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史記 / 陳渉世家

周文,陳之賢人也,嘗為項燕軍視日,事春申君,自言習兵,陳王與之將軍印,西擊秦。行收兵至關,車千乘,卒數十萬,至戲,軍焉。秦令少府章邯免酈山徒、人奴產子生,悉發以擊楚大軍,盡敗之。周文敗,走出關,止次曹陽二三月。章邯追敗之,復走次澠池十餘日。章邯擊,大破之。周文自剄,軍遂不戰。武臣到邯鄲,自立為趙王,陳餘為大將軍,張耳、召騷為左右丞相。陳王怒,捕系武臣等家室,欲誅之。柱國曰:「秦未亡而誅趙王將相家屬,此生一秦也。不如因而立之。」陳王乃遣使者賀趙,而徙系武臣等家屬宮中,而封耳子張敖為成都君,趣趙兵亟入關。趙王將相相與謀曰:「王王趙,非楚意也。楚已誅秦,必加兵於趙。計莫如毋西兵,使使北徇燕地以自廣也。趙南據大河,北有燕、代,楚雖勝秦,不敢制趙。若楚不勝秦,必重趙。趙乘秦之獘,可以得志於天下。」趙王以為然,因不西兵,而遣故上谷卒史韓廣將兵北徇燕地。燕故貴人豪傑謂韓廣曰:「楚已立王,趙又已立王。燕雖小,亦萬乘之國也,願將軍立為燕王。」韓廣曰:「廣母在趙,不可。」燕人曰:「趙方西憂秦,南憂楚,其力不能禁我。且以楚之彊,不敢害趙王將相之家,趙獨安敢害將軍之家!」

新字:周文,陳之賢人也,嘗為項燕軍視日,事春申君,自言習兵,陳王与之将軍印,西撃秦。行収兵至関,車千乗,卒数十万,至戯,軍焉。秦令少府章邯免酈山徒、人奴産子生,悉発以撃楚大軍,尽敗之。周文敗,走出関,止次曹陽二三月。章邯追敗之,復走次澠池十余日。章邯撃,大破之。周文自剄,軍遂不戦。武臣到邯鄲,自立為趙王,陳余為大将軍,張耳、召騷為左右丞相。陳王怒,捕系武臣等家室,欲誅之。柱国曰:「秦未亡而誅趙王将相家属,此生一秦也。不如因而立之。」陳王乃遣使者賀趙,而徙系武臣等家属宮中,而封耳子張敖為成都君,趣趙兵亟入関。趙王将相相与謀曰:「王王趙,非楚意也。楚已誅秦,必加兵於趙。計莫如毋西兵,使使北徇燕地以自広也。趙南拠大河,北有燕、代,楚雖勝秦,不敢制趙。若楚不勝秦,必重趙。趙乗秦之獘,可以得志於天下。」趙王以為然,因不西兵,而遣故上谷卒史韓広将兵北徇燕地。燕故貴人豪傑謂韓広曰:「楚已立王,趙又已立王。燕雖小,亦万乗之国也,願将軍立為燕王。」韓広曰:「広母在趙,不可。」燕人曰:「趙方西憂秦,南憂楚,其力不能禁我。且以楚之彊,不敢害趙王将相之家,趙独安敢害将軍之家!」

書き下し

周文は、陳の賢人なり、嘗て項燕の軍の視日と為り、春申君に事ふ、自ら兵を習ふと言ふ、陳王之に将軍の印を与へ、西のかた秦を撃たしむ。行くゆく兵を収めて関に至る、車千乗、卒数十万、戯に至り、焉に軍す。秦、少府章邯をして酈山の徒・人奴産子の生を免じ、悉く発して以て楚の大軍を撃たしめ、尽く之を敗る。周文敗れ、走りて関を出で、曹陽に止次すること二三月。章邯追ひて之を敗る、復た走りて澠池に次すること十余日。章邯撃ちて、大いに之を破る。周文自剄し、軍遂に戦はず。武臣邯鄲に到り、自ら立ちて趙王と為る、陳余は大将軍と為り、張耳・召騒は左右の丞相と為る。陳王怒り、武臣等の家室を捕系し、之を誅せんと欲す。柱国曰く、「秦未だ亡びざるに趙王将相の家属を誅するは、此れ一秦を生ずるなり。因りて之を立つるに如かず」と。陳王乃ち使者を遣はして趙を賀し、武臣等の家属を宮中に徙系し、耳の子張敖を封じて成都君と為し、趙の兵を趣して亟やかに関に入らしむ。趙王の将相相与に謀りて曰く、「王の趙に王たるは、楚の意に非ざるなり。楚已に秦を誅せば、必ず兵を趙に加へん。計は西に兵すること毋く、使をして北のかた燕の地を徇へしめて以て自ら広むるに如くは莫し。趙南は大河に拠り、北は燕・代有り、楚秦に勝つと雖も、敢へて趙を制せず。若し楚秦に勝たずんば、必ず趙を重んぜん。趙秦の獘に乗じ、以て志を天下に得べし」と。趙王以て然りと為し、因りて西に兵せず、而して故の上谷の卒史韓広をして兵を将ゐて北のかた燕の地を徇へしむ。燕の故の貴人豪傑韓広に謂ひて曰く、「楚已に王を立て、趙も又已に王を立つ。燕は小なりと雖も、亦た万乗の国なり、願はくは将軍立ちて燕王と為れ」と。韓広曰く、「広の母趙に在り、不可なり」と。燕人曰く、「趙は方に西に秦を憂ひ、南に楚を憂ふ、其の力我を禁ずる能はず。且つ楚の彊を以てするも、敢へて趙王将相の家を害せず、趙独り安んぞ敢へて将軍の家を害せんや」と。

現代語訳

周文は陳の賢人で、かつて項燕の軍で吉凶の日を占う役を務め、春申君にも仕えたことがあり、自分は兵法を習ったと言っていた。陳王は彼に将軍の印を与え、西へ秦を攻めさせた。周文は進みながら兵を集めて函谷関に至り、戦車千台、兵士数十万となって、戯(き)まで進んで陣を構えた。秦は少府(宮中の財政をつかさどる官)の章邯(しょうかん)に命じて、驪山(始皇帝陵)の労役囚や奴隷の子らを赦免し、すべて動員して楚の大軍を攻撃させ、ことごとく打ち破った。周文は敗れて関の外へ逃げ出し、曹陽に二、三か月とどまった。章邯が追撃してこれを破り、周文はまた逃げて澠池(べんち)に十日余りとどまった。章邯が攻撃して大いに打ち破ると、周文は自ら首をはね、その軍はもう戦わなかった。武臣は邯鄲に着くと、自ら立って趙王となり、陳余が大将軍、張耳と召騒(しょうそう)が左右の丞相となった。陳王は怒り、武臣らの家族を捕らえて獄につなぎ、誅殺しようとした。上柱国(蔡賜)が言った。「秦がまだ滅びていないのに趙王や将相の家族を誅殺すれば、もう一つ秦のような敵を生むことになる。いっそこれを機に趙王として認めるほうがよい」。陳王はそこで使者を遣わして趙に祝いを述べ、武臣らの家族を宮中に移して留め置き、張耳の子張敖(ちょうごう)を成都君に封じ、趙の兵を促して急いで函谷関に入らせようとした。趙王と将相たちは相談して言った。「王が趙の王となったのは楚の本意ではない。楚が秦を滅ぼしたら、必ず趙に兵を向けてくる。西へ兵を出さず、使者を北に遣わして燕の地を攻略し、自国の領土を広げるのが最善だ。趙は南は黄河に拠り、北には燕と代がある。楚が秦に勝っても、趙を抑えつけることはできない。もし楚が秦に勝てなければ、必ず趙を重んじるはずだ。趙は秦の疲弊に乗じれば、天下に志を遂げることができる」。趙王はもっともだと思い、西へ兵を出さず、もと上谷郡の卒史(下級の書記官)韓広に兵を率いさせ、北の燕の地を攻略させた。燕のもとの貴族や豪傑が韓広に言った。「楚はすでに王を立て、趙もまたすでに王を立てた。燕は小さいとはいえ、やはり万乗の国(大国)だ。どうか将軍が立って燕王となってほしい」。韓広は言った。「私の母は趙にいる。それはできない」。燕の人々は言った。「趙はいま西は秦を憂え、南は楚を憂えていて、その力では我々を抑えられない。それに楚ほどの強国でさえ趙王や将相の家族を害しようとはしなかった。趙だけがどうして将軍の家族を害しようとするだろうか」。

解説

陳勝政権の分裂が一気に進む段です。西へ向かった周文の数十万の大軍は、秦の章邯が驪山の労役囚や奴隷を赦して編成した軍に大敗し、周文は自害します。一方、趙に派遣した武臣は勝手に趙王を名乗り、陳勝は怒って家族を殺そうとしますが、側近の「もう一つ秦を生むだけだ」との進言で追認に転じます。ところが趙の君臣は恩を感じるどころか「楚が秦に勝てば次は趙が狙われる」と計算し、西への援軍を出さず燕の攻略に向かいます。そしてその燕では、派遣された韓広がまた自立を勧められる。派遣した者が次々と独立していく連鎖です。理念ではなく各自の利害で結びついた集団は、成功の見込みが揺らぐとすぐに割れます。任せた部下の忠誠を何でつなぎとめるかという問いが見えてきます。

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