史記 / 孔子世家
夫人自帷中再拜,環珮玉聲璆然。孔子曰:「吾鄉為弗見,見之禮答焉。」子路不說。孔子矢之曰:「予所不者,天厭之!天厭之!」居衞月餘,靈公與夫人同車,宦者雍渠參乘,出,使孔子為次乘,招搖市過之。孔子曰:「吾未見好德如好色者也。」於是醜之,去衞,過曹。是歲,魯定公卒。孔子去曹適宋,與弟子習禮大樹下。宋司馬桓魋欲殺孔子,拔其樹。孔子去。弟子曰:「可以速矣。」孔子曰:「天生德於予,桓魋其如予何!」孔子適鄭,與弟子相失,孔子獨立郭東門。鄭人或謂子貢曰:「東門有人,其顙似堯,其項類皋陶,其肩類子產,然自要以下不及禹三寸。纍纍若喪家之狗。」子貢以實告孔子。孔子欣然笑曰:「形狀,末也。而謂似喪家之狗,然哉!然哉!」孔子遂至陳,主於司城貞子家。歲餘,吳王夫差伐陳,取三邑而去。趙鞅伐朝歌。楚圍蔡,蔡遷于吳。吳敗越王句踐會稽。有隼集于陳廷而死,楛矢貫之,石砮,矢長尺有咫。陳湣公使使問仲尼。仲尼曰:「隼來遠矣,此肅慎之矢也。昔武王克商,通道九夷百蠻,使各以其方賄來貢,使無忘職業。於是肅慎貢楛矢石砮,長尺有咫。先王欲昭其令德,以肅慎矢分大姬,配虞胡公而封諸陳。分同姓以珍玉,展親;分異姓以遠職,使無忘服。
新字:夫人自帷中再拝,環珮玉声璆然。孔子曰:「吾郷為弗見,見之礼答焉。」子路不説。孔子矢之曰:「予所不者,天厭之!天厭之!」居衛月余,霊公与夫人同車,宦者雍渠参乗,出,使孔子為次乗,招揺市過之。孔子曰:「吾未見好徳如好色者也。」於是醜之,去衛,過曹。是歳,魯定公卒。孔子去曹適宋,与弟子習礼大樹下。宋司馬桓魋欲殺孔子,抜其樹。孔子去。弟子曰:「可以速矣。」孔子曰:「天生徳於予,桓魋其如予何!」孔子適鄭,与弟子相失,孔子独立郭東門。鄭人或謂子貢曰:「東門有人,其顙似堯,其項類皋陶,其肩類子産,然自要以下不及禹三寸。纍纍若喪家之狗。」子貢以実告孔子。孔子欣然笑曰:「形状,末也。而謂似喪家之狗,然哉!然哉!」孔子遂至陳,主於司城貞子家。歳余,呉王夫差伐陳,取三邑而去。趙鞅伐朝歌。楚囲蔡,蔡遷于呉。呉敗越王句践会稽。有隼集于陳廷而死,楛矢貫之,石砮,矢長尺有咫。陳湣公使使問仲尼。仲尼曰:「隼来遠矣,此粛慎之矢也。昔武王克商,通道九夷百蠻,使各以其方賄来貢,使無忘職業。於是粛慎貢楛矢石砮,長尺有咫。先王欲昭其令徳,以粛慎矢分大姫,配虞胡公而封諸陳。分同姓以珍玉,展親;分異姓以遠職,使無忘服。
書き下し
夫人帷中より再拝す、環珮の玉声璆然たり。孔子曰く、「吾郷に見えずと為す、之を見るに礼もて答ふ」と。子路説ばず。孔子之に矢ひて曰く、「予が否なる所の者は、天之を厭たん、天之を厭たん」と。衛に居ること月余、霊公夫人と車を同じくし、宦者雍渠参乗し、出で、孔子をして次乗為らしめ、招揺して市に之を過ぐ。孔子曰く、「吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と。是に於て之を醜とし、衛を去り、曹を過ぐ。是の歳、魯の定公卒す。孔子曹を去りて宋に適き、弟子と礼を大樹の下に習ふ。宋の司馬桓魋孔子を殺さんと欲し、其の樹を抜く。孔子去る。弟子曰く、「以て速やかにすべし」と。孔子曰く、「天徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん」と。孔子鄭に適き、弟子と相失ひ、孔子独り郭の東門に立つ。鄭人或ひと子貢に謂ひて曰く、「東門に人有り、其の顙は堯に似、其の項は皋陶に類し、其の肩は子産に類す、然れども要より以下は禹に及ばざること三寸。纍纍として喪家の狗の若し」と。子貢実を以て孔子に告ぐ。孔子欣然として笑ひて曰く、「形状は末なり。而るに喪家の狗に似たりと謂ふは、然るかな、然るかな」と。孔子遂に陳に至り、司城貞子の家に主たり。歳余にして、呉王夫差陳を伐ち、三邑を取りて去る。趙鞅朝歌を伐つ。楚蔡を囲み、蔡呉に遷る。呉、越王句践を会稽に敗る。隼有り陳の廷に集まりて死す、楛矢之を貫く、石砮にして、矢の長さ尺有咫。陳の湣公使をして仲尼に問はしむ。仲尼曰く、「隼の来たること遠し、此れ粛慎の矢なり。昔武王商に克ち、道を九夷百蛮に通じ、各々其の方賄を以て来貢せしめ、職業を忘るること無からしむ。是に於て粛慎楛矢石砮を貢す、長さ尺有咫。先王其の令徳を昭らかにせんと欲し、粛慎の矢を以て大姫に分かち、虞の胡公に配して諸を陳に封ず。同姓に分かつに珍玉を以てし、親を展ぶ。異姓に分かつに遠職を以てし、服を忘るること無からしむ。
現代語訳
夫人は帳の中から再拝し、身につけた玉飾りがさらさらと鳴った。孔子は言った。「私はもともと会うつもりはなかったが、会った以上は礼をもって応じたまでだ」。子路は不満であった。孔子は誓って言った。「私にやましいところがあれば、天が私を見捨てるだろう、天が私を見捨てるだろう」。衛に一か月余りいたとき、霊公は夫人と同じ車に乗り、宦官の雍渠(ようきょ)を陪乗させて出かけ、孔子を後ろの車に乗せ、これ見よがしに市中を通っていった。孔子は言った。「私はまだ、色を好むように徳を好む者を見たことがない」。そこでこれを恥ずべきこととして、衛を去り、曹を通った。この年、魯の定公が亡くなった。孔子は曹を去って宋へ行き、弟子たちと大樹の下で礼を習っていた。宋の司馬の桓魋(かんたい)は孔子を殺そうとして、その木を引き抜いた。孔子は立ち去った。弟子が言った。「急いだほうがよい」。孔子は言った。「天が私に徳を授けたのだ。桓魋ごときが私をどうできよう」。孔子は鄭へ行ったが、弟子たちとはぐれてしまい、ひとり城郭の東門に立っていた。鄭のある人が子貢に言った。「東門に人がいる。その額は堯に似て、首筋は皋陶(こうよう)に似て、肩は子産に似ている。しかし腰から下は禹に三寸及ばない。疲れ果てたさまは、まるで喪中の家の犬(宿なし犬)のようだ」。子貢がありのままに孔子に告げると、孔子は愉快そうに笑って言った。「姿かたちなどは末のことだ。だが喪家の犬に似ているというのは、そのとおりだ、そのとおりだ」。孔子はそのまま陳に至り、司城貞子(しじょうていし)の家に身を寄せた。一年余りのうちに、呉王夫差が陳を攻めて三つの邑を取って去った。趙鞅(ちょうおう)が朝歌を攻めた。楚が蔡を包囲し、蔡は呉の近くへ都を移した。呉が越王句践を会稽で破った。ある時、隼が陳の宮廷に落ちて死んでいた。楛(こ)の木の矢が突き刺さっており、矢じりは石で、矢の長さは一尺八寸であった。陳の湣公(びんこう)は使者を遣わして仲尼に尋ねた。仲尼は言った。「この隼は遠くから来たものだ。これは粛慎(しゅくしん、東北の異民族)の矢である。昔、武王が商に勝つと、四方の異民族へ道を通じ、それぞれの土地の産物を貢がせ、臣従の務めを忘れないようにさせた。そこで粛慎は楛の矢と石の矢じりを献上した。長さは一尺八寸であった。先王(武王)はその美徳を明らかにしようとして、粛慎の矢を長女の大姫に分け与え、虞の胡公に嫁がせて陳に封じた。同姓の諸侯には珍しい玉を分け与えて親族の情を示し、異姓の諸侯には遠方からの貢ぎ物を分け与えて、臣従を忘れないようにさせたのだ。
解説
関連する章句
-
史記 孔子世家故に陳に分かつに粛慎の矢を以てす」と。試みに之を故府に求むるに、果たして之を得たり。孔子陳に居ること三歳、会々晋楚彊を争ひ、更々陳を伐ち、呉の陳を侵すに及び、陳常に寇せらる。孔子曰く、「帰らんか帰らんか。吾が党の小子は狂簡、進取して其の初を忘れず」と。是に於て孔子陳を去る。蒲を過ぐ、会々公叔氏蒲を以て畔く、蒲人孔子を止む。弟子に公良孺なる者有り、私車五乗を以て孔子に従ふ。其の人と為り長賢にして、勇力有り、謂ひて曰く、「吾昔夫子に従ひて難に匡に遇ふ、今又難に此に遇ふ、命なるのみ。吾夫子と再び難に罹る、寧ろ闘ひて死せん」と。闘ふこと甚だ疾し。蒲人懼れ、孔子に謂ひて曰く、「苟も衛に適くこと毋くんば、吾子を出さん」と。之と盟ひ、孔子を東門より出す。孔子遂に衛に適く。子貢曰く、「盟は負くべきか」と。孔子曰く、「要盟なり、神は聴かず」と。衛の霊公孔子の来たるを聞き、喜び、郊迎す。問ひて曰く、「蒲は伐つべきか」と。対へて曰く、「可なり」と。霊公曰く、「吾が大夫以て不可と為す。今蒲は、衛の晋楚を待つ所以なり、衛を以て之を伐つは、乃ち不可なること無からんや」と。孔子曰く、「其の男子は死するの志有り、婦人は西河を保つの志有り。吾が伐つ所の者は四五人に過ぎず」と。霊公曰く、「善し」と。然れども蒲を伐たず。霊公老い、政に怠り、孔子を用ひず。孔子喟然として歎じて曰く、「苟も我を用ふる者有らば、期月のみにして可なり、三年にして成る有らん」と。孔子行く。仏肸中牟の宰為り。趙簡子范・中行を攻め、中牟を伐つ。仏肸畔き、人をして孔子を召さしむ。孔子往かんと欲す。子路曰く、「由諸を夫子に聞く、『其の身親ら不善を為す者には、君子入らざるなり』と。今仏肸親ら中牟を以て畔く、子往かんと欲するは、之を如何」と。孔子曰く、「是の言有り。堅しと曰はずや、磨すれども磷がず。白しと曰はずや、涅すれども淄まず。我豈に匏瓜ならんや、焉んぞ能く繫りて食はれざらん」と。孔子磬を撃つ。
-
史記 孔子世家桓子卒に斉の女楽を受け、三日政を聴かず。郊して、又膰俎を大夫に致さず。孔子遂に行き、屯に宿す。而して師己送りて曰く、「夫子は則ち罪に非ず」と。孔子曰く、「吾歌はんこと可ならんか」と。歌ひて曰く、「彼の婦の口、以て出走すべし。彼の婦の謁、以て死敗すべし。蓋し優なるかな游なるかな、維れ以て歳を卒へん」と。師己反る、桓子曰く、「孔子亦た何をか言へる」と。師己実を以て告ぐ。桓子喟然として嘆じて曰く、「夫子我を罪するに羣婢の故を以てするなるかな」と。孔子遂に衛に適き、子路の妻の兄顔濁鄒の家に主たり。衛の霊公孔子に問ふ、「魯に居りて禄を得ること幾何ぞ」と。対へて曰く、「粟六万を奉ず」と。衛人も亦た粟六万を致す。居ること之を頃くして、或ひと孔子を衛の霊公に譖す。霊公、公孫余仮をして一たび出で一たび入らしむ。孔子罪を獲んことを恐れ、居ること十月にして、衛を去る。将に陳に適かんとし、匡を過ぐ、顔刻僕為り、其の策を以て之を指して曰く、「昔吾此に入りしは、彼の缺けたるに由るなり」と。匡人之を聞き、以て魯の陽虎と為す。陽虎嘗て匡人に暴す、匡人是に於て遂に孔子を止む。孔子の状陽虎に類す、拘へらるること五日。顔淵後る、子曰く、「吾汝を以て死せりと為す」と。顔淵曰く、「子在す、回何ぞ敢へて死せん」と。匡人孔子を拘ふること益々急なり、弟子懼る。孔子曰く、「文王既に没す、文茲に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者斯の文に与るを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予を如何せん」と。孔子、従者をして甯武子の臣と為りて衛に於てせしめ、然る後に去るを得たり。去りて即ち蒲を過ぐ。月余にして、衛に反り、蘧伯玉の家に主たり。霊公の夫人に南子なる者有り、人をして孔子に謂はしめて曰く、「四方の君子の辱くも寡君と兄弟為らんと欲する者は、必ず寡小君に見ゆ。寡小君見えんことを願ふ」と。孔子辞謝するも、已むを得ずして之に見ゆ。夫人絺帷の中に在り。孔子門に入り、北面して稽首す。
-
史記 孔子世家斉の太師と楽を語り、韶の音を聞きて之を学ぶ、三月肉の味を知らず、斉人之を称す。景公政を孔子に問ふ、孔子曰く、「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」と。景公曰く、「善いかな。信に如し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟有りと雖も、吾豈に得て諸を食はんや」と。他日又復た政を孔子に問ふ、孔子曰く、「政は財を節するに在り」と。景公説び、将に尼谿の田を以て孔子を封ぜんと欲す。晏嬰進みて曰く、「夫れ儒者は滑稽にして軌法とすべからず。倨傲にして自ら順ひ、以て下と為すべからず。喪を崇び哀を遂げ、産を破りて葬を厚くす、以て俗と為すべからず。游説して乞貸す、以て国を為むべからず。大賢の息みしより、周室既に衰へ、礼楽缺くること間有り。今孔子は容飾を盛んにし、登降の礼、趨詳の節を繁くす、累世も其の学を殫くす能はず、当年も其の礼を究むる能はず。君之を用ひて以て斉の俗を移さんと欲するは、細民に先んずる所以に非ざるなり」と。後、景公敬して孔子に見ゆるも、其の礼を問はず。異日、景公孔子を止めて曰く、「子を奉ずるに季氏を以てするは、吾能はず」と。季・孟の間を以て之を待す。斉の大夫孔子を害せんと欲す、孔子之を聞く。景公曰く、「吾老いたり、用ふる能はざるなり」と。孔子遂に行き、魯に反る。孔子年四十二、魯の昭公乾侯に卒し、定公立つ。定公立ちて五年、夏、季平子卒し、桓子嗣ぎて立つ。季桓子井を穿ちて土缶を得たり、中に羊の若きもの有り、仲尼に問ひて「狗を得たり」と云ふ。仲尼曰く、「丘の聞く所を以てすれば、羊なり。丘之を聞く、木石の怪は夔・罔閬、水の怪は龍・罔象、土の怪は墳羊なりと」と。呉越を伐ち、会稽を墮ち、骨節の車を専らにするを得たり。呉、使をして仲尼に問はしむ、「骨は何者か最も大なる」と。仲尼曰く、「禹、羣神を会稽山に致す、防風氏後れて至る、禹殺して之を戮す、其の節車を専らにす、此を大と為す」と。呉の客曰く、「誰をか神と為す」と。
-
史記 孔子世家夏、衛の霊公卒し、孫輒を立つ、是れを衛の出公と為す。六月、趙鞅太子蒯聵を戚に内る。陽虎、太子をして絻せしめ、八人衰絰し、偽りて衛より迎ふる者として、哭して入り、遂に焉に居る。冬、蔡州来に遷る。是の歳魯の哀公三年にして、孔子年六十なり。斉衛を助けて戚を囲む、衛の太子蒯聵在るの故を以てなり。夏、魯の桓釐の廟燔く、南宮敬叔火を救ふ。孔子陳に在り、之を聞きて曰く、「災は必ず桓釐の廟に於てせんか」と。已にして果たして然り。秋、季桓子病み、輦して魯城を見、喟然として嘆じて曰く、「昔此の国幾ど興らんとす、吾罪を孔子に獲たるを以ての故に、興らざるなり」と。顧みて其の嗣康子に謂ひて曰く、「我即し死せば、若必ず魯に相たれ。魯に相たらば、必ず仲尼を召せ」と。後数日、桓子卒し、康子代はりて立つ。已に葬り、仲尼を召さんと欲す。公之魚曰く、「昔吾が先君之を用ひて終へず、終に諸侯の笑ひと為る。今又之を用ひ、終ふること能はずんば、是れ再び諸侯の笑ひと為らん」と。康子曰く、「則ち誰を召さば可ならん」と。曰く、「必ず冉求を召せ」と。是に於て使をして冉求を召さしむ。冉求将に行かんとす、孔子曰く、「魯人求を召す、之を小用するに非ず、将に之を大用せんとするなり」と。是の日、孔子曰く、「帰らんか帰らんか。吾が党の小子は狂簡、斐然として章を成す、吾之を裁する所以を知らず」と。子貢孔子の帰らんことを思ふを知り、冉求を送り、因りて誡めて曰く「即し用ひられなば、孔子を以て招と為せ」と云ふ。冉求既に去り、明年、孔子陳より蔡に遷る。蔡の昭公将に呉に如かんとす、呉之を召せばなり。前に昭公其の臣を欺きて州来に遷る、後に将に往かんとするに、大夫復た遷らんことを懼れ、公孫翩昭公を射殺す。楚蔡を侵す。秋、斉の景公卒す。明年、孔子蔡より葉に如く。葉公政を問ふ、孔子曰く、「政は遠きを来たし邇きを附くるに在り」と。他日、葉公孔子を子路に問ふ、子路対へず。
-
史記 孔子世家(爾をして財多からしめば、吾爾の宰と為らん」と。是に於て子貢をして楚に至らしむ。楚の昭王師を興して孔子を迎へ、然る後に免るるを得たり。昭王将に書社の地七百里を以て孔子を封ぜんとす。楚の令尹子西曰く、「王の諸侯に使ひせしむるに子貢の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の輔相に顔回の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の将率に子路の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「王の官尹に宰予の如き者有るか」と。曰く、「有る無し」と。「且つ楚の祖は周に封ぜられ、号して子男五十里と為す。今孔丘は三五の法を述べ、周召の業を明らかにす、王若し之を用ひば、則ち楚安んぞ世世堂堂として方数千里なるを得んや。夫れ文王は豊に在り、武王は鎬に在り、百里の君にして卒に天下に王たり。今孔丘土壌に拠るを得、賢弟子佐と為らば、楚の福に非ざるなり」と。昭王乃ち止む。其の秋、楚の昭王城父に卒す。楚の狂接輿歌ひて孔子を過ぎて曰く、「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰へたる。往く者は諫むべからず、来たる者は猶ほ追ふべし。已みなん已みなん、今の政に従ふ者は殆し」と。孔子下り、之と言はんと欲す。趨りて去り、之と言ふを得ず。是に於て孔子楚より衛に反る。是の歳や、孔子年六十三にして、魯の哀公六年なり。其の明年、呉魯と繒に会し、百牢を徴す。太宰嚭季康子を召す。康子子貢をして往かしめ、然る後に已むを得たり。孔子曰く、「魯衛の政は、兄弟なり」と。是の時、衛君輒の父立つを得ず、外に在り、諸侯数々以て譲と為す。而して孔子の弟子多く衛に仕へ、衛君孔子を得て政を為さしめんと欲す。子路曰く、「衛君子を待ちて政を為さば、子将に奚をか先にせん」と。孔子曰く、「必ずや名を正さんか」と。子路曰く、「是れ有るかな、子の迂なるや。何ぞ其れ正さん」と。孔子曰く、「野なるかな由や。
-
史記 孔子世家孔子之を聞きて曰く、「由、爾何ぞ対へて『其の人と為りや、道を学びて倦まず、人を誨へて厭かず、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂ひを忘れ、老いの将に至らんとするを知らず』と曰はざる」と。葉を去り、蔡に反る。長沮・桀溺耦して耕す、孔子以て隠者と為し、子路をして津を問はしむ。長沮曰く、「彼の輿を執る者は誰と為す」と。子路曰く、「孔丘為り」と。曰く、「是れ魯の孔丘か」と。曰く、「然り」と。曰く、「是れならば津を知らん」と。桀溺子路に謂ひて曰く、「子は誰と為す」と。曰く、「仲由為り」と。曰く、「子は孔丘の徒か」と。曰く、「然り」と。桀溺曰く、「悠悠たる者天下皆是れなり、而して誰と以に之を易へん。且つ其の人を辟くるの士に従はんよりは、豈に世を辟くるの士に従ふに若かんや」と。耰して輟めず。子路以て孔子に告ぐ、孔子憮然として曰く、「鳥獣は与に羣を同じくすべからず。天下に道有らば、丘与に易へざるなり」と。他日、子路行きて、荷蓧丈人に遇ふ、曰く、「子夫子を見たるか」と。丈人曰く、「四体勤めず、五穀分かたず、孰をか夫子と為す」と。其の杖を植てて芸る。子路以て告ぐ、孔子曰く、「隠者なり」と。復た往けば、則ち亡し。孔子蔡に遷りて三歳、呉陳を伐つ。楚陳を救ひ、城父に軍す。孔子の陳蔡の間に在るを聞き、楚人をして孔子を聘せしむ。孔子将に往きて拝礼せんとす、陳蔡の大夫謀りて曰く、「孔子は賢者なり、刺譏する所皆諸侯の疾に中る。今者久しく陳蔡の間に留まる、諸大夫の設け行ふ所皆仲尼の意に非ず。今楚は大国なり、来たりて孔子を聘す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る