史記 / 外戚世家
長公主怒,而日讒栗姬短於景帝曰:「栗姬與諸貴夫人幸姬會,常使侍者祝唾其背,挾邪媚道。」景帝以故望之。景帝嘗體不安,心不樂,屬諸子為王者於栗姬,曰:「百歲後,善視之。」栗姬怒,不肯應,言不遜。景帝恚,心嗛之而未發也。長公主日譽王夫人男之美,景帝亦賢之,又有曩者所夢日符,計未有所定。王夫人知帝望栗姬,因怒未解,陰使人趣大臣立栗姬為皇后。大行奏事畢,曰:「『子以母貴,母以子貴』,今太子母無號,宜立為皇后。」景帝怒曰:「是而所宜言邪!」遂案誅大行,而廢太子為臨江王。栗姬愈恚恨,不得見,以憂死。卒立王夫人為皇后,其男為太子,封皇后兄信為蓋侯。景帝崩,太子襲號為皇帝。尊皇太后母臧兒為平原君。封田蚡為武安侯,勝為周陽侯。景帝十三男,一男為帝,十二男皆為王。而兒姁早卒,其四子皆為王。王太后長女號日平陽公主,次為南宮公主,次為林慮公主。蓋侯信好酒。田蚡、勝貪,巧於文辭。王仲蚤死,葬槐裏,追尊為共侯,置園邑二百家。及平原君卒,從田氏葬長陵,置園比共侯園。而王太后後孝景帝十六歲,以元朔四年崩,合葬陽陵。王太后家凡三人為侯。衛皇后字子夫,生微矣。蓋其家號曰衛氏,出平陽侯邑。
新字:長公主怒,而日讒栗姫短於景帝曰:「栗姫与諸貴夫人幸姫会,常使侍者祝唾其背,挟邪媚道。」景帝以故望之。景帝嘗体不安,心不楽,属諸子為王者於栗姫,曰:「百歳後,善視之。」栗姫怒,不肯応,言不遜。景帝恚,心嗛之而未発也。長公主日誉王夫人男之美,景帝亦賢之,又有曩者所夢日符,計未有所定。王夫人知帝望栗姫,因怒未解,陰使人趣大臣立栗姫為皇后。大行奏事畢,曰:「『子以母貴,母以子貴』,今太子母無号,宜立為皇后。」景帝怒曰:「是而所宜言邪!」遂案誅大行,而廃太子為臨江王。栗姫愈恚恨,不得見,以憂死。卒立王夫人為皇后,其男為太子,封皇后兄信為蓋侯。景帝崩,太子襲号為皇帝。尊皇太后母臧児為平原君。封田蚡為武安侯,勝為周陽侯。景帝十三男,一男為帝,十二男皆為王。而児姁早卒,其四子皆為王。王太后長女号日平陽公主,次為南宮公主,次為林慮公主。蓋侯信好酒。田蚡、勝貪,巧於文辞。王仲蚤死,葬槐裏,追尊為共侯,置園邑二百家。及平原君卒,従田氏葬長陵,置園比共侯園。而王太后後孝景帝十六歳,以元朔四年崩,合葬陽陵。王太后家凡三人為侯。衛皇后字子夫,生微矣。蓋其家号曰衛氏,出平陽侯邑。
書き下し
長公主怒り、而して日々に栗姫の短を景帝に讒して曰く、「栗姫、諸貴夫人幸姫と会するに、常に侍者をして其の背に祝唾せしめ、邪媚の道を挟む」と。景帝故を以て之を望む。景帝嘗て体安からず、心楽しまず、諸子の王為る者を栗姫に属して、曰く、「百歳の後、善く之を視よ」と。栗姫怒り、肯へて応ぜず、言遜らず。景帝恚り、心に之を嗛むも未だ発せざるなり。長公主日々に王夫人の男の美を誉む、景帝も亦た之を賢とし、又曩者の夢みる所の日の符有り、計未だ定まる所有らず。王夫人帝の栗姫を望むを知り、因りて怒り未だ解けざるに、陰かに人をして大臣を趣して栗姫を立てて皇后と為さしむ。大行事を奏し畢はり、曰く、「『子は母を以て貴く、母は子を以て貴し』、今太子の母号無し、宜しく立てて皇后と為すべし」と。景帝怒りて曰く、「是れ而の宜しく言ふべき所ならんや」と。遂に案じて大行を誅し、而して太子を廃して臨江王と為す。栗姫愈々恚恨し、見ゆるを得ず、憂ひを以て死す。卒に王夫人を立てて皇后と為し、其の男を太子と為し、皇后の兄信を封じて蓋侯と為す。景帝崩じ、太子号を襲ひて皇帝と為る。皇太后の母臧児を尊びて平原君と為す。田蚡を封じて武安侯と為し、勝を周陽侯と為す。景帝の十三男、一男は帝と為り、十二男は皆王と為る。而して児姁早く卒し、其の四子皆王と為る。王太后の長女は号を平陽公主と曰ひ、次は南宮公主と為し、次は林慮公主と為す。蓋侯信は酒を好む。田蚡・勝は貪にして、文辞に巧みなり。王仲蚤く死し、槐裏に葬る、追尊して共侯と為し、園邑二百家を置く。平原君卒するに及び、田氏に従ひて長陵に葬り、園を置くこと共侯の園に比す。而して王太后は孝景帝に後るること十六歳、元朔四年を以て崩じ、陽陵に合葬す。王太后の家凡そ三人侯と為る。衛皇后は字は子夫、生まれ微なり。蓋し其の家号して衛氏と曰ひ、平陽侯の邑に出づ。
現代語訳
長公主は怒り、毎日のように栗姫の欠点を景帝に讒言した。「栗姫は、寵愛を受けている貴い夫人たちと会うたびに、いつも侍女に命じて彼女たちの背中に呪いのつばを吐かせ、邪な呪術を用いている」。景帝はそのために栗姫を恨むようになった。景帝はあるとき体調がすぐれず、気が沈んで、王となっている息子たちを栗姫に託して言った。「わしが死んだ後、この子たちの面倒をよく見てやってくれ」。栗姫は怒って承知せず、言葉も不遜であった。景帝は腹を立て、内心不満を抱いたが、まだ表には出さなかった。長公主は毎日のように王夫人の子の立派さをほめ、景帝もその子を賢いと思い、また以前の太陽が懐に入る夢の兆しもあったので、どうするかまだ決めかねていた。王夫人は景帝が栗姫を恨んでいることを知り、その怒りがまだ解けないうちに、ひそかに人を使って大臣に栗姫を皇后に立てるよう促させた。大行(儀礼をつかさどる官)が上奏を終えてから言った。「『子は母によって貴く、母は子によって貴い』という。いま太子の母には称号がない。皇后に立てるべきだ」。景帝は怒って言った。「それはお前が口出しすべきことか」。そしてついに大行を取り調べて誅殺し、太子を廃して臨江王とした。栗姫はますます恨み憤ったが、景帝に会うこともできず、憂いのうちに死んだ。ついに王夫人を皇后に立て、その男子を太子とし、皇后の兄の信を蓋侯(こうこう)に封じた。景帝が崩じると、太子が皇帝の位を継いだ。皇太后の母臧児を尊んで平原君とした。田蚡を武安侯に、田勝を周陽侯に封じた。景帝には十三人の男子がおり、一人が皇帝となり、十二人はみな王となった。児姁は早くに亡くなったが、その四人の子もみな王となった。王太后の長女は平陽公主と号し、次女は南宮公主、三女は林慮公主と号した。蓋侯信は酒好きであった。田蚡と田勝は貪欲で、弁舌が巧みであった。王仲は早くに死んで槐裏に葬られていたが、共侯の位を追贈し、陵園を守る邑二百戸を置いた。平原君が亡くなると、田氏に従って長陵に葬り、陵園は共侯の陵園に準じた。王太后は孝景帝に遅れること十六年、元朔四年に崩じ、陽陵に合葬された。王太后の家で侯となった者は合わせて三人である。衛皇后は字を子夫といい、生まれは卑しかった。その家は衛氏と称し、平陽侯の領地の出身であった。
解説
関連する章句
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史記 外戚世家長君前に死す、其の子彭祖を封じて南皮侯と為す。呉楚反く時、竇太后の従昆弟の子竇嬰、任俠にして自ら喜び、兵を将ゐ、軍功を以て魏其侯と為る。竇氏凡そ三人侯と為る。竇太后黄帝・老子の言を好む、帝及び太子諸竇黄帝・老子を読み、其の術を尊ばざるを得ず。竇太后は孝景帝に後るること六歳(建元六年)にして崩じ、霸陵に合葬す。遺詔して尽く東宮の金銭財物を以て長公主嫖に賜ふ。王太后は、槐裏の人、母を臧児と曰ふ。臧児は、故の燕王臧荼の孫なり。臧児嫁して槐裏の王仲の妻と為り、男を生む、信と曰ふ、両女と与にす。而して仲死し、臧児更に長陵の田氏に嫁し、男蚡・勝を生む。臧児の長女は嫁して金王孫の婦と為り、一女を生めり、而して臧児之を卜筮するに、両女皆当に貴かるべしと曰ふ。因りて両女を奇とせんと欲し、乃ち金氏より奪ふ。金氏怒り、肯へて決を予へず、乃ち之を太子宮に内る。太子之を幸愛し、三女一男を生む。男方に身に在る時、王美人日の其の懐に入るを夢む。以て太子に告ぐ、太子曰く、「此れ貴徴なり」と。未だ生まれずして孝文帝崩じ、孝景帝即位す、王夫人男を生む。是より先、臧児又其の少女児姁を入る、児姁四男を生む。景帝太子為りし時、薄太后薄氏の女を以て妃と為す。景帝立つに及び、妃を立てて薄皇后と曰ふ。皇后子毋く、寵毋し。薄太后崩じ、薄皇后を廃す。景帝の長男は栄、其の母は栗姫。栗姫は、斉人なり。栄を立てて太子と為す。長公主嫖に女有り、予へて妃と為さんと欲す。栗姫妒む、而して景帝の諸美人皆長公主に因りて景帝に見え、貴幸を得て、皆栗姫に過ぐ、栗姫日々に怨怒し、長公主を謝して、許さず。長公主王夫人に予へんと欲す、王夫人之を許す。
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史記 外戚世家大臣後を立てんことを議し、外家呂氏の彊きを疾み、皆薄氏の仁善を称す、故に代王を迎へ、立てて孝文皇帝と為す、而して太后は号を改めて皇太后と曰ひ、弟薄昭は封じて軹侯と為す。薄太后の母も亦た前に死し、櫟陽の北に葬る。是に於て乃ち薄父を追尊して霊文侯と為し、会稽郡に園邑三百家を置き、長丞已下の吏冢を奉守し、寝廟の上食の祠法の如くす。而して櫟陽の北にも亦た霊文侯夫人の園を置き、霊文侯の園の儀の如くす。薄太后以為へらく、母家は魏王の後なり、早く父母を失ふと。其の薄太后を奉ずる諸魏の力有る者、是に於て魏氏を召復し、[尊を及ぼし]賞賜各々親疏を以て之を受く。薄氏の侯たる者凡そ一人。薄太后は文帝に後るること二年、孝景帝の前二年を以て崩じ、南陵に葬る。呂后長陵に会葬するを以て、故に特に自ら陵を起こし、孝文皇帝の霸陵に近くす。竇太后は、趙の清河観津の人なり。呂太后の時、竇姫良家の子を以て宮に入りて太后に侍す。太后宮人を出だして以て諸王に賜ふ、各々五人、竇姫与に行中に在り。竇姫の家清河に在り、趙に如きて家に近からんことを欲し、其の主遣の宦者の吏に請ふ、「必ず我が籍を趙の伍中に置け」と。宦者之を忘れ、誤りて其の籍を代の伍中に置く。籍奏せられ、詔して可とし、当に行くべし。竇姫涕泣し、其の宦者を怨み、往くを欲せず、相彊ひて、乃ち肯へて行く。代に至り、代王独り竇姫を幸し、女嫖を生み、後に両男を生む。而して代王の王后四男を生む。代王未だ入りて立ちて帝と為らざるに先だちて王后卒す。代王立ちて帝と為るに及び、而して王后の生む所の四男更々病死す。孝文帝立ちて数月、公卿太子を立てんことを請ふ、而して竇姫の長男最も長なり、立てて太子と為す。竇姫を立てて皇后と為し、女嫖を長公主と為す。
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史記 魏其武安侯列伝武安侯田蚡は、孝景后の同母弟なり。長陵に生まる。魏其已に大将軍と為りし後、方に盛んなり。蚡諸郎為りて、未だ貴からず、往来して魏其に侍酒し、跪起すること子姓の如し。孝景の晩節に及び、蚡益々貴幸せられ、太中大夫と為る。蚡は弁にして口有り、槃盂の諸書を学ぶ。王太后之を賢とす。孝景崩じ、即日太子立ち、制を称す。鎮撫する所多く田蚡の賓客の計筴有り。蚡の弟田勝、皆太后の弟なるを以て、孝景の後三年、蚡を封じて武安侯と為し、勝を周陽侯と為す。武安侯新たに事を用ひて相と為らんと欲し、賓客に卑下し、名士の家居する者を進めて之を貴くし、以て魏其の諸将相を傾けんと欲す。建元元年、丞相綰病みて免ぜらる。上丞相・太尉を置かんことを議す。籍福武安侯に説きて曰く、「魏其貴きこと久し。天下の士素より之に帰す。今将軍初めて興り、未だ魏其に如かず。即し上将軍を以て丞相と為さば、必ず魏其に譲れ。魏其丞相と為らば、将軍必ず太尉と為らん。太尉・丞相は尊きこと等しきのみ。又賢に譲るの名有り」と。武安侯乃ち微かに太后に言ひて上に風せしむ。是に於て乃ち魏其侯を以て丞相と為し、武安侯を太尉と為す。籍福魏其侯を賀し、因りて弔ひて曰く、「君侯の資性は善を喜び悪を疾む。方今善人君侯を誉む。故に丞相に至る。然れども君侯且つ悪を疾む。悪人衆し。亦且に君侯を毀らんとす。君侯能く兼容せば、則ち幸ひに久しからん。能はずんば、今以て毀られて去らん」と。魏其聴かず。魏其・武安倶に儒術を好み、趙綰を推轂して御史大夫と為し、王臧を郎中令と為す。魯の申公を迎へ、明堂を設け、列侯をして国に就かしめ、関を除き、礼を以て服制を為し、以て太平を興さんと欲す。諸竇の宗室の節行毋き者を挙適し、其の属籍を除く。時に諸々の外家列侯と為り、列侯多く公主を尚り、皆国に就くを欲せず。故を以て毀日に竇太后に至る。
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史記 五宗世家孝景皇帝の子凡そ十三人王と為る、而して母は五人、母を同じくする者を宗親と為す。栗姫の子を栄・徳・閼于と曰ふ。程姫の子を余・非・端と曰ふ。賈夫人の子を彭祖・勝と曰ふ。唐姫の子を発と曰ふ。王夫人児姁の子を越・寄・乗・舜と曰ふ。河間の献王徳、孝景帝の前二年を以て皇子を用て河間王と為る。儒学を好み、被服造次にも必ず儒者に於いてす。山東の諸儒多く之に従ひて游ぶ。二十六年にして卒し、子共王不害立つ。四年にして卒し、子剛王基代はりて立つ。十二年にして卒し、子頃王授代はりて立つ。臨江の哀王閼于、孝景帝の前二年を以て皇子を用て臨江王と為る。三年にして卒し、後無く、国除かれて郡と為る。臨江の閔王栄、孝景の前四年を以て皇太子と為り、四歳にして廃せられ、故の太子を用て臨江王と為る。四年、廟の壖垣を侵して宮と為すに坐し、上栄を徴す。栄行くに、江陵の北門に祖す。既已に車に上るに、軸折れて車廃す。江陵の父老流涕して竊かに言ひて曰く、「吾が王反らず」と。栄至り、中尉府に詣りて簿せらる。中尉郅都王を責め訊す、王恐れ、自殺す。藍田に葬る。燕数万土を銜みて冢上に置く、百姓之を憐れむ。栄最も長ずるも、死して後無く、国除かれ、地は漢に入り、南郡と為る。右の三国の本王は皆栗姫の子なり。魯の共王余、孝景の前二年を以て皇子を用て淮陽王と為る。二年、呉楚反して破れし後、孝景の前三年を以て徙りて魯王と為る。宮室苑囿狗馬を治むるを好む。季年音を好み、辞弁を喜ばず。人と為り吃なり。二十六年にして卒し、子光代はりて王と為る。初め音輿馬を好む。晩節嗇にして、惟だ財に足らざるを恐る。江都の易王非、孝景の前二年を以て皇子を用て汝南王と為る。呉楚反する時、非年十五、材力有り、上書して呉を撃たんことを願ふ。
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史記 外戚世家子夫は平陽主の謳者為り。武帝初めて即位し、数歳子無し。平陽主諸々の良家の子女十余人を求め、飾りて家に置く。武帝霸上に祓して還り、因りて平陽主に過る。主侍する所の美人を見えしむ。上説ばず。既に飲み、謳者進む、上望み見て、独り衛子夫を説ぶ。是の日、武帝起ちて衣を更む、子夫尚衣の軒中に侍し、幸を得たり。上還りて坐し、驩ぶこと甚だし。平陽主に金千斤を賜ふ。主因りて子夫を奉送して宮に入れんことを奏す。子夫車に上る、平陽主其の背を拊ちて曰く、「行け、彊ひて飯し、之を勉めよ。即し貴くならば、相忘るること無かれ」と。宮に入りて歳余、竟に復た幸せられず。武帝宮人の用に中らざる者を択び、斥け出して之を帰す。衛子夫見ゆるを得、涕泣して出でんことを請ふ。上之を憐れみ、復た幸す、遂に身有り、尊寵日に隆し。其の兄衛長君・弟青を召して侍中と為す。而して子夫後に大いに幸せられ、寵有り、凡そ三女一男を生む。男の名は据。初め、上太子為りし時、長公主の女を娶りて妃と為す。立ちて帝と為り、妃立ちて皇后と為る、姓は陳氏、子無し。上の嗣と為るを得たるは、大長公主力有り、故を以て陳皇后驕貴なり。衛子夫の大いに幸せらるるを聞き、恚りて、死に幾き者数々なり。上愈々怒る。陳皇后婦人の媚道を挟み、其の事頗る覚る、是に於て陳皇后を廃し、而して衛子夫を立てて皇后と為す。陳皇后の母大長公主は、景帝の姊なり、数々武帝の姊平陽公主を譲めて曰く、「帝は我に非ずんば立つを得ず、已にして吾が女を棄捐す、壹に何ぞ自ら喜ばずして本に倍くや」と。平陽公主曰く、「子無きの故を用て廃せらるるのみ」と。陳皇后子を求め、医に与ふる銭凡そ九千万、然れども竟に子無し。衛子夫已に立ちて皇后と為る、是より先衛長君死す、乃ち衛青を以て将軍と為し、胡を撃ちて功有り、封じて長平侯と為す。青の三子襁褓の中に在るも、皆封じて列侯と為す。
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史記 孝景本紀梁・楚の二王皆薨ず。後九月、馳道の樹を伐り、蘭池に殖う。七年冬、栗太子を廃して臨江王と為す。(一)十(二)[一]月晦、日之を食する有り。春、徒隷の陽陵を作る者を免ず。丞相青免ぜらる。二月乙巳、太尉条侯周亜夫を以て丞相と為す。
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