史記 / 孔子世家
孔子聞之,曰:「由,爾何不對曰『其為人也,學道不倦,誨人不厭,發憤忘食,樂以忘憂,不知老之將至』云爾。」去葉,反于蔡。長沮、桀溺耦而耕,孔子以為隱者,使子路問津焉。長沮曰:「彼執輿者為誰?」子路曰:「為孔丘。」曰:「是魯孔丘與?」曰:「然。」曰:「是知津矣。」桀溺謂子路曰:「子為誰?」曰:「為仲由。」曰:「子,孔丘之徒與?」曰:「然。」桀溺曰:「悠悠者天下皆是也,而誰以易之?且與其從辟人之士,豈若從辟世之士哉!」耰而不輟。子路以告孔子,孔子憮然曰:「鳥獸不可與同羣。天下有道,丘不與易也。」他日,子路行,遇荷蓧丈人,曰:「子見夫子乎?」丈人曰:「四體不勤,五穀不分,孰為夫子!」植其杖而芸。子路以告,孔子曰:「隱者也。」復往,則亡。孔子遷于蔡三歲,吳伐陳。楚救陳,軍于城父。聞孔子在陳蔡之間,楚使人聘孔子。孔子將往拜禮,陳蔡大夫謀曰:「孔子賢者,所刺譏皆中諸侯之疾。今者久留陳蔡之間,諸大夫所設行皆非仲尼之意。今楚,大國也,來聘孔子。
新字:孔子聞之,曰:「由,爾何不対曰『其為人也,学道不倦,誨人不厭,発憤忘食,楽以忘憂,不知老之将至』云爾。」去葉,反于蔡。長沮、桀溺耦而耕,孔子以為隠者,使子路問津焉。長沮曰:「彼執輿者為誰?」子路曰:「為孔丘。」曰:「是魯孔丘与?」曰:「然。」曰:「是知津矣。」桀溺謂子路曰:「子為誰?」曰:「為仲由。」曰:「子,孔丘之徒与?」曰:「然。」桀溺曰:「悠悠者天下皆是也,而誰以易之?且与其従辟人之士,豈若従辟世之士哉!」耰而不輟。子路以告孔子,孔子憮然曰:「鳥獣不可与同羣。天下有道,丘不与易也。」他日,子路行,遇荷蓧丈人,曰:「子見夫子乎?」丈人曰:「四体不勤,五穀不分,孰為夫子!」植其杖而芸。子路以告,孔子曰:「隠者也。」復往,則亡。孔子遷于蔡三歳,呉伐陳。楚救陳,軍于城父。聞孔子在陳蔡之間,楚使人聘孔子。孔子将往拝礼,陳蔡大夫謀曰:「孔子賢者,所刺譏皆中諸侯之疾。今者久留陳蔡之間,諸大夫所設行皆非仲尼之意。今楚,大国也,来聘孔子。
書き下し
孔子之を聞きて曰く、「由、爾何ぞ対へて『其の人と為りや、道を学びて倦まず、人を誨へて厭かず、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂ひを忘れ、老いの将に至らんとするを知らず』と曰はざる」と。葉を去り、蔡に反る。長沮・桀溺耦して耕す、孔子以て隠者と為し、子路をして津を問はしむ。長沮曰く、「彼の輿を執る者は誰と為す」と。子路曰く、「孔丘為り」と。曰く、「是れ魯の孔丘か」と。曰く、「然り」と。曰く、「是れならば津を知らん」と。桀溺子路に謂ひて曰く、「子は誰と為す」と。曰く、「仲由為り」と。曰く、「子は孔丘の徒か」と。曰く、「然り」と。桀溺曰く、「悠悠たる者天下皆是れなり、而して誰と以に之を易へん。且つ其の人を辟くるの士に従はんよりは、豈に世を辟くるの士に従ふに若かんや」と。耰して輟めず。子路以て孔子に告ぐ、孔子憮然として曰く、「鳥獣は与に羣を同じくすべからず。天下に道有らば、丘与に易へざるなり」と。他日、子路行きて、荷蓧丈人に遇ふ、曰く、「子夫子を見たるか」と。丈人曰く、「四体勤めず、五穀分かたず、孰をか夫子と為す」と。其の杖を植てて芸る。子路以て告ぐ、孔子曰く、「隠者なり」と。復た往けば、則ち亡し。孔子蔡に遷りて三歳、呉陳を伐つ。楚陳を救ひ、城父に軍す。孔子の陳蔡の間に在るを聞き、楚人をして孔子を聘せしむ。孔子将に往きて拝礼せんとす、陳蔡の大夫謀りて曰く、「孔子は賢者なり、刺譏する所皆諸侯の疾に中る。今者久しく陳蔡の間に留まる、諸大夫の設け行ふ所皆仲尼の意に非ず。今楚は大国なり、来たりて孔子を聘す。
現代語訳
孔子はこれを聞いて言った。「由よ、お前はなぜこう答えなかったのか。『その人となりは、道を学んで飽きることなく、人を教えて嫌になることがなく、発憤しては食事も忘れ、楽しんでは憂いも忘れ、老いがやって来ようとしていることにも気づかない』と」。孔子は葉を去り、蔡に戻った。長沮(ちょうそ)と桀溺(けつでき)が二人並んで畑を耕していた。孔子は隠者だと思い、子路に渡し場の場所を尋ねさせた。長沮が言った。「あの手綱を取っているのは誰か」。子路は言った。「孔丘だ」。長沮は言った。「あれが魯の孔丘か」。子路は言った。「そうだ」。長沮は言った。「それなら渡し場ぐらい知っているだろう」。桀溺が子路に言った。「あなたは誰か」。子路は言った。「仲由だ」。桀溺は言った。「あなたは孔丘の弟子か」。子路は言った。「そうだ」。桀溺は言った。「滔々と流れるように乱れているのは天下どこも同じだ。誰と一緒にそれを変えようというのか。それに、人を選んで避けて回る者に従うより、世の中そのものを避ける者に従うほうがよいではないか」。そう言って種に土をかぶせる手を休めなかった。子路がこれを孔子に告げると、孔子はがっかりした様子で言った。「鳥や獣と群れをともにすることはできない。天下に道が行われているなら、私も世の中を変えようとはしないのだ」。別の日、子路が歩いていると、竹かごを杖に掛けた老人に出会い、「先生を見かけなかったか」と尋ねた。老人は言った。「手足を動かして働きもせず、五穀の見分けもつかない。誰が先生なものか」。そして杖を地に立てて草取りを始めた。子路がこれを告げると、孔子は言った。「隠者だ」。もう一度行ってみると、老人はもういなかった。孔子が蔡に移って三年目、呉が陳を攻めた。楚は陳を救おうと城父(じょうほ)に軍を駐めた。孔子が陳と蔡の間にいると聞いて、楚は人を遣わして孔子を招いた。孔子が出かけて礼を述べようとすると、陳と蔡の大夫たちが相談して言った。「孔子は賢者で、その批判はどれも諸侯の病弊を突いている。いま長く陳と蔡の間に留まっているが、我ら大夫のやっていることはどれも仲尼の意にかなっていない。いま楚は大国で、孔子を招きに来た。
解説
関連する章句
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孔子家語・在厄楚の昭王孔子を聘し、孔子往きて拝礼す。路陳・蔡に出づ。陳・蔡の大夫相い与に謀りて曰わく、「孔子聖賢にして、其の刺譏する所、皆諸侯の病に中る。若し楚に用いられなば、則ち陳・蔡危うし。」遂に徒兵をして孔子を距がしむ。孔子行くを得ず、糧を絶つこと七日。外通ずる所無く、藜羹充たず、従者皆病む。孔子愈々慷慨として講誦し、弦歌衰えず。乃ち子路を召して問いて曰わく、「詩に云う、『兕に匪ず虎に匪ず、彼の曠野に率う』と。吾が道非なるか、奚為れぞ此に至るや。」子路慍り、色を作して対えて曰わく、「君子は困しむ所無し。意うに夫子未だ仁ならざるか。人の吾を信ぜざるなり。意うに夫子未だ智ならざるか。人の吾を行かしめざるなり。且つ由や、昔者諸を夫子に聞く、『善を為す者、天之に報ゆるに福を以てし、不善を為す者、天之に報ゆるに禍を以てす』と。今夫子徳を積み義を懐き、之を行うこと久し。奚ぞ居の窮まるや。」子曰わく、「由よ、未だ之を識らざるなり。吾汝に語らん。汝仁者を以て、必ず信ぜらると為さば、則ち伯夷・叔斉首陽に餓死せず。汝智者を以て、必ず用いらると為さば、則ち王子比干心を剖かれず。汝忠者を以て、必ず報いらると為さば、則ち関竜逢刑せられず。汝諫者を以て、必ず聴かると為さば、則ち伍子胥殺されず。夫れ遇・不遇は時なり、賢・不肖は才なり。君子博く学び深く謀りて、時に遇わざる者、衆し。何ぞ独り丘のみならんや。且つ芝蘭は深林に生じ、人無きを以て芳しからざるにあらず。君子道を修め徳を立て、窮困を謂いて節を改むること無し。之を為す者は、人なり。生死は、命なり。是を以て晋の重耳の覇心有るは、曹・衛に生ず。越王勾践の覇心有るは、会稽に生ず。故に下に居りて憂い無き者は、則ち思い遠からず。身を処りて常に逸なる者は、則ち誌広からず。庸ぞ其の終始を知らんや。」
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史記 孔子世家夫人帷中より再拝す、環珮の玉声璆然たり。孔子曰く、「吾郷に見えずと為す、之を見るに礼もて答ふ」と。子路説ばず。孔子之に矢ひて曰く、「予が否なる所の者は、天之を厭たん、天之を厭たん」と。衛に居ること月余、霊公夫人と車を同じくし、宦者雍渠参乗し、出で、孔子をして次乗為らしめ、招揺して市に之を過ぐ。孔子曰く、「吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と。是に於て之を醜とし、衛を去り、曹を過ぐ。是の歳、魯の定公卒す。孔子曹を去りて宋に適き、弟子と礼を大樹の下に習ふ。宋の司馬桓魋孔子を殺さんと欲し、其の樹を抜く。孔子去る。弟子曰く、「以て速やかにすべし」と。孔子曰く、「天徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん」と。孔子鄭に適き、弟子と相失ひ、孔子独り郭の東門に立つ。鄭人或ひと子貢に謂ひて曰く、「東門に人有り、其の顙は堯に似、其の項は皋陶に類し、其の肩は子産に類す、然れども要より以下は禹に及ばざること三寸。纍纍として喪家の狗の若し」と。子貢実を以て孔子に告ぐ。孔子欣然として笑ひて曰く、「形状は末なり。而るに喪家の狗に似たりと謂ふは、然るかな、然るかな」と。孔子遂に陳に至り、司城貞子の家に主たり。歳余にして、呉王夫差陳を伐ち、三邑を取りて去る。趙鞅朝歌を伐つ。楚蔡を囲み、蔡呉に遷る。呉、越王句践を会稽に敗る。隼有り陳の廷に集まりて死す、楛矢之を貫く、石砮にして、矢の長さ尺有咫。陳の湣公使をして仲尼に問はしむ。仲尼曰く、「隼の来たること遠し、此れ粛慎の矢なり。昔武王商に克ち、道を九夷百蛮に通じ、各々其の方賄を以て来貢せしめ、職業を忘るること無からしむ。是に於て粛慎楛矢石砮を貢す、長さ尺有咫。先王其の令徳を昭らかにせんと欲し、粛慎の矢を以て大姫に分かち、虞の胡公に配して諸を陳に封ず。同姓に分かつに珍玉を以てし、親を展ぶ。異姓に分かつに遠職を以てし、服を忘るること無からしむ。
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史記 孔子世家夏、衛の霊公卒し、孫輒を立つ、是れを衛の出公と為す。六月、趙鞅太子蒯聵を戚に内る。陽虎、太子をして絻せしめ、八人衰絰し、偽りて衛より迎ふる者として、哭して入り、遂に焉に居る。冬、蔡州来に遷る。是の歳魯の哀公三年にして、孔子年六十なり。斉衛を助けて戚を囲む、衛の太子蒯聵在るの故を以てなり。夏、魯の桓釐の廟燔く、南宮敬叔火を救ふ。孔子陳に在り、之を聞きて曰く、「災は必ず桓釐の廟に於てせんか」と。已にして果たして然り。秋、季桓子病み、輦して魯城を見、喟然として嘆じて曰く、「昔此の国幾ど興らんとす、吾罪を孔子に獲たるを以ての故に、興らざるなり」と。顧みて其の嗣康子に謂ひて曰く、「我即し死せば、若必ず魯に相たれ。魯に相たらば、必ず仲尼を召せ」と。後数日、桓子卒し、康子代はりて立つ。已に葬り、仲尼を召さんと欲す。公之魚曰く、「昔吾が先君之を用ひて終へず、終に諸侯の笑ひと為る。今又之を用ひ、終ふること能はずんば、是れ再び諸侯の笑ひと為らん」と。康子曰く、「則ち誰を召さば可ならん」と。曰く、「必ず冉求を召せ」と。是に於て使をして冉求を召さしむ。冉求将に行かんとす、孔子曰く、「魯人求を召す、之を小用するに非ず、将に之を大用せんとするなり」と。是の日、孔子曰く、「帰らんか帰らんか。吾が党の小子は狂簡、斐然として章を成す、吾之を裁する所以を知らず」と。子貢孔子の帰らんことを思ふを知り、冉求を送り、因りて誡めて曰く「即し用ひられなば、孔子を以て招と為せ」と云ふ。冉求既に去り、明年、孔子陳より蔡に遷る。蔡の昭公将に呉に如かんとす、呉之を召せばなり。前に昭公其の臣を欺きて州来に遷る、後に将に往かんとするに、大夫復た遷らんことを懼れ、公孫翩昭公を射殺す。楚蔡を侵す。秋、斉の景公卒す。明年、孔子蔡より葉に如く。葉公政を問ふ、孔子曰く、「政は遠きを来たし邇きを附くるに在り」と。他日、葉公孔子を子路に問ふ、子路対へず。
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史記 孔子世家(爾をして財多からしめば、吾爾の宰と為らん」と。是に於て子貢をして楚に至らしむ。楚の昭王師を興して孔子を迎へ、然る後に免るるを得たり。昭王将に書社の地七百里を以て孔子を封ぜんとす。楚の令尹子西曰く、「王の諸侯に使ひせしむるに子貢の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の輔相に顔回の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の将率に子路の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の官尹に宰予の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「且つ楚の祖は周に封ぜられ、号して子男五十里と為す。今孔丘は三五の法を述べ、周召の業を明らかにす、王若し之を用ひば、則ち楚安んぞ世世堂堂として方数千里なるを得んや。夫れ文王は豊に在り、武王は鎬に在り、百里の君にして卒に天下に王たり。今孔丘土壌に拠るを得、賢弟子佐と為らば、楚の福に非ざるなり」と。昭王乃ち止む。其の秋、楚の昭王城父に卒す。楚の狂接輿歌ひて孔子を過ぎて曰く、「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰へたる。往く者は諫むべからず、来たる者は猶ほ追ふべし。已みなん已みなん、今の政に従ふ者は殆し」と。孔子下り、之と言はんと欲す。趨りて去り、之と言ふを得ず。是に於て孔子楚より衛に反る。是の歳や、孔子年六十三にして、魯の哀公六年なり。其の明年、呉魯と繒に会し、百牢を徴す。太宰嚭季康子を召す。康子子貢をして往かしめ、然る後に已むを得たり。孔子曰く、「魯衛の政は、兄弟なり」と。是の時、衛君輒の父立つを得ず、外に在り、諸侯数々以て譲と為す。而して孔子の弟子多く衛に仕へ、衛君孔子を得て政を為さしめんと欲す。子路曰く、「衛君子を待ちて政を為さば、子将に奚をか先にせん」と。孔子曰く、「必ずや名を正さんか」と。子路曰く、「是れ有るかな、子の迂なるや。何ぞ其れ正さん」と。孔子曰く、「野なるかな由や。
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史記 孔子世家孔子長九尺有六寸、人皆之を「長人」と謂ひて之を異とす。魯復た善く待す、是に由りて魯に反る。魯の南宮敬叔、魯君に言ひて曰く、「請ふ孔子と周に適かん」と。魯君之に一乗車、両馬、一豎子を与へて倶にし、周に適きて礼を問ふ、蓋し老子に見ゆと云ふ。辞去するに、老子之を送りて曰く、「吾聞く、富貴なる者は人を送るに財を以てし、仁人なる者は人を送るに言を以てすと。吾富貴なること能はず、仁人の号を窃み、子を送るに言を以てせん、曰く、『聡明深察にして死に近き者は、好んで人を議する者なり。博辯広大にして其の身を危ふくする者は、人の悪を発く者なり。人の子たる者は以て己を有すること毋かれ、人の臣たる者は以て己を有すること毋かれ』」と。孔子周より魯に反り、弟子稍く益々進む。是の時や、晋の平公淫し、六卿権を擅にし、東のかた諸侯を伐つ。楚の霊王兵彊く、中国を陵轢す。斉は大にして魯に近し。魯は小弱にして、楚に附けば則ち晋怒り、晋に附けば則ち楚来たり伐つ。斉に備へざれば、斉の師魯を侵す。魯の昭公の二十年にして、孔子蓋し年三十なり。斉の景公、晏嬰と来たりて魯に適く。景公孔子に問ひて曰く、「昔秦の穆公、国小にして辟に処る、其の霸たるは何ぞや」と。対へて曰く、「秦は、国小なりと雖も、其の志大なり。処辟なりと雖も、行ひ中正なり。身づから五羖を挙げ、之に大夫を爵し、纍紲の中より起こし、与に語ること三日にして、之に政を授く。此を以て之を取らば、王と雖も可なり、其の霸は小なり」と。景公説ぶ。孔子年三十五にして、季平子と郈昭伯と闘鶏の故を以て罪を魯の昭公に得たり。昭公師を率ゐて平子を撃つ、平子、孟氏・叔孫氏の三家と共に昭公を攻む。昭公の師敗れ、斉に奔る、斉、昭公を乾侯に処らしむ。其の後頃之くして、魯乱る。孔子斉に適き、高昭子の家臣と為り、以て景公に通ぜんと欲す。
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史記 孔子世家故に陳に分かつに粛慎の矢を以てす」と。試みに之を故府に求むるに、果たして之を得たり。孔子陳に居ること三歳、会々晋楚彊を争ひ、更々陳を伐ち、呉の陳を侵すに及び、陳常に寇せらる。孔子曰く、「帰らんか帰らんか。吾が党の小子は狂簡、進取して其の初を忘れず」と。是に於て孔子陳を去る。蒲を過ぐ、会々公叔氏蒲を以て畔く、蒲人孔子を止む。弟子に公良孺なる者有り、私車五乗を以て孔子に従ふ。其の人と為り長賢にして、勇力有り、謂ひて曰く、「吾昔夫子に従ひて難に匡に遇ふ、今又難に此に遇ふ、命なるのみ。吾夫子と再び難に罹る、寧ろ闘ひて死せん」と。闘ふこと甚だ疾し。蒲人懼れ、孔子に謂ひて曰く、「苟も衛に適くこと毋くんば、吾子を出さん」と。之と盟ひ、孔子を東門より出す。孔子遂に衛に適く。子貢曰く、「盟は負くべきか」と。孔子曰く、「要盟なり、神は聴かず」と。衛の霊公孔子の来たるを聞き、喜び、郊迎す。問ひて曰く、「蒲は伐つべきか」と。対へて曰く、「可なり」と。霊公曰く、「吾が大夫以て不可と為す。今蒲は、衛の晋楚を待つ所以なり、衛を以て之を伐つは、乃ち不可なること無からんや」と。孔子曰く、「其の男子は死するの志有り、婦人は西河を保つの志有り。吾が伐つ所の者は四五人に過ぎず」と。霊公曰く、「善し」と。然れども蒲を伐たず。霊公老い、政に怠り、孔子を用ひず。孔子喟然として歎じて曰く、「苟も我を用ふる者有らば、期月のみにして可なり、三年にして成る有らん」と。孔子行く。仏肸中牟の宰為り。趙簡子范・中行を攻め、中牟を伐つ。仏肸畔き、人をして孔子を召さしむ。孔子往かんと欲す。子路曰く、「由諸を夫子に聞く、『其の身親ら不善を為す者には、君子入らざるなり』と。今仏肸親ら中牟を以て畔く、子往かんと欲するは、之を如何」と。孔子曰く、「是の言有り。堅しと曰はずや、磨すれども磷がず。白しと曰はずや、涅すれども淄まず。我豈に匏瓜ならんや、焉んぞ能く繫りて食はれざらん」と。孔子磬を撃つ。
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