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史記 / 外戚世家

大臣議立後,疾外家呂氏彊,皆稱薄氏仁善,故迎代王,立為孝文皇帝,而太后改號曰皇太后,弟薄昭封為軹侯。薄太后母亦前死,葬櫟陽北。於是乃追尊薄案為靈文侯,會稽郡置園邑三百家,長丞已下吏奉守冢,寢廟上食祠如法。而櫟陽北亦置靈文侯夫人園,如靈文侯園儀。薄太后以為母家魏王後,早失父母,其奉薄太后諸魏有力者,於是召復魏氏,及尊賞賜各以親疏受之。薄氏侯者凡一人。薄太后後文帝二年,以孝景帝前二年崩,葬南陵。以呂后會葬長陵,故特自起陵,近孝文皇帝霸陵。竇太后,趙之清河觀津人也。呂太后時,竇姬以良家子入宮侍太后。太后出宮人以賜諸王,各五人,竇姬與在行中。竇姬家在清河,欲如趙近家,請其主遣宦者吏:「必置我籍趙之伍中。」宦者忘之,誤置其籍代伍中。籍奏,詔可,當行。竇姬涕泣,怨其宦者,不欲往,相彊,乃肯行。至代,代王獨幸竇姬,生女嫖,後生兩男。而代王王后生四男。先代王未入立為帝而王后卒。及代王立為帝,而王后所生四男更病死。孝文帝立數月,公卿請立太子,而竇姬長男最長,立為太子。立竇姬為皇后,女嫖為長公主。

新字:大臣議立後,疾外家呂氏彊,皆称薄氏仁善,故迎代王,立為孝文皇帝,而太后改号曰皇太后,弟薄昭封為軹侯。薄太后母亦前死,葬櫟陽北。於是乃追尊薄案為霊文侯,会稽郡置園邑三百家,長丞已下吏奉守冢,寝廟上食祠如法。而櫟陽北亦置霊文侯夫人園,如霊文侯園儀。薄太后以為母家魏王後,早失父母,其奉薄太后諸魏有力者,於是召復魏氏,及尊賞賜各以親疏受之。薄氏侯者凡一人。薄太后後文帝二年,以孝景帝前二年崩,葬南陵。以呂后会葬長陵,故特自起陵,近孝文皇帝覇陵。竇太后,趙之清河観津人也。呂太后時,竇姫以良家子入宮侍太后。太后出宮人以賜諸王,各五人,竇姫与在行中。竇姫家在清河,欲如趙近家,請其主遣宦者吏:「必置我籍趙之伍中。」宦者忘之,誤置其籍代伍中。籍奏,詔可,当行。竇姫涕泣,怨其宦者,不欲往,相彊,乃肯行。至代,代王独幸竇姫,生女嫖,後生両男。而代王王后生四男。先代王未入立為帝而王后卒。及代王立為帝,而王后所生四男更病死。孝文帝立数月,公卿請立太子,而竇姫長男最長,立為太子。立竇姫為皇后,女嫖為長公主。

書き下し

大臣後を立てんことを議し、外家呂氏の彊きを疾み、皆薄氏の仁善を称す、故に代王を迎へ、立てて孝文皇帝と為す、而して太后は号を改めて皇太后と曰ひ、弟薄昭は封じて軹侯と為す。薄太后の母も亦た前に死し、櫟陽の北に葬る。是に於て乃ち薄父を追尊して霊文侯と為し、会稽郡に園邑三百家を置き、長丞已下の吏冢を奉守し、寝廟の上食の祠法の如くす。而して櫟陽の北にも亦た霊文侯夫人の園を置き、霊文侯の園の儀の如くす。薄太后以為へらく、母家は魏王の後なり、早く父母を失ふと。其の薄太后を奉ずる諸魏の力有る者、是に於て魏氏を召復し、[尊を及ぼし]賞賜各々親疏を以て之を受く。薄氏の侯たる者凡そ一人。薄太后は文帝に後るること二年、孝景帝の前二年を以て崩じ、南陵に葬る。呂后長陵に会葬するを以て、故に特に自ら陵を起こし、孝文皇帝の霸陵に近くす。竇太后は、趙の清河観津の人なり。呂太后の時、竇姫良家の子を以て宮に入りて太后に侍す。太后宮人を出だして以て諸王に賜ふ、各々五人、竇姫与に行中に在り。竇姫の家清河に在り、趙に如きて家に近からんことを欲し、其の主遣の宦者の吏に請ふ、「必ず我が籍を趙の伍中に置け」と。宦者之を忘れ、誤りて其の籍を代の伍中に置く。籍奏せられ、詔して可とし、当に行くべし。竇姫涕泣し、其の宦者を怨み、往くを欲せず、相彊ひて、乃ち肯へて行く。代に至り、代王独り竇姫を幸し、女嫖を生み、後に両男を生む。而して代王の王后四男を生む。代王未だ入りて立ちて帝と為らざるに先だちて王后卒す。代王立ちて帝と為るに及び、而して王后の生む所の四男更々病死す。孝文帝立ちて数月、公卿太子を立てんことを請ふ、而して竇姫の長男最も長なり、立てて太子と為す。竇姫を立てて皇后と為し、女嫖を長公主と為す。

現代語訳

大臣たちは後継を立てることを議論し、母方の一族である呂氏が強大であったことを憎み、みな薄氏が仁愛深く善良であることを称えた。そこで代王を迎えて孝文皇帝に立て、太后は称号を改めて皇太后とし、弟の薄昭は軹侯(しこう)に封じた。薄太后の母もすでに亡くなっており、櫟陽(れきよう)の北に葬られていた。そこで薄太后の父に霊文侯の位を追贈し、会稽郡に陵園を守る邑三百戸を置き、長・丞以下の役人に墓を守らせ、廟での供え物や祭りを定めどおりに行わせた。櫟陽の北にも霊文侯夫人の陵園を置き、霊文侯の陵園と同じ儀礼とした。薄太后は、母の実家は魏王の子孫であり、自分は早くに父母を失ったと考えていた。そこで薄太后に仕えた魏氏の一族のうち功労のある者たちを呼び戻し、(尊ぶべき者には尊崇を及ぼし、)親疎に応じてそれぞれ褒美を与えた。薄氏で侯となった者は一人だけであった。薄太后は文帝に遅れること二年、孝景帝の前二年に崩じ、南陵に葬られた。呂后が長陵に(高祖と)合葬されていたので、特別に自分の陵を築き、孝文皇帝の霸陵の近くにした。竇太后(とうたいごう)は、趙の清河郡観津の人である。呂太后の時代、竇姫は良家の娘として宮中に入り、太后に仕えた。太后が宮女を宮中から出して諸王に賜ったとき、それぞれ五人ずつで、竇姫もその中にいた。竇姫の家は清河にあったので、趙に行って家に近いところにいたいと思い、送り出しを担当する宦官に頼んだ。「必ず私の名簿を趙へ行く組に入れてほしい」。ところが宦官はそれを忘れ、誤って竇姫の名簿を代へ行く組に入れてしまった。名簿が奏上され、詔で認められて、行かねばならなくなった。竇姫は泣いてその宦官を恨み、行きたがらなかったが、無理に促されて、ようやく行くことを承知した。代に着くと、代王はただ竇姫だけを寵愛し、娘の嫖(ひょう)を生み、後に二人の男子を生んだ。一方、代王の王后は四人の男子を生んでいた。代王がまだ都に入って帝となる前に王后は亡くなった。代王が即位して帝となると、王后が生んだ四人の男子も次々に病死した。孝文帝が即位して数か月後、公卿が太子を立てるよう願い出た。竇姫の長男が最年長であったので、太子に立てられた。竇姫を皇后とし、娘の嫖を長公主とした。

解説

文帝が選ばれた理由は、母方の薄氏が「仁善」であったことでした。呂氏の専横に懲りた大臣たちは、外戚が穏やかな家であることを何より重視したのです。薄太后は亡き父母を手厚く祀り、母方の魏氏に恩を返しましたが、薄氏から侯となったのは弟一人だけで、一族の権勢を広げませんでした。続いて登場する竇太后の話は、偶然の連続です。故郷に近い趙へ行きたいと頼んだのに、宦官の手違いで代へ送られ、泣く泣く赴いた先で代王の寵愛を受けます。しかも正妃の四人の子が相次いで病死し、竇姫の子が太子に、本人は皇后になりました。恨んだはずの手違いが人生最大の幸運に転じたのです。思いどおりにならない配属が、後から見れば転機だったという話は、今の職場にもよくあります。

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