太子号を襲ひて皇帝と為る。皇太后の母臧児を尊びて平原君と為す。田蚡を封じて武安侯と為し、勝を周陽侯と為す。景帝の十三男、一男は帝と為り、十二男は皆王と為る。而して児姁早く卒し、其の四子皆王と為る。王太后の長女は号を平陽公主と曰ひ、次は南宮公主と為し、次は林慮公主と為す。蓋侯信は酒を好む。田蚡・勝は貪にして、文辞に巧みなり。王仲蚤く死し、槐裏に葬る、追尊して共侯と為し、園邑二百家を置く。平原君卒するに及び、田氏に従ひて長陵に葬り、園を置くこと共侯の園に比す。而して王太后は孝景帝に後るること十六歳、元朔四年を以て崩じ、陽陵に合葬す。王太后の家凡そ三人侯と為る。衛皇后は字は子夫、生まれ微なり。蓋し其の家号して衛氏と曰ひ、平陽侯の邑に出づ。
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史記 衛将軍驃騎列伝而して卒す。天子之を悼み、属国の玄甲軍を発し、陳ぬること長安より茂陵に至り、冢を為りて祁連山に象る。之を諡し、武と広地とを并せて景桓侯と曰ふ。子嬗侯に代はる。嬗少く、字は子侯、上之を愛し、其の壮なるを幸ひて之を将たらしめんとす。居ること六歳、元封元年、嬗卒し、諡して哀侯と曰ふ。子無く、絶え、国除かる。驃騎将軍の死せしより後、大将軍の長子宜春侯伉法に坐して侯を失ふ。後五歳、伉の弟二人、陰安侯不疑及び発干侯登皆酎金に坐して侯を失ふ。侯を失ひて後二歳、冠軍侯の国除かる。其の後四年、大将軍青卒し、諡して烈侯と為す。子伉代はりて長平侯と為る。大将軍の単于を囲みしより後、十四年にして卒す。竟に復た匈奴を撃たざる者は、漢の馬少なく、而して方に南のかた両越を誅し、東のかた朝鮮を伐ち、羌・西南夷を撃つを以て、故を以て久しく胡を伐たず。大将軍其の平陽長公主を尚るを得たるの故を以て、長平侯伉侯に代はる。六歳にして、法に坐して侯を失ふ。左方は両大将軍及び諸裨将の名なり。最れ大将軍青、凡そ七たび出でて匈奴を撃ち、首虜を斬捕すること五万余級。一たび単于と戦ひ、河南の地を収め、遂に朔方郡を置く。再び益封せられ、凡そ万一千八百戸。三子を封じて侯と為し、侯は千三百戸。之を并せて、万五千七百戸。其の校尉裨将の大将軍に従ひて侯たる者九人。其の裨将及び校尉の已に将と為る者十四人。裨将為る者を李広と曰ふ。自ら伝有り。伝無き者を曰ふ、将軍公孫賀。賀は、義渠の人にして、其の先は胡種なり。賀の父渾邪、景帝の時平曲侯と為り、法に坐して侯を失ふ。賀は、武帝の太子為りし時の舎人なり。武帝立ちて八歳、太僕を以て軽車将軍と為り、馬邑に軍す。後四歳、軽車将軍を以て雲中より出づ。
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