史記 / 田敬仲完世家
二十四年,秦使涇陽君質於齊。二十五年,歸涇陽君于秦。孟嘗君薛文入秦,卽相秦。文亡去。二十六年,齊與韓魏共攻秦,至函谷軍焉。二十八年,秦與韓河外以和,兵罷。二十九年,趙殺其主父。齊佐趙滅中山。三十六年,王爲東帝,秦昭王爲西帝。蘇代自燕來,入齊,見於章華東門。齊王曰:「嘻,善,子來!秦使魏冉致帝,子以爲何如?」對曰:「王之問臣也卒,而患之所從來微,願王受之而勿備稱也。秦稱之,天下安之,王乃稱之,無後也。且讓爭帝名,無傷也。秦稱之,天下惡之,王因勿稱,以收天下,此大資也。且天下立兩帝,王以天下爲尊齊乎?尊秦乎?」王曰:「尊秦。」曰:「釋帝,天下愛齊乎?愛秦乎?」王曰:「愛齊而憎秦。」曰:「兩帝立約伐趙,孰與伐桀宋之利?」王曰:「伐桀宋利。」對曰:「夫約鈞,然與秦爲帝而天下獨尊秦而輕齊,釋帝則天下愛齊而憎秦,伐趙不如伐桀宋之利,故願王明釋帝以收天下,倍約賓秦,無爭重,而王以其閒舉宋。夫有宋,衞之陽地危;有濟西,趙之阿東國危;有淮北,楚之東國危;有陶、平陸,梁門不開。釋帝而貸之以伐桀宋之事,國重而名尊,燕楚所以形服,天下莫敢不聽,此湯武之舉也。敬秦以爲名,而後使天下憎之,此所謂以卑爲尊者也。
新字:二十四年,秦使涇陽君質於斉。二十五年,帰涇陽君于秦。孟嘗君薛文入秦,即相秦。文亡去。二十六年,斉与韓魏共攻秦,至函谷軍焉。二十八年,秦与韓河外以和,兵罷。二十九年,趙殺其主父。斉佐趙滅中山。三十六年,王為東帝,秦昭王為西帝。蘇代自燕来,入斉,見於章華東門。斉王曰:「嘻,善,子来!秦使魏冉致帝,子以為何如?」対曰:「王之問臣也卒,而患之所従来微,願王受之而勿備称也。秦称之,天下安之,王乃称之,無後也。且譲争帝名,無傷也。秦称之,天下悪之,王因勿称,以収天下,此大資也。且天下立両帝,王以天下為尊斉乎?尊秦乎?」王曰:「尊秦。」曰:「釈帝,天下愛斉乎?愛秦乎?」王曰:「愛斉而憎秦。」曰:「両帝立約伐趙,孰与伐桀宋之利?」王曰:「伐桀宋利。」対曰:「夫約鈞,然与秦為帝而天下独尊秦而軽斉,釈帝則天下愛斉而憎秦,伐趙不如伐桀宋之利,故願王明釈帝以収天下,倍約賓秦,無争重,而王以其閒舉宋。夫有宋,衛之陽地危;有済西,趙之阿東国危;有淮北,楚之東国危;有陶、平陸,梁門不開。釈帝而貸之以伐桀宋之事,国重而名尊,燕楚所以形服,天下莫敢不聴,此湯武之舉也。敬秦以為名,而後使天下憎之,此所謂以卑為尊者也。
書き下し
二十四年、秦、涇陽君をして斉に質たらしむ。二十五年、涇陽君を秦に帰す。孟嘗君薛文秦に入り、即ち秦に相たり。文亡げ去る。二十六年、斉、韓・魏と共に秦を攻め、函谷に至りて焉に軍す。二十八年、秦韓に河外を与へて以て和す。兵罷む。二十九年、趙其の主父を殺す。斉趙を佐けて中山を滅ぼす。三十六年、王東帝と為り、秦の昭王西帝と為る。蘇代燕より来り、斉に入り、章華の東門に見ゆ。斉王曰く、「嘻、善し、子来れり。秦、魏冉をして帝を致さしむ。子以て何如と為す」と。対へて曰く、「王の臣に問ふや卒かなり。而して患ひの従りて来る所は微なり。願はくは王之を受けて備へて称すること勿かれ。秦之を称して、天下之に安んぜば、王乃ち之を称せよ。後るること無きなり。且つ帝名を争ふを譲るは、傷むこと無きなり。秦之を称して、天下之を悪まば、王因りて称すること勿く、以て天下を収めよ。此れ大資なり。且つ天下両帝を立つ。王以て天下斉を尊ぶと為すか、秦を尊ぶと為すか」と。王曰く、「秦を尊ぶ」と。曰く、「帝を釈かば、天下斉を愛するか、秦を愛するか」と。王曰く、「斉を愛して秦を憎む」と。曰く、「両帝約を立てて趙を伐つと、桀宋を伐つの利と孰れぞ」と。王曰く、「桀宋を伐つが利なり」と。対へて曰く、「夫れ約は鈞し。然れども秦と帝と為らば天下独り秦を尊びて斉を軽んず。帝を釈かば則ち天下斉を愛して秦を憎む。趙を伐つは桀宋を伐つの利に如かず。故に願はくは王明らかに帝を釈きて以て天下を収め、約に倍きて秦を賓け、重きを争ふこと無くして、王其の閒を以て宋を挙げよ。夫れ宋を有たば、衛の陽地危ふし。済西を有たば、趙の阿東の国危ふし。淮北を有たば、楚の東国危ふし。陶・平陸を有たば、梁の門開かず。帝を釈きて之に貸すに桀宋を伐つの事を以てせば、国重くして名尊く、燕・楚は形を以て服し、天下敢へて聴かざる莫し。此れ湯・武の挙なり。秦を敬して以て名と為し、而して後に天下をして之を憎ましむ。此れ所謂卑きを以て尊きと為す者なり。
現代語訳
(湣王の)二十四年、秦は涇陽君(けいようくん)を斉に人質として送ってきた。二十五年、涇陽君を秦に帰した。孟嘗君薛文(せつぶん、田文)が秦に入り、すぐに秦の宰相となったが、やがて逃げ帰った。二十六年、斉は韓・魏と共に秦を攻め、函谷関に至ってそこに陣を敷いた。二十八年、秦は韓に河外の地を与えて和睦し、兵を引き上げた。二十九年、趙がその主父(武霊王)を死なせた。斉は趙を助けて中山を滅ぼした。三十六年、斉王は東帝となり、秦の昭王は西帝となった。蘇代が燕からやって来て斉に入り、章華の東門で王に謁見した。斉王は言った。「おお、よいところへ来た。秦が魏冉を使者として帝の称号を持ちかけてきた。そなたはどう思うか」。蘇代は答えた。「王のお尋ねはあまりに急だが、災いというものはわずかな所からやって来るものだ。どうか王は申し出を受けても、すぐに帝と称してはならない。秦が帝を称して天下がそれを受け入れるなら、そのときに王も称すればよい。遅れを取ることはない。帝の名を争うことを譲っても、何の損もない。秦が帝を称して天下がそれを憎むなら、王はそれに乗じて帝を称さず、天下の心をつかめばよい。これこそ大きな元手になる。それに、天下に二人の帝が立ったとき、王は天下が斉を尊ぶとお思いか、秦を尊ぶとお思いか」。王は「秦を尊ぶだろう」と言った。蘇代は言った。「帝の称号を捨てれば、天下は斉を慕うか、秦を慕うか」。王は「斉を慕って秦を憎むだろう」と言った。蘇代は言った。「二人の帝が約束して趙を討つのと、暴君桀のような宋を討つのとでは、どちらが利益になるか」。王は「桀のような宋を討つほうが利益になる」と言った。蘇代は答えた。「約束の重さは同じだとしても、秦と共に帝となれば、天下は秦だけを尊んで斉を軽んじる。帝の称号を捨てれば、天下は斉を慕い秦を憎む。趙を討つのは、桀のような宋を討つ利益には及ばない。だからどうか王は、はっきりと帝の称号を捨てて天下の心をつかみ、秦との約束に背いて秦を客人扱いにとどめ、重みを争わず、そのすきに宋を攻め取られよ。宋を手に入れれば、衛の南の地が危うくなる。済水の西を手に入れれば、趙の阿の東の地が危うくなる。淮水の北を手に入れれば、楚の東の地が危うくなる。陶と平陸を手に入れれば、梁(魏)は城門を開けられなくなる。帝の称号を捨て、それを桀のような宋を討つ大義の資本にすれば、国は重きをなして名は尊くなり、燕・楚は情勢に押されて服従し、天下にあえて従わない者はいなくなる。これこそ殷の湯王、周の武王の事業である。秦を敬うことを名目として、後で天下に秦を憎ませる。これがいわゆる、へりくだることによって尊くなるということである。
解説
関連する章句
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史記 田敬仲完世家願はくは王孰く之を慮れ」と。是に於て斉帝を去りて復た王と為る。秦も亦帝位を去る。三十八年、宋を伐つ。秦の昭王怒りて曰く、「吾の宋を愛するは新城・陽晋を愛すると同じ。韓聶は吾と友なり。而るに吾の愛する所を攻む。何ぞや」と。蘇代斉の為に秦王に謂ひて曰く、「韓聶の宋を攻むるは、王の為にする所以なり。斉彊くして、之を輔くるに宋を以てせば、楚・魏必ず恐れん。恐るれば必ず西のかた秦に事へん。是れ王一兵を煩はさず、一士を傷つけずして、事無くして安邑を割くなり。此れ韓聶の王に禱る所なり」と。秦王曰く、「吾斉の知り難きを患ふ。一は従し一は衡す。其の説何ぞや」と。対へて曰く、「天下の国斉をして知るべからしめんや。斉以て宋を攻むるは、其の秦に事ふるに万乗の国を以て自ら輔くるを知ればなり。西のかた秦に事へずんば則ち宋治安からず。中国の白頭游敖の士、皆智を積みて斉・秦の交はりを離さんと欲す。式に伏し軼を結びて西に馳する者、未だ一人も斉を善しと言ふ者有らざるなり。式に伏し軼を結びて東に馳する者、未だ一人も秦を善しと言ふ者有らざるなり。何となれば、皆斉・秦の合するを欲せざればなり。何ぞ晋・楚の智にして斉・秦の愚なるや。晋・楚合せば必ず斉・秦を議し、斉・秦合せば必ず晋・楚を図らん。請ふ此を以て事を決せよ」と。秦王曰く、「諾」と。是に於て斉遂に宋を伐つ。宋王出でて亡げ、温に死す。斉南のかた楚の淮北を割き、西のかた三晋を侵し、以て周室を并せて天子と為らんと欲す。泗上の諸侯鄒・魯の君皆臣と称す。諸侯恐懼す。三十九年、秦来り伐ち、我が列城九を抜く。四十年、燕・秦・楚・三晋合謀し、各々鋭師を出だして以て伐ち、我を済西に敗る。王解けて卻く。燕の将楽毅遂に臨淄に入り、尽く斉の宝蔵器を取る。湣王出でて亡げ、衛に之く。衛君宮を辟けて之を捨らしめ、臣と称して具を共す。湣王遜らず。衛人之を侵す。湣王去り、鄒・魯に走る。驕色有り。鄒・魯の君内れず。遂に莒に走る。
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史記 魏世家太子の自ら相たらば、是れ三人の者皆太子を以て常相に非ずと為し、皆将に務めて其の国を以て魏に事へ、丞相の璽を得んと欲せんとす。魏の彊きを以て、而して三万乗の国之を輔けば、魏必ず安からん。故に曰く太子の自ら相たるに若くは莫しと」』と。遂に北して梁王に見え、此を以て之に告ぐ。太子果たして魏に相たり。十年、張儀死す。十一年、秦の武王と応に会す。十二年、太子秦に朝す。秦来りて我が皮氏を伐つも、未だ抜かずして解く。十四年、秦来りて武王后を帰す。十六年、秦我が蒲反・陽晋・封陵を抜く。十七年、秦と臨晋に会す。秦我に蒲反を予ふ。十八年、秦と楚を伐つ。廿一年、斉・韓と共に秦の軍を函谷に敗る。廿三年、秦復た我に河外及び封陵を予へて和を為す。哀王卒し、子昭王立つ。昭王元年、秦我が襄城を抜く。二年、秦と戦ひ、我利あらず。三年、韓を佐けて秦を攻む。秦の将白起、我が軍を伊闕に敗ること廿四万。六年、秦に河東の地方四百里を予ふ。芒卯詐りを以て重んぜらる。七年、秦我が城大小六十一を抜く。八年、秦の昭王西帝と為り、斉の湣王東帝と為る。月余にして、皆復た王と称して帝を帰す。九年、秦我が新垣・曲陽の城を抜く。十年、斉宋を滅ぼす。宋王我が温に死す。十二年、秦・趙・韓・燕と共に斉を伐ち、之を済西に敗る。湣王出でて亡ぐ。燕独り臨菑に入る。秦王と西周に会す。十三年、秦我が安城を抜く。兵大梁に到りて、去る。十八年、秦郢を抜き、楚王陳に徙る。十九年、昭王卒し、子安釐王立つ。安釐王元年、秦我が両城を抜く。二年、又我が二城を抜き、大梁の下に軍す。韓来り救ふ。秦に温を予へて以て和す。三年、秦我が四城を抜き、首を斬ること四万。
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史記 蘇秦列伝韓・魏聴かずんば則ち秦之を伐ち、斉聴かずんば則ち燕・趙之を伐たん、天下孰か敢へて聴かざらん。天下服聴せば、因りて韓・魏を駆りて以て斉を伐ち、曰はん『必ず宋の地を反し、楚の淮北を帰せ』と。宋の地を反し、楚の淮北を帰すは、燕・趙の利とする所なり。並びに三帝を立つるは、燕・趙の願ふ所なり。夫れ実に利とする所を得、尊に願ふ所を得ば、燕・趙の斉を棄つること躧を脱ぐが如し。今燕・趙を収めずんば、斉の霸必ず成らん。諸侯斉を賛けて王従はずんば、是れ国伐たるるなり。諸侯斉を賛けて王之に従はば、是れ名卑しきなり。今燕・趙を収むれば、国安くして名尊し。燕・趙を収めずんば、国危ふくして名卑し。夫れ尊安を去りて危卑を取るは、智者は為さざるなり」と。秦王若の説を聞かば、必ず心を刺すが若く然らん。則ち王何ぞ弁士をして此の若き言を以て秦に説かしめざる。秦必ず取られ、斉必ず伐たれん。夫れ秦を取るは、厚交なり。斉を伐つは、正利なり。厚交を尊び、正利に務むるは、聖王の事なり。燕の昭王其の書を善しとして、曰く、「先人嘗て蘇氏に徳有り、子之の乱にして蘇氏燕を去る。燕仇を斉に報ぜんと欲す、蘇氏に非ざれば可なる莫し」と。乃ち蘇代を召し、復た善く之を待し、与に斉を伐たんことを謀る。竟に斉を破り、湣王出で走る。之を久しくして、秦燕王を召す、燕王往かんと欲す、蘇代燕王を約して曰く、「楚は枳を得て国亡び、斉は宋を得て国亡ぶ、斉・楚の枳・宋を有するを以て秦に事ふるを得ざる者は、何ぞや。則ち功有る者は、秦の深讐なればなり。秦の天下を取るは、義を行ふに非ず、暴なり。秦の暴を行ふは、正しく天下に告ぐ。楚に告げて曰く、『蜀地の甲、船に乗りて汶に浮かび、夏水に乗じて江を下れば、五日にして郢に至る。漢中の甲、船に乗りて巴に出で、夏水に乗じて漢を下れば、四日にして五渚に至る。寡人甲を宛の東に積みて随に下れば、智者も謀るに及ばず、勇土(士)も怒るに及ばず、寡人隼を射るが如けん。
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史記 蘇秦列伝対へて曰く、「天の時与せずんば、清済・濁河有りと雖も、悪くんぞ以て固めと為すに足らん。民力罷敝せば、長城・鉅防有りと雖も、悪くんぞ以て塞と為すに足らん。且つ異日済西に師せざるは、趙に備ふる所以なり。河北に師せざるは、燕に備ふる所以なり。今済西河北尽く已に役せり、封内敝れたり。夫れ驕君は必ず利を好み、而して亡国の臣は必ず財を貪る。王誠に能く子母弟を以て質と為すを羞づる無く、珠玉帛を宝として以て左右に事へば、彼将に燕を徳として宋を亡ぼすを軽んぜんとす、則ち斉亡ぼすべきのみ」と。燕王曰く、「吾終に子を以て命を天に受けたり」と。燕乃ち一子をして斉に質たらしむ。而して蘇厲燕の質子に因りて斉王に見えんことを求む。斉王蘇秦を怨み、蘇厲を囚へんと欲す。燕の質子為に謝し、已にして遂に質を委ねて斉の臣と為る。燕の相子之蘇代と婚し、而して燕の権を得んと欲し、乃ち蘇代をして質子に斉に侍せしむ。斉代をして燕に報ぜしむ、燕王噲問ひて曰く、「斉王其れ霸たらんか」と。曰く、「能はず」と。曰く、「何ぞや」と。曰く、「其の臣を信ぜず」と。是に於いて燕王専ら子之に任じ、已にして位を譲り、燕大いに乱る。斉燕を伐ち、王噲・子之を殺す。燕昭王を立て、而して蘇代・蘇厲遂に敢へて燕に入らず、皆終に斉に帰す、斉善く之を待す。蘇代魏を過る、魏燕の為に代を執ふ。斉人をして魏王に謂はしめて曰く、「斉宋の地を以て涇陽君を封ぜんことを請ふも、秦必ず受けず。秦斉を有ちて宋の地を得るを利とせざるに非ざるなり、斉王と蘇子とを信ぜざるなり。今斉魏の和せざること此くの如く其れ甚だしくば、則ち斉秦を欺かず。秦斉を信じ、斉秦合し、涇陽君宋の地を有するは、魏の利に非ざるなり。故に王蘇子を東するに如かず、秦必ず斉を疑ひて蘇子を信ぜざらん。斉秦合せずんば、天下変無く、斉を伐つの形成らん」と。是に於いて蘇代を出だす。代宋に之く、宋善く之を待す。
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