史記 / 外戚世家
其明年,立少子武為代王,已而又徙梁,是為梁孝王。竇皇后親蚤卒,葬觀津。於是薄太后乃詔有司,追尊竇后父為安成侯,母曰安成夫人。令清河置園邑二百家,長丞奉守,比靈文園法。竇皇后兄竇長君,弟曰竇廣國,字少君。少君年四五歲時,家貧,為人所略賣,其家不知其處。傳十餘家,至宜陽,為其主入山作炭,暮臥岸下百餘人,岸崩,盡壓殺臥者,少君獨得脫,不死。自卜數日當為侯,從其家之長安。聞竇皇后新立,家在觀津,姓竇氏。廣國去時雖小,識其縣名及姓,又常與其姊採桑墮,用為符信,上書自陳。竇皇后言之於文帝,召見,問之,具言其故,果是。又復問他何以為驗?對曰:「姊去我西時,與我決於傳舍中,丐沐沐我,請食飯我,乃去。」於是竇后持之而泣,泣涕交橫下。侍御左右皆伏地泣,助皇后悲哀。乃厚賜田宅金錢,封公昆弟,家於長安。絳侯、灌將軍等曰:「吾屬不死,命乃且縣此兩人。兩人所出微,不可不為擇師傅賓客,又復效呂氏大事也。」於是乃選長者士之有節行者與居。竇長君、少君由此為退讓君子,不敢以尊貴驕人。竇皇后病,失明。文帝幸邯鄲慎夫人、尹姬,皆毋子。孝文帝崩,孝景帝立,乃封廣國為章武侯。
新字:其明年,立少子武為代王,已而又徙梁,是為梁孝王。竇皇后親蚤卒,葬観津。於是薄太后乃詔有司,追尊竇后父為安成侯,母曰安成夫人。令清河置園邑二百家,長丞奉守,比霊文園法。竇皇后兄竇長君,弟曰竇広国,字少君。少君年四五歳時,家貧,為人所略売,其家不知其処。伝十余家,至宜陽,為其主入山作炭,暮臥岸下百余人,岸崩,尽圧殺臥者,少君独得脱,不死。自卜数日当為侯,従其家之長安。聞竇皇后新立,家在観津,姓竇氏。広国去時雖小,識其県名及姓,又常与其姊採桑堕,用為符信,上書自陳。竇皇后言之於文帝,召見,問之,具言其故,果是。又復問他何以為験?対曰:「姊去我西時,与我決於伝舎中,丐沐沐我,請食飯我,乃去。」於是竇后持之而泣,泣涕交横下。侍御左右皆伏地泣,助皇后悲哀。乃厚賜田宅金銭,封公昆弟,家於長安。絳侯、灌将軍等曰:「吾属不死,命乃且県此両人。両人所出微,不可不為択師傅賓客,又復効呂氏大事也。」於是乃選長者士之有節行者与居。竇長君、少君由此為退譲君子,不敢以尊貴驕人。竇皇后病,失明。文帝幸邯鄲慎夫人、尹姫,皆毋子。孝文帝崩,孝景帝立,乃封広国為章武侯。
書き下し
其の明年、少子武を立てて代王と為し、已にして又梁に徙す、是れを梁の孝王と為す。竇皇后の親蚤く卒し、観津に葬る。是に於て薄太后乃ち有司に詔し、竇后の父を追尊して安成侯と為し、母を安成夫人と曰ふ。清河をして園邑二百家を置かしめ、長丞奉守すること、霊文の園法に比す。竇皇后の兄は竇長君、弟を竇広国と曰ふ、字は少君。少君年四五歳の時、家貧しく、人の略売する所と為り、其の家其の処を知らず。伝はること十余家、宜陽に至り、其の主の為に山に入りて炭を作る、[暮]に岸下に臥すこと百余人、岸崩れ、尽く臥す者を圧殺す、少君独り脱するを得て、死せず。自ら卜するに数日にして当に侯と為るべしと、其の家に従ひて長安に之く。竇皇后新たに立ち、家は観津に在り、姓は竇氏なりと聞く。広国去る時小なりと雖も、其の県の名及び姓を識る、又常て其の姊と桑を採りて墮つ、用て符信と為し、上書して自ら陳ぶ。竇皇后之を文帝に言ひ、召し見て、之を問ふに、具に其の故を言ふ、果たして是なり。又復た他に何を以て験と為すかを問ふ。対へて曰く、「姊我を去りて西する時、我と伝舎の中に決す、沐を丐ひて我を沐し、食を請ひて我に飯せしめ、乃ち去る」と。是に於て竇后之を持して泣き、泣涕交々横に下る。侍御左右皆地に伏して泣き、皇后の悲哀を助く。乃ち厚く田宅金銭を賜ひ、公の昆弟を封じ、長安に家せしむ。絳侯・灌将軍等曰く、「吾が属死せずんば、命乃ち且に此の両人に縣からんとす。両人の出づる所微なり、為に師傅賓客を択ばざるべからず、又復た呂氏の大事に効はん」と。是に於て乃ち長者の士の節行有る者を選びて与に居らしむ。竇長君・少君此に由りて退譲の君子と為り、敢へて尊貴を以て人に驕らず。竇皇后病み、明を失ふ。文帝邯鄲の慎夫人・尹姫を幸す、皆子毋し。孝文帝崩じ、孝景帝立ち、乃ち広国を封じて章武侯と為す。
現代語訳
その翌年、末の男子の武を代王に立て、やがてまた梁に移した。これが梁の孝王である。竇皇后の両親は早くに亡くなり、観津に葬られていた。そこで薄太后は役人に詔して、竇皇后の父に安成侯の位を追贈し、母を安成夫人とした。清河郡に陵園を守る邑二百戸を置かせ、長・丞に墓を守らせることは、霊文侯の陵園の法に準じた。竇皇后の兄は竇長君、弟は竇広国といい、字は少君である。少君は四、五歳のとき、家が貧しく、人にさらわれて売られ、家族は行方が分からなかった。十数軒の家を転々と売られて宜陽に至り、主人のために山に入って炭を焼いていた。(夕暮れに)崖の下で百人余りが寝ていたところ、崖が崩れて寝ていた者をすべて押しつぶしたが、少君だけは逃れて死ななかった。自分で占ってみると、数日のうちに侯になるとの卦が出たので、主人の家に従って長安へ行った。すると、新しく皇后に立った竇氏は、家が観津にあり、姓は竇氏だと聞いた。広国は家を離れたときは幼かったが、県の名と姓は覚えていた。また、かつて姉と一緒に桑の葉を摘んでいて木から落ちたことがあったので、それを証拠として上書し、自分のことを申し述べた。竇皇后がこれを文帝に告げ、召し出して尋ねると、詳しくそのいきさつを語り、はたして本当であった。さらに、ほかに何か証拠はあるかと尋ねると、少君は答えた。「姉が私を置いて西(長安)へ行くとき、宿場で私と別れた。姉は米のとぎ汁をもらってきて私の髪を洗ってくれ、食べ物をもらってきて私に食べさせてくれて、それから去っていった」。そこで竇皇后は弟にすがりついて泣き、涙がとめどなく流れた。そばに仕える者たちもみな地に伏して泣き、皇后の悲しみに寄り添った。そこで田地や邸宅、金銭を手厚く与え、兄弟を侯に封じて長安に住まわせた。絳侯(周勃)や灌将軍(灌嬰)らは言った。「我々が死ななければ、我々の命運はこの二人にかかることになる。二人とも出自が卑しいから、師や付き人を選んでやらなければならない。さもないとまた呂氏の二の舞になるだろう」。そこで年長で節操と品行のある人物を選んで一緒に住まわせた。竇長君と少君はこれによって謙虚な君子となり、尊い身分を笠に着て人に驕ることはなかった。竇皇后は病気になって失明した。文帝は邯鄲出身の慎夫人と尹姫を寵愛したが、どちらにも子はなかった。孝文帝が崩じて孝景帝が即位すると、広国を章武侯に封じた。
解説
関連する章句
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史記 外戚世家大臣後を立てんことを議し、外家呂氏の彊きを疾み、皆薄氏の仁善を称す、故に代王を迎へ、立てて孝文皇帝と為す、而して太后は号を改めて皇太后と曰ひ、弟薄昭は封じて軹侯と為す。薄太后の母も亦た前に死し、櫟陽の北に葬る。是に於て乃ち薄父を追尊して霊文侯と為し、会稽郡に園邑三百家を置き、長丞已下の吏冢を奉守し、寝廟の上食の祠法の如くす。而して櫟陽の北にも亦た霊文侯夫人の園を置き、霊文侯の園の儀の如くす。薄太后以為へらく、母家は魏王の後なり、早く父母を失ふと。其の薄太后を奉ずる諸魏の力有る者、是に於て魏氏を召復し、[尊を及ぼし]賞賜各々親疏を以て之を受く。薄氏の侯たる者凡そ一人。薄太后は文帝に後るること二年、孝景帝の前二年を以て崩じ、南陵に葬る。呂后長陵に会葬するを以て、故に特に自ら陵を起こし、孝文皇帝の霸陵に近くす。竇太后は、趙の清河観津の人なり。呂太后の時、竇姫良家の子を以て宮に入りて太后に侍す。太后宮人を出だして以て諸王に賜ふ、各々五人、竇姫与に行中に在り。竇姫の家清河に在り、趙に如きて家に近からんことを欲し、其の主遣の宦者の吏に請ふ、「必ず我が籍を趙の伍中に置け」と。宦者之を忘れ、誤りて其の籍を代の伍中に置く。籍奏せられ、詔して可とし、当に行くべし。竇姫涕泣し、其の宦者を怨み、往くを欲せず、相彊ひて、乃ち肯へて行く。代に至り、代王独り竇姫を幸し、女嫖を生み、後に両男を生む。而して代王の王后四男を生む。代王未だ入りて立ちて帝と為らざるに先だちて王后卒す。代王立ちて帝と為るに及び、而して王后の生む所の四男更々病死す。孝文帝立ちて数月、公卿太子を立てんことを請ふ、而して竇姫の長男最も長なり、立てて太子と為す。竇姫を立てて皇后と為し、女嫖を長公主と為す。
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史記 外戚世家長君前に死す、其の子彭祖を封じて南皮侯と為す。呉楚反く時、竇太后の従昆弟の子竇嬰、任俠にして自ら喜び、兵を将ゐ、軍功を以て魏其侯と為る。竇氏凡そ三人侯と為る。竇太后黄帝・老子の言を好む、帝及び太子諸竇黄帝・老子を読み、其の術を尊ばざるを得ず。竇太后は孝景帝に後るること六歳(建元六年)にして崩じ、霸陵に合葬す。遺詔して尽く東宮の金銭財物を以て長公主嫖に賜ふ。王太后は、槐裏の人、母を臧児と曰ふ。臧児は、故の燕王臧荼の孫なり。臧児嫁して槐裏の王仲の妻と為り、男を生む、信と曰ふ、両女と与にす。而して仲死し、臧児更に長陵の田氏に嫁し、男蚡・勝を生む。臧児の長女は嫁して金王孫の婦と為り、一女を生めり、而して臧児之を卜筮するに、両女皆当に貴かるべしと曰ふ。因りて両女を奇とせんと欲し、乃ち金氏より奪ふ。金氏怒り、肯へて決を予へず、乃ち之を太子宮に内る。太子之を幸愛し、三女一男を生む。男方に身に在る時、王美人日の其の懐に入るを夢む。以て太子に告ぐ、太子曰く、「此れ貴徴なり」と。未だ生まれずして孝文帝崩じ、孝景帝即位す、王夫人男を生む。是より先、臧児又其の少女児姁を入る、児姁四男を生む。景帝太子為りし時、薄太后薄氏の女を以て妃と為す。景帝立つに及び、妃を立てて薄皇后と曰ふ。皇后子毋く、寵毋し。薄太后崩じ、薄皇后を廃す。景帝の長男は栄、其の母は栗姫。栗姫は、斉人なり。栄を立てて太子と為す。長公主嫖に女有り、予へて妃と為さんと欲す。栗姫妒む、而して景帝の諸美人皆長公主に因りて景帝に見え、貴幸を得て、皆栗姫に過ぐ、栗姫日々に怨怒し、長公主を謝して、許さず。長公主王夫人に予へんと欲す、王夫人之を許す。
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史記 梁孝王世家梁の孝王武は、孝文皇帝の子なり、而して孝景帝と母を同じくす。母は、竇太后なり。孝文帝凡そ四男あり。長子を太子と曰ふ、是れ孝景帝為り。次子は武、次子は参、次子は勝。孝文帝即位の二年、武を以て代王と為し、参を以て太原王と為し、勝を以て梁王と為す。二歳にして、代王を徙して淮陽王と為す。代を以て尽く太原王に与へ、号して代王と曰ふ。参立つこと十七年、孝文の後二年卒し、謚して孝王と為す。子登嗣ぎて立つ、是れ代の共王為り。立つこと二十九年、元光二年卒す。子義立つ、是れ代王為り。十九年にして、漢関を広げ、常山を以て限りと為し、而して代王を徙して清河に王たらしむ。清河王の徙るは元鼎三年を以てなり。初め、武淮陽王たること十年にして、梁王勝卒し、謚して梁の懐王と為す。懐王最も少子にして、愛幸他子に異なれり。其の明年、淮陽王武を徙して梁王と為す。梁王の初めて梁に王たるは、孝文帝の十二年なり。梁王初めて王たりしより通歴已に十一年なり。梁王の十四年、入朝す。十七年、十八年、比年入朝し、留まり、其の明年、乃ち国に之く。二十一年、入朝す。二十二年、孝文帝崩ず。二十四年、入朝す。二十五年、復た入朝す。是の時上未だ太子を置かざるなり。上梁王と燕飲し、嘗て従容として言ひて曰く、「千秋万歳の後王に伝へん」と。王辞謝す。至言に非ざるを知ると雖も、然れども心内に喜ぶ。太后も亦然り。其の春、呉楚斉趙の七国反す。呉楚先づ梁の棘壁を撃ち、数万人を殺す。梁の孝王睢陽に城守し、而して韓安国・張羽等をして大将軍と為し、以て呉楚を距がしむ。呉楚梁を以て限りと為し、敢へて過ぎて西せず、太尉亜夫等と相距ぐこと三月。呉楚破れ、而して梁の破殺虜略する所漢と中分す。
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史記 魏其武安侯列伝魏其侯竇嬰は、孝文后の従兄の子なり。父の世は観津の人なり。賓客を喜む。孝文の時、嬰呉の相と為り、病みて免ぜらる。孝景初めて即位し、詹事と為る。梁の孝王は、孝景の弟なり。其の母竇太后之を愛す。梁の孝王朝し、因りて昆弟燕飲す。是の時上未だ太子を立てず。酒酣にして、従容として言ひて曰く、「千秋の後は梁王に伝へん」と。太后驩ぶ。竇嬰卮酒を引きて上に進めて曰く、「天下は、高祖の天下なり。父子相伝ふるは、此れ漢の約なり。上何を以てか擅に梁王に伝ふるを得ん」と。太后此に由りて竇嬰を憎む。竇嬰も亦其の官を薄んじ、病に因りて免ぜらる。太后竇嬰の門籍を除き、朝請に入るを得ざらしむ。孝景三年、呉楚反す。上宗室の諸竇を察するに、竇嬰の賢に如くは毋し。乃ち嬰を召す。嬰入りて見え、固辞して病みて任ずるに足らずと謝す。太后も亦慚づ。是に於て上曰く、「天下方に急有り。王孫寧ぞ以て譲るべけんや」と。乃ち嬰を拝して大将軍と為し、金千斤を賜ふ。嬰乃ち袁盎・欒布諸々の名将賢士の家に在る者を言ひて之を進む。賜ふ所の金は、之を廊廡の下に陳ね、軍吏過ぐれば、輒ち財り取りて用と為さしむ。金家に入る者無し。竇嬰滎陽を守り、斉趙の兵を監す。七国の兵已に尽く破れ、嬰を封じて魏其侯と為す。諸々の游士賓客争ひて魏其侯に帰す。孝景の時毎に大事を朝議するに、条侯・魏其侯、諸列侯敢へて与に礼を亢しくする莫し。孝景四年、栗太子を立て、魏其侯をして太子の傅と為さしむ。孝景七年、栗太子廃せらる。魏其数々争ふも得る能はず。魏其病と謝し、藍田の南山の下に屏居すること数月、諸々の賓客弁士之に説くも、能く来たらしむる莫し。梁人高遂乃ち魏其に説きて曰く、「能く将軍を富貴にする者は、上なり。能く将軍を親しむ者は、太后なり。今将軍太子に傅たり。太子廃せられて争ふ能はず。争ひて得る能はず、又死する能はず。自ら引きて病と謝し、趙女を擁し、閒処に屏して朝せず。相提へて論ずれば、是れ自ら主上の過を明揚するなり。如し両宮将軍を螫すこと有らば、則ち妻子類毋からん」と。魏其侯之を然りとし、乃ち遂に起ち、朝請すること故の如し。
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