史記 / 外戚世家
大臣征之,天誘其統,卒滅呂氏。唯獨置孝惠皇后居北宮。迎立代王,是為孝文帝,奉漢宗廟。此豈非天邪?非天命孰能當之?薄太后,父吳人,姓薄氏,秦時與故魏王宗家女魏媼通,生薄姬,而薄案死山陰,因葬焉。及諸侯畔秦,魏豹立為魏王,而魏媼內其女於魏宮。媼之許負所相,相薄姬,云當生天子。是時項羽方與漢王相距滎陽,天下未有所定。豹初與漢擊楚,及聞許負言,心獨喜,因背漢而畔,中立,更與楚連和。漢使曹參等擊虜魏王豹,以其國為郡,而薄姬輸織室。豹已死,漢王入織室,見薄姬有色,詔內後宮,歲餘不得幸。始姬少時,與管夫人、趙子兒相愛,約曰:「先貴無相忘。」已而管夫人、趙子兒先幸漢王。漢王坐河南宮成皋臺,此兩美人相與笑薄姬初時約。漢王聞之,問其故,兩人具以實告漢王。漢王心慘然,憐薄姬,是日召而幸之。薄姬曰:「昨暮夜妾夢蒼龍據吾腹。」高帝曰:「此貴徵也,吾為女遂成之。」一幸生男,是為代王。其後薄姬希見高祖。高祖崩,諸御幸姬戚夫人之屬,呂太后怒,皆幽之,不得出宮。而薄姬以希見故,得出,從子之代,為代王太后。太后弟薄昭從如代。代王立十七年,高后崩。
新字:大臣征之,天誘其統,卒滅呂氏。唯独置孝恵皇后居北宮。迎立代王,是為孝文帝,奉漢宗廟。此豈非天邪?非天命孰能当之?薄太后,父呉人,姓薄氏,秦時与故魏王宗家女魏媼通,生薄姫,而薄案死山陰,因葬焉。及諸侯畔秦,魏豹立為魏王,而魏媼内其女於魏宮。媼之許負所相,相薄姫,云当生天子。是時項羽方与漢王相距滎陽,天下未有所定。豹初与漢撃楚,及聞許負言,心独喜,因背漢而畔,中立,更与楚連和。漢使曹参等撃虜魏王豹,以其国為郡,而薄姫輸織室。豹已死,漢王入織室,見薄姫有色,詔内後宮,歳余不得幸。始姫少時,与管夫人、趙子児相愛,約曰:「先貴無相忘。」已而管夫人、趙子児先幸漢王。漢王坐河南宮成皋台,此両美人相与笑薄姫初時約。漢王聞之,問其故,両人具以実告漢王。漢王心惨然,憐薄姫,是日召而幸之。薄姫曰:「昨暮夜妾夢蒼竜拠吾腹。」高帝曰:「此貴徴也,吾為女遂成之。」一幸生男,是為代王。其後薄姫希見高祖。高祖崩,諸御幸姫戚夫人之属,呂太后怒,皆幽之,不得出宮。而薄姫以希見故,得出,従子之代,為代王太后。太后弟薄昭従如代。代王立十七年,高后崩。
書き下し
大臣之を征し、天其の統を誘き、卒に呂氏を滅ぼす。唯独り孝恵皇后を置きて北宮に居らしむ。代王を迎立す、是れを孝文帝と為し、漢の宗廟を奉ず。此れ豈に天に非ずや。天命に非ずんば孰か能く之に当たらん。薄太后は、父は呉人、姓は薄氏、秦の時に故の魏王の宗家の女魏媼と通じ、薄姫を生む、而して薄父山陰に死し、因りて焉に葬る。諸侯の秦に畔くに及び、魏豹立ちて魏王と為る、而して魏媼其の女を魏の宮に内る。媼の許負の所に之きて相せしむ、薄姫を相して、当に天子を生むべしと云ふ。是の時項羽方に漢王と滎陽に相距ぎ、天下未だ定まる所有らず。豹初め漢と楚を撃つ、許負の言を聞くに及び、心に独り喜び、因りて漢に背きて畔き、中立し、更に楚と連和す。漢、曹参等をして魏王豹を撃虜せしめ、其の国を以て郡と為す、而して薄姫は織室に輸さる。豹已に死す、漢王織室に入り、薄姫の色有るを見て、詔して後宮に内る、歳余幸を得ず。始め姫少き時、管夫人・趙子児と相愛し、約して曰く、「先に貴くならば相忘るること無からん」と。已にして管夫人・趙子児先に漢王に幸せらる。漢王河南宮の成皋台に坐す、此の両美人相与に薄姫の初時の約を笑ふ。漢王之を聞き、其の故を問ふ、両人具に実を以て漢王に告ぐ。漢王心惨然として、薄姫を憐れみ、是の日召して之を幸す。薄姫曰く、「昨暮夜、妾夢みるに蒼龍吾が腹に拠る」と。高帝曰く、「此れ貴徴なり、吾女の為に遂に之を成さん」と。一たび幸せられて男を生む、是れを代王と為す。其の後薄姫希に高祖に見ゆ。高祖崩じ、諸々の御幸の姫戚夫人の属、呂太后怒りて、皆之を幽し、宮を出づるを得ず。而して薄姫は希に見ゆるの故を以て、出づるを得、子に従ひて代に之き、代王の太后と為る。太后の弟薄昭従ひて代に如く。代王立ちて十七年、高后崩ず。
現代語訳
大臣たちがこれを討ち、天がその正統を導いて、ついに呂氏を滅ぼした。ただ孝恵皇后だけは残して北宮に住まわせた。代王を迎えて帝位に立てた。これが孝文帝で、漢の宗廟を守り継いだ。これがどうして天の配剤でないことがあろう。天命でなければ、誰がこの位に当たることができようか。薄太后は、父は呉の人で、姓は薄氏である。秦の時代に、もとの魏王の一族の娘である魏媼(ぎおう)と通じて薄姫を生んだ。薄姫の父は山陰で死に、そこに葬られた。諸侯が秦に背くと、魏豹(ぎひょう)が立って魏王となり、魏媼は娘を魏の後宮に入れた。魏媼が人相見の許負(きょふ)のところへ行って娘を見てもらうと、許負は薄姫の人相を見て、天子を生むだろうと言った。このとき項羽は漢王と滎陽で対峙しており、天下はまだ定まっていなかった。魏豹は初め漢とともに楚を攻めていたが、許負の言葉を聞くと、ひそかに喜び、漢に背いて中立を保ち、改めて楚と和を結んだ。漢は曹参らに命じて魏王豹を攻めて捕らえ、その国を郡とし、薄姫は(宮中の)機織り工房に送られた。魏豹が死んだ後、漢王が機織り工房に入り、薄姫が美しいのを見て、命じて後宮に入れたが、一年余り寵愛を受けることはなかった。薄姫は若いころ、管夫人・趙子児と仲が良く、「先に出世した者も、お互いを忘れないでいよう」と約束していた。やがて管夫人と趙子児が先に漢王の寵愛を受けた。漢王が河南宮の成皋台に座っていたとき、この二人の美人は一緒になって、薄姫との昔の約束を笑いぐさにしていた。漢王がそれを聞いてわけを尋ねると、二人は詳しくありのままを漢王に告げた。漢王は胸を痛め、薄姫を哀れに思い、その日のうちに召し出して寵愛した。薄姫は言った。「昨夜、青い龍が私のお腹の上にうずくまっている夢を見た」。高帝は言った。「それは高貴な者が生まれる兆しだ。わしがお前のためにそれを叶えてやろう」。一度寵愛を受けただけで男子を生んだ。これが代王である。その後、薄姫が高祖に会うことはほとんどなかった。高祖が崩じると、寵愛を受けていた戚夫人らの側室たちは、呂太后の怒りに触れて、みな幽閉されて宮殿を出ることができなかった。しかし薄姫は、めったに高祖に会っていなかったので、宮殿を出ることができ、子に従って代へ行き、代王の太后となった。太后の弟の薄昭も従って代へ行った。代王が立って十七年目に、高后が崩じた。
解説
関連する章句
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史記 外戚世家大臣後を立てんことを議し、外家呂氏の彊きを疾み、皆薄氏の仁善を称す、故に代王を迎へ、立てて孝文皇帝と為す、而して太后は号を改めて皇太后と曰ひ、弟薄昭は封じて軹侯と為す。薄太后の母も亦た前に死し、櫟陽の北に葬る。是に於て乃ち薄父を追尊して霊文侯と為し、会稽郡に園邑三百家を置き、長丞已下の吏冢を奉守し、寝廟の上食の祠法の如くす。而して櫟陽の北にも亦た霊文侯夫人の園を置き、霊文侯の園の儀の如くす。薄太后以為へらく、母家は魏王の後なり、早く父母を失ふと。其の薄太后を奉ずる諸魏の力有る者、是に於て魏氏を召復し、[尊を及ぼし]賞賜各々親疏を以て之を受く。薄氏の侯たる者凡そ一人。薄太后は文帝に後るること二年、孝景帝の前二年を以て崩じ、南陵に葬る。呂后長陵に会葬するを以て、故に特に自ら陵を起こし、孝文皇帝の霸陵に近くす。竇太后は、趙の清河観津の人なり。呂太后の時、竇姫良家の子を以て宮に入りて太后に侍す。太后宮人を出だして以て諸王に賜ふ、各々五人、竇姫与に行中に在り。竇姫の家清河に在り、趙に如きて家に近からんことを欲し、其の主遣の宦者の吏に請ふ、「必ず我が籍を趙の伍中に置け」と。宦者之を忘れ、誤りて其の籍を代の伍中に置く。籍奏せられ、詔して可とし、当に行くべし。竇姫涕泣し、其の宦者を怨み、往くを欲せず、相彊ひて、乃ち肯へて行く。代に至り、代王独り竇姫を幸し、女嫖を生み、後に両男を生む。而して代王の王后四男を生む。代王未だ入りて立ちて帝と為らざるに先だちて王后卒す。代王立ちて帝と為るに及び、而して王后の生む所の四男更々病死す。孝文帝立ちて数月、公卿太子を立てんことを請ふ、而して竇姫の長男最も長なり、立てて太子と為す。竇姫を立てて皇后と為し、女嫖を長公主と為す。
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史記 孝文本紀孝文皇帝は、高祖の中子なり。高祖十一年春、已に陳豨の軍を破り、代の地を定め、立ちて代王と為り、中都に都す。太后薄氏の子なり。即位十七年、高后の八年七月、高后崩ず。九月、諸呂呂産等乱を為し、以て劉氏を危ふくせんと欲す、大臣共に之を誅し、謀りて代王を召して立てんとす、事は呂后の語中に在り。丞相陳平・太尉周勃等人をして代王を迎へしむ。代王左右の郎中令張武等に問ふ。張武等議して曰く、「漢の大臣は皆故の高帝の時の大将なり、兵に習ひ、謀詐多し、此れ其の意を属する所此に止まるに非ざるなり、特に高帝・呂太后の威を畏るるのみ。今已に諸呂を誅し、新たに血を京師に啑(すす)る、此れ大王を迎ふるを以て名と為すも、実は信ずべからず。願はくは大王疾と称して往く毋く、以て其の変を観よ。」と。中尉宋昌進みて曰く、「群臣の議は皆非なり。夫れ秦其の政を失ひ、諸侯豪桀並び起こり、人人自ら以て之を得たりと為す者万を以て数ふ、然れども卒に天子の位を践む者は、劉氏なり、天下望みを絶つ、一なり。高帝子弟を王に封じ、地犬牙相制す、此れ所謂盤石の宗なり、天下其の彊きに服す、二なり。漢興り、秦の苛政を除き、法令を約し、徳恵を施し、人人自ら安んじ、動揺し難し、三なり。夫れ呂太后の厳を以て、諸呂を立てて三王と為し、権を擅にして専制す、然り而して太尉一節を以て北軍に入り、一呼して士皆左袒し、劉氏の為にし、諸呂に叛き、卒に以て之を滅ぼす。此れ乃ち天授にして、人力に非ざるなり。今大臣変を為さんと欲すと雖も、百姓為に使はれず、其の党寧ぞ能く専一ならんや。方今内には朱虚・東牟の親有り、外には呉・楚・淮南・瑯邪・斉・代の彊を畏る。
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史記 呂太后本紀壬戌、帝の太傅食其を以て復た左丞相と為す。戊辰、済川王を徙して梁に王とし、趙の幽王の子遂を立てて趙王と為す。朱虚侯章を遣はして諸呂氏を誅する事を以て斉王に告げ、兵を罷めしむ。灌嬰の兵も亦滎陽に罷めて帰る。諸大臣相与に陰かに謀りて曰く、「少帝及び梁・淮陽・常山王は、皆真の孝恵の子に非ざるなり。呂后計を以て詐りて他人の子を名づけ、其の母を殺し、後宮に養ひ、孝恵をして之を子とせしめ、立てて以て後と為し、及び諸王とし、以て呂氏を彊くす。今皆已に諸呂を夷滅し、而して立つる所を置かば、即ち長じて事を用ゐば、吾が属類無からん。諸王の最も賢なる者を視て之を立つるに如かず。」と。或るひと言ふ「斉の悼恵王は高帝の長子なり、今其の適子斉王為り、本を推して之を言はば、高帝の適長孫なり、立つべきなり」と。大臣皆曰く、「呂氏は外家の悪を以て幾ど宗廟を危ふくし、功臣を乱す。今斉王の母家は駟(鈞)、駟鈞は、悪人なり。即し斉王を立てば、則ち復た呂氏と為らん。」と。淮南王を立てんと欲するも、以為へらく少なりと、母家も又悪し。乃ち曰く、「代王は方今高帝の見子にして、最も長じ、仁孝寛厚なり。太后の家薄氏は謹良なり。且つ長を立つるは故より順なり、仁孝を以て天下に聞こゆ、便なり。」と。乃ち相与に共に陰かに人をして代王を召さしむ。代王人をして辞謝せしむ。再び反りて、然る後に六乗の伝に乗る。後九月晦日己酉、長安に至り、代邸に舎る。大臣皆往きて謁し、天子の璽を奉じて代王に上り、共に尊びて立てて天子と為す。代王数(しばしば)譲る、群臣固く請ふ、然る後に聴く。東牟侯興居曰く、「呂氏を誅するに吾功無し、請ふ宮を除くことを得ん。」と。乃ち太僕汝陰侯滕公と宮に入り、前みて少帝に謂ひて曰く、「足下は劉氏に非ず、当に立つべからず。」と。乃ち顧みて左右の戟を執る者に麾(さしまね)きて兵を掊(す)てて罷り去らしむ。数人の肯へて兵を去らざる有り、宦者令張沢諭告し、亦兵を去る。
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史記 呂太后本紀呂太后は、高祖の微なりし時の妃なり、孝恵帝・女の魯元太后を生む。高祖の漢王と為るに及び、定陶の戚姫を得て、愛幸し、趙の隠王如意を生む。孝恵人と為り仁弱なり、高祖以為へらく我に類せずと、常に太子を廃して、戚姫の子如意を立てんと欲す、如意我に類すと。戚姫幸せられ、常に上に従ひて関東に之き、日夜啼泣し、其の子を立てて太子に代へんと欲す。呂后年長じ、常に留守し、上に見ゆること希にして、益々疏し。如意立ちて趙王と為りし後、幾ど太子に代はらんとする者数(しばしば)なり、大臣の之を争ひ、及び留侯の策に頼りて、太子廃せらるる毋きを得たり。呂后人と為り剛毅にして、高祖を佐けて天下を定む、誅する所の大臣多く呂后の力なり。呂后の兄二人、皆将と為る。長兄周呂侯事に死し、其の子呂台を封じて酈侯と為し、子産を交侯と為す。次兄呂釈之を建成侯と為す。高祖十二年四月甲辰、長楽宮に崩ず、太子号を襲ひて帝と為る。是の時高祖の八子、長男肥は、孝恵の兄なり、母を異にす、肥は斉王為り。余は皆孝恵の弟なり、戚姫の子如意は趙王為り、薄夫人の子恒は代王為り、諸姫の子子恢は梁王為り、子友は淮陽王為り、子長は淮南王為り、子建は燕王為り。高祖の弟交は楚王為り、兄の子濞は呉王為り。劉氏に非ざる功臣番君呉芮の子臣は長沙王為り。呂后最も戚夫人及び其の子趙王を怨み、乃ち永巷をして戚夫人を囚へしめ、而して趙王を召す。使者三たび反る、趙の相建平侯周昌使者に謂ひて曰く、「高帝臣に趙王を属す、趙王年少なり。竊かに聞く太后戚夫人を怨み、趙王を召して并せて之を誅せんと欲すと、臣敢へて王を遣はさず。王も且つ亦病めり、詔を奉ずる能はず。」と。呂后大いに怒り、乃ち人をして趙の相を召さしむ。趙の相徴されて長安に至る、乃ち人をして復た趙王を召さしむ。王来たるも、未だ到らず。
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史記 孝文本紀方今高帝の子は独り淮南王と大王とのみ、大王又長じ、賢聖仁孝、天下に聞こゆ、故に大臣天下の心に因りて大王を迎へ立てんと欲す、大王疑ふ勿かれ。」と。代王太后に報じて之を計る、猶与して未だ定まらず。之を亀に卜す、卦兆大横を得たり。占に曰く、「大横庚庚たり、余天王と為り、夏啓以て光あり。」と。代王曰く、「寡人固より已に王為り、又何ぞ王たらん。」と。卜人曰く、「所謂天王とは乃ち天子なり。」と。是に於て代王乃ち太后の弟薄昭を遣はして往きて絳侯に見えしむ、絳侯等具に昭の為に王を迎へ立つる所以の意を言ふ。薄昭還りて報じて曰く、「信なり、疑ふべき者毋し。」と。代王乃ち笑ひて宋昌に謂ひて曰く、「果たして公の言の如し。」と。乃ち宋昌に命じて参乗せしめ、張武等六人伝に乗りて長安に詣る。高陵に至りて休止し、而して宋昌をして先づ馳せて長安に之きて変を観しむ。昌渭橋に至る、丞相以下皆迎ふ。宋昌還りて報ず。代王馳せて渭橋に至る、群臣拝謁して臣と称す。代王車を下りて拝す。太尉勃進みて曰く、「願はくは間言を請はん。」と。宋昌曰く、「言ふ所公ならば、公に之を言へ。言ふ所私ならば、王者は私を受けず。」と。太尉乃ち跪きて天子の璽符を上る。代王謝して曰く、「代邸に至りて之を議せん。」と。遂に馳せて代邸に入る。群臣従ひて至る。丞相陳平・太尉周勃・大将軍陳武・御史大夫張蒼・宗正劉郢・朱虚侯劉章・東牟侯劉興居・典客劉掲皆再拝して言ひて曰く、「子弘等は皆孝恵帝の子に非ず、当に宗廟を奉ずべからず。臣謹みて(与)陰安侯・列侯・頃王后と瑯邪王・宗室・大臣・列侯・吏二千石とに請ひて議して曰く『大王は高帝の長子なり、宜しく高帝の嗣と為るべし』と。願はくは大王天子の位に即け。」と。代王曰く、「高帝の宗廟を奉ずるは、重事なり。寡人不佞にして、以て宗廟に称ふに足らず。
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史記 孝文本紀願はくは楚王に請ひて宜しき者を計れ、寡人敢へて当たらず。」と。群臣皆伏して固く請ふ。代王西郷して譲る者三たび、南郷して譲る者再びす。丞相平等皆曰く、「臣伏して之を計るに、大王高帝の宗廟を奉ずること最も宜しく称ふ、天下の諸侯万民と雖も以て宜しと為す。臣等宗廟社稷の為に計る、敢へて忽せにせず。願はくは大王幸ひに臣等に聴け。臣謹みて天子の璽符を奉じて再拝して上る。」と。代王曰く、「宗室将相王列侯以為へらく寡人に宜しきは莫しと、寡人敢へて辞せず。」と。遂に天子の位に即く。群臣礼を以て次して侍す。乃ち太僕嬰と東牟侯興居とをして宮を清めしめ、天子の法駕を奉じて、代邸に迎ふ。皇帝即日夕に未央宮に入る。乃ち夜宋昌を拝して衛将軍と為し、南北軍を鎮撫せしむ。張武を以て郎中令と為し、殿中を行(めぐ)らしむ。還りて前殿に坐す。是に於て夜詔書を下して曰く、「間者(このごろ)諸呂事を用ゐて権を擅にし、大逆を為さんと謀り、以て劉氏の宗廟を危ふくせんと欲す、将相列侯宗室大臣の之を誅するに頼りて、皆其の辜に伏す。朕初めて位に即く、其れ天下に赦し、民に爵一級を賜ひ、女子百戸に牛酒、酺すること五日。」と。孝文皇帝の元年十月庚戌、故の琅邪王沢を徙し立てて燕王と為す。辛亥、皇帝阼に即き、高廟に謁す。右丞相平徙りて左丞相と為り、太尉勃を右丞相と為し、大将軍灌嬰を太尉と為す。諸呂の奪ひし所の斉楚の故地は、皆復た之を与ふ。壬子、車騎将軍薄昭を遣はして皇太后を代に迎ふ。皇帝曰く、「呂産自ら置きて相国と為り、呂禄上将軍と為り、擅に矯りて灌将軍嬰を遣はして兵を将ゐて斉を撃たしめ、劉氏に代はらんと欲す、嬰滎陽に留まりて撃たず、諸侯と合謀して以て呂氏を誅す。呂産不善を為さんと欲す、丞相陳平太尉周勃と謀りて呂産等の軍を奪ふ。朱虚侯劉章首め先づ呂産等を捕ふ。
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