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史記 / 孔子世家

仲尼曰:「山川之神足以綱紀天下,其守為神,社稷為公侯,皆屬於王者。」客曰:「防風何守?」仲尼曰:「汪罔氏之君守封、禺之山,為釐姓。在虞、夏、商為汪罔,於周為長翟,今謂之大人。」客曰:「人長幾何?」仲尼曰:「僬僥氏三尺,短之至也。長者不過十之,數之極也。」於是吳客曰:「善哉聖人!」桓子嬖臣曰仲梁懷,與陽虎有隙。陽虎欲逐懷,公山不狃止之。其秋,懷益驕,陽虎執懷。桓子怒,陽虎因囚桓子,與盟而醳之。陽虎由此益輕季氏。季氏亦僭於公室,陪臣執國政,是以魯自大夫以下皆僭離於正道。故孔子不仕,退而脩詩書禮樂,弟子彌衆,至自遠方,莫不受業焉。定公八年,公山不狃不得意於季氏,因陽虎為亂,欲廢三桓之適,更立其庶孽陽虎素所善者,遂執季桓子。桓子詐之,得脫。定公九年,陽虎不勝,奔于齊。是時孔子年五十。公山不狃以費畔季氏,使人召孔子。孔子循道彌久,溫溫無所試,莫能己用,曰:「蓋周文武起豐鎬而王,今費雖小,儻庶幾乎!」欲往。子路不說,止孔子。孔子曰:「夫召我者豈徒哉?如用我,其為東周乎!」然亦卒不行。其後定公以孔子為中都宰,一年,四方皆則之。由中都宰為司空,由司空為大司寇。定公十年春,及齊平。

新字:仲尼曰:「山川之神足以綱紀天下,其守為神,社稷為公侯,皆属於王者。」客曰:「防風何守?」仲尼曰:「汪罔氏之君守封、禺之山,為釐姓。在虞、夏、商為汪罔,於周為長翟,今謂之大人。」客曰:「人長幾何?」仲尼曰:「僬僥氏三尺,短之至也。長者不過十之,数之極也。」於是呉客曰:「善哉聖人!」桓子嬖臣曰仲梁懐,与陽虎有隙。陽虎欲逐懐,公山不狃止之。其秋,懐益驕,陽虎執懐。桓子怒,陽虎因囚桓子,与盟而醳之。陽虎由此益軽季氏。季氏亦僭於公室,陪臣執国政,是以魯自大夫以下皆僭離於正道。故孔子不仕,退而脩詩書礼楽,弟子弥衆,至自遠方,莫不受業焉。定公八年,公山不狃不得意於季氏,因陽虎為乱,欲廃三桓之適,更立其庶孽陽虎素所善者,遂執季桓子。桓子詐之,得脱。定公九年,陽虎不勝,奔于斉。是時孔子年五十。公山不狃以費畔季氏,使人召孔子。孔子循道弥久,温温無所試,莫能己用,曰:「蓋周文武起豊鎬而王,今費雖小,儻庶幾乎!」欲往。子路不説,止孔子。孔子曰:「夫召我者豈徒哉?如用我,其為東周乎!」然亦卒不行。其後定公以孔子為中都宰,一年,四方皆則之。由中都宰為司空,由司空為大司寇。定公十年春,及斉平。

書き下し

仲尼曰く、「山川の神は以て天下を綱紀するに足る、其の守を神と為し、社稷を公侯と為す、皆王者に属す」と。客曰く、「防風は何をか守る」と。仲尼曰く、「汪罔氏の君、封・禺の山を守り、釐姓たり。虞・夏・商に在りては汪罔と為し、周に於ては長翟と為し、今之を大人と謂ふ」と。客曰く、「人の長は幾何ぞ」と。仲尼曰く、「僬僥氏は三尺、短の至りなり。長き者も之に十するに過ぎず、数の極みなり」と。是に於て呉の客曰く、「善いかな聖人」と。桓子の嬖臣を仲梁懐と曰ふ、陽虎と隙有り。陽虎懐を逐はんと欲す、公山不狃之を止む。其の秋、懐益々驕る、陽虎懐を執ふ。桓子怒る、陽虎因りて桓子を囚へ、与に盟ひて之を醳す。陽虎此に由りて益々季氏を軽んず。季氏も亦た公室に僭し、陪臣国政を執る、是を以て魯は大夫より以下皆正道より僭離す。故に孔子仕へず、退きて詩書礼楽を脩む、弟子弥々衆く、遠方より至り、業を受けざる莫し。定公八年、公山不狃季氏に意を得ず、陽虎に因りて乱を為し、三桓の適を廃し、更に其の庶孽の陽虎素より善くする所の者を立てんと欲し、遂に季桓子を執ふ。桓子之を詐り、脱するを得たり。定公九年、陽虎勝たず、斉に奔る。是の時孔子年五十。公山不狃費を以て季氏に畔き、人をして孔子を召さしむ。孔子道に循ふこと弥々久しく、温温として試みらるる所無く、能く己を用ふる莫し、曰く、「蓋し周の文・武は豊・鎬より起こりて王たり、今費は小なりと雖も、儻くは庶幾からんか」と。往かんと欲す。子路説ばず、孔子を止む。孔子曰く、「夫れ我を召す者は豈に徒ならんや。如し我を用ひば、其れ東周を為さんか」と。然れども亦た卒に行かず。其の後定公孔子を以て中都の宰と為す、一年にして、四方皆之に則る。中都の宰より司空と為り、司空より大司寇と為る。定公十年春、斉と平らぐ。

現代語訳

仲尼は言った。「山川の神は天下の秩序を保つ力をもっている。その山川を守って祭る者を神といい、国の社稷(土地と穀物の神)を守る者を公侯という。いずれも王者に属するのだ」。客は言った。「防風氏は何を守っていたのか」。仲尼は言った。「汪罔(おうもう)氏の君主で、封山と禺山を守っており、姓は釐(き)であった。虞・夏・商の時代には汪罔といい、周では長翟(ちょうてき)といい、今は大人(たいじん)と呼んでいる」。客は言った。「人の背丈はどれほどまであるものか」。仲尼は言った。「僬僥(しょうぎょう)氏は三尺で、これが背の低さの極みだ。高い者もその十倍を超えることはありません。これが数の極限だ」。そこで呉の客は言った。「すばらしい、聖人だ」。季桓子の寵臣に仲梁懐(ちゅうりょうかい)という者がおり、陽虎と仲が悪かった。陽虎は懐を追い出そうとしたが、公山不狃(こうざんふちゅう)が止めた。その秋、懐はますます驕ったので、陽虎は懐を捕らえた。桓子が怒ると、陽虎はそれに乗じて桓子を監禁し、盟約を結ばせてから釈放した。陽虎はこれ以来いっそう季氏を軽んじた。季氏もまた公室(魯の君主家)をしのいで分を越え、陪臣(家老の家臣)が国政を握っていた。こうして魯では大夫以下がみな正道から外れていた。だから孔子は仕官せず、退いて詩・書・礼・楽を修め、弟子はますます増え、遠方からもやって来て、みな教えを受けた。定公八年、公山不狃は季氏のもとで思いどおりにならず、陽虎と組んで乱を起こし、三桓(季孫・叔孫・孟孫の三家)の嫡子を廃して、陽虎がかねて親しくしていた庶子を代わりに立てようとし、ついに季桓子を捕らえた。桓子は彼らを欺いて逃れた。定公九年、陽虎は敗れて斉に逃げた。このとき孔子は五十歳であった。公山不狃は費(ひ)の邑に拠って季氏に背き、人を遣わして孔子を招いた。孔子は道を修めて久しく、穏やかにしていたが力を試す場がなく、誰も自分を用いてくれなかった。そこで言った。「周の文王・武王は豊・鎬(ほう・こう)という小さな地から起こって王者となった。いま費は小さいとはいえ、あるいはそれに近いことができるかもしれない」。そして行こうとした。子路は不満で、孔子を止めた。孔子は言った。「私を招く者が、どうして何の考えもなしに招くものか。もし私を用いてくれるなら、東方に周の道を再興してみせよう」。しかし結局は行かなかった。その後、定公は孔子を中都(ちゅうと)の宰(長官)とした。一年で四方の者がみなこれを手本とした。中都の宰から司空となり、司空から大司寇(司法の長官)となった。定公十年の春、魯は斉と和睦した。

解説

前半は呉の使者との問答の続きで、孔子の博識ぶりが示されます。後半で舞台は魯の内政へ。主君の定公をしのぐ季氏、さらにその家臣の陽虎が季氏を監禁するという、下克上の連鎖が描かれます。孔子はこうした乱れた政権には仕えず、学問と教育に専念しました。ところが反乱を起こした公山不狃に招かれると、孔子は「小さな地からでも理想の政治を始められるかもしれない」と心を動かし、子路に止められます。聖人らしからぬ焦りを司馬遷は隠さず書いています。結局、定公に中都の宰として登用され、一年で模範となる成果を出し、大司寇にまで昇進しました。力を発揮する場がない時期の焦りと、機会が来たときの結果の出し方。キャリアの停滞期の過ごし方を考えさせます。

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