史記 / 趙世家
於是趙乃輟,謝秦不撃齊。王與燕王遇。廉頗將,攻齊昔陽,取之。十七年,樂毅將趙師攻魏伯陽。而秦怨趙不與己撃齊,伐趙,拔我兩城。十八年,秦拔我石城。王再之衞東陽,決河水,伐魏氏。大潦,漳水出。魏冉來相趙。十九年,秦取我二城。趙與魏伯陽。趙奢將,攻齊麥丘,取之。二十年,廉頗將,攻齊。王與秦昭王遇西河外。二十一年,趙徙漳水武平西。二十二年,大疫。置公子丹爲太子。二十三年,樓昌將,攻魏幾,不能取。十二月,廉頗將,攻幾,取之。二十四年,廉頗將,攻魏房子,拔之,因城而還。又攻安陽,取之。二十五年,燕周將,攻昌城、髙唐,取之。與魏共撃秦。秦將白起破我華陽,得一將軍。二十六年,取東胡歐代地。二十七年,徙漳水武平南。封趙豹爲平陽君。河水出,大潦。二十八年,藺相如伐齊,至平邑。罷城北九門大城。燕將成安君公孫操弒其王。二十九年,秦、韓相攻,而圍閼與。趙使趙奢將,撃秦,大破秦軍閼與下,賜號爲馬服君。三十三年,惠文王卒,太子丹立,是爲孝成王。孝成王元年,秦伐我,拔三城。趙王新立,太后用事,秦急攻之。趙氏求救於齊,齊曰:「必以長安君爲質,兵乃出。」太后不肯,大臣彊諫。
新字:於是趙乃輟,謝秦不撃斉。王与燕王遇。廉頗将,攻斉昔陽,取之。十七年,楽毅将趙師攻魏伯陽。而秦怨趙不与己撃斉,伐趙,抜我両城。十八年,秦抜我石城。王再之衛東陽,決河水,伐魏氏。大潦,漳水出。魏冉来相趙。十九年,秦取我二城。趙与魏伯陽。趙奢将,攻斉麦丘,取之。二十年,廉頗将,攻斉。王与秦昭王遇西河外。二十一年,趙徙漳水武平西。二十二年,大疫。置公子丹為太子。二十三年,楼昌将,攻魏幾,不能取。十二月,廉頗将,攻幾,取之。二十四年,廉頗将,攻魏房子,抜之,因城而還。又攻安陽,取之。二十五年,燕周将,攻昌城、高唐,取之。与魏共撃秦。秦将白起破我華陽,得一将軍。二十六年,取東胡欧代地。二十七年,徙漳水武平南。封趙豹為平陽君。河水出,大潦。二十八年,藺相如伐斉,至平邑。罷城北九門大城。燕将成安君公孫操弒其王。二十九年,秦、韓相攻,而囲閼与。趙使趙奢将,撃秦,大破秦軍閼与下,賜号為馬服君。三十三年,恵文王卒,太子丹立,是為孝成王。孝成王元年,秦伐我,抜三城。趙王新立,太后用事,秦急攻之。趙氏求救於斉,斉曰:「必以長安君為質,兵乃出。」太后不肯,大臣彊諫。
書き下し
是に於て趙乃ち輟め、秦に謝して斉を撃たず。王燕王と遇ふ。廉頗将として、斉の昔陽を攻め、之を取る。十七年、楽毅趙の師に将として魏の伯陽を攻む。而して秦、趙の己と斉を撃たざるを怨み、趙を伐ち、我が両城を抜く。十八年、秦我が石城を抜く。王再び衛の東陽に之き、河水を決し、魏氏を伐つ。大いに潦し、漳水出づ。魏冉来りて趙に相たり。十九年、秦我が二城を取る。趙魏に伯陽を与ふ。趙奢将として、斉の麦丘を攻め、之を取る。二十年、廉頗将として斉を攻む。王秦の昭王と西河の外に遇ふ。二十一年、趙漳水を武平の西に徙す。二十二年、大いに疫す。公子丹を置きて太子と為す。二十三年、楼昌将として、魏の幾を攻むるも、取ること能はず。十二月、廉頗将として、幾を攻め、之を取る。二十四年、廉頗将として、魏の房子を攻め、之を抜き、因りて城きて還る。又安陽を攻め、之を取る。二十五年、燕周将として、昌城・高唐を攻め、之を取る。魏と共に秦を撃つ。秦の将白起我を華陽に破り、一将軍を得たり。二十六年、東胡の代を欧ひし地を取る。二十七年、漳水を武平の南に徙す。趙豹を封じて平陽君と為す。河水出で、大いに潦す。二十八年、藺相如斉を伐ち、平邑に至る。城北の九門の大城を罷む。燕の将成安君公孫操其の王を弑す。二十九年、秦・韓相攻めて、閼与を囲む。趙、趙奢をして将として秦を撃たしめ、大いに秦軍を閼与の下に破り、号を賜ひて馬服君と為す。三十三年、恵文王卒し、太子丹立つ、是を孝成王と為す。孝成王元年、秦我を伐ち、三城を抜く。趙王新たに立ち、太后事を用ふ。秦急に之を攻む。趙氏救ひを斉に求む。斉曰く、「必ず長安君を以て質と為さば、兵乃ち出でん」と。太后肯ぜず。大臣彊く諫む。
現代語訳
こうして趙は斉攻めをやめ、秦に断りを入れて斉を撃たなかった。王は燕王と会見した。廉頗(れんぱ)が将となって斉の昔陽(せきよう)を攻め、これを取った。十七年、楽毅が趙の軍を率いて魏の伯陽を攻めた。一方、秦は趙が自分と共に斉を撃たなかったことを恨み、趙を討って、わが二つの城を攻め落とした。十八年、秦がわが石城を攻め落とした。王は再び衛の東陽に赴き、黄河の堤を切って魏を討った。大水が出て、漳水があふれた。魏冉(ぎぜん)が来て趙の宰相となった。十九年、秦がわが二つの城を取った。趙は魏に伯陽を与えた。趙奢(ちょうしゃ)が将となって斉の麦丘(ばくきゅう)を攻め、これを取った。二十年、廉頗が将となって斉を攻めた。王は秦の昭王と西河の外で会見した。二十一年、趙は漳水の流れを武平の西に移した。二十二年、疫病が大流行した。公子丹を太子に立てた。二十三年、楼昌(ろうしょう)が将となって魏の幾(き)を攻めたが、取ることができなかった。十二月、廉頗が将となって幾を攻め、これを取った。二十四年、廉頗が将となって魏の房子を攻め落とし、そこに城を築いて帰還した。また安陽を攻めて取った。二十五年、燕周(えんしゅう)が将となって昌城・高唐を攻め、これを取った。魏と共に秦を撃ったが、秦の将の白起(はっき)がわが軍を華陽で破り、将軍一人を捕らえた。二十六年、東胡が代から追い払った地を取った。二十七年、漳水の流れを武平の南に移した。趙豹を平陽君に封じた。黄河があふれて大水になった。二十八年、藺相如(りんしょうじょ)が斉を討ち、平邑に至った。城北の九門の大城の工事を取りやめた。燕の将の成安君公孫操(こうそんそう)が自国の王を殺した。二十九年、秦と韓が互いに攻め合い、(秦が)閼与(あつよ)を包囲した。趙は趙奢を将として秦を撃たせ、閼与のもとで秦軍を大いに破った。趙奢に馬服君の号を賜った。三十三年、恵文王が死に、太子の丹が立った。これが孝成王である。孝成王の元年、秦がわが国を討ち、三つの城を攻め落とした。趙王は即位したばかりで、太后が政治を取り仕切っていた。秦は激しく攻めてきた。趙は斉に救援を求めた。斉は言った。「必ず長安君を人質に出すなら、兵を出そう」。太后は承知しなかった。大臣たちは強く諫めた。
解説
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史記 趙世家趙の将楽乗・慶舍、秦の信梁の軍を攻め、之を破る。太子死す。而して秦西周を攻め、之を抜く。徒父祺出づ。十一年、元氏に城き、上原を県とす。武陽君鄭安平死し、其の地を収む。十二年、邯鄲の廥焼く。十四年、平原君趙勝死す。十五年、尉文を以て相国廉頗を封じて信平君と為す。燕王、丞相栗腹をして驩を約し、五百金を以て趙王の酒を為さしむ。還り帰りて、燕王に報じて曰く、「趙氏の壮者は皆長平に死し、其の孤未だ壮ならず。伐つべきなり」と。王、昌国君楽閒を召して之に問ふ。対へて曰く、「趙は四戦の国なり。其の民兵に習ふ。之を伐つは不可なり」と。王曰く、「吾衆を以て寡を伐ち、二にして一を伐つ、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。王曰く、「吾即し五を以て一を伐たば、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。燕王大いに怒る。群臣皆以て可と為す。燕卒に二軍を起こし、車二千乗、栗腹将として鄗を攻め、卿秦将として代を攻む。廉頗趙の将と為り、栗腹を破り殺し、卿秦・楽閒を虜にす。十六年、廉頗燕を囲む。楽乗を以て武襄君と為す。十七年、仮相大将武襄君燕を攻め、其の国を囲む。十八年、延陵鈞、師を率ゐて相国信平君に従ひて魏を助けて燕を攻む。秦我が楡次三十七城を抜く。十九年、趙燕と土を易ふ。龍兌・汾門・臨楽を以て燕に与へ、燕は葛・武陽・平舒を以て趙に与ふ。二十年、秦王政初めて立つ。秦我が晋陽を抜く。二十一年、孝成王卒す。廉頗将として、繁陽を攻め、之を取る。楽乗をして之に代はらしむ。廉頗楽乗を攻む。楽乗走る。廉頗亡げて魏に入る。子偃立つ、是を悼襄王と為す。悼襄王元年、大いに魏に備ふ。平邑・中牟の道を通ぜんと欲するも、成らず。二年、李牧将として、燕を攻め、武遂・方城を抜く。秦、春平君を召し、因りて之を留む。
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史記 趙世家十九年、斉・宋と平陸に会し、燕と阿に会す。二十年、魏栄椽を献ず。因りて以て檀台と為す。二十一年、魏我が邯鄲を囲む。二十二年、魏の恵王我が邯鄲を抜く。斉も亦魏を桂陵に敗る。二十四年、魏我に邯鄲を帰し、魏と漳水の上に盟ふ。秦我が藺を攻む。二十五年、成侯卒す。公子紲、太子粛侯と立つを争ふ。紲敗れて亡げて韓に奔る。粛侯元年、晋君の端氏を奪ひ、徙して屯留に処らしむ。二年、魏の恵王と陰晋に遇ふ。三年、公子范邯鄲を襲ふも、勝たずして死す。四年、天子に朝す。六年、斉を攻め、高唐を抜く。七年、公子刻魏の首垣を攻む。十一年、秦の孝公、商君をして魏を伐たしめ、其の将公子卬を虜にす。趙魏を伐つ。十二年、秦の孝公卒し、商君死す。十五年、寿陵を起こす。魏の恵王卒す。十六年、粛侯大陵に游び、鹿門より出づ。大戊午馬を扣へて曰く、「耕事方に急なり。一日作さずんば、百日食らはず」と。粛侯車を下りて謝す。十七年、魏の黄を囲むも、克たず。長城を築く。十八年、斉・魏我を伐つ。我河水を決して之に灌ぐ。兵去る。二十二年、張儀秦に相たり。趙疵秦と戦ひ、敗る。秦疵を河西に殺し、我が藺・離石を取る。二十三年、韓挙斉・魏と戦ひ、桑丘に死す。二十四年、粛侯卒す。秦・楚・燕・斉・魏、鋭師各々万人を出だして来りて葬に会す。子武霊王立つ。武霊王元年、陽文君趙豹相たり。梁の襄王と太子嗣、韓の宣王と太子倉、来りて信宮に朝す。武霊王少く、未だ政を聴くこと能はず。博聞の師三人、左右の司過三人あり。政を聴くに及び、先づ先王の貴臣肥義に問ひ、其の秩を加ふ。国の三老の年八十なるものには、月ごとに其の礼を致す。三年、鄗に城く。四年、韓と区鼠に会す。
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史記 廉頗藺相如列伝趙奢既已に秦の間を遣り、甲を巻きてこれに趨く、二日一夜にして至り、善く射る者をして閼与を去ること五十里にして軍せしむ。軍塁成る、秦人これを聞き、甲を悉くして至る。軍士許歴、軍事を以て諫めんことを請ふ、趙奢曰く、「これを内れよ」と。許歴曰く、「秦人は趙の師の此に至るを意はず、その来たること気盛んなり、将軍必ずその陣を厚く集めて以てこれを待て。然らずんば、必ず敗れん」と。趙奢曰く、「請ふ令を受けん」と。許歴曰く、「請ふ鈇質の誅に就かん」と。趙奢曰く、「胥つて後に邯鄲に令せん」と。許歴また諫めんことを請ひて曰く、「先に北山の上に拠る者は勝ち、後れて至る者は敗る」と。趙奢許諾し、即ち万人を発してこれに趨かしむ。秦の兵後れて至り、山を争ひて上るを得ず、趙奢兵を縦にしてこれを撃ち、大いに秦の軍を破る。秦の軍解きて走り、遂に閼与の囲みを解きて帰る。趙の恵文王、奢に号を賜ひて馬服君と為し、許歴を以て国尉と為す。趙奢是に於いて廉頗・藺相如と位を同じくす。後四年、趙の恵文王卒し、子の孝成王立つ。七年、秦と趙と兵長平に相距ぐ。時に趙奢已に死し、而して藺相如病篤し、趙、廉頗をして将として秦を攻めしむ、秦数々趙の軍を敗る、趙の軍壁を固くして戦はず。秦数々戦ひを挑む、廉頗肯んぜず。趙王秦の間を信ず。秦の間言ひて曰く、「秦の悪む所は、独り馬服君趙奢の子趙括の将と為るを畏るるのみ」と。趙王因りて括を以て将と為し、廉頗に代へんとす。藺相如曰く、「王、名を以て括を使ふは、柱に膠して瑟を鼓するが若きのみ。括は徒だ能くその父の書伝を読むのみにして、変に合するを知らざるなり」と。趙王聴かず、遂にこれを将とす。
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