史記 / 孔子世家
桓子卒受齊女樂,三日不聽政;郊,又不致膰俎於大夫。孔子遂行,宿乎屯。而師己送,曰:「夫子則非罪。」孔子曰:「吾歌可夫?」歌曰:「彼婦之口,可以出走;彼婦之謁,可以死敗。蓋優哉游哉,維以卒歲!」師己反,桓子曰:「孔子亦何言?」師己以實告。桓子喟然嘆曰:「夫子罪我以羣婢故也夫!」孔子遂適衞,主於子路妻兄顏濁鄒家。衞靈公問孔子:「居魯得祿幾何?」對曰:「奉粟六萬。」衞人亦致粟六萬。居頃之,或譖孔子於衞靈公。靈公使公孫余假一出一入。孔子恐獲罪焉,居十月,去衞。將適陳,過匡,顏刻為僕,以其策指之曰:「昔吾入此,由彼缺也。」匡人聞之,以為魯之陽虎。陽虎嘗暴匡人,匡人於是遂止孔子。孔子狀類陽虎,拘焉五日,顏淵後,子曰:「吾以汝為死矣。」顏淵曰:「子在,回何敢死!」匡人拘孔子益急,弟子懼。孔子曰:「文王既沒,文不在茲乎?天之將喪斯文也,後死者不得與于斯文也。天之未喪斯文也,匡人其如予何!」孔子使從者為甯武子臣於衞,然後得去。去即過蒲。月餘,反乎衞,主蘧伯玉家。靈公夫人有南子者,使人謂孔子曰:「四方之君子不辱欲與寡君為兄弟者,必見寡小君。寡小君願見。」孔子辭謝,不得已而見之。夫人在絺帷中。孔子入門,北面稽首。
新字:桓子卒受斉女楽,三日不聴政;郊,又不致膰俎於大夫。孔子遂行,宿乎屯。而師己送,曰:「夫子則非罪。」孔子曰:「吾歌可夫?」歌曰:「彼婦之口,可以出走;彼婦之謁,可以死敗。蓋優哉游哉,維以卒歳!」師己反,桓子曰:「孔子亦何言?」師己以実告。桓子喟然嘆曰:「夫子罪我以羣婢故也夫!」孔子遂適衛,主於子路妻兄顔濁鄒家。衛霊公問孔子:「居魯得禄幾何?」対曰:「奉粟六万。」衛人亦致粟六万。居頃之,或譖孔子於衛霊公。霊公使公孫余仮一出一入。孔子恐獲罪焉,居十月,去衛。将適陳,過匡,顔刻為僕,以其策指之曰:「昔吾入此,由彼欠也。」匡人聞之,以為魯之陽虎。陽虎嘗暴匡人,匡人於是遂止孔子。孔子状類陽虎,拘焉五日,顔淵後,子曰:「吾以汝為死矣。」顔淵曰:「子在,回何敢死!」匡人拘孔子益急,弟子懼。孔子曰:「文王既没,文不在茲乎?天之将喪斯文也,後死者不得与于斯文也。天之未喪斯文也,匡人其如予何!」孔子使従者為甯武子臣於衛,然後得去。去即過蒲。月余,反乎衛,主蘧伯玉家。霊公夫人有南子者,使人謂孔子曰:「四方之君子不辱欲与寡君為兄弟者,必見寡小君。寡小君願見。」孔子辞謝,不得已而見之。夫人在絺帷中。孔子入門,北面稽首。
書き下し
桓子卒に斉の女楽を受け、三日政を聴かず。郊して、又膰俎を大夫に致さず。孔子遂に行き、屯に宿す。而して師己送りて曰く、「夫子は則ち罪に非ず」と。孔子曰く、「吾歌はんこと可ならんか」と。歌ひて曰く、「彼の婦の口、以て出走すべし。彼の婦の謁、以て死敗すべし。蓋し優なるかな游なるかな、維れ以て歳を卒へん」と。師己反る、桓子曰く、「孔子亦た何をか言へる」と。師己実を以て告ぐ。桓子喟然として嘆じて曰く、「夫子我を罪するに羣婢の故を以てするなるかな」と。孔子遂に衛に適き、子路の妻の兄顔濁鄒の家に主たり。衛の霊公孔子に問ふ、「魯に居りて禄を得ること幾何ぞ」と。対へて曰く、「粟六万を奉ず」と。衛人も亦た粟六万を致す。居ること之を頃くして、或ひと孔子を衛の霊公に譖す。霊公、公孫余仮をして一たび出で一たび入らしむ。孔子罪を獲んことを恐れ、居ること十月にして、衛を去る。将に陳に適かんとし、匡を過ぐ、顔刻僕為り、其の策を以て之を指して曰く、「昔吾此に入りしは、彼の缺けたるに由るなり」と。匡人之を聞き、以て魯の陽虎と為す。陽虎嘗て匡人に暴す、匡人是に於て遂に孔子を止む。孔子の状陽虎に類す、拘へらるること五日。顔淵後る、子曰く、「吾汝を以て死せりと為す」と。顔淵曰く、「子在す、回何ぞ敢へて死せん」と。匡人孔子を拘ふること益々急なり、弟子懼る。孔子曰く、「文王既に没す、文茲に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者斯の文に与るを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予を如何せん」と。孔子、従者をして甯武子の臣と為りて衛に於てせしめ、然る後に去るを得たり。去りて即ち蒲を過ぐ。月余にして、衛に反り、蘧伯玉の家に主たり。霊公の夫人に南子なる者有り、人をして孔子に謂はしめて曰く、「四方の君子の辱くも寡君と兄弟為らんと欲する者は、必ず寡小君に見ゆ。寡小君見えんことを願ふ」と。孔子辞謝するも、已むを得ずして之に見ゆ。夫人絺帷の中に在り。孔子門に入り、北面して稽首す。
現代語訳
季桓子はついに斉の女楽を受け入れ、三日のあいだ政務を執らなかった。郊祭を行っても、供え肉を大夫たちに分け与えなかった。孔子はそこで魯を去り、屯(とん)に泊まった。楽師の己(き)が見送りに来て言った。「先生に罪があるわけではない」。孔子は言った。「歌ってもよいかな」。そして歌った。「あの女たちの口のせいで、(賢者は)去らねばならぬ。あの女たちの取りなしのせいで、国は滅び身は死ぬ。ゆったりとのんびりと、このまま歳月を過ごすとしよう」。師己が戻ると、季桓子が言った。「孔子は何と言っていたか」。師己がありのままに告げると、桓子はため息をついて嘆いた。「先生は、あの女たちのことで私を責めておられるのだな」。孔子はそのまま衛へ行き、子路の妻の兄である顔濁鄒(がんたくすう)の家に身を寄せた。衛の霊公が孔子に尋ねた。「魯にいたときは俸禄をどれほど得ていたのか」。孔子は答えた。「粟(あわ)六万(斗)をいただいていた」。衛もまた粟六万を与えた。しばらくすると、ある者が孔子を霊公に讒言した。霊公は公孫余仮(こうそんよか)に命じて、孔子のもとを出入りさせ(監視させ)た。孔子は罪を着せられるのを恐れ、十か月いただけで衛を去った。陳へ行こうとして匡(きょう)を通ったとき、顔刻が御者をしていたが、鞭で指さして言った。「昔、私がここに攻め入ったときは、あの壊れた所から入ったのだ」。匡の人々はこれを聞き、魯の陽虎だと思った。陽虎はかつて匡の人々に乱暴を働いたことがあったので、匡の人々はそこで孔子を足止めした。孔子の姿は陽虎に似ていたので、五日間拘束された。顔淵が遅れて追いつくと、孔子は言った。「お前は死んだものと思っていた」。顔淵は言った。「先生がご健在なのに、どうして私が先に死ねようか」。匡の人々が孔子をますます厳しく拘束したので、弟子たちは恐れた。孔子は言った。「文王はすでに亡くなったが、その文化はここ(私の身)にあるではないか。天がこの文化を滅ぼそうとするのなら、後の世の私がこの文化に関わることはできなかったはずだ。天がまだこの文化を滅ぼそうとしないのなら、匡の人々ごときが私をどうできよう」。孔子は従者を衛の甯武子(ねいぶし)の家臣として仕えさせ、(その取りなしで)ようやく去ることができた。去るとすぐに蒲(ほ)を通った。一か月余りで衛に戻り、蘧伯玉(きょはくぎょく)の家に身を寄せた。霊公の夫人に南子(なんし)という者がおり、人を遣わして孔子に言わせた。「四方の君子で、かたじけなくもわが君と兄弟の交わりを結びたいと願う方は、必ず夫人にお目にかかる。夫人もお会いしたいと願っている」。孔子は辞退したが、やむを得ず会った。夫人は葛布の帳の中にいた。孔子は門を入り、北に向かって額ずいて礼をした。
解説
関連する章句
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史記 孔子世家故に陳に分かつに粛慎の矢を以てす」と。試みに之を故府に求むるに、果たして之を得たり。孔子陳に居ること三歳、会々晋楚彊を争ひ、更々陳を伐ち、呉の陳を侵すに及び、陳常に寇せらる。孔子曰く、「帰らんか帰らんか。吾が党の小子は狂簡、進取して其の初を忘れず」と。是に於て孔子陳を去る。蒲を過ぐ、会々公叔氏蒲を以て畔く、蒲人孔子を止む。弟子に公良孺なる者有り、私車五乗を以て孔子に従ふ。其の人と為り長賢にして、勇力有り、謂ひて曰く、「吾昔夫子に従ひて難に匡に遇ふ、今又難に此に遇ふ、命なるのみ。吾夫子と再び難に罹る、寧ろ闘ひて死せん」と。闘ふこと甚だ疾し。蒲人懼れ、孔子に謂ひて曰く、「苟も衛に適くこと毋くんば、吾子を出さん」と。之と盟ひ、孔子を東門より出す。孔子遂に衛に適く。子貢曰く、「盟は負くべきか」と。孔子曰く、「要盟なり、神は聴かず」と。衛の霊公孔子の来たるを聞き、喜び、郊迎す。問ひて曰く、「蒲は伐つべきか」と。対へて曰く、「可なり」と。霊公曰く、「吾が大夫以て不可と為す。今蒲は、衛の晋楚を待つ所以なり、衛を以て之を伐つは、乃ち不可なること無からんや」と。孔子曰く、「其の男子は死するの志有り、婦人は西河を保つの志有り。吾が伐つ所の者は四五人に過ぎず」と。霊公曰く、「善し」と。然れども蒲を伐たず。霊公老い、政に怠り、孔子を用ひず。孔子喟然として歎じて曰く、「苟も我を用ふる者有らば、期月のみにして可なり、三年にして成る有らん」と。孔子行く。仏肸中牟の宰為り。趙簡子范・中行を攻め、中牟を伐つ。仏肸畔き、人をして孔子を召さしむ。孔子往かんと欲す。子路曰く、「由諸を夫子に聞く、『其の身親ら不善を為す者には、君子入らざるなり』と。今仏肸親ら中牟を以て畔く、子往かんと欲するは、之を如何」と。孔子曰く、「是の言有り。堅しと曰はずや、磨すれども磷がず。白しと曰はずや、涅すれども淄まず。我豈に匏瓜ならんや、焉んぞ能く繫りて食はれざらん」と。孔子磬を撃つ。
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史記 孔子世家夫人帷中より再拝す、環珮の玉声璆然たり。孔子曰く、「吾郷に見えずと為す、之を見るに礼もて答ふ」と。子路説ばず。孔子之に矢ひて曰く、「予が否なる所の者は、天之を厭たん、天之を厭たん」と。衛に居ること月余、霊公夫人と車を同じくし、宦者雍渠参乗し、出で、孔子をして次乗為らしめ、招揺して市に之を過ぐ。孔子曰く、「吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と。是に於て之を醜とし、衛を去り、曹を過ぐ。是の歳、魯の定公卒す。孔子曹を去りて宋に適き、弟子と礼を大樹の下に習ふ。宋の司馬桓魋孔子を殺さんと欲し、其の樹を抜く。孔子去る。弟子曰く、「以て速やかにすべし」と。孔子曰く、「天徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん」と。孔子鄭に適き、弟子と相失ひ、孔子独り郭の東門に立つ。鄭人或ひと子貢に謂ひて曰く、「東門に人有り、其の顙は堯に似、其の項は皋陶に類し、其の肩は子産に類す、然れども要より以下は禹に及ばざること三寸。纍纍として喪家の狗の若し」と。子貢実を以て孔子に告ぐ。孔子欣然として笑ひて曰く、「形状は末なり。而るに喪家の狗に似たりと謂ふは、然るかな、然るかな」と。孔子遂に陳に至り、司城貞子の家に主たり。歳余にして、呉王夫差陳を伐ち、三邑を取りて去る。趙鞅朝歌を伐つ。楚蔡を囲み、蔡呉に遷る。呉、越王句践を会稽に敗る。隼有り陳の廷に集まりて死す、楛矢之を貫く、石砮にして、矢の長さ尺有咫。陳の湣公使をして仲尼に問はしむ。仲尼曰く、「隼の来たること遠し、此れ粛慎の矢なり。昔武王商に克ち、道を九夷百蛮に通じ、各々其の方賄を以て来貢せしめ、職業を忘るること無からしむ。是に於て粛慎楛矢石砮を貢す、長さ尺有咫。先王其の令徳を昭らかにせんと欲し、粛慎の矢を以て大姫に分かち、虞の胡公に配して諸を陳に封ず。同姓に分かつに珍玉を以てし、親を展ぶ。異姓に分かつに遠職を以てし、服を忘るること無からしむ。
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史記 孔子世家夏、衛の霊公卒し、孫輒を立つ、是れを衛の出公と為す。六月、趙鞅太子蒯聵を戚に内る。陽虎、太子をして絻せしめ、八人衰絰し、偽りて衛より迎ふる者として、哭して入り、遂に焉に居る。冬、蔡州来に遷る。是の歳魯の哀公三年にして、孔子年六十なり。斉衛を助けて戚を囲む、衛の太子蒯聵在るの故を以てなり。夏、魯の桓釐の廟燔く、南宮敬叔火を救ふ。孔子陳に在り、之を聞きて曰く、「災は必ず桓釐の廟に於てせんか」と。已にして果たして然り。秋、季桓子病み、輦して魯城を見、喟然として嘆じて曰く、「昔此の国幾ど興らんとす、吾罪を孔子に獲たるを以ての故に、興らざるなり」と。顧みて其の嗣康子に謂ひて曰く、「我即し死せば、若必ず魯に相たれ。魯に相たらば、必ず仲尼を召せ」と。後数日、桓子卒し、康子代はりて立つ。已に葬り、仲尼を召さんと欲す。公之魚曰く、「昔吾が先君之を用ひて終へず、終に諸侯の笑ひと為る。今又之を用ひ、終ふること能はずんば、是れ再び諸侯の笑ひと為らん」と。康子曰く、「則ち誰を召さば可ならん」と。曰く、「必ず冉求を召せ」と。是に於て使をして冉求を召さしむ。冉求将に行かんとす、孔子曰く、「魯人求を召す、之を小用するに非ず、将に之を大用せんとするなり」と。是の日、孔子曰く、「帰らんか帰らんか。吾が党の小子は狂簡、斐然として章を成す、吾之を裁する所以を知らず」と。子貢孔子の帰らんことを思ふを知り、冉求を送り、因りて誡めて曰く「即し用ひられなば、孔子を以て招と為せ」と云ふ。冉求既に去り、明年、孔子陳より蔡に遷る。蔡の昭公将に呉に如かんとす、呉之を召せばなり。前に昭公其の臣を欺きて州来に遷る、後に将に往かんとするに、大夫復た遷らんことを懼れ、公孫翩昭公を射殺す。楚蔡を侵す。秋、斉の景公卒す。明年、孔子蔡より葉に如く。葉公政を問ふ、孔子曰く、「政は遠きを来たし邇きを附くるに在り」と。他日、葉公孔子を子路に問ふ、子路対へず。
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史記 孔子世家(爾をして財多からしめば、吾爾の宰と為らん」と。是に於て子貢をして楚に至らしむ。楚の昭王師を興して孔子を迎へ、然る後に免るるを得たり。昭王将に書社の地七百里を以て孔子を封ぜんとす。楚の令尹子西曰く、「王の諸侯に使ひせしむるに子貢の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の輔相に顔回の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の将率に子路の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の官尹に宰予の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「且つ楚の祖は周に封ぜられ、号して子男五十里と為す。今孔丘は三五の法を述べ、周召の業を明らかにす、王若し之を用ひば、則ち楚安んぞ世世堂堂として方数千里なるを得んや。夫れ文王は豊に在り、武王は鎬に在り、百里の君にして卒に天下に王たり。今孔丘土壌に拠るを得、賢弟子佐と為らば、楚の福に非ざるなり」と。昭王乃ち止む。其の秋、楚の昭王城父に卒す。楚の狂接輿歌ひて孔子を過ぎて曰く、「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰へたる。往く者は諫むべからず、来たる者は猶ほ追ふべし。已みなん已みなん、今の政に従ふ者は殆し」と。孔子下り、之と言はんと欲す。趨りて去り、之と言ふを得ず。是に於て孔子楚より衛に反る。是の歳や、孔子年六十三にして、魯の哀公六年なり。其の明年、呉魯と繒に会し、百牢を徴す。太宰嚭季康子を召す。康子子貢をして往かしめ、然る後に已むを得たり。孔子曰く、「魯衛の政は、兄弟なり」と。是の時、衛君輒の父立つを得ず、外に在り、諸侯数々以て譲と為す。而して孔子の弟子多く衛に仕へ、衛君孔子を得て政を為さしめんと欲す。子路曰く、「衛君子を待ちて政を為さば、子将に奚をか先にせん」と。孔子曰く、「必ずや名を正さんか」と。子路曰く、「是れ有るかな、子の迂なるや。何ぞ其れ正さん」と。孔子曰く、「野なるかな由や。
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孔子家語・子路初見孔子魯に相たり。斉人其の将に覇たらんとするを患い、其の政を敗らんと欲す。乃ち好き女子八十人を選び、衣するに文飾を以てして容璣を舞わしめ、及び文馬四十駟を、以て魯君に遺る。女楽を陳べ、文馬を魯城の南高門の外に列ね、季桓子微服して之を観ること再三、将に受けんとす。魯君に告げて周道の遊観を為すと為し、之を観ること終日、政事を怠る。子路孔子に言いて曰わく、「夫子以て行く可し。」孔子曰わく、「魯今且に郊せんとす、若し膰を大夫に致さば、是れ則ち未だ其の常を廃せざるなり、吾猶お以て止まる可し。」桓子既に女楽を受け、君臣淫荒し、三日国政を聴かず、郊にも又膰俎を致さず、孔子遂に行く。郭に宿り、師を屯めて以て送りて曰わく、「夫子は罪に非ざるなり。」孔子曰わく、「吾歌う可きか。歌に曰わく、『彼の婦人の口、以て出走す可し。彼の婦人の請い、以て死敗す可し。優なるかな遊なるかな、聊か以て歳を卒えん』と。」
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史記 孔子世家仲尼曰く、「山川の神は以て天下を綱紀するに足る、其の守を神と為し、社稷を公侯と為す、皆王者に属す」と。客曰く、「防風は何をか守る」と。仲尼曰く、「汪罔氏の君、封・禺の山を守り、釐姓たり。虞・夏・商に在りては汪罔と為し、周に於ては長翟と為し、今之を大人と謂ふ」と。客曰く、「人の長は幾何ぞ」と。仲尼曰く、「僬僥氏は三尺、短の至りなり。長き者も之に十するに過ぎず、数の極みなり」と。是に於て呉の客曰く、「善いかな聖人」と。桓子の嬖臣を仲梁懐と曰ふ、陽虎と隙有り。陽虎懐を逐はんと欲す、公山不狃之を止む。其の秋、懐益々驕る、陽虎懐を執ふ。桓子怒る、陽虎因りて桓子を囚へ、与に盟ひて之を醳す。陽虎此に由りて益々季氏を軽んず。季氏も亦た公室に僭し、陪臣国政を執る、是を以て魯は大夫より以下皆正道より僭離す。故に孔子仕へず、退きて詩書礼楽を脩む、弟子弥々衆く、遠方より至り、業を受けざる莫し。定公八年、公山不狃季氏に意を得ず、陽虎に因りて乱を為し、三桓の適を廃し、更に其の庶孽の陽虎素より善くする所の者を立てんと欲し、遂に季桓子を執ふ。桓子之を詐り、脱するを得たり。定公九年、陽虎勝たず、斉に奔る。是の時孔子年五十。公山不狃費を以て季氏に畔き、人をして孔子を召さしむ。孔子道に循ふこと弥々久しく、温温として試みらるる所無く、能く己を用ふる莫し、曰く、「蓋し周の文・武は豊・鎬より起こりて王たり、今費は小なりと雖も、儻くは庶幾からんか」と。往かんと欲す。子路説ばず、孔子を止む。孔子曰く、「夫れ我を召す者は豈に徒ならんや。如し我を用ひば、其れ東周を為さんか」と。然れども亦た卒に行かず。其の後定公孔子を以て中都の宰と為す、一年にして、四方皆之に則る。中都の宰より司空と為り、司空より大司寇と為る。定公十年春、斉と平らぐ。
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