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史記 / 孔子世家

使仲由為季氏宰,將墮三都。於是叔孫氏先墮郈。季氏將墮費,公山不狃、叔孫輒率費人襲魯。公與三子入于季氏之宮,登武子之臺。費人攻之,弗克,入及公側。孔子命申句須、樂頎下伐之,費人北。國人追之,敗諸姑蔑。二子奔齊,遂墮費。將墮成,公歛處父謂孟孫曰:「墮成,齊人必至于北門。且成,孟氏之保鄣,無成是無孟氏也。我將弗墮。」十二月,公圍成,弗克。定公十四年,孔子年五十六,由大司寇行攝相事,有喜色。門人曰:「聞君子禍至不懼,福至不喜。」孔子曰:「有是言也。不曰『樂其以貴下人』乎?」於是誅魯大夫亂政者少正卯。與聞國政三月,粥羔豚者弗飾賈,男女行者別於塗,塗不拾遺;四方之客至乎邑者不求有司,皆予之以歸。齊人聞而懼,曰:「孔子為政必霸,霸則吾地近焉,我之為先并矣。盍致地焉?」黎鉏曰:「請先嘗沮之;沮之而不可則致地,庸遲乎!」於是選齊國中女子好者八十人,皆衣文衣而舞康樂,文馬三十駟,遺魯君。陳女樂文馬於魯城南高門外,季桓子微服往觀再三,將受,乃語魯君為周道游,往觀終日,怠於政事。子路曰:「夫子可以行矣。」孔子曰:「魯今且郊,如致膰乎大夫,則吾猶可以止。」

新字:使仲由為季氏宰,将堕三都。於是叔孫氏先堕郈。季氏将堕費,公山不狃、叔孫輒率費人襲魯。公与三子入于季氏之宮,登武子之台。費人攻之,弗克,入及公側。孔子命申句須、楽頎下伐之,費人北。国人追之,敗諸姑蔑。二子奔斉,遂堕費。将堕成,公歛処父謂孟孫曰:「堕成,斉人必至于北門。且成,孟氏之保鄣,無成是無孟氏也。我将弗堕。」十二月,公囲成,弗克。定公十四年,孔子年五十六,由大司寇行摂相事,有喜色。門人曰:「聞君子禍至不懼,福至不喜。」孔子曰:「有是言也。不曰『楽其以貴下人』乎?」於是誅魯大夫乱政者少正卯。与聞国政三月,粥羔豚者弗飾賈,男女行者別於塗,塗不拾遺;四方之客至乎邑者不求有司,皆予之以帰。斉人聞而懼,曰:「孔子為政必覇,覇則吾地近焉,我之為先并矣。盍致地焉?」黎鉏曰:「請先嘗沮之;沮之而不可則致地,庸遅乎!」於是選斉国中女子好者八十人,皆衣文衣而舞康楽,文馬三十駟,遺魯君。陳女楽文馬於魯城南高門外,季桓子微服往観再三,将受,乃語魯君為周道游,往観終日,怠於政事。子路曰:「夫子可以行矣。」孔子曰:「魯今且郊,如致膰乎大夫,則吾猶可以止。」

書き下し

仲由をして季氏の宰と為らしめ、将に三都を墮たんとす。是に於て叔孫氏先づ郈を墮つ。季氏将に費を墮たんとす、公山不狃・叔孫輒、費人を率ゐて魯を襲ふ。公、三子と季氏の宮に入り、武子の台に登る。費人之を攻むるも、克たず、入りて公の側に及ぶ。孔子、申句須・楽頎に命じて下りて之を伐たしむ、費人北ぐ。国人之を追ひ、諸を姑蔑に敗る。二子斉に奔り、遂に費を墮つ。将に成を墮たんとす、公歛処父孟孫に謂ひて曰く、「成を墮たば、斉人必ず北門に至らん。且つ成は孟氏の保鄣なり、成無きは是れ孟氏無きなり。我将に墮たざらんとす」と。十二月、公成を囲むも、克たず。定公十四年、孔子年五十六、大司寇より相の事を行摂し、喜色有り。門人曰く、「聞く、君子は禍至りて懼れず、福至りて喜ばずと」と。孔子曰く、「是の言有り。『其の貴を以て人に下るを楽しむ』と曰はずや」と。是に於て魯の大夫の政を乱す者少正卯を誅す。国政に与り聞くこと三月、羔豚を粥ぐ者は賈を飾らず、男女の行く者は塗を別にし、塗に遺ちたるを拾はず。四方の客の邑に至る者は有司に求めず、皆之に予へて以て帰らしむ。斉人聞きて懼れて曰く、「孔子政を為さば必ず霸たらん、霸たらば則ち吾が地近し、我之れ先づ并せられん。盍ぞ地を致さざる」と。黎鉏曰く、「請ふ先づ嘗みに之を沮まん。之を沮みて可ならずんば則ち地を致すも、庸ぞ遅からんや」と。是に於て斉の国中の女子の好き者八十人を選び、皆文衣を衣て康楽を舞はしめ、文馬三十駟もて、魯君に遺る。女楽文馬を魯城の南の高門の外に陳ぬ、季桓子微服して往きて観ること再三、将に受けんとし、乃ち魯君に語りて周道の游を為さしめ、往きて観ること終日、政事に怠る。子路曰く、「夫子以て行くべし」と。孔子曰く、「魯今且に郊せんとす、如し膰を大夫に致さば、則ち吾猶ほ以て止まるべし」と。

現代語訳

(孔子は)仲由(子路)を季氏の宰(家宰)とし、三都(三桓の本拠である三つの城)を取り壊そうとした。そこで叔孫氏がまず郈(こう)の城を壊した。季氏が費の城を壊そうとすると、公山不狃と叔孫輒(しゅくそんちょう)が費の人々を率いて魯の都を襲った。定公は三家の当主とともに季氏の邸に入り、武子の台に登った。費の人々はこれを攻めたが勝てず、それでも攻め入って定公のそばにまで迫った。孔子は申句須(しんこうしゅ)と楽頎(がくき)に命じて台を下りて迎え撃たせ、費の人々は敗走した。都の人々がこれを追い、姑蔑(こべつ)で打ち破った。公山不狃と叔孫輒の二人は斉に逃げ、ついに費の城を壊した。次に成(せい)の城を壊そうとすると、公歛処父(こうれんしょほ)が孟孫に言った。「成を壊せば、斉の軍が必ず北門まで押し寄せてくる。それに成は孟氏の砦だ。成が無くなれば孟氏も無くなる。私は壊さないつもりだ」。十二月、定公は成を包囲したが、落とせなかった。定公十四年、孔子は五十六歳で、大司寇のまま宰相の職務を代行し、うれしそうな顔をしていた。門人が言った。「君子は災いが来ても恐れず、幸いが来ても喜ばないと聞いているが」。孔子は言った。「そういう言葉はある。しかし『高い地位にありながら人にへりくだることを楽しむ』という言葉もあるではないか」。そこで魯の大夫で政治を乱していた少正卯(しょうせいぼう)を誅殺した。孔子が国政に携わって三か月、子羊や子豚を売る者は値段をごまかさず、男女は道を分けて歩き、道に落ちている物を拾う者はいなくなった。四方から都にやって来た旅人は、役人に頼みごとをしなくても、みな必要なものを与えられて帰っていった。斉の人々はこれを聞いて恐れ、言った。「孔子が政治を執れば、魯は必ず覇者となる。覇者となれば、わが国は土地が近いから真っ先に併合されてしまう。いっそ先に土地を差し出してはどうか」。黎鉏が言った。「まずは試しに邪魔をしてみよう。邪魔をしてうまくいかなければ、それから土地を差し出しても遅くはない」。そこで斉の国中から美しい女子を八十人選び、みなに模様のある衣装を着せて康楽の舞を習わせ、飾り立てた馬三十組とともに魯の君主に贈った。女楽と飾り馬を魯の都の南の高門の外に並べると、季桓子はお忍びで何度も見に行き、受け取ろうとして、魯の君主に地方巡察だと言って出かけさせ、一日中見物して政務を怠った。子路は言った。「先生、もう去るべき時だ」。孔子は言った。「魯はまもなく郊祭(天を祭る祭り)を行う。もし祭りの供え肉を大夫たちに分け与えるなら、私はまだ留まってよい」。

解説

孔子の政治改革の頂点とその挫折の始まりを描く段です。孔子は家臣の城が主君をしのぐ状態を正すため、三桓の本拠である三都の取り壊しに着手しますが、費では反乱が起こり、成では孟氏側の抵抗で失敗します。それでも宰相代行となった孔子のもとで、魯は三か月で商取引が正直になり、道に落ちた物を拾う者もいないほど治まりました。すると斉は魯の強大化を恐れ、軍事ではなく美女と名馬を贈って為政者を骨抜きにする策に出ます。季桓子はまんまとこれにはまり、政務を放り出しました。改革が成果を出すほど外部の反発も強まり、組織の上層部が誘惑に負ければすべてが崩れる。成功しているときこそトップの規律が問われることを教える場面です。

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