史記 / 外戚世家
長君前死,封其子彭祖為南皮侯。吳楚反時,竇太后從昆弟子竇嬰,任俠自喜,將兵,以軍功為魏其侯。竇氏凡三人為侯。竇太后好黃帝、老子言,帝及太子諸竇不得不讀黃帝、老子,尊其術。竇太后後孝景帝六歲崩,合葬霸陵。遺詔盡以東宮金錢財物賜長公主嫖。王太后,槐裏人,母曰臧兒。臧兒者,故燕王臧荼孫也。臧兒嫁為槐裏王仲妻,生男曰信,與兩女。而仲死,臧兒更嫁長陵田氏,生男蚡、勝。臧兒長女嫁為金王孫婦,生一女矣,而臧兒卜筮之,曰兩女皆當貴。因欲奇兩女,乃奪金氏。金氏怒,不肯予決,乃內之太子宮。太子幸愛之,生三女一男。男方在身時,王美人夢日入其懷。以告太子,太子曰:「此貴徵也。」未生而孝文帝崩,孝景帝即位,王夫人生男。先是臧兒又入其少女兒姁,兒姁生四男。景帝為太子時,薄太后以薄氏女為妃。及景帝立,立妃曰薄皇后。皇后毋子,毋寵。薄太后崩,廢薄皇后。景帝長男榮,其母栗姬。栗姬,齊人也。立榮為太子。長公主嫖有女,欲予為妃。栗姬妒,而景帝諸美人皆因長公主見景帝,得貴幸,皆過栗姬,栗姬日怨怒,謝長公主,不許。長公主欲予王夫人,王夫人許之。
新字:長君前死,封其子彭祖為南皮侯。呉楚反時,竇太后従昆弟子竇嬰,任侠自喜,将兵,以軍功為魏其侯。竇氏凡三人為侯。竇太后好黄帝、老子言,帝及太子諸竇不得不読黄帝、老子,尊其術。竇太后後孝景帝六歳崩,合葬覇陵。遺詔尽以東宮金銭財物賜長公主嫖。王太后,槐裏人,母曰臧児。臧児者,故燕王臧荼孫也。臧児嫁為槐裏王仲妻,生男曰信,与両女。而仲死,臧児更嫁長陵田氏,生男蚡、勝。臧児長女嫁為金王孫婦,生一女矣,而臧児卜筮之,曰両女皆当貴。因欲奇両女,乃奪金氏。金氏怒,不肯予決,乃内之太子宮。太子幸愛之,生三女一男。男方在身時,王美人夢日入其懐。以告太子,太子曰:「此貴徴也。」未生而孝文帝崩,孝景帝即位,王夫人生男。先是臧児又入其少女児姁,児姁生四男。景帝為太子時,薄太后以薄氏女為妃。及景帝立,立妃曰薄皇后。皇后毋子,毋寵。薄太后崩,廃薄皇后。景帝長男栄,其母栗姫。栗姫,斉人也。立栄為太子。長公主嫖有女,欲予為妃。栗姫妬,而景帝諸美人皆因長公主見景帝,得貴幸,皆過栗姫,栗姫日怨怒,謝長公主,不許。長公主欲予王夫人,王夫人許之。
書き下し
長君前に死す、其の子彭祖を封じて南皮侯と為す。呉楚反く時、竇太后の従昆弟の子竇嬰、任俠にして自ら喜び、兵を将ゐ、軍功を以て魏其侯と為る。竇氏凡そ三人侯と為る。竇太后黄帝・老子の言を好む、帝及び太子諸竇黄帝・老子を読み、其の術を尊ばざるを得ず。竇太后は孝景帝に後るること六歳(建元六年)にして崩じ、霸陵に合葬す。遺詔して尽く東宮の金銭財物を以て長公主嫖に賜ふ。王太后は、槐裏の人、母を臧児と曰ふ。臧児は、故の燕王臧荼の孫なり。臧児嫁して槐裏の王仲の妻と為り、男を生む、信と曰ふ、両女と与にす。而して仲死し、臧児更に長陵の田氏に嫁し、男蚡・勝を生む。臧児の長女は嫁して金王孫の婦と為り、一女を生めり、而して臧児之を卜筮するに、両女皆当に貴かるべしと曰ふ。因りて両女を奇とせんと欲し、乃ち金氏より奪ふ。金氏怒り、肯へて決を予へず、乃ち之を太子宮に内る。太子之を幸愛し、三女一男を生む。男方に身に在る時、王美人日の其の懐に入るを夢む。以て太子に告ぐ、太子曰く、「此れ貴徴なり」と。未だ生まれずして孝文帝崩じ、孝景帝即位す、王夫人男を生む。是より先、臧児又其の少女児姁を入る、児姁四男を生む。景帝太子為りし時、薄太后薄氏の女を以て妃と為す。景帝立つに及び、妃を立てて薄皇后と曰ふ。皇后子毋く、寵毋し。薄太后崩じ、薄皇后を廃す。景帝の長男は栄、其の母は栗姫。栗姫は、斉人なり。栄を立てて太子と為す。長公主嫖に女有り、予へて妃と為さんと欲す。栗姫妒む、而して景帝の諸美人皆長公主に因りて景帝に見え、貴幸を得て、皆栗姫に過ぐ、栗姫日々に怨怒し、長公主を謝して、許さず。長公主王夫人に予へんと欲す、王夫人之を許す。
現代語訳
竇長君は先に死んでいたので、その子の彭祖を南皮侯に封じた。呉楚七国が反乱を起こしたとき、竇太后の従兄弟の子である竇嬰(とうえい)は、侠気に富み、それを自負していたが、兵を率いて戦功をあげ、魏其侯(ぎきこう)となった。竇氏で侯となった者は合わせて三人である。竇太后は黄帝・老子の教えを好んだので、皇帝(景帝)も太子も竇氏の者たちも、黄帝・老子の書を読んで、その教えを尊ばないわけにはいかなかった。竇太后は孝景帝に遅れること六年(建元六年)に崩じ、(文帝の)霸陵に合葬された。遺詔によって、東宮の金銭や財物をすべて長公主嫖に賜った。王太后は槐裏(かいり)の人で、母を臧児(ぞうじ)という。臧児はもとの燕王臧荼(ぞうと)の孫である。臧児は嫁いで槐裏の王仲の妻となり、信という男子と二人の娘を生んだ。王仲が死ぬと、臧児は改めて長陵の田氏に嫁ぎ、蚡(ふん)と勝という男子を生んだ。臧児の長女は金王孫の妻となり、すでに娘を一人生んでいたが、臧児が占ってみると、二人の娘はどちらも高貴な身分になると出た。そこで二人の娘に賭けようと考え、長女を金氏から取り戻した。金氏は怒って離縁を承知しなかったが、臧児は長女を太子の宮殿に入れた。太子は彼女を寵愛し、三人の娘と一人の男子が生まれた。男子を身ごもっていたとき、王美人(長女)は太陽が懐に入る夢を見た。それを太子に告げると、太子は言った。「それは高貴な者が生まれる兆しだ」。まだ生まれないうちに孝文帝が崩じ、孝景帝が即位し、王夫人は男子を生んだ。これより先、臧児は下の娘の児姁(じく)も入れており、児姁は四人の男子を生んだ。景帝が太子であったとき、薄太后は薄氏の娘を太子の妃とした。景帝が即位すると、その妃を立てて薄皇后とした。しかし皇后には子がなく、寵愛もなかった。薄太后が崩じると、薄皇后は廃された。景帝の長男は栄で、母は栗姫(りつき)である。栗姫は斉の人である。栄が太子に立てられた。長公主嫖には娘がいて、太子の妃にしたいと望んだ。ところが栗姫は嫉妬深く、景帝の美人たちはみな長公主の口利きで景帝に会って寵愛を受け、みな栗姫以上に寵愛されていたので、栗姫は日ごとに恨み怒り、長公主の申し出を断って承知しなかった。長公主は娘を王夫人の子に嫁がせようとし、王夫人はそれを承知した。
解説
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史記 外戚世家大臣後を立てんことを議し、外家呂氏の彊きを疾み、皆薄氏の仁善を称す、故に代王を迎へ、立てて孝文皇帝と為す、而して太后は号を改めて皇太后と曰ひ、弟薄昭は封じて軹侯と為す。薄太后の母も亦た前に死し、櫟陽の北に葬る。是に於て乃ち薄父を追尊して霊文侯と為し、会稽郡に園邑三百家を置き、長丞已下の吏冢を奉守し、寝廟の上食の祠法の如くす。而して櫟陽の北にも亦た霊文侯夫人の園を置き、霊文侯の園の儀の如くす。薄太后以為へらく、母家は魏王の後なり、早く父母を失ふと。其の薄太后を奉ずる諸魏の力有る者、是に於て魏氏を召復し、[尊を及ぼし]賞賜各々親疏を以て之を受く。薄氏の侯たる者凡そ一人。薄太后は文帝に後るること二年、孝景帝の前二年を以て崩じ、南陵に葬る。呂后長陵に会葬するを以て、故に特に自ら陵を起こし、孝文皇帝の霸陵に近くす。竇太后は、趙の清河観津の人なり。呂太后の時、竇姫良家の子を以て宮に入りて太后に侍す。太后宮人を出だして以て諸王に賜ふ、各々五人、竇姫与に行中に在り。竇姫の家清河に在り、趙に如きて家に近からんことを欲し、其の主遣の宦者の吏に請ふ、「必ず我が籍を趙の伍中に置け」と。宦者之を忘れ、誤りて其の籍を代の伍中に置く。籍奏せられ、詔して可とし、当に行くべし。竇姫涕泣し、其の宦者を怨み、往くを欲せず、相彊ひて、乃ち肯へて行く。代に至り、代王独り竇姫を幸し、女嫖を生み、後に両男を生む。而して代王の王后四男を生む。代王未だ入りて立ちて帝と為らざるに先だちて王后卒す。代王立ちて帝と為るに及び、而して王后の生む所の四男更々病死す。孝文帝立ちて数月、公卿太子を立てんことを請ふ、而して竇姫の長男最も長なり、立てて太子と為す。竇姫を立てて皇后と為し、女嫖を長公主と為す。
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史記 外戚世家長公主怒り、而して日々に栗姫の短を景帝に讒して曰く、「栗姫、諸貴夫人幸姫と会するに、常に侍者をして其の背に祝唾せしめ、邪媚の道を挟む」と。景帝故を以て之を望む。景帝嘗て体安からず、心楽しまず、諸子の王為る者を栗姫に属して、曰く、「百歳の後、善く之を視よ」と。栗姫怒り、肯へて応ぜず、言遜らず。景帝恚り、心に之を嗛むも未だ発せざるなり。長公主日々に王夫人の男の美を誉む、景帝も亦た之を賢とし、又曩者の夢みる所の日の符有り、計未だ定まる所有らず。王夫人帝の栗姫を望むを知り、因りて怒り未だ解けざるに、陰かに人をして大臣を趣して栗姫を立てて皇后と為さしむ。大行事を奏し畢はり、曰く、「『子は母を以て貴く、母は子を以て貴し』、今太子の母号無し、宜しく立てて皇后と為すべし」と。景帝怒りて曰く、「是れ而の宜しく言ふべき所ならんや」と。遂に案じて大行を誅し、而して太子を廃して臨江王と為す。栗姫愈々恚恨し、見ゆるを得ず、憂ひを以て死す。卒に王夫人を立てて皇后と為し、其の男を太子と為し、皇后の兄信を封じて蓋侯と為す。景帝崩じ、太子号を襲ひて皇帝と為る。皇太后の母臧児を尊びて平原君と為す。田蚡を封じて武安侯と為し、勝を周陽侯と為す。景帝の十三男、一男は帝と為り、十二男は皆王と為る。而して児姁早く卒し、其の四子皆王と為る。王太后の長女は号を平陽公主と曰ひ、次は南宮公主と為し、次は林慮公主と為す。蓋侯信は酒を好む。田蚡・勝は貪にして、文辞に巧みなり。王仲蚤く死し、槐裏に葬る、追尊して共侯と為し、園邑二百家を置く。平原君卒するに及び、田氏に従ひて長陵に葬り、園を置くこと共侯の園に比す。而して王太后は孝景帝に後るること十六歳、元朔四年を以て崩じ、陽陵に合葬す。王太后の家凡そ三人侯と為る。衛皇后は字は子夫、生まれ微なり。蓋し其の家号して衛氏と曰ひ、平陽侯の邑に出づ。
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史記 孝景本紀孝景皇帝は、孝文の中子なり。母は竇太后なり。孝文代に在りし時、前后に三男有り、竇太后幸を得るに及び、前后死し、三子更々死するに及び、故に孝景立つを得たり。元年四月乙卯、天下に赦す。乙巳、民に爵一級を賜ふ。五月、田の半租を除き、孝文の為に太宗の廟を立つ。群臣をして朝賀する無からしむ。匈奴代に入る、与に約して和親す。二年春、故の相国蕭何の孫系を封じて武陵侯と為す。男子二十にして傅することを得。四月壬午、孝文太后崩ず。広川・長沙王皆国に之く。丞相申屠嘉卒す。八月、御史大夫開封の陶青を以て丞相と為す。彗星東北に出づ。秋、衡山雹を雨らす、大なる者五寸、深き者二尺。熒惑逆行し、北辰を守る。月北辰の間に出づ。歳星天廷の中に逆行す。南陵及び内史・祋祤を置きて県と為す。三年正月乙巳、天下に赦す。長星西方に出づ。天火雒陽の東宮の大殿城室を燔く。呉王濞・楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠反し、兵を発して西に郷ふ。天子為に晁錯を誅し、袁盎を遣はして諭告せしむ、止まず、遂に西のかた梁を囲む。上乃ち大将軍竇嬰・太尉周亜夫を遣はして兵を将ゐて之を誅せしむ。六月乙亥、亡軍及び楚の元王の子芸等の謀反に与る者を赦す。大将軍竇嬰を封じて魏其侯と為す。楚の元王の子平陸侯礼を立てて楚王と為す。皇子端を立てて膠西王と為し、子勝を中山王と為す。済北王志を徙して菑川王と為し、淮陽王余を魯王と為し、汝南王非を江都王と為す。斉王将廬・燕王嘉皆薨ず。四年夏、太子を立つ。皇子徹を立てて膠東王と為す。六月甲戌、天下に赦す。
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