史記 / 陳渉世家
韓廣以為然,乃自立為燕王。居數月,趙奉燕王母及家屬歸之燕。當此之時,諸將之徇地者,不可勝數。周市北徇地至狄,狄人田儋殺狄令,自立為齊王,以齊反擊周市。市軍散,還至魏地,欲立魏後故甯陵君咎為魏王。時咎在陳王所,不得之魏。魏地已定,欲相與立周市為魏王,周市不肯。使者五反,陳王乃立甯陵君咎為魏王,遣之國。周市卒為相。將軍田臧等相與謀曰:「周章軍已破矣,秦兵旦暮至,我圍滎陽城弗能下,秦軍至,必大敗。不如少遺兵,足以守熒陽,悉精兵迎秦軍。今假王驕,不知兵權,不可與計,非誅之,事恐敗。」因相與矯王令以誅吳叔,獻其首於陳王。陳王使使賜田臧楚令尹印,使為上將。田臧乃使諸將李歸等守滎陽城,自以精兵西迎秦軍於敖倉。與戰,田臧死,軍破。章邯進兵擊李歸等滎陽下,破之,李歸等死。陽城人鄧說將兵居郯,章邯別將擊破之,鄧說軍散走陳。銍人伍徐將兵居許,章邯擊破之,伍徐軍皆散走陳。陳王誅鄧說。陳王初立時,陵人秦嘉、銍人董緶、符離人朱雞石、取慮人鄭布、徐人丁疾等皆特起,將兵圍東海守慶於郯。陳王聞,乃使武平君畔為將軍,監郯下軍。
新字:韓広以為然,乃自立為燕王。居数月,趙奉燕王母及家属帰之燕。当此之時,諸将之徇地者,不可勝数。周市北徇地至狄,狄人田儋殺狄令,自立為斉王,以斉反撃周市。市軍散,還至魏地,欲立魏後故甯陵君咎為魏王。時咎在陳王所,不得之魏。魏地已定,欲相与立周市為魏王,周市不肯。使者五反,陳王乃立甯陵君咎為魏王,遣之国。周市卒為相。将軍田臧等相与謀曰:「周章軍已破矣,秦兵旦暮至,我囲滎陽城弗能下,秦軍至,必大敗。不如少遺兵,足以守熒陽,悉精兵迎秦軍。今仮王驕,不知兵権,不可与計,非誅之,事恐敗。」因相与矯王令以誅呉叔,献其首於陳王。陳王使使賜田臧楚令尹印,使為上将。田臧乃使諸将李帰等守滎陽城,自以精兵西迎秦軍於敖倉。与戦,田臧死,軍破。章邯進兵撃李帰等滎陽下,破之,李帰等死。陽城人鄧説将兵居郯,章邯別将撃破之,鄧説軍散走陳。銍人伍徐将兵居許,章邯撃破之,伍徐軍皆散走陳。陳王誅鄧説。陳王初立時,陵人秦嘉、銍人董緶、符離人朱鶏石、取慮人鄭布、徐人丁疾等皆特起,将兵囲東海守慶於郯。陳王聞,乃使武平君畔為将軍,監郯下軍。
書き下し
韓広以て然りと為し、乃ち自ら立ちて燕王と為る。居ること数月、趙燕王の母及び家属を奉じて之を燕に帰す。此の時に当たり、諸将の地を徇ふる者、勝げて数ふべからず。周市北のかた地を徇へて狄に至る、狄人田儋狄の令を殺し、自ら立ちて斉王と為り、斉を以て反りて周市を撃つ。市の軍散じ、還りて魏の地に至り、魏の後の故の甯陵君咎を立てて魏王と為さんと欲す。時に咎陳王の所に在り、魏に之くを得ず。魏の地已に定まり、相与に周市を立てて魏王と為さんと欲す、周市肯ぜず。使者五たび反る、陳王乃ち甯陵君咎を立てて魏王と為し、之を国に遣はす。周市卒に相と為る。将軍田臧等相与に謀りて曰く、「周章の軍已に破れたり、秦兵旦暮に至らん、我滎陽城を囲みて下す能はず、秦軍至らば、必ず大いに敗れん。少しく兵を遺して、以て熒陽を守るに足らしめ、悉く精兵もて秦軍を迎ふるに如かず。今仮王驕り、兵権を知らず、与に計るべからず、之を誅するに非ずんば、事恐らくは敗れん」と。因りて相与に王の令を矯めて以て呉叔を誅し、其の首を陳王に献ず。陳王使をして田臧に楚の令尹の印を賜はしめ、上将と為さしむ。田臧乃ち諸将李帰等をして滎陽城を守らしめ、自ら精兵を以て西のかた秦軍を敖倉に迎ふ。与に戦ひ、田臧死し、軍破る。章邯兵を進めて李帰等を滎陽の下に撃ち、之を破る、李帰等死す。陽城の人鄧説兵を将ゐて郯に居る、章邯の別将撃ちて之を破る、鄧説の軍散じて陳に走る。銍の人伍徐兵を将ゐて許に居る、章邯撃ちて之を破る、伍徐の軍皆散じて陳に走る。陳王鄧説を誅す。陳王初めて立つ時、陵の人秦嘉、銍の人董緤、符離の人朱雞石、取慮の人鄭布、徐の人丁疾等皆特起し、兵を将ゐて東海の守慶を郯に囲む。陳王聞きて、乃ち武平君畔をして将軍と為し、郯下の軍を監せしむ。
現代語訳
韓広はもっともだと思い、自ら立って燕王となった。数か月後、趙は燕王の母と家族を丁重に燕へ送り返した。このころ、諸将のうち各地を攻略する者は数えきれないほどであった。周市は北へ攻略を進めて狄(てき)に至った。狄の人田儋(でんたん)は狄の県令を殺し、自ら立って斉王となり、斉の兵で逆に周市を攻撃した。周市の軍は散り散りになり、魏の地に引き返すと、魏の王家の子孫で、もと甯陵君(ねいりょうくん)の咎(きゅう)を魏王に立てようとした。ところが咎はそのとき陳王のもとにいて、魏へ行くことができなかった。魏の地がすでに平定されると、人々は一緒になって周市を魏王に立てようとしたが、周市は承知しなかった。使者が五度も往復して、陳王はようやく甯陵君咎を魏王に立て、国へ送り出した。周市は結局、魏の宰相となった。将軍田臧(でんぞう)らは相談して言った。「周章(周文)の軍はもう破れた。秦の兵は今にもやって来る。我々は滎陽城を包囲しているが落とせない。秦軍が来れば必ず大敗する。わずかな兵を残して滎陽の守りに充て、精兵をすべて率いて秦軍を迎え撃つほうがよい。いま仮王(呉広)は驕っていて用兵の機微を知らず、ともに策を立てることができない。彼を誅殺しなければ、事はおそらく失敗するだろう」。そこで彼らは示し合わせて王の命令を偽り、呉叔を誅殺して、その首を陳王に献上した。陳王は使者を遣わして田臧に楚の令尹の印を与え、上将とした。田臧はそこで李帰ら諸将に滎陽城を守らせ、自らは精兵を率いて西へ向かい、敖倉(ごうそう)で秦軍を迎え撃った。戦って田臧は死に、軍は破れた。章邯は兵を進めて滎陽のもとで李帰らを攻撃して破り、李帰らは死んだ。陽城の人鄧説(とうえつ)は兵を率いて郯(たん)にいたが、章邯の別働隊がこれを破り、鄧説の軍は散り散りになって陳へ逃げた。銍の人伍徐(ごじょ)は兵を率いて許にいたが、章邯がこれを破り、伍徐の軍はみな散り散りになって陳へ逃げた。陳王は鄧説を誅殺した。陳王が初めて立ったころ、陵の人秦嘉、銍の人董緤(とうせつ)、符離の人朱雞石(しゅけいせき)、取慮(しゅりょ)の人鄭布、徐の人丁疾らはみな独自に兵を挙げ、兵を率いて東海郡の郡守慶を郯で包囲していた。陳王はこれを聞いて、武平君畔(はん)を将軍とし、郯のもとの軍を監督させた。
解説
関連する章句
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史記 陳渉世家周文は、陳の賢人なり、嘗て項燕の軍の視日と為り、春申君に事ふ、自ら兵を習ふと言ふ、陳王之に将軍の印を与へ、西のかた秦を撃たしむ。行くゆく兵を収めて関に至る、車千乗、卒数十万、戯に至り、焉に軍す。秦、少府章邯をして酈山の徒・人奴産子の生を免じ、悉く発して以て楚の大軍を撃たしめ、尽く之を敗る。周文敗れ、走りて関を出で、曹陽に止次すること二三月。章邯追ひて之を敗る、復た走りて澠池に次すること十余日。章邯撃ちて、大いに之を破る。周文自剄し、軍遂に戦はず。武臣邯鄲に到り、自ら立ちて趙王と為る、陳余は大将軍と為り、張耳・召騒は左右の丞相と為る。陳王怒り、武臣等の家室を捕系し、之を誅せんと欲す。柱国曰く、「秦未だ亡びざるに趙王将相の家属を誅するは、此れ一秦を生ずるなり。因りて之を立つるに如かず」と。陳王乃ち使者を遣はして趙を賀し、武臣等の家属を宮中に徙系し、耳の子張敖を封じて成都君と為し、趙の兵を趣して亟やかに関に入らしむ。趙王の将相相与に謀りて曰く、「王の趙に王たるは、楚の意に非ざるなり。楚已に秦を誅せば、必ず兵を趙に加へん。計は西に兵すること毋く、使をして北のかた燕の地を徇へしめて以て自ら広むるに如くは莫し。趙南は大河に拠り、北は燕・代有り、楚秦に勝つと雖も、敢へて趙を制せず。若し楚秦に勝たずんば、必ず趙を重んぜん。趙秦の獘に乗じ、以て志を天下に得べし」と。趙王以て然りと為し、因りて西に兵せず、而して故の上谷の卒史韓広をして兵を将ゐて北のかた燕の地を徇へしむ。燕の故の貴人豪傑韓広に謂ひて曰く、「楚已に王を立て、趙も又已に王を立つ。燕は小なりと雖も、亦た万乗の国なり、願はくは将軍立ちて燕王と為れ」と。韓広曰く、「広の母趙に在り、不可なり」と。燕人曰く、「趙は方に西に秦を憂ひ、南に楚を憂ふ、其の力我を禁ずる能はず。且つ楚の彊を以てするも、敢へて趙王将相の家を害せず、趙独り安んぞ敢へて将軍の家を害せんや」と。
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史記 陳渉世家尉剣挺く、広起ちて、奪ひて尉を殺す。陳勝之を佐け、并せて両尉を殺す。徒属を召し令して曰く、「公等雨に遇ひ、皆已に期を失ふ、期を失へば当に斬らるべし。藉弟令ひ斬らるること毋きも、戍りて死する者は固より十に六七なり。且つ壮士は死せずんば即ち已む、死せば即ち大名を挙げんのみ、王侯将相寧んぞ種有らんや」と。徒属皆曰く、「敬んで命を受けん」と。乃ち詐りて公子扶蘇・項燕と称す、民の欲に従ふなり。右を袒ぎ、大楚と称す。壇を為りて盟ひ、祭るに尉の首を以てす。陳勝自ら立ちて将軍と為り、呉広は都尉と為る。大沢郷を攻め、収めて蘄を攻む。蘄下り、乃ち符離の人葛嬰をして兵を将ゐて蘄より以東を徇へしむ。銍・酇・苦・柘・譙を攻めて皆之を下す。行くゆく兵を収む。陳に至る比、車六七百乗、騎千余、卒数万人。陳を攻む、陳の守令皆在らず、独り守丞と譙門の中に戦ふ。勝たず、守丞死す、乃ち入りて陳に拠る。数日にして、号令して三老・豪傑を召し与に皆来たりて事を会計せしむ。三老・豪傑皆曰く、「将軍身は堅を被り鋭を執り、無道を伐ち、暴秦を誅し、復た楚国の社稷を立つ、功宜しく王と為るべし」と。陳渉乃ち立ちて王と為り、号して張楚と為す。此の時に当たり、諸郡県の秦吏に苦しむ者、皆其の長吏を刑し、之を殺して以て陳渉に応ず。乃ち呉叔を以て仮王と為し、諸将を監して以て西のかた滎陽を撃たしむ。陳の人武臣・張耳・陳余をして趙の地を徇へしめ、汝陰の人鄧宗をして九江郡を徇へしむ。此の時に当たり、楚兵数千人にして聚を為す者、勝げて数ふべからず。葛嬰東城に至り、襄彊を立てて楚王と為す。嬰後に陳王の已に立つを聞き、因りて襄彊を殺し、還りて報ず。陳に至る、陳王葛嬰を誅殺す。陳王、魏の人周市をして北のかた魏の地を徇へしむ。呉広滎陽を囲む。李由三川の守為り、滎陽を守る、呉叔下す能はず。陳王国の豪傑を徴して与に計り、上蔡の人房君蔡賜を以て上柱国と為す。
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史記 陳渉世家秦嘉命を受けず、嘉自ら立ちて大司馬と為り、武平君に属するを悪む。軍吏に告げて曰く、「武平君は年少く、兵事を知らず、聴くこと勿かれ」と。因りて矯めて王命を以て武平君畔を殺す。章邯已に伍徐を破り、陳を撃つ、柱国房君死す。章邯又兵を進めて陳の西の張賀の軍を撃つ。陳王出でて戦を監す、軍破れ、張賀死す。臘月、陳王汝陰に之き、還りて下城父に至る、其の御荘賈殺して以て秦に降る。陳勝碭に葬られ、謚して隠王と曰ふ。陳王の故の涓人将軍呂臣倉頭軍と為り、新陽に起こり、陳を攻めて之を下し、荘賈を殺し、復た陳を以て楚と為す。初め、陳王陳に至り、銍の人宋留をして兵を将ゐて南陽を定め、武関に入らしむ。留已に南陽を徇へしも、陳王の死を聞き、南陽復た秦と為る。宋留武関に入る能はず、乃ち東して新蔡に至り、秦軍に遇ひ、宋留軍を以て秦に降る。秦留を伝へて咸陽に至らしめ、留を車裂して以て徇ふ。秦嘉等陳王の軍破れて出走するを聞き、乃ち景駒を立てて楚王と為し、兵を引きて方与に之き、秦軍を定陶の下に撃たんと欲す。公孫慶をして斉王に使ひせしめ、与に力を并せて俱に進まんと欲す。斉王曰く、「陳王戦ひ敗れ、其の死生を知らずと聞く、楚安んぞ請はずして王を立つるを得んや」と。公孫慶曰く、「斉は楚に請はずして王を立つ、楚何の故に斉に請ひて王を立てんや。且つ楚は事を首む、当に天下に令すべし」と。田儋公孫慶を誅殺す。秦の左右の校復た陳を攻め、之を下す。呂将軍走り、兵を収めて復た聚む。鄱の盗当陽君黥布の兵と相収め、復た秦の左右の校を撃ち、之を青波に破り、復た陳を以て楚と為す。会々項梁懐王の孫心を立てて楚王と為す。陳勝王たること凡そ六月。已に王と為り、陳に王たり。其の故人の嘗て与に庸耕せし者之を聞き、陳に之き、宮門を扣きて曰く、「吾渉に見えんと欲す」と。宮門の令之を縛せんと欲す。自ら辯ずること数々にして、乃ち置く、肯へて為に通ぜず。
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史記 田儋列伝秦の将章邯、魏王咎を臨済に囲み、急なり。魏王救ひを斉に請ひ、斉王田儋兵を将ゐて魏を救ふ。章邯夜枚を銜みて撃ち、大いに斉・魏の軍を破り、田儋を臨済の下に殺す。儋の弟田栄儋の余兵を収めて東のかた東阿に走る。斉人王田儋の死せるを聞き、乃ち故の斉王建の弟田仮を立てて斉王と為し、田角を相と為し、田間を将と為し、以て諸侯を距ぐ。田栄の東阿に走るや、章邯追ひて之を囲む。項梁田栄の急なるを聞き、乃ち兵を引ゐて章邯の軍を東阿の下に撃破す。章邯走りて西し、項梁因りて之を追ふ。而して田栄斉の仮を立つるを怒り、乃ち兵を引ゐて帰り、斉王仮を撃ち逐ふ。仮亡げて楚に走る。斉の相角亡げて趙に走る。角の弟田間前に救ひを趙に求め、因りて留まりて敢へて帰らず。田栄乃ち田儋の子市を立てて斉王と為す。栄之に相たり、田横将と為り、斉の地を平らぐ。項梁既に章邯を追ふに、章邯の兵益盛んなり。項梁使を使はして趙・斉に告げ、兵を発して共に章邯を撃たしめんとす。田栄曰く、「楚をして田仮を殺さしめ、趙をして田角・田間を殺さしめば、閒ち肯へて兵を出さん」と。楚の懐王曰く、「田仮は与国の王なり。窮して我に帰す。之を殺すは不義なり」と。趙も亦田角・田間を殺して以て斉に市らず。斉曰く、「蝮手を螫せば則ち手を斬り、足を螫せば則ち足を斬る。何となれば、身に害を為せばなり。今田仮・田角・田間の楚・趙に於けるは、直に手足の戚に非ざるなり。何の故に殺さざる。且つ秦復た志を天下に得ば、則ち事を用ふる者の墳墓を齮齕(きこつ)せん」と。楚・趙聴かず、斉も亦怒り、終に肯へて兵を出さず。章邯果して項梁を敗殺し、楚の兵を破り、楚の兵東に走る。而して章邯河を渡りて趙を鉅鹿に囲む。項羽往きて趙を救ひ、此に由りて田栄を怨む。項羽既に趙を存し、章邯等を降し、西のかた咸陽を屠り、秦を滅ぼして侯王を立つるや、乃ち斉王田市を徙して更めて膠東に王とし、即墨に治せしむ。
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史記 項羽本紀朱雞石の軍敗れ、亡げて胡陵に走る。項梁乃ち兵を引きて薛に入り、雞石を誅す。項梁前に項羽をして別に襄城を攻めしむ、襄城堅守して下らず。已に抜き、皆之を阬(あな)にす。還りて項梁に報ず。項梁陳王の定めて死せるを聞き、諸別将を召して薛に会して事を計る。此の時沛公も亦沛に起こり、焉に往く。居鄛(きょそう)の人范増、年七十、素より家に居り、奇計を好む、往きて項梁に説きて曰く、「陳勝の敗るるは固より当たれり。夫れ秦六国を滅ぼすに、楚最も罪無し。懐王秦に入りて反らざりしより、楚人之を憐れむこと今に至る、故に楚の南公曰く『楚は三戸と雖も、秦を亡ぼすは必ず楚ならん』と。今陳勝事を首むるも、楚の後を立てずして自ら立つ、其の勢長からず。今君江東に起こり、楚の蠭起の将皆争ひて君に附く者は、君の世世楚の将たるを以て、能く復た楚の後を立つと為せばなり。」と。是に於て項梁其の言を然りとし、乃ち楚の懐王の孫心を民間に求む、人の為に羊を牧す、立てて以て楚の懐王と為す、民の望む所に従ふなり。陳嬰楚の上柱国と為り、五県に封ぜられ、懐王と盱台(くい)に都す。項梁自ら号して武信君と為す。居ること数月、兵を引きて亢父を攻め、斉の田栄・司馬龍且の軍と東阿を救ひ、大いに秦の軍を東阿に破る。田栄即ち兵を引きて帰り、其の王仮を逐ふ。仮亡げて楚に走る。仮の相田角亡げて趙に走る。角の弟田間は故の斉の将にして、趙に居りて敢へて帰らず。田栄田儋の子市を立てて斉王と為す。項梁已に東阿の下の軍を破り、遂に秦の軍を追ふ。数(しばしば)使をして斉の兵を趣(うなが)さしめ、与に倶に西せんと欲す。田栄曰く、「楚田仮を殺し、趙田角・田間を殺さば、乃ち兵を発せん。」と。項梁曰く、「田仮は与国の王為り、窮して来りて我に従ふ、之を殺すに忍びず。」と。趙も亦田角・田間を殺して以て斉に市(う)らず。斉遂に肯へて兵を発して楚を助けず。項梁沛公及び項羽をして別に城陽を攻めしめ、之を屠る。
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