史記 / 田敬仲完世家
君王后死,后勝相齊,多受秦閒金,多使賓客入秦,秦又多予金,客皆爲反閒,勸王去從朝秦,不修攻戰之備,不助五國攻秦,秦以故得滅五國。五國已亡,秦兵卒入臨淄,民莫敢格者。王建遂降,遷於共。故齊人怨王建不蚤與諸侯合從攻秦,聽姦臣賓客以亡其國,歌之曰:「松耶柏耶?住建共者客耶?」疾建用客之不詳也。太史公曰:蓋孔子晩而喜易。易之爲術,幽明遠矣,非通人達才孰能注意焉!筆周太史之卦田敬仲完,占至十世之後;及完奔齊,懿仲卜之亦云。田乞及常所以比犯二君,專齊國之政,非必事勢之漸然也,蓋若遵厭兆祥云。
新字:君王后死,后勝相斉,多受秦閒金,多使賓客入秦,秦又多予金,客皆為反閒,勧王去従朝秦,不修攻戦之備,不助五国攻秦,秦以故得滅五国。五国已亡,秦兵卒入臨淄,民莫敢格者。王建遂降,遷於共。故斉人怨王建不蚤与諸侯合従攻秦,聴姦臣賓客以亡其国,歌之曰:「松耶柏耶?住建共者客耶?」疾建用客之不詳也。太史公曰:蓋孔子晩而喜易。易之為術,幽明遠矣,非通人達才孰能注意焉!筆周太史之卦田敬仲完,占至十世之後;及完奔斉,懿仲卜之亦云。田乞及常所以比犯二君,専斉国之政,非必事勢之漸然也,蓋若遵厭兆祥云。
書き下し
君王后死し、后勝斉に相たり。多く秦の閒金を受け、多く賓客をして秦に入らしむ。秦又多く金を予ふ。客皆反閒と為り、王に勧めて従を去りて秦に朝せしめ、攻戦の備へを修めず、五国を助けて秦を攻めず。秦故を以て五国を滅ぼすことを得たり。五国已に亡び、秦の兵卒に臨淄に入る。民敢へて格む者莫し。王建遂に降り、共に遷さる。故に斉人、王建の蚤く諸侯と合従して秦を攻めず、姦臣賓客に聴きて以て其の国を亡ぼせしを怨み、之を歌ひて曰く、「松か柏か、建を共に住めしむる者は客か」と。建の客を用ふることの詳ならざるを疾むなり。太史公曰く、蓋し孔子晩にして易を喜ぶ。易の術為る、幽明遠し。通人達才に非ずんば孰か能く意を注がんや。筆周の太史の田敬仲完を卦し、占ひ十世の後に至る。完の斉に奔るに及び、懿仲之を卜するも亦云ふ。田乞及び常の比りに二君を犯し、斉国の政を専らにせし所以は、必ずしも事勢の漸く然るに非ず。蓋し兆祥に遵ひ厭くが若しと云ふ。
現代語訳
君王后が死ぬと、后勝が斉の宰相となった。后勝は秦の間者から多くの金を受け取り、多くの食客を秦に行かせた。秦はその食客たちにもまた多くの金を与えた。食客たちはみな秦のための間者となって、王に合従をやめて秦に入朝するよう勧め、戦いの備えを整えさせず、五か国を助けて秦を攻めさせなかった。秦はそのために五か国を滅ぼすことができた。五か国がすでに滅びると、秦の兵はついに臨淄に入ったが、民で立ち向かう者はいなかった。王建はついに降伏し、共に移された。そのため斉の人々は、王建が早くから諸侯と合従して秦を攻めず、奸臣や食客の言葉に従って国を滅ぼしたことを恨み、こう歌った。「松の林か、柏の林か。建を共に住まわせたのは、あの食客どもか」。建が食客を用いるのに慎重でなかったことを憎んだのである。太史公(司馬遷)は言う。孔子は晩年に易を好んだ。易という術は、見えないものと見えるものとの深い道理に通じ、はるか先まで見通すものである。見識の広い人や優れた才能を持つ人でなければ、誰がその意味を心に留められようか。周の太史は田敬仲完のために卦を立て、その占いは十代の後にまで及んだ。完が斉に亡命したとき、懿仲が占ったときもまた同じことを言っていた。田乞と田常が相次いで二人の君主を犯して殺し、斉の国政を独占したのは、必ずしも情勢が次第にそうなったというだけではなく、どうやら吉兆に従い、それを成就させたようなものだという。
解説
関連する章句
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戦国策・齊王建入朝於秦齊王建秦に入朝するに、雍門司馬前みて曰く、「王を立つる所以の者は、社稷の為なりや、王の為に王を立つるや」と。王曰く、「社稷の為なり」と。司馬曰く、「社稷の為に王を主とす、王何を以て社稷を去りて秦に入るか」と。齊王車を還して反る。即墨の大夫と雍門司馬と諫めて之を聴かしめんとし、則ち以て可と為して謀を為すべしとし、即ち入りて齊王に見えて曰く、「齊地方数千里、帯甲数百万。夫れ三晋の大夫は、皆秦を便とせず、而して阿・鄄の間に在る者百数、王収めて之に百万の衆を与え、三晋の故地を収めしめば、即ち臨晋の関入るべし。鄢・郢の大夫は、秦の為にせんと欲せず、而して城南下に在る者百数、王収めて之に百万の師を与え、楚の故地を収めしめば、即ち武関入るべし。此くの如くんば、則ち齊の威立つべく、秦国亡ぼすべし。夫れ南面の称制を舎てて、乃ち西面して秦に事うるは、大王の取らざる所と為すなり」と。齊王聴かず。秦陳馳をして齊王を誘いて之を内れしめ、約するに五百里の地を以てす。齊王即墨の大夫を聴かずして陳馳を聴き、遂に秦に入る。之を共の松柏の間に処き、餓えて死す。是より先、齊之が為に歌いて曰く、「松か、柏か、建を共に住まらしむる者は、客か」と。
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史記 田敬仲完世家十四年、秦我が剛寿を撃つ。十九年、襄王卒し、子建立つ。王建立ちて六年、秦趙を攻む。斉・楚之を救ふ。秦計りて曰く、「斉・楚趙を救ふ。親しまば則ち兵を退け、親しまずんば遂に之を攻めん」と。趙食無く、粟を斉に請ふ。斉聴かず。周子曰く、「之を聴きて以て秦の兵を退くるに如かず。聴かずんば則ち秦の兵卻かず。是れ秦の計中りて斉・楚の計過つなり。且つ趙の斉・楚に於けるや、捍蔽なり。猶ほ歯の脣有るがごとし。脣亡ぶれば則ち歯寒し。今日趙を亡ぼさば、明日患ひ斉・楚に及ばん。且つ趙を救ふの務めは、宜しく漏甕を奉じて焦釜に沃ぐが若くすべし。夫れ趙を救ふは、高義なり。秦の兵を卻くるは、顕名なり。義もて亡国を救ひ、威もて彊秦の兵を卻く。此を為すを務めずして粟を愛しむを務むるは、国の為に計る者過てり」と。斉王聴かず。秦趙を長平に破ること四十余万、遂に邯鄲を囲む。十六年、秦周を滅ぼす。君王后卒す。二十三年、秦東郡を置く。二十八年、王入りて秦に朝す。秦王政酒を咸陽に置く。三十五年、秦韓を滅ぼす。三十七年、秦趙を滅ぼす。三十八年、燕荊軻をして秦王を刺さしむ。秦王覚り、軻を殺す。明年、秦燕を破る。燕王亡げて遼東に走る。明年、秦魏を滅ぼす。秦の兵歴下に次る。四十二年、秦楚を滅ぼす。明年、代王嘉を虜にし、燕王喜を滅ぼす。四十四年、秦の兵斉を撃つ。斉王相后勝の計を聴き、戦はずして、兵を以て秦に降る。秦王建を虜にし、之を共に遷す。遂に斉を滅ぼして郡と為す。天下壱に秦に并せられ、秦王政号を立てて皇帝と為る。始め、君王后賢にして、秦に事ふること謹み、諸侯と信あり。斉も亦東のかた海上に辺す。秦日夜三晋・燕・楚を攻め、五国各々自ら秦より救ふ。故を以て王建立ちて四十余年兵を受けず。
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史記 田敬仲完世家宣公四十三年、晋を伐ち、黄城を毀ち、陽狐を囲む。明年、魯・葛及び安陵を伐つ。明年、魯の一城を取る。荘子卒し、子太公和立つ。田太公斉の宣公に相たり。宣公四十八年、魯の城を取る。明年、宣公鄭人と西城に会す。衛を伐ち、毋丘を取る。宣公五十一年に卒す。田会廩丘より反す。宣公卒し、子康公貸立つ。貸立ちて十四年、酒・婦人に淫し、政を聴かず。太公乃ち康公を海上に遷し、一城を食ましめ、以て其の先祀を奉ぜしむ。明年、魯斉を平陸に敗る。三年、太公魏の文侯と濁沢に会し、諸侯と為らんことを求む。魏の文侯乃ち使をして周の天子及び諸侯に言はしめ、斉の相田和を立てて諸侯と為さんことを請ふ。周の天子之を許す。康公の十九年、田和立ちて斉侯と為り、周室に列し、元年を紀す。斉侯太公和立ちて二年、和卒し、子桓公午立つ。桓公午五年、秦・魏韓を攻む。韓救ひを斉に求む。斉の桓公大臣を召して謀りて曰く、「蚤く之を救ふと晩く之を救ふと孰れぞ」と。騶忌曰く、「救ふこと勿きに若かず」と。段干朋曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。之を救ふに若かず」と。田臣思曰く、「過てり君の謀や。秦・魏韓・楚を攻めば、趙必ず之を救はん。是れ天燕を以て斉に予ふるなり」と。桓公曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓自ら以為へらく斉の救ひを得たりと。因りて秦・魏と戦ふ。楚・趙之を聞き、果たして兵を起こして之を救ふ。斉因りて兵を起こして燕国を襲ひ、桑丘を取る。六年、衛を救ふ。桓公卒し、子威王因斉立つ。是の歳、故の斉の康公卒し、絶えて後無し。奉邑皆田氏に入る。斉の威王元年、三晋斉の喪に因りて来りて我が霊丘を伐つ。三年、三晋晋の後を滅ぼして其の地を分つ。六年、魯我を伐ち、陽関に入る。晋我を伐ち、博陵に至る。七年、衛我を伐ち、薛陵を取る。九年、趙我を伐ち、甄を取る。威王初めて位に即きて以来、治めず、政を卿大夫に委ぬ。九年の閒、諸侯并びに伐ち、国人治まらず。
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史記 田敬仲完世家願はくは王孰く之を慮れ」と。是に於て斉帝を去りて復た王と為る。秦も亦帝位を去る。三十八年、宋を伐つ。秦の昭王怒りて曰く、「吾の宋を愛するは新城・陽晋を愛すると同じ。韓聶は吾と友なり。而るに吾の愛する所を攻む。何ぞや」と。蘇代斉の為に秦王に謂ひて曰く、「韓聶の宋を攻むるは、王の為にする所以なり。斉彊くして、之を輔くるに宋を以てせば、楚・魏必ず恐れん。恐るれば必ず西のかた秦に事へん。是れ王一兵を煩はさず、一士を傷つけずして、事無くして安邑を割くなり。此れ韓聶の王に禱る所なり」と。秦王曰く、「吾斉の知り難きを患ふ。一は従し一は衡す。其の説何ぞや」と。対へて曰く、「天下の国斉をして知るべからしめんや。斉以て宋を攻むるは、其の秦に事ふるに万乗の国を以て自ら輔くるを知ればなり。西のかた秦に事へずんば則ち宋治安からず。中国の白頭游敖の士、皆智を積みて斉・秦の交はりを離さんと欲す。式に伏し軼を結びて西に馳する者、未だ一人も斉を善しと言ふ者有らざるなり。式に伏し軼を結びて東に馳する者、未だ一人も秦を善しと言ふ者有らざるなり。何となれば、皆斉・秦の合するを欲せざればなり。何ぞ晋・楚の智にして斉・秦の愚なるや。晋・楚合せば必ず斉・秦を議し、斉・秦合せば必ず晋・楚を図らん。請ふ此を以て事を決せよ」と。秦王曰く、「諾」と。是に於て斉遂に宋を伐つ。宋王出でて亡げ、温に死す。斉南のかた楚の淮北を割き、西のかた三晋を侵し、以て周室を并せて天子と為らんと欲す。泗上の諸侯鄒・魯の君皆臣と称す。諸侯恐懼す。三十九年、秦来り伐ち、我が列城九を抜く。四十年、燕・秦・楚・三晋合謀し、各々鋭師を出だして以て伐ち、我を済西に敗る。王解けて卻く。燕の将楽毅遂に臨淄に入り、尽く斉の宝蔵器を取る。湣王出でて亡げ、衛に之く。衛君宮を辟けて之を捨らしめ、臣と称して具を共す。湣王遜らず。衛人之を侵す。湣王去り、鄒・魯に走る。驕色有り。鄒・魯の君内れず。遂に莒に走る。
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史記 田敬仲完世家簡公、婦人と檀台に飲み、将に田常を撃たんと欲す。太史子余曰く、「田常敢へて乱を為すに非ず。将に害を除かんとするなり」と。簡公乃ち止む。田常出で、簡公の怒るを聞き、誅せられんことを恐れ、将に出でて亡げんとす。田子行曰く、「需つは、事の賊なり」と。田常是に於て子我を撃つ。子我其の徒を率ゐて田氏を攻むれども、勝たず、出でて亡ぐ。田氏の徒追ひて子我及び監止を殺す。簡公出でて奔る。田氏の徒追ひて簡公を徐州に執ふ。簡公曰く、「蚤く御鞅の言に従はば、此の難に及ばざりしに」と。田氏の徒、簡公の復た立ちて己を誅せんことを恐れ、遂に簡公を殺す。簡公立ちて四年にして殺さる。是に於て田常、簡公の弟驁を立つ、是を平公と為す。平公位に即き、田常相と為る。田常既に簡公を殺し、諸侯の共に己を誅せんことを懼れ、乃ち尽く魯・衛の侵地を帰し、西のかた晋の韓・魏・趙氏と約し、南のかた呉・越の使を通じ、功を修め賞を行ひ、百姓に親しむ。故を以て斉復た定まる。田常、斉の平公に言ひて曰く、「徳施は人の欲する所なり。君其れ之を行へ。刑罰は人の悪む所なり。臣請ふ之を行はん」と。之を行ふこと五年、斉国の政皆田常に帰す。田常是に於て尽く鮑・晏・監止及び公族の彊き者を誅し、而して斉の安平より以東瑯邪に至るまでを割きて、自ら封邑と為す。封邑は平公の食む所より大なり。田常乃ち斉国中の女子の長七尺以上なるを選びて後宮と為す。後宮百を以て数ふ。而して賓客舎人をして後宮に出入せしむる者禁ぜず。田常の卒するに及び、七十余男有り。田常卒し、子襄子盤代はりて立ち、斉に相たり。常諡して成子と為す。田襄子既に斉の宣公に相たり。三晋知伯を殺し、其の地を分つ。襄子其の兄弟宗人をして尽く斉の都邑の大夫と為らしめ、三晋と使を通じ、且に以て斉国を有たんとす。襄子卒し、子荘子白立つ。田荘子斉の宣公に相たり。
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史記 田敬仲完世家晋の大夫欒逞、乱を晋に作し、来りて斉に奔る。斉の荘公厚く之を客とす。晏嬰と田文子と諫むれども、荘公聴かず。文子卒し、桓子無宇を生む。田桓子無宇力有り。斉の荘公に事へ、甚だ寵有り。無宇卒し、武子開と釐子乞とを生む。田釐子乞、斉の景公に事へて大夫と為る。其の賦税を民に収むるには小斗を以て之を受け、其の稟を民に予ふるには大斗を以てし、陰徳を民に行ふ。而るに景公禁ぜず。此に由りて田氏斉の衆心を得、宗族益々彊く、民田氏を思ふ。晏子数々景公を諫むれども、景公聴かず。已にして晋に使ひし、叔向と私かに語りて曰く、「斉国の政は卒に田氏に帰せん」と。晏嬰卒して後、范・中行氏晋に反く。晋之を攻むること急なり。范・中行、粟を斉に請ふ。田乞乱を為さんと欲し、党を諸侯に樹つ。乃ち景公に説きて曰く、「范・中行数々斉に徳有り。斉救はざるべからず」と。斉田乞をして之を救ひて之に粟を輸らしむ。景公の太子死す。後に寵姫有り芮子と曰ふ。子荼を生む。景公病み、其の相国恵子と高昭子とに命じて子荼を以て太子と為さしむ。景公卒す。両相の高・国、荼を立つ、是を晏孺子と為す。而るに田乞説ばず、景公の他の子陽生を立てんと欲す。陽生素より乞と歓ぶ。晏孺子の立つや、陽生魯に奔る。田乞偽りて高昭子・国恵子に事ふる者、朝する毎に参乗に代はり、言ひて曰く、「始め諸大夫孺子を立つるを欲せず。孺子既に立ち、君之に相たり。大夫皆自ら危ぶみ、乱を作さんと謀る」と。又大夫を紿きて曰く、「高昭子畏るべきなり。未だ発せざるに及びて之に先んぜよ」と。諸大夫之に従ふ。田乞・鮑牧、大夫と兵を以て公室に入り、高昭子を攻む。昭子之を聞き、国恵子と公を救ふ。公の師敗る。田乞の衆国恵子を追ふ。恵子莒に奔る。遂に返りて高昭子を殺す。
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