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史記 / 魏世家

太子之自相,是三人者皆以太子爲非常相也,皆將務以其國事魏,欲得丞相璽也。以魏之彊,而三萬乘之國輔之,魏必安矣。故曰莫若太子之自相也。」』遂北見梁王,以此告之。太子果相魏。十年,張儀死。十一年,與秦武王會應。十二年,太子朝於秦。秦來伐我皮氏,未拔而解。十四年,秦來歸武王后。十六年,秦拔我蒲反、陽晉、封陵。十七年,與秦會臨晉。秦予我蒲反。十八年,與秦伐楚。廿一年,與齊、韓共敗秦軍函谷。廿三年,秦復予我河外及封陵爲和。哀王卒,子昭王立。昭王元年,秦拔我襄城。二年,與秦戰,我不利。三年,佐韓攻秦,秦將白起敗我軍伊闕廿四萬。六年,予秦河東地方四百里。芒卯以詐重。七年,秦拔我城大小六十一。八年,秦昭王爲西帝,齊湣王爲東帝,月餘,皆復稱王歸帝。九年,秦拔我新垣、曲陽之城。十年,齊滅宋,宋王死我温。十二年,與秦、趙、韓、燕共伐齊,敗之濟西,湣王出亡。燕獨入臨菑。與秦王會西周。十三年,秦拔我安城。兵到大梁,去。十八年,秦拔郢,楚王徙陳。十九年,昭王卒,子安釐王立。安釐王元年,秦拔我兩城。二年,又拔我二城,軍大梁下,韓來救,予秦温以和。三年,秦拔我四城,斬首四萬。

新字:太子之自相,是三人者皆以太子為非常相也,皆将務以其国事魏,欲得丞相璽也。以魏之彊,而三万乗之国輔之,魏必安矣。故曰莫若太子之自相也。」』遂北見梁王,以此告之。太子果相魏。十年,張儀死。十一年,与秦武王会応。十二年,太子朝於秦。秦来伐我皮氏,未抜而解。十四年,秦来帰武王后。十六年,秦抜我蒲反、陽晋、封陵。十七年,与秦会臨晋。秦予我蒲反。十八年,与秦伐楚。廿一年,与斉、韓共敗秦軍函谷。廿三年,秦復予我河外及封陵為和。哀王卒,子昭王立。昭王元年,秦抜我襄城。二年,与秦戦,我不利。三年,佐韓攻秦,秦将白起敗我軍伊闕廿四万。六年,予秦河東地方四百里。芒卯以詐重。七年,秦抜我城大小六十一。八年,秦昭王為西帝,斉湣王為東帝,月余,皆復称王帰帝。九年,秦抜我新垣、曲陽之城。十年,斉滅宋,宋王死我温。十二年,与秦、趙、韓、燕共伐斉,敗之済西,湣王出亡。燕独入臨菑。与秦王会西周。十三年,秦抜我安城。兵到大梁,去。十八年,秦抜郢,楚王徙陳。十九年,昭王卒,子安釐王立。安釐王元年,秦抜我両城。二年,又抜我二城,軍大梁下,韓来救,予秦温以和。三年,秦抜我四城,斬首四万。

書き下し

太子の自ら相たらば、是れ三人の者皆太子を以て常相に非ずと為し、皆将に務めて其の国を以て魏に事へ、丞相の璽を得んと欲せんとす。魏の彊きを以て、而して三万乗の国之を輔けば、魏必ず安からん。故に曰く太子の自ら相たるに若くは莫しと」』と。遂に北して梁王に見え、此を以て之に告ぐ。太子果たして魏に相たり。十年、張儀死す。十一年、秦の武王と応に会す。十二年、太子秦に朝す。秦来りて我が皮氏を伐つも、未だ抜かずして解く。十四年、秦来りて武王后を帰す。十六年、秦我が蒲反・陽晋・封陵を抜く。十七年、秦と臨晋に会す。秦我に蒲反を予ふ。十八年、秦と楚を伐つ。廿一年、斉・韓と共に秦の軍を函谷に敗る。廿三年、秦復た我に河外及び封陵を予へて和を為す。哀王卒し、子昭王立つ。昭王元年、秦我が襄城を抜く。二年、秦と戦ひ、我利あらず。三年、韓を佐けて秦を攻む。秦の将白起、我が軍を伊闕に敗ること廿四万。六年、秦に河東の地方四百里を予ふ。芒卯詐りを以て重んぜらる。七年、秦我が城大小六十一を抜く。八年、秦の昭王西帝と為り、斉の湣王東帝と為る。月余にして、皆復た王と称して帝を帰す。九年、秦我が新垣・曲陽の城を抜く。十年、斉宋を滅ぼす。宋王我が温に死す。十二年、秦・趙・韓・燕と共に斉を伐ち、之を済西に敗る。湣王出でて亡ぐ。燕独り臨菑に入る。秦王と西周に会す。十三年、秦我が安城を抜く。兵大梁に到りて、去る。十八年、秦郢を抜き、楚王陳に徙る。十九年、昭王卒し、子安釐王立つ。安釐王元年、秦我が両城を抜く。二年、又我が二城を抜き、大梁の下に軍す。韓来り救ふ。秦に温を予へて以て和す。三年、秦我が四城を抜き、首を斬ること四万。

現代語訳

太子ご自身が宰相になられれば、三人(張儀・犀首・薛公)はみな、太子はいつまでも宰相でいるわけではないと考え、それぞれ自分の国を挙げて魏に尽くし、丞相の印を手に入れようと努めるだろう。強い魏に、さらに三つの万乗の大国が力を貸すのだから、魏は必ず安泰になる。だから太子ご自身が宰相になられるのが一番だと申し上げるのだ」と』。こうして蘇代は北へ行って梁王に会い、このとおりに説いた。太子は果たして魏の宰相となった。十年、張儀が死んだ。十一年、秦の武王と応で会見した。十二年、太子が秦に朝見した。秦がわが皮氏を攻めたが、落とせずに包囲を解いた。十四年、秦が(魏から嫁いでいた)武王の后を魏に帰した。十六年、秦がわが蒲反(ほはん)・陽晋・封陵を攻め落とした。十七年、秦と臨晋で会見し、秦はわが国に蒲反を返した。十八年、秦と共に楚を討った。二十一年、斉・韓と共に秦軍を函谷関で破った。二十三年、秦は再びわが国に河外と封陵を返して和睦した。哀王が死に、子の昭王が立った。昭王の元年、秦がわが襄城を攻め落とした。二年、秦と戦い、わが軍は不利であった。三年、韓を助けて秦を攻めた。秦の将白起は、伊闕(いけつ)でわが軍を破り、二十四万を殺した。六年、秦に河東の地四百里四方を与えた。芒卯(ぼうぼう)は策略によって重用された。七年、秦がわが城を大小六十一攻め落とした。八年、秦の昭王が西帝となり、斉の湣王が東帝となったが、一か月余りで、どちらも再び王と称して帝号を返上した。九年、秦がわが新垣・曲陽の城を攻め落とした。十年、斉が宋を滅ぼした。宋王はわが温(おん)で死んだ。十二年、秦・趙・韓・燕と共に斉を討ち、済水の西で破った。湣王は国外へ逃亡した。燕だけが斉の都臨菑に攻め入った。秦王と西周で会見した。十三年、秦がわが安城を攻め落とした。秦の兵は大梁まで到達したが、引き上げた。十八年、秦が楚の都郢を攻め落とし、楚王は陳に移った。十九年、昭王が死に、子の安釐王(あんきおう)が立った。安釐王の元年、秦がわが二つの城を攻め落とした。二年、また二つの城を攻め落とし、大梁のもとに陣を構えた。韓が救援に来た。秦に温を与えて和睦した。三年、秦がわが四つの城を攻め落とし、四万の首を斬った。

解説

蘇代の説得の結論と、その後の魏の衰退の記録です。蘇代は、太子が宰相になれば、張儀・犀首・薛公の三人はいずれ宰相の座を得ようと、それぞれの背後の大国を挙げて魏に尽くすだろうと説きました。空席をあえて仮の人で埋め、有力者を競わせるという、巧みな人事論です。楚にとって好都合な結果を、魏の利益として説いてみせた点に遊説家の腕があります。後半は哀王・昭王・安釐王の三代にわたる記録で、白起による伊闕での二十四万の殺戮、河東四百里の割譲、六十一城の喪失と、秦に削られ続ける魏の姿が描かれます。秦と斉が東西の帝を称して一か月余りで取り下げた出来事や、五国連合による斉の大敗も記されています。有力候補を競わせて協力を引き出す人事の知恵と、構造的な劣勢の中で国力をすり減らしていく現実とが、対照的に並んだ段です。

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