史記 / 韓世家
子宣惠王立。宣惠王五年,張儀相秦。八年,魏敗我將韓舉。十一年,君號爲王。與趙會區鼠。十四,秦伐敗我鄢。十六年,秦敗我修魚,虜得韓將鯁、申差於濁澤。韓氏急,公仲謂韓王曰:「與國非可恃也。今秦之欲伐楚久矣,王不如因張儀爲和於秦,賂以一名都,具甲,與之南伐楚,此以一易二之計也。」韓王曰:「善。」乃警公仲之行,將西購於秦。楚王聞之大恐,召陳軫告之。陳軫曰:「秦之欲伐楚久矣,今又得韓之名都一而具甲,秦韓并兵而伐楚,此秦所禱祀而求也。今已得之矣,楚國必伐矣。王聽臣爲之警四境之内,起師言救韓,命戰車滿道路,發信臣,多其車,重其幣,使信王之救己也。縱韓不能聽我,韓必德王也,必不爲鴈行以來,是秦韓不和也,兵雖至,楚不大病也。爲能聽我絶和於秦,秦必大怒,以厚怨韓。韓之南交楚,必輕秦;輕秦,其應秦必不敬:是因秦、韓之兵而免楚國之患也。」楚王曰:「善。」乃警四境之内,興師言救韓。命戰車滿道路,發信臣,多其車,重其幣。謂韓王曰:「不穀國雖小,已悉發之矣。願大國遂肆志於秦,不穀將以楚殉韓。」韓王聞之大説,乃止公仲之行。公仲曰:「不可。夫以實伐我者秦也,以虚名救我者楚也。
新字:子宣恵王立。宣恵王五年,張儀相秦。八年,魏敗我将韓舉。十一年,君号為王。与趙会区鼠。十四,秦伐敗我鄢。十六年,秦敗我修魚,虜得韓将鯁、申差於濁沢。韓氏急,公仲謂韓王曰:「与国非可恃也。今秦之欲伐楚久矣,王不如因張儀為和於秦,賂以一名都,具甲,与之南伐楚,此以一易二之計也。」韓王曰:「善。」乃警公仲之行,将西購於秦。楚王聞之大恐,召陳軫告之。陳軫曰:「秦之欲伐楚久矣,今又得韓之名都一而具甲,秦韓并兵而伐楚,此秦所祷祀而求也。今已得之矣,楚国必伐矣。王聴臣為之警四境之内,起師言救韓,命戦車満道路,発信臣,多其車,重其幣,使信王之救己也。縦韓不能聴我,韓必徳王也,必不為鴈行以来,是秦韓不和也,兵雖至,楚不大病也。為能聴我絶和於秦,秦必大怒,以厚怨韓。韓之南交楚,必軽秦;軽秦,其応秦必不敬:是因秦、韓之兵而免楚国之患也。」楚王曰:「善。」乃警四境之内,興師言救韓。命戦車満道路,発信臣,多其車,重其幣。謂韓王曰:「不穀国雖小,已悉発之矣。願大国遂肆志於秦,不穀将以楚殉韓。」韓王聞之大説,乃止公仲之行。公仲曰:「不可。夫以実伐我者秦也,以虚名救我者楚也。
書き下し
子宣恵王立つ。宣恵王五年、張儀秦に相たり。八年、魏我が将韓挙を敗る。十一年、君号して王と為す。趙と区鼠に会す。十四、秦伐ちて我を鄢に敗る。十六年、秦我を修魚に敗り、韓の将鯁・申差を濁沢に虜得す。韓氏急なり。公仲、韓王に謂ひて曰く、「与国は恃むべきに非ざるなり。今秦の楚を伐たんと欲すること久し。王張儀に因りて和を秦に為し、賂ふに一名都を以てし、甲を具へて、之と南のかた楚を伐つに如かず。此れ一を以て二に易ふるの計なり」と。韓王曰く、「善し」と。乃ち公仲の行を警め、将に西のかた秦に購はんとす。楚王之を聞きて大いに恐れ、陳軫を召して之に告ぐ。陳軫曰く、「秦の楚を伐たんと欲すること久し。今又韓の名都一を得て甲を具へ、秦・韓兵を并せて楚を伐つ。此れ秦の禱祀して求むる所なり。今已に之を得たり。楚国必ず伐たれん。王臣に聴きて之が為に四境の内を警め、師を起こして韓を救ふと言ひ、戦車をして道路に満たしめ、信臣を発し、其の車を多くし、其の幣を重くし、王の己を救ふを信ぜしめよ。縦ひ韓我に聴くこと能はずとも、韓必ず王を徳とせん。必ず鴈行して以て来らず。是れ秦・韓和せざるなり。兵至ると雖も、楚大いに病まず。為し能く我に聴きて和を秦に絶たば、秦必ず大いに怒り、以て厚く韓を怨まん。韓の南のかた楚に交はるや、必ず秦を軽んぜん。秦を軽んずれば、其の秦に応ずること必ず敬まず。是れ秦・韓の兵に因りて楚国の患ひを免るるなり」と。楚王曰く、「善し」と。乃ち四境の内を警め、師を興して韓を救ふと言ふ。戦車をして道路に満たしめ、信臣を発し、其の車を多くし、其の幣を重くす。韓王に謂ひて曰く、「不穀の国小なりと雖も、已に悉く之を発せり。願はくは大国遂に志を秦に肆にせよ。不穀将に楚を以て韓に殉ぜんとす」と。韓王之を聞きて大いに説び、乃ち公仲の行を止む。公仲曰く、「不可なり。夫れ実を以て我を伐つ者は秦なり。虚名を以て我を救ふ者は楚なり。
現代語訳
(昭侯が死に、)子の宣恵王が立った。宣恵王の五年、張儀が秦の宰相となった。八年、魏がわが将の韓挙(かんきょ)を破った。十一年、君主の称号を王とした。趙と区鼠で会見した。十四年、秦が攻めて来て、わが軍を鄢(えん)で破った。十六年、秦がわが軍を修魚(しゅうぎょ)で破り、韓の将の鯁(こう)と申差(しんさ)を濁沢で捕らえた。韓は危急に陥った。公仲(こうちゅう)が韓王に言った。「同盟国は頼みにできない。今、秦は長いこと楚を討ちたいと思っている。王は張儀を通じて秦と和睦し、名だたる都市を一つ贈り、武装した兵をそろえて秦と共に南の楚を討つのがよい。これは一つを失って二つを得る計略である」。韓王は「よろしい」と言い、公仲の出発の準備を整えさせ、西へ行って秦と取引させようとした。楚王はこれを聞いて大いに恐れ、陳軫(ちんしん)を呼んでこのことを告げた。陳軫は言った。「秦は長いこと楚を討ちたいと思っていた。今また韓の名だたる都市を一つ得て、兵もそろえ、秦と韓が兵を合わせて楚を討つ。これこそ秦が神に祈ってまで求めていたことで、今それが手に入ったのだ。楚は必ず討たれる。王がわたしの言うことを聞いてくださるなら、韓のために国内の四方に動員令を出し、軍を起こして韓を救うと宣言し、戦車を道路に満たし、信頼できる使者を送り、その車を多くし、贈り物を手厚くして、王が韓を救うのだと信じさせなさい。たとえ韓がこちらの言うことを聞かなくても、韓は必ず王に恩を感じ、秦と雁の列のように足並みをそろえて攻めてくることはないだろう。これで秦と韓の仲は割れる。兵が来ても、楚が大きな痛手を受けることはない。もし韓がこちらの言うことを聞いて秦との和睦を絶てば、秦は必ず大いに怒り、韓を深く恨むだろう。韓は南の楚と結べば、必ず秦を軽んじる。秦を軽んじれば、秦への応対は必ず無礼になる。こうして秦と韓の兵を利用して、楚の国の災いを免れることができる」。楚王は「よろしい」と言い、国内の四方に動員令を出し、軍を起こして韓を救うと宣言した。戦車を道路に満たし、信頼できる使者を送り、その車を多くし、贈り物を手厚くした。そして韓王にこう言わせた。「わが国は小さいが、すでに兵をすべて出動させた。どうか貴国は秦に対して思うままに振る舞ってほしい。わたしは楚を挙げて韓と運命を共にするつもりだ」。韓王はこれを聞いて大いに喜び、公仲の出発を取りやめさせた。公仲は言った。「それはいけない。実際にわが国を攻めているのは秦であり、名ばかりの口約束で救おうとしているのは楚である。
解説
関連する章句
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戦国策・秦韓戰於濁澤秦・韓、濁沢に戦う、韓氏急なり。公仲明、韓王に謂いて曰く、「与国は恃むべからず。今、秦の心楚を伐たんと欲す、王は張儀に因りて秦に和を為すに如かず、之に賂うに一名都を以てし、之と与に楚を伐たん。此れ一を以て二に易うるの計なり。」韓王曰く、「善し。」乃ち公仲の行を儆め、将に西のかた秦に講ぜんとす。楚王之を聞きて大いに恐れ、陳軫を召して之に告ぐ。陳軫曰く、「秦の我を伐たんと欲すること久し、今又た韓の名都一を得て甲を具え、秦・韓兵を并せて南のかた郷わば、此れ秦の廟祠して求むる所以なり。今已に之を得たり、楚国必ず伐たれん。王臣に聴かば、之が為に四境の内を儆め師を選び、韓を救うと言い、戦車をして道路に満たしめ、信臣を発し、其の車を多くし、其の幣を重くし、王の己を救うを信ぜしめよ。縦い韓我に聴くこと能わずと為すも、韓必ず王を徳とせん、必ず鴈行を為して以て来たらず。是れ秦・韓和せず、兵至ると雖も、楚国大いに病まざるなり。能く我に聴きて秦に和を絶つ為さば、秦必ず大いに怒り、以て韓を厚く怨まん。韓楚の救いを得れば、必ず秦を軽んぜん。秦を軽んずれば、其の秦に応ずること必ず敬せざらん。是れ我秦・韓の兵を困しめて、楚国の患いを免るるなり。」楚王大いに説び、乃ち四境の内を儆め師を選び、韓を救うと言い、信臣を発し、其の車を多くし、其の幣を重くす。韓王に謂いて曰く、「弊邑小なりと雖も、已に悉く之を起こせり。願わくは大国遂に意を秦に肆にせよ、弊邑将に楚を以て韓に殉ぜんとす。」韓王大いに説び、乃ち公仲を止む。公仲曰く、「不可なり、夫れ実を以て我に告ぐる者は、秦なり。虚名を以て我を救う者は、楚なり。楚の虚名を恃みて、強秦の敵を軽絶せば、必ず天下に笑わるるなり。且つ楚・韓は兄弟の国に非ざるなり、又た素より約して秦を伐たんことを謀るに非ざるなり。秦楚を伐たんと欲す、楚因りて以て師を起こし韓を救うと言う、此れ必ず陳軫の謀なり。且つ王使いを以て秦に報ぜしめたり、今行わずんば、是れ秦を欺くなり。夫れ強秦の禍を軽んじて、楚の謀臣を信ずれば、王必ず之を悔いん。」韓王聴かず、遂に秦に和を絶つ。秦果たして大いに怒り、師を興して韓氏と岸門に戦う、楚の救い至らず、韓氏大いに敗る。韓氏の兵削弱に非ざるなり、民蒙愚に非ざるなり、兵秦の為に禽にせられ、智楚に笑わる、過ちて陳軫に聴き、計を韓明に失えばなり。
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史記 韓世家王楚の虚名を恃みて、軽々しく彊秦の敵を絶たば、王必ず天下の大笑と為らん。且つ楚・韓は兄弟の国に非ざるなり。又素より約して秦を伐たんと謀るに非ざるなり。已に伐つの形有り、因りて兵を発して韓を救ふと言ふ。此れ必ず陳軫の謀なり。且つ王已に人をして秦に報ぜしむ。今行かざるは、是れ秦を欺くなり。夫れ軽々しく彊秦を欺きて楚の謀臣を信ぜば、恐らくは王必ず之を悔いん」と。韓王聴かず、遂に秦に絶つ。秦因りて大いに怒り、甲を益して韓を伐ち、大いに戦ふ。楚の救ひ韓に至らず。十九年、大いに我を岸門に破る。太子倉秦に質となりて以て和す。二十一年、秦と共に楚を攻め、楚の将屈丐を敗り、首を斬ること八万を丹陽に於てす。是の歳、宣恵王卒し、太子倉立つ、是を襄王と為す。襄王四年、秦の武王と臨晋に会す。其の秋、秦甘茂をして我が宜陽を攻めしむ。五年、秦我が宜陽を抜き、首を斬ること六万。秦の武王卒す。六年、秦復た我に武遂を与ふ。九年、秦復た我が武遂を取る。十年、太子嬰秦に朝して帰る。十一年、秦我を伐ち、穣を取る。秦と楚を伐ち、楚の将唐眛を敗る。十二年、太子嬰死す。公子咎・公子蟣蝨争ひて太子と為らんとす。時に蟣蝨楚に質たり。蘇代、韓咎に謂ひて曰く、「蟣蝨亡げて楚に在り。楚王之を内れんと欲すること甚だし。今楚の兵十余万方城の外に在り。公何ぞ楚王をして万室の都を雍氏の旁に築かしめざる。韓必ず兵を起こして以て之を救はん。公必ず将たらん。公因りて韓・楚の兵を以て蟣蝨を奉じて之を内れよ。其の公に聴くこと必せり。必ず楚・韓を以て公を封ぜん」と。韓咎其の計に従ふ。楚雍氏を囲む。韓救ひを秦に求む。秦未だ為に発せず。公孫昧をして韓に入らしむ。公仲曰く、「子秦を以て且に韓を救はんとすと為すか」と。
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史記 韓世家対へて曰く、「秦王の言に曰く『請ふ南鄭・藍田に道し、兵を楚に出だして以て公を待たん』と。殆ど合はざらん」と。公仲曰く、「子以て果たすと為すか」と。対へて曰く、「秦王必ず張儀の故智を祖とせん。楚の威王梁を攻むるや、張儀秦王に謂ひて曰く、『楚と魏を攻めば、魏折れて楚に入らん。韓は固より其の与国なり。是れ秦孤なり。兵を出だして以て之を到らしめ、魏・楚大いに戦はば、秦西河の外を取りて以て帰るに如かず』と。今其の状陽に韓に与すと言ひて、其の実陰に楚に善くす。公秦を待ちて到らば、必ず軽々しく楚と戦はん。楚陰かに秦の用ひられざるを得ば、必ず易く公と相支へん。公戦ひて楚に勝たば、遂に公と楚に乗じ、三川に施して帰らん。公戦ひて楚に勝たずんば、楚三川を塞ぎて之を守らん。公救ふこと能はざるなり。窃かに公の為に之を患ふ。司馬庚三たび郢に反り、甘茂、昭魚と商於に遇ふ。其の言は璽を収むと言ふも、実は約有るに類す」と。公仲恐れて曰く、「然らば則ち奈何」と。曰く、「公必ず韓を先にして秦を後にし、身を先にして張儀を後にせよ。公亟かに国を以て斉・楚に合するに如かず。斉・楚必ず国を公に委ねん。公の悪む所の者は張儀なり。其の実猶ほ秦無からざるなり」と。是に於て楚雍氏の囲みを解く。蘇代又秦の太后の弟羋戎に謂ひて曰く、「公叔伯嬰、秦・楚の蟣蝨を内れんことを恐る。公何ぞ韓の為に質子を楚に求めざる。楚王聴きて質子を韓に入れば、則ち公叔伯嬰、秦・楚の蟣蝨を以て事と為さざるを知り、必ず韓を以て秦・楚に合せん。秦・楚韓を挟みて以て魏を窘めば、魏氏敢へて斉に合せず。是れ斉孤なり。公又秦の為に質子を楚に求めよ。楚聴かずんば、怨み韓に結ばれん。韓斉・魏を挟みて以て楚を囲まば、楚必ず公を重んぜん。公秦・楚の重きを挟みて以て徳を韓に積まば、公叔伯嬰必ず国を以て公を待たん」と。是に於て蟣蝨竟に韓に帰るを得ず。韓咎を立てて太子と為す。斉・魏の王来る。
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史記 田敬仲完世家今者臣門に立つ。客言ふ有りて曰く、魏王韓馮・張儀に謂ひて曰く、『煮棗将に抜けんとし、斉の兵又進む。子来りて寡人を救はば則ち可なり。寡人を救はずんば、寡人抜くこと能はず』と。此れ特だ転辞なり。秦・韓の兵東する毋くんば、旬余にして、則ち魏氏韓を転じて秦に従ひ、秦張儀を逐ひ、臂を交へて斉・楚に事へん。此れ公の事成るなり」と。田軫曰く、「奈何ぞ東する無からしめん」と。対へて曰く、「韓馮の魏を救ふの辞は、必ず韓王に謂ひて『馮以て魏の為にす』と曰はず。必ず曰はん、『馮将に秦・韓の兵を以て東のかた斉・宋を卻けんとす。馮因りて三国の兵を摶め、屈丐の獘に乗じ、南のかた楚を割かば、故地必ず尽く之を得ん』と。張儀の魏を救ふの辞は、必ず秦王に謂ひて『儀以て魏の為にす』と曰はず。必ず曰はん、『儀且に秦・韓の兵を以て東のかた斉・宋を距がんとす。儀将に三国の兵を摶め、屈丐の獘に乗じ、南のかた楚を割き、名は亡国を存し、実は三川を伐ちて帰らんとす。此れ王業なり』と。公、楚王をして韓氏に地を与へしめ、秦をして和を制せしめ、秦王に謂ひて『請ふ韓に地を与へん。而して王以て三川に施せ。韓氏の兵用ひずして地を楚に得たり』と曰はしめよ。韓馮の東兵の辞且に秦に謂ひて何とか曰はん。曰く『秦の兵用ひずして三川を得、楚・韓を伐ちて以て魏を窘めば、魏氏敢へて東せず。是れ斉を孤にするなり』と。張儀の東兵の辞且に何とか謂はん。曰く『秦・韓地を欲して兵案ずること有り。声威魏に発し、魏氏の斉・楚を失はざらんと欲する者資有り』と。魏氏秦・韓を転じて争ひて斉・楚に事へ、楚王欲して地を与ふること無く、公秦・韓の兵をして用ひずして地を得しむ。一大徳有るなり。秦・韓の王、韓馮・張儀に劫かされて兵を東して以て魏を徇服せば、公常に左券を執りて以て秦・韓に責めん。此れ其の公に善くして張子を悪むこと資多し」と。十三年、秦の恵王卒す。二十三年、秦と撃ちて楚を重丘に敗る。
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