史記 / 田敬仲完世家
今者臣立於門,客有言曰魏王謂韓馮、張儀曰:『煮棗將拔,齊兵又進,子來救寡人則可矣;不救寡人,寡人弗能拔。』此特轉辭也。秦、韓之兵毋東,旬餘,則魏氏轉韓從秦,秦逐張儀,交臂而事齊楚,此公之事成也。」田軫曰:「柰何使無東?」對曰:「韓馮之救魏之辭,必不謂韓王曰『馮以爲魏』,必曰『馮將以秦韓之兵東卻齊宋,馮因摶三國之兵,乘屈丐之獘,南割於楚,故地必盡得之矣』。張儀救魏之辭,必不謂秦王曰『儀以爲魏』,必曰『儀且以秦韓之兵東距齊宋,儀將摶三國之兵,乘屈丐之獘,南割於楚,名存亡國,實伐三川而歸,此王業也』。公令楚王與韓氏地,使秦制和,謂秦王曰『請與韓地,而王以施三川,韓氏之兵不用而得地於楚』。韓馮之東兵之辭且謂秦何?曰『秦兵不用而得三川,伐楚韓以窘魏,魏氏不敢東,是孤齊也』。張儀之東兵之辭且謂何?曰『秦韓欲地而兵有案,聲威發於魏,魏氏之欲不失齊楚者有資矣』。魏氏轉秦韓爭事齊楚,楚王欲而無與地,公令秦韓之兵不用而得地,有一大德也。秦韓之王劫於韓馮、張儀而東兵以徇服魏,公常執左券以責於秦韓,此其善於公而惡張子多資矣。」十三年,秦惠王卒。二十三年,與秦撃敗楚於重丘。
新字:今者臣立於門,客有言曰魏王謂韓馮、張儀曰:『煮棗将抜,斉兵又進,子来救寡人則可矣;不救寡人,寡人弗能抜。』此特転辞也。秦、韓之兵毋東,旬余,則魏氏転韓従秦,秦逐張儀,交臂而事斉楚,此公之事成也。」田軫曰:「柰何使無東?」対曰:「韓馮之救魏之辞,必不謂韓王曰『馮以為魏』,必曰『馮将以秦韓之兵東却斉宋,馮因摶三国之兵,乗屈丐之獘,南割於楚,故地必尽得之矣』。張儀救魏之辞,必不謂秦王曰『儀以為魏』,必曰『儀且以秦韓之兵東距斉宋,儀将摶三国之兵,乗屈丐之獘,南割於楚,名存亡国,実伐三川而帰,此王業也』。公令楚王与韓氏地,使秦制和,謂秦王曰『請与韓地,而王以施三川,韓氏之兵不用而得地於楚』。韓馮之東兵之辞且謂秦何?曰『秦兵不用而得三川,伐楚韓以窘魏,魏氏不敢東,是孤斉也』。張儀之東兵之辞且謂何?曰『秦韓欲地而兵有案,声威発於魏,魏氏之欲不失斉楚者有資矣』。魏氏転秦韓争事斉楚,楚王欲而無与地,公令秦韓之兵不用而得地,有一大徳也。秦韓之王劫於韓馮、張儀而東兵以徇服魏,公常執左券以責於秦韓,此其善於公而悪張子多資矣。」十三年,秦恵王卒。二十三年,与秦撃敗楚於重丘。
書き下し
今者臣門に立つ。客言ふ有りて曰く、魏王韓馮・張儀に謂ひて曰く、『煮棗将に抜けんとし、斉の兵又進む。子来りて寡人を救はば則ち可なり。寡人を救はずんば、寡人抜くこと能はず』と。此れ特だ転辞なり。秦・韓の兵東する毋くんば、旬余にして、則ち魏氏韓を転じて秦に従ひ、秦張儀を逐ひ、臂を交へて斉・楚に事へん。此れ公の事成るなり」と。田軫曰く、「奈何ぞ東する無からしめん」と。対へて曰く、「韓馮の魏を救ふの辞は、必ず韓王に謂ひて『馮以て魏の為にす』と曰はず。必ず曰はん、『馮将に秦・韓の兵を以て東のかた斉・宋を卻けんとす。馮因りて三国の兵を摶め、屈丐の獘に乗じ、南のかた楚を割かば、故地必ず尽く之を得ん』と。張儀の魏を救ふの辞は、必ず秦王に謂ひて『儀以て魏の為にす』と曰はず。必ず曰はん、『儀且に秦・韓の兵を以て東のかた斉・宋を距がんとす。儀将に三国の兵を摶め、屈丐の獘に乗じ、南のかた楚を割き、名は亡国を存し、実は三川を伐ちて帰らんとす。此れ王業なり』と。公、楚王をして韓氏に地を与へしめ、秦をして和を制せしめ、秦王に謂ひて『請ふ韓に地を与へん。而して王以て三川に施せ。韓氏の兵用ひずして地を楚に得たり』と曰はしめよ。韓馮の東兵の辞且に秦に謂ひて何とか曰はん。曰く『秦の兵用ひずして三川を得、楚・韓を伐ちて以て魏を窘めば、魏氏敢へて東せず。是れ斉を孤にするなり』と。張儀の東兵の辞且に何とか謂はん。曰く『秦・韓地を欲して兵案ずること有り。声威魏に発し、魏氏の斉・楚を失はざらんと欲する者資有り』と。魏氏秦・韓を転じて争ひて斉・楚に事へ、楚王欲して地を与ふること無く、公秦・韓の兵をして用ひずして地を得しむ。一大徳有るなり。秦・韓の王、韓馮・張儀に劫かされて兵を東して以て魏を徇服せば、公常に左券を執りて以て秦・韓に責めん。此れ其の公に善くして張子を悪むこと資多し」と。十三年、秦の恵王卒す。二十三年、秦と撃ちて楚を重丘に敗る。
現代語訳
さきほどわたしが門のところに立っていると、ある客がこう言っていた。魏王が韓馮(かんひょう)と張儀に『煮棗(しゃそう)はまもなく落とされ、斉の兵がさらに進んでくる。そなたたちが来てわたしを救ってくれればよいが、救ってくれなければ、わたしは持ちこたえられない』と言った、と。これは、ただ(魏が秦・韓から斉・楚に)乗り換えるための口上にすぎない。秦と韓の兵が東へ来なければ、十日余りで魏は韓を離れて(斉・楚に)乗り換え、秦も張儀を追放して、両国は手を組んで斉・楚に仕えることになる。これであなたの仕事は成功する」。田軫は言った。「どうやって秦・韓の兵を東へ来させないようにするのか」。蘇代は答えた。「韓馮が魏を救おうと韓王に言うときには、決して『わたしは魏のためにやる』とは言わない。必ずこう言うだろう。『わたしは秦・韓の兵で東の斉・宋を退ける。そのうえで三国の兵をまとめ、屈丐が敗れた楚の疲弊に乗じて、南の楚の地を割き取れば、かつての領地はすべて取り戻せる』と。張儀が魏を救おうと秦王に言うときにも、決して『わたしは魏のためにやる』とは言わない。必ずこう言うだろう。『わたしは秦・韓の兵で東の斉・宋を防ぐ。そのうえで三国の兵をまとめ、屈丐の敗北に乗じて南の楚の地を割き、名目上は滅びかけた国を存続させ、実際には三川を討って帰る。これこそ王者の事業である』と。そこであなたは楚王に韓へ土地を与えさせ、秦に和睦を取り仕切らせて、秦王にこう言わせるのだ。『韓に土地を与えてほしい。王は三川で威勢を示されよ。韓は兵を用いずに楚から土地を得られる』と。そうなれば、韓馮が兵を東へ出そうと秦に説く言葉はどうなるか。『秦は兵を用いずに三川を得た。楚と韓を討って魏を苦しめれば、魏はあえて東へは向かわない。これで斉を孤立させられる』と言うしかない。張儀が兵を東へ出そうと説く言葉はどうなるか。『秦と韓は土地を欲しがって兵を控えている。その威勢は魏にまで及び、斉・楚を失いたくない魏にも頼るものができる』と言うしかない。こうして魏は秦・韓を離れて先を争って斉・楚に仕え、楚王は土地を与えることを惜しまず、あなたは秦・韓の兵を用いさせずに(韓に)土地を得させることになり、大きな恩を売ることになる。秦・韓の王が韓馮・張儀に押し切られて兵を東へ出し、魏を服従させようとしても、あなたはいつでも証文の割符を握って秦・韓に約束の履行を迫ることができる。これこそ、秦・韓があなたに好意を持ち、張儀を憎むようになる大きな材料である」。十三年、秦の恵王が死んだ。二十三年、秦と共に楚を撃ち、重丘で破った。
解説
関連する章句
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史記 韓世家子宣恵王立つ。宣恵王五年、張儀秦に相たり。八年、魏我が将韓挙を敗る。十一年、君号して王と為す。趙と区鼠に会す。十四、秦伐ちて我を鄢に敗る。十六年、秦我を修魚に敗り、韓の将鯁・申差を濁沢に虜得す。韓氏急なり。公仲、韓王に謂ひて曰く、「与国は恃むべきに非ざるなり。今秦の楚を伐たんと欲すること久し。王張儀に因りて和を秦に為し、賂ふに一名都を以てし、甲を具へて、之と南のかた楚を伐つに如かず。此れ一を以て二に易ふるの計なり」と。韓王曰く、「善し」と。乃ち公仲の行を警め、将に西のかた秦に購はんとす。楚王之を聞きて大いに恐れ、陳軫を召して之に告ぐ。陳軫曰く、「秦の楚を伐たんと欲すること久し。今又韓の名都一を得て甲を具へ、秦・韓兵を并せて楚を伐つ。此れ秦の禱祀して求むる所なり。今已に之を得たり。楚国必ず伐たれん。王臣に聴きて之が為に四境の内を警め、師を起こして韓を救ふと言ひ、戦車をして道路に満たしめ、信臣を発し、其の車を多くし、其の幣を重くし、王の己を救ふを信ぜしめよ。縦ひ韓我に聴くこと能はずとも、韓必ず王を徳とせん。必ず鴈行して以て来らず。是れ秦・韓和せざるなり。兵至ると雖も、楚大いに病まず。為し能く我に聴きて和を秦に絶たば、秦必ず大いに怒り、以て厚く韓を怨まん。韓の南のかた楚に交はるや、必ず秦を軽んぜん。秦を軽んずれば、其の秦に応ずること必ず敬まず。是れ秦・韓の兵に因りて楚国の患ひを免るるなり」と。楚王曰く、「善し」と。乃ち四境の内を警め、師を興して韓を救ふと言ふ。戦車をして道路に満たしめ、信臣を発し、其の車を多くし、其の幣を重くす。韓王に謂ひて曰く、「不穀の国小なりと雖も、已に悉く之を発せり。願はくは大国遂に志を秦に肆にせよ。不穀将に楚を以て韓に殉ぜんとす」と。韓王之を聞きて大いに説び、乃ち公仲の行を止む。公仲曰く、「不可なり。夫れ実を以て我を伐つ者は秦なり。虚名を以て我を救ふ者は楚なり。
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史記 韓世家対へて曰く、「秦王の言に曰く『請ふ南鄭・藍田に道し、兵を楚に出だして以て公を待たん』と。殆ど合はざらん」と。公仲曰く、「子以て果たすと為すか」と。対へて曰く、「秦王必ず張儀の故智を祖とせん。楚の威王梁を攻むるや、張儀秦王に謂ひて曰く、『楚と魏を攻めば、魏折れて楚に入らん。韓は固より其の与国なり。是れ秦孤なり。兵を出だして以て之を到らしめ、魏・楚大いに戦はば、秦西河の外を取りて以て帰るに如かず』と。今其の状陽に韓に与すと言ひて、其の実陰に楚に善くす。公秦を待ちて到らば、必ず軽々しく楚と戦はん。楚陰かに秦の用ひられざるを得ば、必ず易く公と相支へん。公戦ひて楚に勝たば、遂に公と楚に乗じ、三川に施して帰らん。公戦ひて楚に勝たずんば、楚三川を塞ぎて之を守らん。公救ふこと能はざるなり。窃かに公の為に之を患ふ。司馬庚三たび郢に反り、甘茂、昭魚と商於に遇ふ。其の言は璽を収むと言ふも、実は約有るに類す」と。公仲恐れて曰く、「然らば則ち奈何」と。曰く、「公必ず韓を先にして秦を後にし、身を先にして張儀を後にせよ。公亟かに国を以て斉・楚に合するに如かず。斉・楚必ず国を公に委ねん。公の悪む所の者は張儀なり。其の実猶ほ秦無からざるなり」と。是に於て楚雍氏の囲みを解く。蘇代又秦の太后の弟羋戎に謂ひて曰く、「公叔伯嬰、秦・楚の蟣蝨を内れんことを恐る。公何ぞ韓の為に質子を楚に求めざる。楚王聴きて質子を韓に入れば、則ち公叔伯嬰、秦・楚の蟣蝨を以て事と為さざるを知り、必ず韓を以て秦・楚に合せん。秦・楚韓を挟みて以て魏を窘めば、魏氏敢へて斉に合せず。是れ斉孤なり。公又秦の為に質子を楚に求めよ。楚聴かずんば、怨み韓に結ばれん。韓斉・魏を挟みて以て楚を囲まば、楚必ず公を重んぜん。公秦・楚の重きを挟みて以て徳を韓に積まば、公叔伯嬰必ず国を以て公を待たん」と。是に於て蟣蝨竟に韓に帰るを得ず。韓咎を立てて太子と為す。斉・魏の王来る。
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史記 魏世家如耳、成陵君に見えて曰く、『昔者魏趙を伐ち、羊腸を断ち、閼与を抜き、趙を約斬し、趙分れて二と為る。亡びざる所以の者は、魏従の主為ればなり。今衛已に亡ぶるに迫り、将に西のかた事を秦に請はんとす。其の秦を以て衛を醳かんよりは、魏を以て衛を醳くに如かず。衛の魏を徳とすること必ず終に窮まり無からん』と。成陵君曰く、『諾』と。如耳、魏王に見えて曰く、『臣衛に謁する有り。衛は故周室の別なり。其れ小国と称すれども、宝器多し。今国難に迫られて宝器出でざる者は、其の心以為へらく、衛を攻め衛を醳くは王を以て主と為さずと。故に宝器出づと雖も必ず王に入らざらん。臣窃かに之を料るに、先に衛を醳かんと言ふ者は必ず衛に受くる者なり』と。如耳出で、成陵君入り、其の言を以て魏王に見ゆ。魏王其の説を聴き、其の兵を罷め、成陵君を免じ、終身見えず。九年、秦王と臨晋に会す。張儀・魏章皆魏に帰す。魏の相田需死す。楚、張儀・犀首・薛公を害す。楚の相昭魚、蘇代に謂ひて曰く、『田需死す。吾張儀・犀首・薛公の一人魏に相たる者有らんことを恐るるなり』と。代曰く、『然らば相は誰を欲して君之を便とする』と。昭魚曰く、『吾太子の自ら相たらんことを欲す』と。代曰く、『請ふ君の為に北し、必ず之を相たらしめん』と。昭魚曰く、『奈何』と。対へて曰く、『君其れ梁王と為れ。代請ふ君に説かん』と。昭魚曰く、『奈何』と。対へて曰く、『代や楚より来る。昭魚甚だ憂ひて曰く、「田需死す。吾張儀・犀首・薛公の一人魏に相たる者有らんことを恐るるなり」と。代曰く、「梁王は長主なり。必ず張儀を相とせず。張儀相たらば、必ず秦を右にして魏を左にせん。犀首相たらば、必ず韓を右にして魏を左にせん。薛公相たらば、必ず斉を右にして魏を左にせん。梁王は長主なり。必ず便とせざるなり」と。王曰く、「然らば則ち寡人孰をか相とせん」と。代曰く、「太子の自ら相たるに若くは莫し。
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史記 周本紀周其の解く可からざるを知らば、必ず秦に入らん。此れ秦の為に周を取るの精なる者なり。王の為に計る者は、周秦に於てするも因りて之を善しとし、秦に於てせざるも亦之を善しと言ひ、以て之を秦に疏ならしめん。周秦に絶たば、必ず郢に入らん」と。秦道を両周の間に借り、将に以て韓を伐たんとす。周恐る、之を借さば韓を畏れ、借さずんば秦を畏る。史厭周君に謂ひて曰く、「何ぞ人をして韓の公叔に謂はしめて曰はざる、『秦の敢へて周を絶ちて韓を伐つ者は、東周を信ずればなり。公何ぞ周に地を与へ、質を発して之を楚に使はしめざる』と。秦必ず楚を疑ひて周を信ぜず、是れ韓伐たれざるなり。又秦に謂ひて曰はん、『韓彊ひて周に地を与ふるは、将に以て周を秦に疑はしめんとするなり。周敢へて受けずんばあらず』と。秦必ず辞無くして周をして受けざらしめん。是れ地を韓に受けて秦に聴くなり」と。秦西周の君を召す。西周の君往くことを悪む。故に人をして韓王に謂はしめて曰く、「秦西周の君を召すは、将に以て王の南陽を攻めしめんとするなり。王何ぞ兵を南陽に出ださざる。周君将に以て辞を秦に為さんとす。周君秦に入らずんば、秦必ず敢へて河を踰えて南陽を攻めざらん」と。東周西周と戦ひ、韓西周を救ふ。或ひと東周の為に韓王に説きて曰く、「西周は故の天子の国にして、名器重宝多し。王兵を案じて出だす毋くんば、以て東周に徳とす可く、而して西周の宝必ず以て尽くす可し」と。王赧成君に謂ふ。楚雍氏を囲む。韓甲と粟とを東周に徴す。東周の君恐れ、蘇代を召して之に告ぐ。代曰く、「君何ぞ是を患へん。臣能く韓をして甲と粟とを周に徴する毋からしめ、又能く君の為に高都を得ん」と。周君曰く、「子苟も能くせば、請ふ国を以て子に聴かん」と。代韓の相国に見えて曰く、「楚雍氏を囲む、期は三月なり。今五月にして抜く能はず、是れ楚病めるなり。今相国乃ち甲と粟とを周に徴す、是れ楚に病めるを告ぐるなり」と。韓の相国曰く、「善し。使者已に行けり」と。代曰く、「何ぞ周に高都を与へざる」と。
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史記 蘇秦列伝王乃ち天下の函谷を攻むるを待たんと欲す、亦遠からずや』と。楚王是れが故の為に、十七年秦に事ふ。秦正しく韓に告げて曰く、『我少曲より起これば、一日にして大行を断つ。我宜陽より起こりて平陽に触るれば、二日にして尽く繇かざるは莫し。我両周を離れて鄭に触るれば、五日にして国挙がらん』と。韓氏以て然りと為す、故に秦に事ふ。秦正しく魏に告げて曰く、『我安邑を挙げ、女戟を塞げば、韓氏の太原巻かれん。我軹を下り、南陽に道し、冀を封じ、両周を包む。夏水に乗じ、軽舟を浮かべ、彊弩前に在り、錟戈後に在り、滎口を決すれば、魏に大梁無からん。白馬の口を決すれば、魏に外黄・済陽無からん。宿胥の口を決すれば、魏に虚・頓丘無からん。陸攻すれば則ち河内を撃ち、水攻すれば則ち大梁を滅ぼさん』と。魏氏以て然りと為す、故に秦に事ふ。秦安邑を攻めんと欲し、斉の之を救はんことを恐れ、則ち宋を以て斉に委ぬ。曰く、『宋王無道なり、木人を為りて以て寡人を写し、其の面を射る。寡人地絶え兵遠く、攻むる能はざるなり。王苟も能く宋を破りて之を有たば、寡人自ら之を得るが如し』と。已に安邑を得、女戟を塞ぎ、因りて宋を破るを以て斉の罪と為す。秦韓を攻めんと欲し、天下の之を救はんことを恐れ、則ち斉を以て天下に委ぬ。曰く、『斉王四たび寡人と約し、四たび寡人を欺き、必ず天下を率ゐて以て寡人を攻むる者三たび。斉有れば秦無く、秦有れば斉無し、必ず之を伐ち、必ず之を亡ぼさん』と。已に宜陽・少曲を得、藺・石を致し、因りて斉を破るを以て天下の罪と為す。秦魏を攻めんと欲して楚を重んじ、則ち南陽を以て楚に委ぬ。曰く、『寡人固より韓と且に絶たんとす。均陵を残ひ、鄳阨を塞ぐ、苟も楚に利あらば、寡人自ら之を有するが如し』と。魏与国を棄てて秦に合す、因りて鄳阨を塞ぐを以て楚の罪と為す。兵林中に困しみ、燕・趙を重んじ、膠東を以て燕に委ね、済西を以て趙に委ぬ。已に講を魏に得、公子延に至り、犀首の属行に因りて趙を攻む。
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史記 魏世家太子の自ら相たらば、是れ三人の者皆太子を以て常相に非ずと為し、皆将に務めて其の国を以て魏に事へ、丞相の璽を得んと欲せんとす。魏の彊きを以て、而して三万乗の国之を輔けば、魏必ず安からん。故に曰く太子の自ら相たるに若くは莫しと」』と。遂に北して梁王に見え、此を以て之に告ぐ。太子果たして魏に相たり。十年、張儀死す。十一年、秦の武王と応に会す。十二年、太子秦に朝す。秦来りて我が皮氏を伐つも、未だ抜かずして解く。十四年、秦来りて武王后を帰す。十六年、秦我が蒲反・陽晋・封陵を抜く。十七年、秦と臨晋に会す。秦我に蒲反を予ふ。十八年、秦と楚を伐つ。廿一年、斉・韓と共に秦の軍を函谷に敗る。廿三年、秦復た我に河外及び封陵を予へて和を為す。哀王卒し、子昭王立つ。昭王元年、秦我が襄城を抜く。二年、秦と戦ひ、我利あらず。三年、韓を佐けて秦を攻む。秦の将白起、我が軍を伊闕に敗ること廿四万。六年、秦に河東の地方四百里を予ふ。芒卯詐りを以て重んぜらる。七年、秦我が城大小六十一を抜く。八年、秦の昭王西帝と為り、斉の湣王東帝と為る。月余にして、皆復た王と称して帝を帰す。九年、秦我が新垣・曲陽の城を抜く。十年、斉宋を滅ぼす。宋王我が温に死す。十二年、秦・趙・韓・燕と共に斉を伐ち、之を済西に敗る。湣王出でて亡ぐ。燕独り臨菑に入る。秦王と西周に会す。十三年、秦我が安城を抜く。兵大梁に到りて、去る。十八年、秦郢を抜き、楚王陳に徙る。十九年、昭王卒し、子安釐王立つ。安釐王元年、秦我が両城を抜く。二年、又我が二城を抜き、大梁の下に軍す。韓来り救ふ。秦に温を予へて以て和す。三年、秦我が四城を抜き、首を斬ること四万。
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