史記 / 魏世家
如耳見成陵君曰:『昔者魏伐趙,斷羊腸,拔閼與,約斬趙,趙分而爲二,所以不亡者,魏爲從主也。今衞已迫亡,將西請事於秦。與其以秦醳衞,不如以魏醳衞,衞之德魏必終无窮。』成陵君曰:『諾。』如耳見魏王曰:『臣有謁於衞。衞故周室之別也,其稱小國,多寶器。今國迫於難而寶器不出者,其心以爲攻衞醳衞不以王爲主,故寶器雖出必不入於王也。臣竊料之,先言醳衞者必受衞者也。』如耳出,成陵君入,以其言見魏王。魏王聽其説,罷其兵,免成陵君,終身不見。九年,與秦王會臨晉。張儀、魏章皆歸于魏。魏相田需死,楚害張儀、犀首、薛公。楚相昭魚謂蘇代曰:『田需死,吾恐張儀、犀首、薛公有一人相魏者也。』代曰:『然相者欲誰而君便之?』昭魚曰:『吾欲太子之自相也。』代曰:『請爲君北,必相之。』昭魚曰:『柰何?』對曰:『君其爲梁王,代請説君。』昭魚曰:『柰何?』對曰:『代也從楚來,昭魚甚憂,曰:「田需死,吾恐張儀、犀首、薛公有一人相魏者也。」代曰:「梁王,長主也,必不相張儀。張儀相,必右秦而左魏。犀首相,必右韓而左魏。薛公相,必右齊而左魏。梁王,長主也,必不便也。」王曰:「然則寡人孰相?」代曰:「莫若太子之自相。
新字:如耳見成陵君曰:『昔者魏伐趙,断羊腸,抜閼与,約斬趙,趙分而為二,所以不亡者,魏為従主也。今衛已迫亡,将西請事於秦。与其以秦醳衛,不如以魏醳衛,衛之徳魏必終无窮。』成陵君曰:『諾。』如耳見魏王曰:『臣有謁於衛。衛故周室之別也,其称小国,多宝器。今国迫於難而宝器不出者,其心以為攻衛醳衛不以王為主,故宝器雖出必不入於王也。臣窃料之,先言醳衛者必受衛者也。』如耳出,成陵君入,以其言見魏王。魏王聴其説,罷其兵,免成陵君,終身不見。九年,与秦王会臨晋。張儀、魏章皆帰于魏。魏相田需死,楚害張儀、犀首、薛公。楚相昭魚謂蘇代曰:『田需死,吾恐張儀、犀首、薛公有一人相魏者也。』代曰:『然相者欲誰而君便之?』昭魚曰:『吾欲太子之自相也。』代曰:『請為君北,必相之。』昭魚曰:『柰何?』対曰:『君其為梁王,代請説君。』昭魚曰:『柰何?』対曰:『代也従楚来,昭魚甚憂,曰:「田需死,吾恐張儀、犀首、薛公有一人相魏者也。」代曰:「梁王,長主也,必不相張儀。張儀相,必右秦而左魏。犀首相,必右韓而左魏。薛公相,必右斉而左魏。梁王,長主也,必不便也。」王曰:「然則寡人孰相?」代曰:「莫若太子之自相。
書き下し
如耳、成陵君に見えて曰く、『昔者魏趙を伐ち、羊腸を断ち、閼与を抜き、趙を約斬し、趙分れて二と為る。亡びざる所以の者は、魏従の主為ればなり。今衛已に亡ぶるに迫り、将に西のかた事を秦に請はんとす。其の秦を以て衛を醳かんよりは、魏を以て衛を醳くに如かず。衛の魏を徳とすること必ず終に窮まり無からん』と。成陵君曰く、『諾』と。如耳、魏王に見えて曰く、『臣衛に謁する有り。衛は故周室の別なり。其れ小国と称すれども、宝器多し。今国難に迫られて宝器出でざる者は、其の心以為へらく、衛を攻め衛を醳くは王を以て主と為さずと。故に宝器出づと雖も必ず王に入らざらん。臣窃かに之を料るに、先に衛を醳かんと言ふ者は必ず衛に受くる者なり』と。如耳出で、成陵君入り、其の言を以て魏王に見ゆ。魏王其の説を聴き、其の兵を罷め、成陵君を免じ、終身見えず。九年、秦王と臨晋に会す。張儀・魏章皆魏に帰す。魏の相田需死す。楚、張儀・犀首・薛公を害す。楚の相昭魚、蘇代に謂ひて曰く、『田需死す。吾張儀・犀首・薛公の一人魏に相たる者有らんことを恐るるなり』と。代曰く、『然らば相は誰を欲して君之を便とする』と。昭魚曰く、『吾太子の自ら相たらんことを欲す』と。代曰く、『請ふ君の為に北し、必ず之を相たらしめん』と。昭魚曰く、『奈何』と。対へて曰く、『君其れ梁王と為れ。代請ふ君に説かん』と。昭魚曰く、『奈何』と。対へて曰く、『代や楚より来る。昭魚甚だ憂ひて曰く、「田需死す。吾張儀・犀首・薛公の一人魏に相たる者有らんことを恐るるなり」と。代曰く、「梁王は長主なり。必ず張儀を相とせず。張儀相たらば、必ず秦を右にして魏を左にせん。犀首相たらば、必ず韓を右にして魏を左にせん。薛公相たらば、必ず斉を右にして魏を左にせん。梁王は長主なり。必ず便とせざるなり」と。王曰く、「然らば則ち寡人孰をか相とせん」と。代曰く、「太子の自ら相たるに若くは莫し。
現代語訳
如耳は成陵君に会って言った。『昔、魏が趙を討ったとき、羊腸坂を断ち、閼与を攻め落とし、趙を締め上げて斬り裂き、趙は二つに分かれた。それでも趙が滅びなかったのは、魏が合従の盟主だったからである。今、衛はすでに滅亡寸前で、西の秦に服属を願い出ようとしている。秦の力で衛が救われるよりは、魏の力で衛を救うほうがよい。そうすれば衛は魏への恩を永久に忘れないだろう』。成陵君は『よろしい』と言った。如耳は魏王に会って言った。『わたしは衛に参上してきた。衛はもともと周王室の分家で、小国とはいえ宝物が多い。今、国が危難に迫られているのに宝物を差し出さないのは、衛を攻めるのも衛を許すのも、王が主導されているのではないと考えているからである。だから宝物を差し出したとしても、それが王の手に入ることは決してないだろう。わたしがひそかに推し量るところ、真っ先に衛を許そうと言い出す者は、必ず衛から賄賂を受け取っている者である』。如耳が退出すると、成陵君が入ってきて、如耳から聞いたとおりの意見を魏王に述べた。魏王は如耳の説を信じて兵を引き上げ、成陵君を罷免し、生涯二度と会わなかった。九年、秦王と臨晋で会見した。張儀と魏章がともに魏に帰ってきた。魏の宰相田需(でんじゅ)が死んだ。楚は張儀・犀首・薛公(せつこう、孟嘗君)を煙たがっていた。楚の宰相昭魚(しょうぎょ)が蘇代(そだい)に言った。『田需が死んだ。張儀・犀首・薛公のうち誰かが魏の宰相になるのではないかと心配だ』。蘇代は言った。『では、宰相に誰がなればあなたにとって好都合なのか』。昭魚は言った。『魏の太子自身が宰相になってくれればよいと思う』。蘇代は言った。『あなたのために北の魏へ行き、必ず太子を宰相にさせてみせよう』。昭魚は言った。『どうやって』。蘇代は答えた。『あなたが梁王の役になってください。わたしがあなたを説いてみせる』。昭魚は言った。『どのように説くのか』。蘇代は答えた。『(梁王にこう言う。)わたしは楚から来た。楚の昭魚がたいへん心配して言っていた。「田需が死んだ。張儀・犀首・薛公のうち誰かが魏の宰相になるのではないか」と。わたしは言った。「梁王は立派な君主だから、決して張儀を宰相にはしない。張儀が宰相になれば、必ず秦を重んじて魏を軽んじるだろう。犀首が宰相になれば、必ず韓を重んじて魏を軽んじるだろう。薛公が宰相になれば、必ず斉を重んじて魏を軽んじるだろう。梁王は立派な君主だから、それが不都合だとお分かりのはずだ」と。すると王は「では、わたしは誰を宰相にすればよいか」と問われるだろう。わたしは答える。「太子ご自身が宰相になられるのが一番だ。
解説
関連する章句
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史記 田敬仲完世家今者臣門に立つ。客言ふ有りて曰く、魏王韓馮・張儀に謂ひて曰く、『煮棗将に抜けんとし、斉の兵又進む。子来りて寡人を救はば則ち可なり。寡人を救はずんば、寡人抜くこと能はず』と。此れ特だ転辞なり。秦・韓の兵東する毋くんば、旬余にして、則ち魏氏韓を転じて秦に従ひ、秦張儀を逐ひ、臂を交へて斉・楚に事へん。此れ公の事成るなり」と。田軫曰く、「奈何ぞ東する無からしめん」と。対へて曰く、「韓馮の魏を救ふの辞は、必ず韓王に謂ひて『馮以て魏の為にす』と曰はず。必ず曰はん、『馮将に秦・韓の兵を以て東のかた斉・宋を卻けんとす。馮因りて三国の兵を摶め、屈丐の獘に乗じ、南のかた楚を割かば、故地必ず尽く之を得ん』と。張儀の魏を救ふの辞は、必ず秦王に謂ひて『儀以て魏の為にす』と曰はず。必ず曰はん、『儀且に秦・韓の兵を以て東のかた斉・宋を距がんとす。儀将に三国の兵を摶め、屈丐の獘に乗じ、南のかた楚を割き、名は亡国を存し、実は三川を伐ちて帰らんとす。此れ王業なり』と。公、楚王をして韓氏に地を与へしめ、秦をして和を制せしめ、秦王に謂ひて『請ふ韓に地を与へん。而して王以て三川に施せ。韓氏の兵用ひずして地を楚に得たり』と曰はしめよ。韓馮の東兵の辞且に秦に謂ひて何とか曰はん。曰く『秦の兵用ひずして三川を得、楚・韓を伐ちて以て魏を窘めば、魏氏敢へて東せず。是れ斉を孤にするなり』と。張儀の東兵の辞且に何とか謂はん。曰く『秦・韓地を欲して兵案ずること有り。声威魏に発し、魏氏の斉・楚を失はざらんと欲する者資有り』と。魏氏秦・韓を転じて争ひて斉・楚に事へ、楚王欲して地を与ふること無く、公秦・韓の兵をして用ひずして地を得しむ。一大徳有るなり。秦・韓の王、韓馮・張儀に劫かされて兵を東して以て魏を徇服せば、公常に左券を執りて以て秦・韓に責めん。此れ其の公に善くして張子を悪むこと資多し」と。十三年、秦の恵王卒す。二十三年、秦と撃ちて楚を重丘に敗る。
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史記 魏世家太子の自ら相たらば、是れ三人の者皆太子を以て常相に非ずと為し、皆将に務めて其の国を以て魏に事へ、丞相の璽を得んと欲せんとす。魏の彊きを以て、而して三万乗の国之を輔けば、魏必ず安からん。故に曰く太子の自ら相たるに若くは莫しと」』と。遂に北して梁王に見え、此を以て之に告ぐ。太子果たして魏に相たり。十年、張儀死す。十一年、秦の武王と応に会す。十二年、太子秦に朝す。秦来りて我が皮氏を伐つも、未だ抜かずして解く。十四年、秦来りて武王后を帰す。十六年、秦我が蒲反・陽晋・封陵を抜く。十七年、秦と臨晋に会す。秦我に蒲反を予ふ。十八年、秦と楚を伐つ。廿一年、斉・韓と共に秦の軍を函谷に敗る。廿三年、秦復た我に河外及び封陵を予へて和を為す。哀王卒し、子昭王立つ。昭王元年、秦我が襄城を抜く。二年、秦と戦ひ、我利あらず。三年、韓を佐けて秦を攻む。秦の将白起、我が軍を伊闕に敗ること廿四万。六年、秦に河東の地方四百里を予ふ。芒卯詐りを以て重んぜらる。七年、秦我が城大小六十一を抜く。八年、秦の昭王西帝と為り、斉の湣王東帝と為る。月余にして、皆復た王と称して帝を帰す。九年、秦我が新垣・曲陽の城を抜く。十年、斉宋を滅ぼす。宋王我が温に死す。十二年、秦・趙・韓・燕と共に斉を伐ち、之を済西に敗る。湣王出でて亡ぐ。燕独り臨菑に入る。秦王と西周に会す。十三年、秦我が安城を抜く。兵大梁に到りて、去る。十八年、秦郢を抜き、楚王陳に徙る。十九年、昭王卒し、子安釐王立つ。安釐王元年、秦我が両城を抜く。二年、又我が二城を抜き、大梁の下に軍す。韓来り救ふ。秦に温を予へて以て和す。三年、秦我が四城を抜き、首を斬ること四万。
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史記 魏世家四年、秦我及び韓・趙を破り、十五万人を殺し、我が将芒卯を走らす。魏の将段干子、秦に南陽を予へて以て和せんことを請ふ。蘇代、魏王に謂ひて曰く、『璽を欲する者は段干子なり。地を欲する者は秦なり。今王地を欲する者をして璽を制せしめ、璽を欲する者をして地を制せしむ。魏氏の地尽きずんば則ち已むを知らず。且つ夫れ地を以て秦に事ふるは、譬へば猶ほ薪を抱きて火を救ふがごとし。薪尽きずんば、火滅えず』と。王曰く、『是れ則ち然り。然りと雖も、事始めて已に行はる。更むべからず』と。対へて曰く、『王独り夫の博の梟を貴ぶ所以の者を見ずや。便なれば則ち食ひ、便ならざれば則ち止む。今王曰く「事始めて已に行はる、更むべからず」と。是れ何ぞ王の智を用ふること梟を用ふるに如かざるや』と。九年、秦我が懐を抜く。十年、秦の太子外に魏に質となりて死す。十一年、秦我が郪丘を抜く。秦の昭王左右に謂ひて曰く、『今時の韓・魏は始めと孰れか彊き』と。対へて曰く、『始めの彊きに如かず』と。王曰く、『今時の如耳・魏斉は孟嘗・芒卯と孰れか賢なる』と。対へて曰く、『如かず』と。王曰く、『孟嘗・芒卯の賢を以て、彊き韓・魏を率ゐて以て秦を攻むるも、猶ほ寡人を奈何ともする無し。今無能の如耳・魏斉を以て弱き韓・魏を率ゐて以て秦を伐つ。其の寡人を奈何ともする無きこと亦明らかなり』と。左右皆曰く、『甚だ然り』と。中旗琴に馮りて対へて曰く、『王の天下を料ること過てり。晋の六卿の時に当たり、知氏最も彊し。范・中行を滅ぼし、又韓・魏の兵を率ゐて以て趙襄子を晋陽に囲み、晋水を決して以て晋陽の城に灌ぐ。湛まざる者三版。知伯水を行り、魏桓子御し、韓康子参乗と為る。知伯曰く、「吾始め水の以て人の国を亡ぼすべきを知らず、乃ち今之を知る」と。汾水は以て安邑に灌ぐべく、絳水は以て平陽に灌ぐべし。
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戦国策・田需死田需死す。昭魚蘇代に謂いて曰く、「田需死す、吾恐らくは張儀・薛公・犀首の一人相魏する者有らんことを」と。代曰く、「然らば則ち相たる者誰を以てすれば君に便ならんか」と。昭魚曰く、「吾太子の自ら相たらんことを欲す」と。代曰く、「請う君の為に北のかた梁王に見(まみ)えん、必ず之を相とせん」と。昭魚曰く、「奈何(いかん)せん」と。代曰く、「君其れ梁王と為れ、代請う君に説かん」と。昭魚曰く、「奈何せん」と。対(こた)えて曰く、「代や楚より来たり、昭魚甚だ憂う。代曰く、『君何を憂うるか』と。曰く、『田需死す、吾恐らくは張儀・薛公・犀首一人相魏する者有らんことを』と。代曰く、『憂うる勿かれ。梁王は長主なり、必ず張儀を相とせざらん。張儀魏に相たらば、必ず秦を右にして魏を左にせん。薛公魏に相たらば、必ず齊を右にして魏を左にせん。犀首魏に相たらば、必ず韓を右にして魏を左にせん。梁王は長主なり、必ず相たらしめざらん』と。代曰く、『太子の自ら相たるに莫如(し)かず。是れ三人なる者皆太子を以て固より相為らずと為し、皆将に務めて其の国を以て魏に事(つか)えしめ、丞相の璽を欲せん。魏の強きを以て、三万乗の国を持して之を輔けしめば、魏必ず安からん。故に曰く、太子自ら相たるに如かず』と」と。遂に北のかた梁王に見え、此の語を以て之に告げ、太子果たして自ら相たり。
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史記 韓世家対へて曰く、「秦王の言に曰く『請ふ南鄭・藍田に道し、兵を楚に出だして以て公を待たん』と。殆ど合はざらん」と。公仲曰く、「子以て果たすと為すか」と。対へて曰く、「秦王必ず張儀の故智を祖とせん。楚の威王梁を攻むるや、張儀秦王に謂ひて曰く、『楚と魏を攻めば、魏折れて楚に入らん。韓は固より其の与国なり。是れ秦孤なり。兵を出だして以て之を到らしめ、魏・楚大いに戦はば、秦西河の外を取りて以て帰るに如かず』と。今其の状陽に韓に与すと言ひて、其の実陰に楚に善くす。公秦を待ちて到らば、必ず軽々しく楚と戦はん。楚陰かに秦の用ひられざるを得ば、必ず易く公と相支へん。公戦ひて楚に勝たば、遂に公と楚に乗じ、三川に施して帰らん。公戦ひて楚に勝たずんば、楚三川を塞ぎて之を守らん。公救ふこと能はざるなり。窃かに公の為に之を患ふ。司馬庚三たび郢に反り、甘茂、昭魚と商於に遇ふ。其の言は璽を収むと言ふも、実は約有るに類す」と。公仲恐れて曰く、「然らば則ち奈何」と。曰く、「公必ず韓を先にして秦を後にし、身を先にして張儀を後にせよ。公亟かに国を以て斉・楚に合するに如かず。斉・楚必ず国を公に委ねん。公の悪む所の者は張儀なり。其の実猶ほ秦無からざるなり」と。是に於て楚雍氏の囲みを解く。蘇代又秦の太后の弟羋戎に謂ひて曰く、「公叔伯嬰、秦・楚の蟣蝨を内れんことを恐る。公何ぞ韓の為に質子を楚に求めざる。楚王聴きて質子を韓に入れば、則ち公叔伯嬰、秦・楚の蟣蝨を以て事と為さざるを知り、必ず韓を以て秦・楚に合せん。秦・楚韓を挟みて以て魏を窘めば、魏氏敢へて斉に合せず。是れ斉孤なり。公又秦の為に質子を楚に求めよ。楚聴かずんば、怨み韓に結ばれん。韓斉・魏を挟みて以て楚を囲まば、楚必ず公を重んぜん。公秦・楚の重きを挟みて以て徳を韓に積まば、公叔伯嬰必ず国を以て公を待たん」と。是に於て蟣蝨竟に韓に帰るを得ず。韓咎を立てて太子と為す。斉・魏の王来る。
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史記 魏世家鄒衍・淳于髡・孟軻皆梁に至る。梁の恵王曰く、『寡人不佞にして、兵三たび外に折け、太子虜にせられ、上将死し、国以て空虚なり。以て先君の宗廟社稷を羞かしむ。寡人甚だ之を丑づ。叟千里を遠しとせずして、辱くも幸ひに獘邑の廷に至る。将に何を以てか吾が国を利せんとする』と。孟軻曰く、『君以て利を言ふこと是の若くなるべからず。夫れ君利を欲すれば則ち大夫利を欲し、大夫利を欲すれば則ち庶人利を欲す。上下利を争へば、国則ち危ふし。人君と為りては、仁義のみ。何ぞ利を以て為さん』と。卅六年、復た斉王と甄に会す。是の歳、恵王卒し、子襄王立つ。襄王元年、諸侯と徐州に会し、相王とす。父恵王を追尊して王と為す。五年、秦我が龍賈の軍四万五千を雕陰に敗り、我が焦・曲沃を囲む。秦に河西の地を予ふ。六年、秦と応に会す。秦我が汾陰・皮氏・焦を取る。魏楚を伐ち、之を陘山に敗る。七年、魏尽く上郡を秦に入る。秦我が蒲陽を降す。八年、秦我に焦・曲沃を帰す。十二年、楚我を襄陵に敗る。諸侯の執政、秦の相張儀と齧桑に会す。十三年、張儀魏に相たり。魏に女子の化して丈夫と為る有り。秦我が曲沃・平周を取る。十六年、襄王卒し、子哀王立つ。張儀復た秦に帰す。哀王元年、五国共に秦を攻むるも、勝たずして去る。二年、斉我を観津に敗る。五年、秦樗里子をして伐ちて我が曲沃を取らしめ、犀首を岸門に走らす。六年、秦来りて公子政を立てて太子と為す。秦と臨晋に会す。七年、斉を攻む。秦と燕を伐つ。八年、衛を伐ち、列城二を抜く。衛君之を患ふ。如耳、衛君に見えて曰く、『請ふ魏の兵を罷め、成陵君を免ぜしめん。可ならんか』と。衛君曰く、『先生果たして能くせば、孤請ふ世世衛を以て先生に事へん』と。
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