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史記 / 田敬仲完世家

宣公四十三年,伐晉,毀黃城,圍陽狐。明年,伐魯、葛及安陵。明年,取魯之一城。莊子卒,子太公和立。田太公相齊宣公。宣公四十八年,取魯之城。明年,宣公與鄭人會西城。伐衞,取毋丘。宣公五十一年卒,田會自廩丘反。宣公卒,子康公貸立。貸立十四年,淫於酒婦人,不聽政。太公乃遷康公於海上,食一城,以奉其先祀。明年,魯敗齊平陸。三年,太公與魏文侯會濁澤,求爲諸侯。魏文侯乃使使言周天子及諸侯,請立齊相田和爲諸侯。周天子許之。康公之十九年,田和立爲齊侯,列於周室,紀元年。齊侯太公和立二年,和卒,子桓公午立。桓公午五年,秦、魏攻韓,韓求救於齊。齊桓公召大臣而謀曰:「蚤救之孰與晩救之?」騶忌曰:「不若勿救。」段干朋曰:「不救,則韓且折而入於魏,不若救之。」田臣思曰:「過矣君之謀也!秦、魏攻韓、楚,趙必救之,是天以燕予齊也。」桓公曰:「善」。乃陰告韓使者而遣之。韓自以爲得齊之救,因與秦、魏戰。楚、趙聞之,果起兵而救之。齊因起兵襲燕國,取桑丘。六年,救衞。桓公卒,子威王因齊立。是歳,故齊康公卒,絶無後,奉邑皆入田氏。齊威王元年,三晉因齊喪來伐我靈丘。三年,三晉滅晉後而分其地。六年,魯伐我,入陽關。晉伐我,至博陵。七年,衞伐我,取薛陵。九年,趙伐我,取甄。威王初卽位以來,不治,委政卿大夫,九年之閒,諸侯并伐,國人不治。

新字:宣公四十三年,伐晋,毀黄城,囲陽狐。明年,伐魯、葛及安陵。明年,取魯之一城。荘子卒,子太公和立。田太公相斉宣公。宣公四十八年,取魯之城。明年,宣公与鄭人会西城。伐衛,取毋丘。宣公五十一年卒,田会自廩丘反。宣公卒,子康公貸立。貸立十四年,淫於酒婦人,不聴政。太公乃遷康公於海上,食一城,以奉其先祀。明年,魯敗斉平陸。三年,太公与魏文侯会濁沢,求為諸侯。魏文侯乃使使言周天子及諸侯,請立斉相田和為諸侯。周天子許之。康公之十九年,田和立為斉侯,列於周室,紀元年。斉侯太公和立二年,和卒,子桓公午立。桓公午五年,秦、魏攻韓,韓求救於斉。斉桓公召大臣而謀曰:「蚤救之孰与晩救之?」騶忌曰:「不若勿救。」段干朋曰:「不救,則韓且折而入於魏,不若救之。」田臣思曰:「過矣君之謀也!秦、魏攻韓、楚,趙必救之,是天以燕予斉也。」桓公曰:「善」。乃陰告韓使者而遣之。韓自以為得斉之救,因与秦、魏戦。楚、趙聞之,果起兵而救之。斉因起兵襲燕国,取桑丘。六年,救衛。桓公卒,子威王因斉立。是歳,故斉康公卒,絶無後,奉邑皆入田氏。斉威王元年,三晋因斉喪来伐我霊丘。三年,三晋滅晋後而分其地。六年,魯伐我,入陽関。晋伐我,至博陵。七年,衛伐我,取薛陵。九年,趙伐我,取甄。威王初即位以来,不治,委政卿大夫,九年之閒,諸侯并伐,国人不治。

書き下し

宣公四十三年、晋を伐ち、黄城を毀ち、陽狐を囲む。明年、魯・葛及び安陵を伐つ。明年、魯の一城を取る。荘子卒し、子太公和立つ。田太公斉の宣公に相たり。宣公四十八年、魯の城を取る。明年、宣公鄭人と西城に会す。衛を伐ち、毋丘を取る。宣公五十一年に卒す。田会廩丘より反す。宣公卒し、子康公貸立つ。貸立ちて十四年、酒・婦人に淫し、政を聴かず。太公乃ち康公を海上に遷し、一城を食ましめ、以て其の先祀を奉ぜしむ。明年、魯斉を平陸に敗る。三年、太公魏の文侯と濁沢に会し、諸侯と為らんことを求む。魏の文侯乃ち使をして周の天子及び諸侯に言はしめ、斉の相田和を立てて諸侯と為さんことを請ふ。周の天子之を許す。康公の十九年、田和立ちて斉侯と為り、周室に列し、元年を紀す。斉侯太公和立ちて二年、和卒し、子桓公午立つ。桓公午五年、秦・魏韓を攻む。韓救ひを斉に求む。斉の桓公大臣を召して謀りて曰く、「蚤く之を救ふと晩く之を救ふと孰れぞ」と。騶忌曰く、「救ふこと勿きに若かず」と。段干朋曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。之を救ふに若かず」と。田臣思曰く、「過てり君の謀や。秦・魏韓・楚を攻めば、趙必ず之を救はん。是れ天燕を以て斉に予ふるなり」と。桓公曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓自ら以為へらく斉の救ひを得たりと。因りて秦・魏と戦ふ。楚・趙之を聞き、果たして兵を起こして之を救ふ。斉因りて兵を起こして燕国を襲ひ、桑丘を取る。六年、衛を救ふ。桓公卒し、子威王因斉立つ。是の歳、故の斉の康公卒し、絶えて後無し。奉邑皆田氏に入る。斉の威王元年、三晋斉の喪に因りて来りて我が霊丘を伐つ。三年、三晋晋の後を滅ぼして其の地を分つ。六年、魯我を伐ち、陽関に入る。晋我を伐ち、博陵に至る。七年、衛我を伐ち、薛陵を取る。九年、趙我を伐ち、甄を取る。威王初めて位に即きて以来、治めず、政を卿大夫に委ぬ。九年の閒、諸侯并びに伐ち、国人治まらず。

現代語訳

宣公の四十三年、晋を討ち、黄城を壊し、陽狐を包囲した。翌年、魯・葛(かつ)と安陵を討った。その翌年、魯の城を一つ取った。荘子が死に、子の太公和(わ)が立った。田太公は斉の宣公の宰相となった。宣公の四十八年、魯の城を取った。翌年、宣公は鄭の人と西城で会見した。衛を討ち、毋丘(ぶきゅう)を取った。宣公は五十一年に死んだ。田会(でんかい)が廩丘で反乱を起こした。宣公が死に、子の康公貸(たい)が立った。貸は即位して十四年、酒と女に溺れて政治を顧みなかった。太公はそこで康公を海辺に移し、一つの城の収入で暮らさせ、先祖の祭祀を続けさせた。翌年、魯が斉を平陸で破った。三年、太公は魏の文侯と濁沢で会見し、諸侯となることを求めた。魏の文侯は使者を遣わして周の天子と諸侯に申し入れ、斉の宰相田和を諸侯に立てるよう願った。周の天子はこれを許した。康公の十九年、田和は立って斉侯となり、周王室に諸侯として列せられ、元年を立てた。斉侯太公和が即位して二年、和が死に、子の桓公午(ご)が立った。桓公午の五年、秦と魏が韓を攻めた。韓は斉に救援を求めた。斉の桓公は大臣たちを呼んで相談した。「早く救うのと遅く救うのと、どちらがよいか」。騶忌(すうき)は言った。「救わないほうがよい」。段干朋(だんかんほう)は言った。「救わなければ、韓は折れて魏につくだろう。救うほうがよい」。田臣思(でんしんし)は言った。「君の考えは誤っている。秦・魏が韓や楚を攻めれば、趙が必ず救いに出るだろう。これは天が燕を斉に与えてくれるということだ」。桓公は「よろしい」と言い、ひそかに韓の使者に(救援すると)告げて帰らせた。韓は斉の救援が得られたと思い、秦・魏と戦った。楚と趙はこれを聞いて、果たして兵を起こして韓を救った。斉はそのすきに兵を起こして燕を襲い、桑丘を取った。六年、衛を救った。桓公が死に、子の威王因斉(いんせい)が立った。この年、かつての斉の康公が死に、跡継ぎがなかったので、その奉邑はすべて田氏のものとなった。斉の威王の元年、三晋は斉の喪に乗じてわが霊丘を討った。三年、三晋は晋の後裔を滅ぼしてその地を分けた。六年、魯がわが国を討ち、陽関に攻め入った。晋がわが国を討ち、博陵に至った。七年、衛がわが国を討ち、薛陵を取った。九年、趙がわが国を討ち、甄を取った。威王は即位して以来、政治を執らず、卿大夫に任せきりにしていた。九年の間に諸侯が次々と攻めてきて、国内もよく治まらなかった。

解説

田氏が正式に斉の君主となる、いわゆる「田氏代斉」の完成を描く段です。酒と女に溺れた康公を太公和が海辺に移し、魏の文侯の仲介で周の天子に諸侯として認められ、田和が斉侯となりました。陳完の誕生時の予言がここで成就したわけです。康公の死で旧君主家の祭祀も絶え、その領地は田氏に吸収されました。続く桓公の時代、韓の救援要請に対して、田臣思は、救うと約束だけして韓を戦わせ、楚・趙が救援に出たすきに燕を襲えと献策し、斉はその通りに桑丘を得ます。約束を信じて戦った韓から見れば、ひどい話です。威王は即位後九年間、政治を臣下に任せきりにし、諸侯に次々と攻め込まれました。この放任の九年が、次の段の劇的な改革への伏線となります。一族が何代もかけて頂点に立つ過程と、頂点に立った後の気の緩みとが、一続きに描かれています。

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