史記 / 孔子世家
夫名不正則言不順,言不順則事不成,事不成則禮樂不興,禮樂不興則刑罰不中,刑罰不中則民無所錯手足矣。夫君子為之必可名,言之必可行。君子於其言,無所苟而已矣。」其明年,冉有為季氏將師,與齊戰於郎,克之。季康子曰:「子之於軍旅,學之乎?性之乎?」冉有曰:「學之於孔子。」季康子曰:「孔子何如人哉?」對曰:「用之有名;播之百姓,質諸鬼神而無憾。求之至於此道,雖累千社,夫子不利也。」康子曰:「我欲召之,可乎?」對曰:「欲召之,則毋以小人固之,則可矣。」而衞孔文子將攻太叔,問策於仲尼。仲尼辭不知,退而命載而行,曰:「鳥能擇木,木豈能擇鳥乎!」文子固止。會季康子逐公華、公賓、公林,以幣迎孔子,孔子歸魯。孔子之去魯凡十四歲而反乎魯。魯哀公問政,對曰:「政在選臣。」季康子問政,曰:「舉直錯諸枉,則枉者直。」康子患盜,孔子曰:「苟子之不欲,雖賞之不竊。」然魯終不能用孔子,孔子亦不求仕。孔子之時,周室微而禮樂廢,詩書缺。追跡三代之禮,序書傳,上紀唐虞之際,下至秦繆,編次其事。曰:「夏禮吾能言之,杞不足徵也。殷禮吾能言之,宋不足徵也。足,則吾能徵之矣。」觀殷夏所損益,曰:「後雖百世可知也,以一文一質。周監二代,郁郁乎文哉。
新字:夫名不正則言不順,言不順則事不成,事不成則礼楽不興,礼楽不興則刑罰不中,刑罰不中則民無所錯手足矣。夫君子為之必可名,言之必可行。君子於其言,無所苟而已矣。」其明年,冉有為季氏将師,与斉戦於郎,克之。季康子曰:「子之於軍旅,学之乎?性之乎?」冉有曰:「学之於孔子。」季康子曰:「孔子何如人哉?」対曰:「用之有名;播之百姓,質諸鬼神而無憾。求之至於此道,雖累千社,夫子不利也。」康子曰:「我欲召之,可乎?」対曰:「欲召之,則毋以小人固之,則可矣。」而衛孔文子将攻太叔,問策於仲尼。仲尼辞不知,退而命載而行,曰:「鳥能択木,木豈能択鳥乎!」文子固止。会季康子逐公華、公賓、公林,以幣迎孔子,孔子帰魯。孔子之去魯凡十四歳而反乎魯。魯哀公問政,対曰:「政在選臣。」季康子問政,曰:「舉直錯諸枉,則枉者直。」康子患盗,孔子曰:「苟子之不欲,雖賞之不窃。」然魯終不能用孔子,孔子亦不求仕。孔子之時,周室微而礼楽廃,詩書欠。追跡三代之礼,序書伝,上紀唐虞之際,下至秦繆,編次其事。曰:「夏礼吾能言之,杞不足徴也。殷礼吾能言之,宋不足徴也。足,則吾能徴之矣。」観殷夏所損益,曰:「後雖百世可知也,以一文一質。周監二代,郁郁乎文哉。
書き下し
夫れ名正しからざれば則ち言順はず、言順はざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中らず、刑罰中らざれば則ち民手足を錯く所無し。夫れ君子は之を為せば必ず名づくべく、之を言へば必ず行ふべし。君子は其の言に於て、苟くもする所無きのみ」と。其の明年、冉有季氏の為に師を将ゐ、斉と郎に戦ひ、之に克つ。季康子曰く、「子の軍旅に於けるや、之を学べるか、之を性とせるか」と。冉有曰く、「之を孔子に学べり」と。季康子曰く、「孔子は何如なる人ぞや」と。対へて曰く、「之を用ふれば名有り。之を百姓に播き、諸を鬼神に質すも憾み無し。求の此の道に至るを求むれば、千社を累ぬと雖も、夫子は利とせざるなり」と。康子曰く、「我之を召さんと欲す、可ならんか」と。対へて曰く、「之を召さんと欲せば、則ち小人を以て之を固むること毋くんば、則ち可なり」と。而して衛の孔文子将に太叔を攻めんとし、策を仲尼に問ふ。仲尼辞して知らずとし、退きて載することを命じて行き、曰く、「鳥は能く木を択ぶ、木豈に能く鳥を択ばんや」と。文子固く止む。会々季康子公華・公賓・公林を逐ひ、幣を以て孔子を迎ふ、孔子魯に帰る。孔子の魯を去ること凡そ十四歳にして魯に反る。魯の哀公政を問ふ、対へて曰く、「政は臣を選ぶに在り」と。季康子政を問ふ、曰く、「直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、則ち枉れる者直し」と。康子盗を患ふ、孔子曰く、「苟も子の欲せざれば、之を賞すと雖も窃まず」と。然れども魯終に孔子を用ふる能はず、孔子も亦た仕ふるを求めず。孔子の時、周室微にして礼楽廃れ、詩書缺く。三代の礼を追跡し、書伝を序し、上は唐虞の際を紀し、下は秦繆に至るまで、其の事を編次す。曰く、「夏の礼は吾能く之を言へども、杞は徴とするに足らざるなり。殷の礼は吾能く之を言へども、宋は徴とするに足らざるなり。足らば、則ち吾能く之を徴とせん」と。殷夏の損益する所を観て、曰く、「後百世と雖も知るべきなり、一文一質を以てす。周は二代に監みる、郁郁乎として文なるかな。
現代語訳
そもそも名が正しくなければ言葉が筋道立たず、言葉が筋道立たなければ事は成就せず、事が成就しなければ礼楽は興らず、礼楽が興らなければ刑罰は適正を欠き、刑罰が適正を欠けば民は手足の置き所もなくなる。だから君子は何かをするなら必ずそれにふさわしい名をつけられるようにし、口にしたことは必ず実行できるようにする。君子は自分の言葉について、いいかげんにすることがないのだ」。その翌年、冉有(冉求)は季氏のために軍を率い、斉と郎で戦って勝った。季康子が言った。「あなたの軍事の才は、学んだものか、それとも生まれつきか」。冉有は言った。「孔子に学んだのだ」。季康子は言った。「孔子とはどのような人か」。冉有は答えた。「用いれば名声があがる。その教えを民に広め、鬼神に問いただしても、何の悔いもない。私がこの道を求めて行き着いたとしても、たとえ千の社(二万五千戸)の封地を積み上げられても、先生はそれを利とはしないだろう」。康子は言った。「私は孔子を呼び戻したいが、よいだろうか」。冉有は答えた。「呼び戻したいのであれば、小人に取り囲ませて邪魔をさせないようにすれば、よいだろう」。一方、衛の孔文子が太叔を攻めようとして、仲尼に策を尋ねた。仲尼は知らないと言って断り、退いてから車に荷を積ませて出発しようとし、言った。「鳥は止まる木を選べるが、木がどうして鳥を選べようか」。孔文子は懸命に引き止めた。ちょうどそのとき、季康子が公華・公賓・公林(孔子を妨げていた小人たち)を追放し、礼物を贈って孔子を迎えたので、孔子は魯に帰った。孔子が魯を去ってからおよそ十四年で魯に戻ったのである。魯の哀公が政治について尋ねると、孔子は答えた。「政治は臣下を選ぶことにある」。季康子が政治について尋ねると、孔子は言った。「まっすぐな者を登用して曲がった者の上に置けば、曲がった者もまっすぐになる」。康子が盗賊の多いことを憂えると、孔子は言った。「もしあなた自身が欲を持たなければ、盗みに褒美を与えたとしても誰も盗みはしない」。しかし魯は結局孔子を用いることができず、孔子もまた仕官を求めなかった。孔子の時代には、周の王室は衰え、礼楽はすたれ、詩と書は欠けていた。孔子は夏・殷・周三代の礼をたどり、書経の伝えを整理し、上は唐(堯)・虞(舜)の時代から、下は秦の繆公に至るまで、その事績を編み並べた。そして言った。「夏の礼について私は語ることができるが、(夏の子孫の国である)杞にはそれを証明するだけの資料がない。殷の礼について私は語ることができるが、(殷の子孫の国である)宋にはそれを証明するだけの資料がない。資料が十分であれば、私はそれで証明できるのだが」。殷と夏の礼の足し引きを観察して言った。「この先百代たっても予測がつく。文(飾り)と質(素朴)が交互に現れるのだ。周は夏・殷の二代を手本としたから、なんと華やかで文化的なことか。
解説
関連する章句
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史記 孔子世家斉の太師と楽を語り、韶の音を聞きて之を学ぶ、三月肉の味を知らず、斉人之を称す。景公政を孔子に問ふ、孔子曰く、「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」と。景公曰く、「善いかな。信に如し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟有りと雖も、吾豈に得て諸を食はんや」と。他日又復た政を孔子に問ふ、孔子曰く、「政は財を節するに在り」と。景公説び、将に尼谿の田を以て孔子を封ぜんと欲す。晏嬰進みて曰く、「夫れ儒者は滑稽にして軌法とすべからず。倨傲にして自ら順ひ、以て下と為すべからず。喪を崇び哀を遂げ、産を破りて葬を厚くす、以て俗と為すべからず。游説して乞貸す、以て国を為むべからず。大賢の息みしより、周室既に衰へ、礼楽缺くること間有り。今孔子は容飾を盛んにし、登降の礼、趨詳の節を繁くす、累世も其の学を殫くす能はず、当年も其の礼を究むる能はず。君之を用ひて以て斉の俗を移さんと欲するは、細民に先んずる所以に非ざるなり」と。後、景公敬して孔子に見ゆるも、其の礼を問はず。異日、景公孔子を止めて曰く、「子を奉ずるに季氏を以てするは、吾能はず」と。季・孟の間を以て之を待す。斉の大夫孔子を害せんと欲す、孔子之を聞く。景公曰く、「吾老いたり、用ふる能はざるなり」と。孔子遂に行き、魯に反る。孔子年四十二、魯の昭公乾侯に卒し、定公立つ。定公立ちて五年、夏、季平子卒し、桓子嗣ぎて立つ。季桓子井を穿ちて土缶を得たり、中に羊の若きもの有り、仲尼に問ひて「狗を得たり」と云ふ。仲尼曰く、「丘の聞く所を以てすれば、羊なり。丘之を聞く、木石の怪は夔・罔閬、水の怪は龍・罔象、土の怪は墳羊なりと」と。呉越を伐ち、会稽を墮ち、骨節の車を専らにするを得たり。呉、使をして仲尼に問はしむ、「骨は何者か最も大なる」と。仲尼曰く、「禹、羣神を会稽山に致す、防風氏後れて至る、禹殺して之を戮す、其の節車を専らにす、此を大と為す」と。呉の客曰く、「誰をか神と為す」と。
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史記 孔子世家(爾をして財多からしめば、吾爾の宰と為らん」と。是に於て子貢をして楚に至らしむ。楚の昭王師を興して孔子を迎へ、然る後に免るるを得たり。昭王将に書社の地七百里を以て孔子を封ぜんとす。楚の令尹子西曰く、「王の諸侯に使ひせしむるに子貢の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の輔相に顔回の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の将率に子路の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の官尹に宰予の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「且つ楚の祖は周に封ぜられ、号して子男五十里と為す。今孔丘は三五の法を述べ、周召の業を明らかにす、王若し之を用ひば、則ち楚安んぞ世世堂堂として方数千里なるを得んや。夫れ文王は豊に在り、武王は鎬に在り、百里の君にして卒に天下に王たり。今孔丘土壌に拠るを得、賢弟子佐と為らば、楚の福に非ざるなり」と。昭王乃ち止む。其の秋、楚の昭王城父に卒す。楚の狂接輿歌ひて孔子を過ぎて曰く、「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰へたる。往く者は諫むべからず、来たる者は猶ほ追ふべし。已みなん已みなん、今の政に従ふ者は殆し」と。孔子下り、之と言はんと欲す。趨りて去り、之と言ふを得ず。是に於て孔子楚より衛に反る。是の歳や、孔子年六十三にして、魯の哀公六年なり。其の明年、呉魯と繒に会し、百牢を徴す。太宰嚭季康子を召す。康子子貢をして往かしめ、然る後に已むを得たり。孔子曰く、「魯衛の政は、兄弟なり」と。是の時、衛君輒の父立つを得ず、外に在り、諸侯数々以て譲と為す。而して孔子の弟子多く衛に仕へ、衛君孔子を得て政を為さしめんと欲す。子路曰く、「衛君子を待ちて政を為さば、子将に奚をか先にせん」と。孔子曰く、「必ずや名を正さんか」と。子路曰く、「是れ有るかな、子の迂なるや。何ぞ其れ正さん」と。孔子曰く、「野なるかな由や。
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史記 孔子世家夏、衛の霊公卒し、孫輒を立つ、是れを衛の出公と為す。六月、趙鞅太子蒯聵を戚に内る。陽虎、太子をして絻せしめ、八人衰絰し、偽りて衛より迎ふる者として、哭して入り、遂に焉に居る。冬、蔡州来に遷る。是の歳魯の哀公三年にして、孔子年六十なり。斉衛を助けて戚を囲む、衛の太子蒯聵在るの故を以てなり。夏、魯の桓釐の廟燔く、南宮敬叔火を救ふ。孔子陳に在り、之を聞きて曰く、「災は必ず桓釐の廟に於てせんか」と。已にして果たして然り。秋、季桓子病み、輦して魯城を見、喟然として嘆じて曰く、「昔此の国幾ど興らんとす、吾罪を孔子に獲たるを以ての故に、興らざるなり」と。顧みて其の嗣康子に謂ひて曰く、「我即し死せば、若必ず魯に相たれ。魯に相たらば、必ず仲尼を召せ」と。後数日、桓子卒し、康子代はりて立つ。已に葬り、仲尼を召さんと欲す。公之魚曰く、「昔吾が先君之を用ひて終へず、終に諸侯の笑ひと為る。今又之を用ひ、終ふること能はずんば、是れ再び諸侯の笑ひと為らん」と。康子曰く、「則ち誰を召さば可ならん」と。曰く、「必ず冉求を召せ」と。是に於て使をして冉求を召さしむ。冉求将に行かんとす、孔子曰く、「魯人求を召す、之を小用するに非ず、将に之を大用せんとするなり」と。是の日、孔子曰く、「帰らんか帰らんか。吾が党の小子は狂簡、斐然として章を成す、吾之を裁する所以を知らず」と。子貢孔子の帰らんことを思ふを知り、冉求を送り、因りて誡めて曰く「即し用ひられなば、孔子を以て招と為せ」と云ふ。冉求既に去り、明年、孔子陳より蔡に遷る。蔡の昭公将に呉に如かんとす、呉之を召せばなり。前に昭公其の臣を欺きて州来に遷る、後に将に往かんとするに、大夫復た遷らんことを懼れ、公孫翩昭公を射殺す。楚蔡を侵す。秋、斉の景公卒す。明年、孔子蔡より葉に如く。葉公政を問ふ、孔子曰く、「政は遠きを来たし邇きを附くるに在り」と。他日、葉公孔子を子路に問ふ、子路対へず。
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史記 孔子世家孔子長九尺有六寸、人皆之を「長人」と謂ひて之を異とす。魯復た善く待す、是に由りて魯に反る。魯の南宮敬叔、魯君に言ひて曰く、「請ふ孔子と周に適かん」と。魯君之に一乗車、両馬、一豎子を与へて倶にし、周に適きて礼を問ふ、蓋し老子に見ゆと云ふ。辞去するに、老子之を送りて曰く、「吾聞く、富貴なる者は人を送るに財を以てし、仁人なる者は人を送るに言を以てすと。吾富貴なること能はず、仁人の号を窃み、子を送るに言を以てせん、曰く、『聡明深察にして死に近き者は、好んで人を議する者なり。博辯広大にして其の身を危ふくする者は、人の悪を発く者なり。人の子たる者は以て己を有すること毋かれ、人の臣たる者は以て己を有すること毋かれ』」と。孔子周より魯に反り、弟子稍く益々進む。是の時や、晋の平公淫し、六卿権を擅にし、東のかた諸侯を伐つ。楚の霊王兵彊く、中国を陵轢す。斉は大にして魯に近し。魯は小弱にして、楚に附けば則ち晋怒り、晋に附けば則ち楚来たり伐つ。斉に備へざれば、斉の師魯を侵す。魯の昭公の二十年にして、孔子蓋し年三十なり。斉の景公、晏嬰と来たりて魯に適く。景公孔子に問ひて曰く、「昔秦の穆公、国小にして辟に処る、其の霸たるは何ぞや」と。対へて曰く、「秦は、国小なりと雖も、其の志大なり。処辟なりと雖も、行ひ中正なり。身づから五羖を挙げ、之に大夫を爵し、纍紲の中より起こし、与に語ること三日にして、之に政を授く。此を以て之を取らば、王と雖も可なり、其の霸は小なり」と。景公説ぶ。孔子年三十五にして、季平子と郈昭伯と闘鶏の故を以て罪を魯の昭公に得たり。昭公師を率ゐて平子を撃つ、平子、孟氏・叔孫氏の三家と共に昭公を攻む。昭公の師敗れ、斉に奔る、斉、昭公を乾侯に処らしむ。其の後頃之くして、魯乱る。孔子斉に適き、高昭子の家臣と為り、以て景公に通ぜんと欲す。
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史記 孔子世家仲尼曰く、「山川の神は以て天下を綱紀するに足る、其の守を神と為し、社稷を公侯と為す、皆王者に属す」と。客曰く、「防風は何をか守る」と。仲尼曰く、「汪罔氏の君、封・禺の山を守り、釐姓たり。虞・夏・商に在りては汪罔と為し、周に於ては長翟と為し、今之を大人と謂ふ」と。客曰く、「人の長は幾何ぞ」と。仲尼曰く、「僬僥氏は三尺、短の至りなり。長き者も之に十するに過ぎず、数の極みなり」と。是に於て呉の客曰く、「善いかな聖人」と。桓子の嬖臣を仲梁懐と曰ふ、陽虎と隙有り。陽虎懐を逐はんと欲す、公山不狃之を止む。其の秋、懐益々驕る、陽虎懐を執ふ。桓子怒る、陽虎因りて桓子を囚へ、与に盟ひて之を醳す。陽虎此に由りて益々季氏を軽んず。季氏も亦た公室に僭し、陪臣国政を執る、是を以て魯は大夫より以下皆正道より僭離す。故に孔子仕へず、退きて詩書礼楽を脩む、弟子弥々衆く、遠方より至り、業を受けざる莫し。定公八年、公山不狃季氏に意を得ず、陽虎に因りて乱を為し、三桓の適を廃し、更に其の庶孽の陽虎素より善くする所の者を立てんと欲し、遂に季桓子を執ふ。桓子之を詐り、脱するを得たり。定公九年、陽虎勝たず、斉に奔る。是の時孔子年五十。公山不狃費を以て季氏に畔き、人をして孔子を召さしむ。孔子道に循ふこと弥々久しく、温温として試みらるる所無く、能く己を用ふる莫し、曰く、「蓋し周の文・武は豊・鎬より起こりて王たり、今費は小なりと雖も、儻くは庶幾からんか」と。往かんと欲す。子路説ばず、孔子を止む。孔子曰く、「夫れ我を召す者は豈に徒ならんや。如し我を用ひば、其れ東周を為さんか」と。然れども亦た卒に行かず。其の後定公孔子を以て中都の宰と為す、一年にして、四方皆之に則る。中都の宰より司空と為り、司空より大司寇と為る。定公十年春、斉と平らぐ。
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史記 孔子世家仲由をして季氏の宰と為らしめ、将に三都を墮たんとす。是に於て叔孫氏先づ郈を墮つ。季氏将に費を墮たんとす、公山不狃・叔孫輒、費人を率ゐて魯を襲ふ。公、三子と季氏の宮に入り、武子の台に登る。費人之を攻むるも、克たず、入りて公の側に及ぶ。孔子、申句須・楽頎に命じて下りて之を伐たしむ、費人北ぐ。国人之を追ひ、諸を姑蔑に敗る。二子斉に奔り、遂に費を墮つ。将に成を墮たんとす、公歛処父孟孫に謂ひて曰く、「成を墮たば、斉人必ず北門に至らん。且つ成は孟氏の保鄣なり、成無きは是れ孟氏無きなり。我将に墮たざらんとす」と。十二月、公成を囲むも、克たず。定公十四年、孔子年五十六、大司寇より相の事を行摂し、喜色有り。門人曰く、「聞く、君子は禍至りて懼れず、福至りて喜ばずと」と。孔子曰く、「是の言有り。『其の貴を以て人に下るを楽しむ』と曰はずや」と。是に於て魯の大夫の政を乱す者少正卯を誅す。国政に与り聞くこと三月、羔豚を粥ぐ者は賈を飾らず、男女の行く者は塗を別にし、塗に遺ちたるを拾はず。四方の客の邑に至る者は有司に求めず、皆之に予へて以て帰らしむ。斉人聞きて懼れて曰く、「孔子政を為さば必ず霸たらん、霸たらば則ち吾が地近し、我之れ先づ并せられん。盍ぞ地を致さざる」と。黎鉏曰く、「請ふ先づ嘗みに之を沮まん。之を沮みて可ならずんば則ち地を致すも、庸ぞ遅からんや」と。是に於て斉の国中の女子の好き者八十人を選び、皆文衣を衣て康楽を舞はしめ、文馬三十駟もて、魯君に遺る。女楽文馬を魯城の南の高門の外に陳ぬ、季桓子微服して往きて観ること再三、将に受けんとし、乃ち魯君に語りて周道の游を為さしめ、往きて観ること終日、政事に怠る。子路曰く、「夫子以て行くべし」と。孔子曰く、「魯今且に郊せんとす、如し膰を大夫に致さば、則ち吾猶ほ以て止まるべし」と。
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