史記 / 孔子世家
夏,齊大夫黎鉏言於景公曰:「魯用孔丘,其勢危齊。」乃使使告魯為好會,會於夾谷。魯定公且以乘車好往。孔子攝相事,曰:「臣聞有文事者必有武備,有武事者必有文備。古者諸侯出疆,必具官以從。請具左右司馬。」定公曰:「諾。」具左右司馬。會齊侯夾谷,為壇位,土階三等,以會遇之禮相見,揖讓而登。獻酬之禮畢,齊有司趨而進曰:「請奏四方之樂。」景公曰:「諾。」於是旍旄羽袚矛戟劍撥鼓噪而至。孔子趨而進,歷階而登,不盡一等,舉袂而言曰:「吾兩君為好會,夷狄之樂何為於此!請命有司!」有司卻之,不去,則左右視晏子與景公。景公心怍,麾而去之。有頃,齊有司趨而進曰:「請奏宮中之樂。」景公曰:「諾。」優倡侏儒為戲而前。孔子趨而進,歷階而登,不盡一等,曰:「匹夫而營惑諸侯者罪當誅!請命有司!」有司加法焉,手足異處。景公懼而動,知義不若,歸而大恐,告其羣臣曰:「魯以君子之道輔其君,而子獨以夷狄之道敎寡人,使得罪於魯君,為之奈何?」有司進對曰:「君子有過則謝以質,小人有過則謝以文。君若悼之,則謝以質。」於是齊侯乃歸所侵魯之鄆、汶陽、龜陰之田以謝過。定公十三年夏,孔子言於定公曰:「臣無藏甲,大夫毋百雉之城。」
新字:夏,斉大夫黎鉏言於景公曰:「魯用孔丘,其勢危斉。」乃使使告魯為好会,会於夾谷。魯定公且以乗車好往。孔子摂相事,曰:「臣聞有文事者必有武備,有武事者必有文備。古者諸侯出疆,必具官以従。請具左右司馬。」定公曰:「諾。」具左右司馬。会斉侯夾谷,為壇位,土階三等,以会遇之礼相見,揖譲而登。献酬之礼畢,斉有司趨而進曰:「請奏四方之楽。」景公曰:「諾。」於是旍旄羽袚矛戟剣撥鼓噪而至。孔子趨而進,歴階而登,不尽一等,舉袂而言曰:「吾両君為好会,夷狄之楽何為於此!請命有司!」有司却之,不去,則左右視晏子与景公。景公心怍,麾而去之。有頃,斉有司趨而進曰:「請奏宮中之楽。」景公曰:「諾。」優倡侏儒為戯而前。孔子趨而進,歴階而登,不尽一等,曰:「匹夫而営惑諸侯者罪当誅!請命有司!」有司加法焉,手足異処。景公懼而動,知義不若,帰而大恐,告其羣臣曰:「魯以君子之道輔其君,而子独以夷狄之道教寡人,使得罪於魯君,為之奈何?」有司進対曰:「君子有過則謝以質,小人有過則謝以文。君若悼之,則謝以質。」於是斉侯乃帰所侵魯之鄆、汶陽、亀陰之田以謝過。定公十三年夏,孔子言於定公曰:「臣無蔵甲,大夫毋百雉之城。」
書き下し
夏、斉の大夫黎鉏景公に言ひて曰く、「魯孔丘を用ふ、其の勢斉を危ふくす」と。乃ち使をして魯に告げしめて好会を為し、夾谷に会す。魯の定公且に乗車を以て好しく往かんとす。孔子相の事を摂し、曰く、「臣聞く、文事有る者は必ず武備有り、武事有る者は必ず文備有りと。古は諸侯疆を出づれば、必ず官を具へて以て従ふ。請ふ左右の司馬を具へん」と。定公曰く、「諾」と。左右の司馬を具ふ。斉侯に夾谷に会し、壇位を為る、土階三等、会遇の礼を以て相見え、揖譲して登る。献酬の礼畢はり、斉の有司趨りて進みて曰く、「請ふ四方の楽を奏せん」と。景公曰く、「諾」と。是に於て旍旄羽袚矛戟剣撥、鼓噪して至る。孔子趨りて進み、階を歴て登り、一等を尽くさず、袂を挙げて言ひて曰く、「吾が両君好会を為す、夷狄の楽何為れぞ此に於てする。請ふ有司に命ぜよ」と。有司之を卻くるも、去らず、則ち左右晏子と景公とを視る。景公心に怍ぢ、麾きて之を去らしむ。頃有りて、斉の有司趨りて進みて曰く、「請ふ宮中の楽を奏せん」と。景公曰く、「諾」と。優倡侏儒戯を為して前む。孔子趨りて進み、階を歴て登り、一等を尽くさず、曰く、「匹夫にして諸侯を営惑する者は罪誅に当たる。請ふ有司に命ぜよ」と。有司法を加へ、手足処を異にす。景公懼れて動き、義の若かざるを知り、帰りて大いに恐れ、其の羣臣に告げて曰く、「魯は君子の道を以て其の君を輔く、而るに子は独り夷狄の道を以て寡人に教へ、罪を魯君に得しむ、之を為すこと奈何」と。有司進み対へて曰く、「君子は過ち有れば則ち謝するに質を以てし、小人は過ち有れば則ち謝するに文を以てす。君若し之を悼まば、則ち謝するに質を以てせよ」と。是に於て斉侯乃ち侵す所の魯の鄆・汶陽・亀陰の田を帰して以て過ちを謝す。定公十三年夏、孔子定公に言ひて曰く、「臣は甲を蔵すること無く、大夫は百雉の城毋し」と。
現代語訳
夏、斉の大夫黎鉏(れいしょ)が景公に言った。「魯が孔丘を用いている。その勢いは斉を危うくするだろう」。そこで使者を遣わして魯に友好の会合を申し入れ、夾谷(きょうこく)で会することになった。魯の定公は兵車ではなく普通の乗用の車で友好的に出かけようとした。孔子は宰相の職務を代行して言った。「文の事(外交)を行う者は必ず武の備えをし、武の事を行う者は必ず文の備えをすると聞いている。昔は諸侯が国境を出るときには、必ず役人をそろえて随行させました。どうか左右の司馬(軍事の官)をお連れいただきたい」。定公は「よかろう」と言い、左右の司馬をそろえた。夾谷で斉侯と会し、壇を設けて席を定め、土の階段は三段、会見の礼をもって対面し、会釈し譲り合って壇に登った。杯を献じ合う礼が終わると、斉の役人が小走りに進み出て言った。「四方の音楽を演奏させていただきたい」。景公が「よかろう」と言うと、旗や羽飾り、矛・戟・剣・大盾を持った者たちが太鼓を打ち鳴らし、どっと押し寄せてきた。孔子は小走りに進み出て、階段を一段ずつ登り、最上段の一つ手前で止まり、袂を挙げて言った。「わが二人の君主が友好の会合をしているのに、夷狄の音楽をここで奏でるとは何事か。どうか役人に命じて(下がらせて)いただきたい」。役人が退けようとしたが彼らは去らず、左右の者は晏子と景公の顔色をうかがった。景公は内心恥じ入り、手を振って去らせた。しばらくすると、斉の役人がまた小走りに進み出て言った。「宮中の音楽を演奏させていただきたい」。景公が「よかろう」と言うと、俳優や小人の芸人が戯れながら前へ出てきた。孔子は小走りに進み出て、階段を登り、最上段の一つ手前で止まって言った。「身分の卑しい者が諸侯をたぶらかすのは、死罪に当たる。どうか役人に命じていただきたい」。役人が刑を加え、芸人たちは手足をばらばらにされた。景公は恐れおののき、道義において魯に及ばないことを悟った。帰国すると大いに恐れ、群臣に告げて言った。「魯は君子の道で君主を補佐しているのに、お前たちはひとり夷狄の道をわしに教え、魯の君主に対して罪を犯させた。どうしたらよいのか」。役人が進み出て答えた。「君子は過ちを犯すと実のあるもので謝り、小人は過ちを犯すと言葉を飾って謝るもの。殿がもしこれを悔やまれるなら、実のあるもので謝罪なさるべきだ」。そこで斉侯は、かつて侵し取った魯の鄆(うん)・汶陽(ぶんよう)・亀陰(きいん)の田地を返して過ちを詫びた。定公十三年の夏、孔子は定公に言った。「家臣は武具を私蔵してはならず、大夫は百雉(ひゃくち、城壁の一定の規模)の城を持ってはならないのが決まりである」。
解説
関連する章句
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孔子家語・相魯司空より魯の大司寇と為る。法を設けて用いず、奸民無し。定公斉侯と夾谷に会す。孔子相の事を摂して曰く、「臣聞く、文事有る者は必ず武備有り。武事有る者は必ず文備有り、と。古は諸侯疆を出づるに、必ず官を具えて以て従う。請う左右の司馬を具えん。」定公之に従う。会する所に至りて壇を為り、土階三等、遇礼を以て相見う。揖譲して登り、献酢既に畢りて、斉萊人を使い兵を以て鼓譟して定公を劫かす。孔子階を歴て進み、公を以て退き、曰く、「士、之を兵せよ。吾が両君好を為すに、裔夷の俘、敢えて兵を以て之を乱す、斉君の諸侯に命ずる所以に非ざるなり。裔は夏を謀らず、夷は華を乱さず、俘は盟を干さず、兵は好を偪めず。神に於て不祥と為し、徳に於て愆義と為し、人に於て失礼と為す。君必ず然らず。」斉侯心怍じ、麾きて之を避けしむ。頃有りて、斉宮中の楽を奏し、俳優侏儒前に戯る。孔子趨り進みて階を歴て上り、一等を尽くさずして曰く、「匹夫諸侯を熒侮する者は、罪誅に応ず。請う右司馬速やかに焉を刑せよ。」是に於て侏儒を斬り、手足処を異にす。斉侯懼れ、慚色有り。将に盟わんとするに、斉人載書を加えて曰く、「斉師境を出づるに、兵車三百乗を以て我に従わざる者は、此の盟の如き有らん。」孔子茲無還をして対えしめて曰く、「而も我が汶陽の田を返さずして、吾以て命に供せしめば、亦た之の如くせん。」斉侯将に享礼を設けんとす。孔子梁丘拠に謂いて曰く、「斉魯の故、吾子何ぞ聞かざる。事既に成れり。而して又之を享す、是れ執事を勤しますなり。且つ犠象は門を出でず、嘉楽は野に合わせず。享して既に具われば、是れ礼を棄つるなり。若し其れ具わらざれば、是れ秕稗を用うるなり。秕稗を用うれば、君辱められ、礼を棄つれば、名悪し。子盍ぞ之を図らざる。夫れ享は、徳を昭らかにする所以なり。昭らかならずんば、其れ已むに如かず。」乃ち果たさずして享せず。斉侯帰りて、其の群臣を責めて曰く、「魯は君子の道を以て其の君を輔け、而して子独り夷狄の道を以て寡人に教え、罪を得しむ。」是に於て乃ち侵す所の魯の四邑、及び汶陽の田を帰す。
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史記 斉太公世家田氏は大徳無しと雖も、公権を以て私し、民に徳有り、民之を愛す」と。十二年、景公晋に如き、平公に見え、与に燕を伐たんと欲す。十八年、公復た晋に如き、昭公に見ゆ。二十六年、魯の郊に猟し、因りて魯に入り、晏嬰と倶に魯の礼を問ふ。三十一年、魯の昭公、季氏の難を辟け、斉に奔る。斉、千社を以て之を封ぜんと欲す。子家、昭公を止む。昭公乃ち斉に請ひて魯を伐ち、鄆を取りて以て昭公を居らしむ。三十二年、彗星見はる。景公、柏寝に坐し、嘆じて曰く、「堂堂たり。誰か此を有たんや」と。群臣皆泣く。晏子笑ふ。公怒る。晏子曰く、「臣は群臣の諛ふこと甚だしきを笑ふ」と。景公曰く、「彗星東北に出で、斉の分野に当る。寡人以て憂と為す」と。晏子曰く、「君は台を高くし池を深くし、賦斂は得ざるが如くし、刑罰は勝へざるを恐る。茀星将に出でんとす。彗星何ぞ懼れんや」と。公曰く、「禳ふ可きや否や」と。晏子曰く、「神をして祝して来らしむ可くんば、亦禳ひて去らしむ可きなり。百姓の苦怨するもの万を以て数ふ。而るに君一人をして之を禳はしむ。安んぞ能く衆口に勝たんや」と。是の時、景公好んで宮室を治め、狗馬を聚め、奢侈にして、賦を厚くし刑を重くす。故に晏子此を以て之を諫む。四十二年、呉王闔閭、楚を伐ちて郢に入る。四十七年、魯の陽虎、其の君を攻むるも、勝たず、斉に奔り、斉に魯を伐たんことを請ふ。鮑子、景公を諫め、乃ち陽虎を囚ふ。陽虎亡ぐるを得て、晋に奔る。四十八年、魯の定公と夾谷に好会す。犁鉏曰く、「孔丘は礼を知れども怯なり。請ふ萊人をして楽を為さしめ、因りて魯君を執へば、志を得可し」と。景公、孔丘の魯に相たるを害とし、其の覇たらんことを懼る。故に犁鉏の計に従ふ。方に会するや、萊の楽を進む。孔子階を歴て上り、有司をして萊人を執へて之を斬らしめ、礼を以て景公を譲む。景公慚ぢ、乃ち魯の侵地を帰して以て謝し、罷め去る。是の歳、晏嬰卒す。五十五年、范・中行、其の君に晋に反す。晋之を攻むること急なり。来りて粟を請ふ。
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史記 孔子世家斉の太師と楽を語り、韶の音を聞きて之を学ぶ、三月肉の味を知らず、斉人之を称す。景公政を孔子に問ふ、孔子曰く、「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」と。景公曰く、「善いかな。信に如し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟有りと雖も、吾豈に得て諸を食はんや」と。他日又復た政を孔子に問ふ、孔子曰く、「政は財を節するに在り」と。景公説び、将に尼谿の田を以て孔子を封ぜんと欲す。晏嬰進みて曰く、「夫れ儒者は滑稽にして軌法とすべからず。倨傲にして自ら順ひ、以て下と為すべからず。喪を崇び哀を遂げ、産を破りて葬を厚くす、以て俗と為すべからず。游説して乞貸す、以て国を為むべからず。大賢の息みしより、周室既に衰へ、礼楽缺くること間有り。今孔子は容飾を盛んにし、登降の礼、趨詳の節を繁くす、累世も其の学を殫くす能はず、当年も其の礼を究むる能はず。君之を用ひて以て斉の俗を移さんと欲するは、細民に先んずる所以に非ざるなり」と。後、景公敬して孔子に見ゆるも、其の礼を問はず。異日、景公孔子を止めて曰く、「子を奉ずるに季氏を以てするは、吾能はず」と。季・孟の間を以て之を待す。斉の大夫孔子を害せんと欲す、孔子之を聞く。景公曰く、「吾老いたり、用ふる能はざるなり」と。孔子遂に行き、魯に反る。孔子年四十二、魯の昭公乾侯に卒し、定公立つ。定公立ちて五年、夏、季平子卒し、桓子嗣ぎて立つ。季桓子井を穿ちて土缶を得たり、中に羊の若きもの有り、仲尼に問ひて「狗を得たり」と云ふ。仲尼曰く、「丘の聞く所を以てすれば、羊なり。丘之を聞く、木石の怪は夔・罔閬、水の怪は龍・罔象、土の怪は墳羊なりと」と。呉越を伐ち、会稽を墮ち、骨節の車を専らにするを得たり。呉、使をして仲尼に問はしむ、「骨は何者か最も大なる」と。仲尼曰く、「禹、羣神を会稽山に致す、防風氏後れて至る、禹殺して之を戮す、其の節車を専らにす、此を大と為す」と。呉の客曰く、「誰をか神と為す」と。
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