史記 / 孔子世家
使爾多財,吾為爾宰。」於是使子貢至楚。楚昭王興師迎孔子,然後得免。昭王將以書社地七百里封孔子。楚令尹子西曰:「王之使使諸侯有如子貢者乎?」曰:「無有。」「王之輔相有如顏回者乎?」曰:「無有。」「王之將率有如子路者乎?」曰:「無有。」「王之官尹有如宰予者乎?」曰:「無有。」「且楚之祖封於周,號為子男五十里。今孔丘述三五之法,明周召之業,王若用之,則楚安得世世堂堂方數千里乎?夫文王在豐,武王在鎬,百里之君卒王天下。今孔丘得據土壤,賢弟子為佐,非楚之福也。」昭王乃止。其秋,楚昭王卒于城父。楚狂接輿歌而過孔子,曰:「鳳兮鳳兮,何德之衰!往者不可諫兮,來者猶可追也!已而已而,今之從政者殆而!」孔子下,欲與之言。趨而去,弗得與之言。於是孔子自楚反乎衞。是歲也,孔子年六十三,而魯哀公六年也。其明年,吳與魯會繒,徵百牢。太宰嚭召季康子。康子使子貢往,然後得已。孔子曰:「魯衞之政,兄弟也。」是時,衞君輒父不得立,在外,諸侯數以為讓。而孔子弟子多仕於衞,衞君欲得孔子為政。子路曰:「衞君待子而為政,子將奚先?」孔子曰:「必也正名乎!」子路曰:「有是哉,子之迂也!何其正也?」孔子曰:「野哉由也!
新字:使爾多財,吾為爾宰。」於是使子貢至楚。楚昭王興師迎孔子,然後得免。昭王将以書社地七百里封孔子。楚令尹子西曰:「王之使使諸侯有如子貢者乎?」曰:「無有。」「王之輔相有如顔回者乎?」曰:「無有。」「王之将率有如子路者乎?」曰:「無有。」「王之官尹有如宰予者乎?」曰:「無有。」「且楚之祖封於周,号為子男五十里。今孔丘述三五之法,明周召之業,王若用之,則楚安得世世堂堂方数千里乎?夫文王在豊,武王在鎬,百里之君卒王天下。今孔丘得拠土壤,賢弟子為佐,非楚之福也。」昭王乃止。其秋,楚昭王卒于城父。楚狂接輿歌而過孔子,曰:「鳳兮鳳兮,何徳之衰!往者不可諫兮,来者猶可追也!已而已而,今之従政者殆而!」孔子下,欲与之言。趨而去,弗得与之言。於是孔子自楚反乎衛。是歳也,孔子年六十三,而魯哀公六年也。其明年,呉与魯会繒,徴百牢。太宰嚭召季康子。康子使子貢往,然後得已。孔子曰:「魯衛之政,兄弟也。」是時,衛君輒父不得立,在外,諸侯数以為譲。而孔子弟子多仕於衛,衛君欲得孔子為政。子路曰:「衛君待子而為政,子将奚先?」孔子曰:「必也正名乎!」子路曰:「有是哉,子之迂也!何其正也?」孔子曰:「野哉由也!
書き下し
(爾をして財多からしめば、吾爾の宰と為らん」と。是に於て子貢をして楚に至らしむ。楚の昭王師を興して孔子を迎へ、然る後に免るるを得たり。昭王将に書社の地七百里を以て孔子を封ぜんとす。楚の令尹子西曰く、「王の諸侯に使ひせしむるに子貢の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の輔相に顔回の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の将率に子路の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の官尹に宰予の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「且つ楚の祖は周に封ぜられ、号して子男五十里と為す。今孔丘は三五の法を述べ、周召の業を明らかにす、王若し之を用ひば、則ち楚安んぞ世世堂堂として方数千里なるを得んや。夫れ文王は豊に在り、武王は鎬に在り、百里の君にして卒に天下に王たり。今孔丘土壌に拠るを得、賢弟子佐と為らば、楚の福に非ざるなり」と。昭王乃ち止む。其の秋、楚の昭王城父に卒す。楚の狂接輿歌ひて孔子を過ぎて曰く、「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰へたる。往く者は諫むべからず、来たる者は猶ほ追ふべし。已みなん已みなん、今の政に従ふ者は殆し」と。孔子下り、之と言はんと欲す。趨りて去り、之と言ふを得ず。是に於て孔子楚より衛に反る。是の歳や、孔子年六十三にして、魯の哀公六年なり。其の明年、呉魯と繒に会し、百牢を徴す。太宰嚭季康子を召す。康子子貢をして往かしめ、然る後に已むを得たり。孔子曰く、「魯衛の政は、兄弟なり」と。是の時、衛君輒の父立つを得ず、外に在り、諸侯数々以て譲と為す。而して孔子の弟子多く衛に仕へ、衛君孔子を得て政を為さしめんと欲す。子路曰く、「衛君子を待ちて政を為さば、子将に奚をか先にせん」と。孔子曰く、「必ずや名を正さんか」と。子路曰く、「是れ有るかな、子の迂なるや。何ぞ其れ正さん」と。孔子曰く、「野なるかな由や。
現代語訳
(孔子は顔回に言った)「(もし)お前が財産家になったら、私はお前の家宰になろう」。そこで子貢を楚へ遣わした。楚の昭王は軍を出して孔子を迎え、孔子はようやく(陳蔡の包囲から)免れることができた。昭王は書社(戸籍に登録された村)七百里の地を孔子に与えて封じようとした。楚の令尹(宰相)子西が言った。「王が諸侯に遣わす使者に、子貢ほどの者がいるか」。王は言った。「いない」。「王の補佐役に、顔回ほどの者がいるか」。王は言った。「いない」。「王の将軍に、子路ほどの者がいるか」。王は言った。「いない」。「王の役人の長に、宰予ほどの者がいるか」。王は言った。「いない」。「しかも楚の祖先は周に封じられたとき、子爵・男爵の格で五十里にすぎなかった。いま孔丘は三皇五帝の法を祖述し、周公・召公の事業を明らかにしている。王がもし彼を用いれば、楚はどうして代々堂々と数千里四方の地を保っていられようか。そもそも文王は豊に、武王は鎬にいて、百里四方の君主にすぎなかったのに、ついに天下の王となった。いま孔丘が領地を得て、賢い弟子たちが補佐すれば、楚にとって幸いではない」。昭王はそこで思いとどまった。その秋、楚の昭王は城父で亡くなった。楚の狂人の接輿(せつよ)が歌いながら孔子のそばを通り過ぎて言った。「鳳よ鳳よ、なんと徳の衰えたことか。過ぎたことは諫めようもないが、これからのことはまだ追いつける。やめなさい、やめなさい。今、政治に携わる者は危ういぞ」。孔子は車を下りて彼と話そうとしたが、接輿は小走りに去ってしまい、話すことはできなかった。そこで孔子は楚から衛に戻った。この年、孔子は六十三歳で、魯の哀公六年であった。その翌年、呉が魯と繒(そう)で会盟し、百牢(牛・羊・豚を百組)の供え物を要求した。呉の太宰嚭(たいさいひ)が季康子を呼びつけた。康子は子貢を行かせ、それでようやく(要求を)やめさせることができた。孔子は言った。「魯と衛の政治は兄弟のようなものだ」。このとき、衛の君主輒の父(蒯聵)は君位に就けずに国外におり、諸侯はたびたびこれを責めていた。孔子の弟子の多くは衛に仕えており、衛の君主は孔子を迎えて政治を任せたいと望んだ。子路が言った。「衛の君主が先生を迎えて政治を任せるとしたら、先生はまず何から手をつけるか」。孔子は言った。「必ず名を正すことからだ」。子路は言った。「これだから先生は回りくどいと言われるのだ。何を正すというのか」。孔子は言った。「粗野だな、由は。
解説
関連する章句
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史記 孔子世家夏、衛の霊公卒し、孫輒を立つ、是れを衛の出公と為す。六月、趙鞅太子蒯聵を戚に内る。陽虎、太子をして絻せしめ、八人衰絰し、偽りて衛より迎ふる者として、哭して入り、遂に焉に居る。冬、蔡州来に遷る。是の歳魯の哀公三年にして、孔子年六十なり。斉衛を助けて戚を囲む、衛の太子蒯聵在るの故を以てなり。夏、魯の桓釐の廟燔く、南宮敬叔火を救ふ。孔子陳に在り、之を聞きて曰く、「災は必ず桓釐の廟に於てせんか」と。已にして果たして然り。秋、季桓子病み、輦して魯城を見、喟然として嘆じて曰く、「昔此の国幾ど興らんとす、吾罪を孔子に獲たるを以ての故に、興らざるなり」と。顧みて其の嗣康子に謂ひて曰く、「我即し死せば、若必ず魯に相たれ。魯に相たらば、必ず仲尼を召せ」と。後数日、桓子卒し、康子代はりて立つ。已に葬り、仲尼を召さんと欲す。公之魚曰く、「昔吾が先君之を用ひて終へず、終に諸侯の笑ひと為る。今又之を用ひ、終ふること能はずんば、是れ再び諸侯の笑ひと為らん」と。康子曰く、「則ち誰を召さば可ならん」と。曰く、「必ず冉求を召せ」と。是に於て使をして冉求を召さしむ。冉求将に行かんとす、孔子曰く、「魯人求を召す、之を小用するに非ず、将に之を大用せんとするなり」と。是の日、孔子曰く、「帰らんか帰らんか。吾が党の小子は狂簡、斐然として章を成す、吾之を裁する所以を知らず」と。子貢孔子の帰らんことを思ふを知り、冉求を送り、因りて誡めて曰く「即し用ひられなば、孔子を以て招と為せ」と云ふ。冉求既に去り、明年、孔子陳より蔡に遷る。蔡の昭公将に呉に如かんとす、呉之を召せばなり。前に昭公其の臣を欺きて州来に遷る、後に将に往かんとするに、大夫復た遷らんことを懼れ、公孫翩昭公を射殺す。楚蔡を侵す。秋、斉の景公卒す。明年、孔子蔡より葉に如く。葉公政を問ふ、孔子曰く、「政は遠きを来たし邇きを附くるに在り」と。他日、葉公孔子を子路に問ふ、子路対へず。
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史記 孔子世家桓子卒に斉の女楽を受け、三日政を聴かず。郊して、又膰俎を大夫に致さず。孔子遂に行き、屯に宿す。而して師己送りて曰く、「夫子は則ち罪に非ず」と。孔子曰く、「吾歌はんこと可ならんか」と。歌ひて曰く、「彼の婦の口、以て出走すべし。彼の婦の謁、以て死敗すべし。蓋し優なるかな游なるかな、維れ以て歳を卒へん」と。師己反る、桓子曰く、「孔子亦た何をか言へる」と。師己実を以て告ぐ。桓子喟然として嘆じて曰く、「夫子我を罪するに羣婢の故を以てするなるかな」と。孔子遂に衛に適き、子路の妻の兄顔濁鄒の家に主たり。衛の霊公孔子に問ふ、「魯に居りて禄を得ること幾何ぞ」と。対へて曰く、「粟六万を奉ず」と。衛人も亦た粟六万を致す。居ること之を頃くして、或ひと孔子を衛の霊公に譖す。霊公、公孫余仮をして一たび出で一たび入らしむ。孔子罪を獲んことを恐れ、居ること十月にして、衛を去る。将に陳に適かんとし、匡を過ぐ、顔刻僕為り、其の策を以て之を指して曰く、「昔吾此に入りしは、彼の缺けたるに由るなり」と。匡人之を聞き、以て魯の陽虎と為す。陽虎嘗て匡人に暴す、匡人是に於て遂に孔子を止む。孔子の状陽虎に類す、拘へらるること五日。顔淵後る、子曰く、「吾汝を以て死せりと為す」と。顔淵曰く、「子在す、回何ぞ敢へて死せん」と。匡人孔子を拘ふること益々急なり、弟子懼る。孔子曰く、「文王既に没す、文茲に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者斯の文に与るを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予を如何せん」と。孔子、従者をして甯武子の臣と為りて衛に於てせしめ、然る後に去るを得たり。去りて即ち蒲を過ぐ。月余にして、衛に反り、蘧伯玉の家に主たり。霊公の夫人に南子なる者有り、人をして孔子に謂はしめて曰く、「四方の君子の辱くも寡君と兄弟為らんと欲する者は、必ず寡小君に見ゆ。寡小君見えんことを願ふ」と。孔子辞謝するも、已むを得ずして之に見ゆ。夫人絺帷の中に在り。孔子門に入り、北面して稽首す。
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史記 孔子世家孔子長九尺有六寸、人皆之を「長人」と謂ひて之を異とす。魯復た善く待す、是に由りて魯に反る。魯の南宮敬叔、魯君に言ひて曰く、「請ふ孔子と周に適かん」と。魯君之に一乗車、両馬、一豎子を与へて倶にし、周に適きて礼を問ふ、蓋し老子に見ゆと云ふ。辞去するに、老子之を送りて曰く、「吾聞く、富貴なる者は人を送るに財を以てし、仁人なる者は人を送るに言を以てすと。吾富貴なること能はず、仁人の号を窃み、子を送るに言を以てせん、曰く、『聡明深察にして死に近き者は、好んで人を議する者なり。博辯広大にして其の身を危ふくする者は、人の悪を発く者なり。人の子たる者は以て己を有すること毋かれ、人の臣たる者は以て己を有すること毋かれ』」と。孔子周より魯に反り、弟子稍く益々進む。是の時や、晋の平公淫し、六卿権を擅にし、東のかた諸侯を伐つ。楚の霊王兵彊く、中国を陵轢す。斉は大にして魯に近し。魯は小弱にして、楚に附けば則ち晋怒り、晋に附けば則ち楚来たり伐つ。斉に備へざれば、斉の師魯を侵す。魯の昭公の二十年にして、孔子蓋し年三十なり。斉の景公、晏嬰と来たりて魯に適く。景公孔子に問ひて曰く、「昔秦の穆公、国小にして辟に処る、其の霸たるは何ぞや」と。対へて曰く、「秦は、国小なりと雖も、其の志大なり。処辟なりと雖も、行ひ中正なり。身づから五羖を挙げ、之に大夫を爵し、纍紲の中より起こし、与に語ること三日にして、之に政を授く。此を以て之を取らば、王と雖も可なり、其の霸は小なり」と。景公説ぶ。孔子年三十五にして、季平子と郈昭伯と闘鶏の故を以て罪を魯の昭公に得たり。昭公師を率ゐて平子を撃つ、平子、孟氏・叔孫氏の三家と共に昭公を攻む。昭公の師敗れ、斉に奔る、斉、昭公を乾侯に処らしむ。其の後頃之くして、魯乱る。孔子斉に適き、高昭子の家臣と為り、以て景公に通ぜんと欲す。
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史記 孔子世家夫れ名正しからざれば則ち言順はず、言順はざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中らず、刑罰中らざれば則ち民手足を錯く所無し。夫れ君子は之を為せば必ず名づくべく、之を言へば必ず行ふべし。君子は其の言に於て、苟くもする所無きのみ」と。其の明年、冉有季氏の為に師を将ゐ、斉と郎に戦ひ、之に克つ。季康子曰く、「子の軍旅に於けるや、之を学べるか、之を性とせるか」と。冉有曰く、「之を孔子に学べり」と。季康子曰く、「孔子は何如なる人ぞや」と。対へて曰く、「之を用ふれば名有り。之を百姓に播き、諸を鬼神に質すも憾み無し。求の此の道に至るを求むれば、千社を累ぬと雖も、夫子は利とせざるなり」と。康子曰く、「我之を召さんと欲す、可ならんか」と。対へて曰く、「之を召さんと欲せば、則ち小人を以て之を固むること毋くんば、則ち可なり」と。而して衛の孔文子将に太叔を攻めんとし、策を仲尼に問ふ。仲尼辞して知らずとし、退きて載することを命じて行き、曰く、「鳥は能く木を択ぶ、木豈に能く鳥を択ばんや」と。文子固く止む。会々季康子公華・公賓・公林を逐ひ、幣を以て孔子を迎ふ、孔子魯に帰る。孔子の魯を去ること凡そ十四歳にして魯に反る。魯の哀公政を問ふ、対へて曰く、「政は臣を選ぶに在り」と。季康子政を問ふ、曰く、「直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、則ち枉れる者直し」と。康子盗を患ふ、孔子曰く、「苟も子の欲せざれば、之を賞すと雖も窃まず」と。然れども魯終に孔子を用ふる能はず、孔子も亦た仕ふるを求めず。孔子の時、周室微にして礼楽廃れ、詩書缺く。三代の礼を追跡し、書伝を序し、上は唐虞の際を紀し、下は秦繆に至るまで、其の事を編次す。曰く、「夏の礼は吾能く之を言へども、杞は徴とするに足らざるなり。殷の礼は吾能く之を言へども、宋は徴とするに足らざるなり。足らば、則ち吾能く之を徴とせん」と。殷夏の損益する所を観て、曰く、「後百世と雖も知るべきなり、一文一質を以てす。周は二代に監みる、郁郁乎として文なるかな。
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史記 孔子世家仲尼曰く、「山川の神は以て天下を綱紀するに足る、其の守を神と為し、社稷を公侯と為す、皆王者に属す」と。客曰く、「防風は何をか守る」と。仲尼曰く、「汪罔氏の君、封・禺の山を守り、釐姓たり。虞・夏・商に在りては汪罔と為し、周に於ては長翟と為し、今之を大人と謂ふ」と。客曰く、「人の長は幾何ぞ」と。仲尼曰く、「僬僥氏は三尺、短の至りなり。長き者も之に十するに過ぎず、数の極みなり」と。是に於て呉の客曰く、「善いかな聖人」と。桓子の嬖臣を仲梁懐と曰ふ、陽虎と隙有り。陽虎懐を逐はんと欲す、公山不狃之を止む。其の秋、懐益々驕る、陽虎懐を執ふ。桓子怒る、陽虎因りて桓子を囚へ、与に盟ひて之を醳す。陽虎此に由りて益々季氏を軽んず。季氏も亦た公室に僭し、陪臣国政を執る、是を以て魯は大夫より以下皆正道より僭離す。故に孔子仕へず、退きて詩書礼楽を脩む、弟子弥々衆く、遠方より至り、業を受けざる莫し。定公八年、公山不狃季氏に意を得ず、陽虎に因りて乱を為し、三桓の適を廃し、更に其の庶孽の陽虎素より善くする所の者を立てんと欲し、遂に季桓子を執ふ。桓子之を詐り、脱するを得たり。定公九年、陽虎勝たず、斉に奔る。是の時孔子年五十。公山不狃費を以て季氏に畔き、人をして孔子を召さしむ。孔子道に循ふこと弥々久しく、温温として試みらるる所無く、能く己を用ふる莫し、曰く、「蓋し周の文・武は豊・鎬より起こりて王たり、今費は小なりと雖も、儻くは庶幾からんか」と。往かんと欲す。子路説ばず、孔子を止む。孔子曰く、「夫れ我を召す者は豈に徒ならんや。如し我を用ひば、其れ東周を為さんか」と。然れども亦た卒に行かず。其の後定公孔子を以て中都の宰と為す、一年にして、四方皆之に則る。中都の宰より司空と為り、司空より大司寇と為る。定公十年春、斉と平らぐ。
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史記 孔子世家夫人帷中より再拝す、環珮の玉声璆然たり。孔子曰く、「吾郷に見えずと為す、之を見るに礼もて答ふ」と。子路説ばず。孔子之に矢ひて曰く、「予が否なる所の者は、天之を厭たん、天之を厭たん」と。衛に居ること月余、霊公夫人と車を同じくし、宦者雍渠参乗し、出で、孔子をして次乗為らしめ、招揺して市に之を過ぐ。孔子曰く、「吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と。是に於て之を醜とし、衛を去り、曹を過ぐ。是の歳、魯の定公卒す。孔子曹を去りて宋に適き、弟子と礼を大樹の下に習ふ。宋の司馬桓魋孔子を殺さんと欲し、其の樹を抜く。孔子去る。弟子曰く、「以て速やかにすべし」と。孔子曰く、「天徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん」と。孔子鄭に適き、弟子と相失ひ、孔子独り郭の東門に立つ。鄭人或ひと子貢に謂ひて曰く、「東門に人有り、其の顙は堯に似、其の項は皋陶に類し、其の肩は子産に類す、然れども要より以下は禹に及ばざること三寸。纍纍として喪家の狗の若し」と。子貢実を以て孔子に告ぐ。孔子欣然として笑ひて曰く、「形状は末なり。而るに喪家の狗に似たりと謂ふは、然るかな、然るかな」と。孔子遂に陳に至り、司城貞子の家に主たり。歳余にして、呉王夫差陳を伐ち、三邑を取りて去る。趙鞅朝歌を伐つ。楚蔡を囲み、蔡呉に遷る。呉、越王句践を会稽に敗る。隼有り陳の廷に集まりて死す、楛矢之を貫く、石砮にして、矢の長さ尺有咫。陳の湣公使をして仲尼に問はしむ。仲尼曰く、「隼の来たること遠し、此れ粛慎の矢なり。昔武王商に克ち、道を九夷百蛮に通じ、各々其の方賄を以て来貢せしめ、職業を忘るること無からしむ。是に於て粛慎楛矢石砮を貢す、長さ尺有咫。先王其の令徳を昭らかにせんと欲し、粛慎の矢を以て大姫に分かち、虞の胡公に配して諸を陳に封ず。同姓に分かつに珍玉を以てし、親を展ぶ。異姓に分かつに遠職を以てし、服を忘るること無からしむ。
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