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徂徠先生答問書 / 卷中

民は習るゝに安んずる物に候。久しく仕習候事は、數代の前生れぬ先より染入候事故、たとひ惡敷事にても勝手宜敷物に候。世界の人は相持なる物にて、彼是融通いたし一つらぬきに候故、年久敷なれ來候事は、方々ねざしひろごり、それに便り候て人の得用も多く候。それを急に改候へば、處々に思ひの外なるかけひづみ出來申候事思慮あるべき儀に候。周公の深く物を思案被成候事書傳に相見え候。聖人の智にてはさも有間敷事に候。殊に開國の初に候へば、御心儘に制作はなり可申にさへ、如是候は如何之儀に候哉。是非を理の儘に御さばき候は、眞の是非にては無御座候。皆手前の物ずきに被成候。畢竟理學の餘習御除不被成候故、御智慧短促に候と存候。此段任御懇意申進候。以上。

新字:民は習るゝに安んずる物に候。久しく仕習候事は、数代の前生れぬ先より染入候事故、たとひ悪敷事にても勝手宜敷物に候。世界の人は相持なる物にて、彼是融通いたし一つらぬきに候故、年久敷なれ来候事は、方々ねざしひろごり、それに便り候て人の得用も多く候。それを急に改候へば、処々に思ひの外なるかけひづみ出来申候事思慮あるべき儀に候。周公の深く物を思案被成候事書伝に相見え候。聖人の智にてはさも有間敷事に候。殊に開国の初に候へば、御心儘に制作はなり可申にさへ、如是候は如何之儀に候哉。是非を理の儘に御さばき候は、真の是非にては無御座候。皆手前の物ずきに被成候。畢竟理学の余習御除不被成候故、御智慧短促に候と存候。此段任御懇意申進候。以上。

書き下し

民は習るゝに安んずる物に候。久しく仕習候事は、数代の前生れぬ先より染入候事故、たとひ悪敷事にても勝手宜敷物に候。世界の人は相持なる物にて、彼是融通いたし一つらぬきに候故、年久敷なれ来候事は、方々ねざしひろごり、それに便り候て人の得用も多く候。それを急に改候へば、処々に思ひの外なるかけひづみ出来申候事思慮あるべき儀に候。周公の深く物を思案被成候事書伝に相見え候。聖人の智にてはさも有間敷事に候。殊に開国の初に候へば、御心儘に制作はなり可申にさへ、如是候は如何之儀に候哉。是非を理の儘に御さばき候は、真の是非にては無御座候。皆手前の物ずきに被成候。畢竟理学の余習御除不被成候故、御智慧短促に候と存候。此段任御懇意申進候。以上。

現代語訳

民は慣れたことに安んずるものです。長く行ってきたことは、何代も前、生まれる前から染み込んだことなので、たとえ悪いことでも勝手がよいものです。世の中の人は互いに持ちつ持たれつで、あれこれ融通し合って一つにつながっていますので、長年慣れてきたことは方々に根を張り広がり、それを頼りにして人の得るところも多いのです。それを急に改めれば、あちこちに思いのほかの欠けや歪みが出てくることを、思慮なさるべきです。周公が深く物事を思案なさったことは、書伝(『尚書』とその伝)に見えます。聖人の智ならそこまでせずともよさそうなことです。ことに開国の初めですから、お心のままに制度を作れたはずなのにさえ、このようであったのはどういうことでしょうか。是非を理屈のままにおさばきになるのは、本当の是非ではございません。みな自分の好みにしているのです。結局は理学(朱子学)の名残をお除きにならないので、お智慧が短く浅いのだと存じます。この段はご懇意に甘えて申し上げます。以上。

解説

民は慣れたことに安らぐもので、長年の慣習は悪いものでも勝手がよい。世の中は持ちつ持たれつで、古い慣行には人々の暮らしが根を張っており、急に改めれば思わぬ所に欠けや歪みが出る。周公ですら開国の時に深く思案したと引き、理屈で是非を裁くのは本当の是非ではなく自分の好みにすぎないと言う。その根に朱子学の理の偏重を見るのが徂徠らしい。制度を変える前に、現場がその慣行に何を頼っているかを確かめよという教えである。

この章句が説くこと

慣習人情改革理学周公政治

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