史記 / 田敬仲完世家
簡公與婦人飲檀臺,將欲撃田常。太史子餘曰:「田常非敢爲亂,將除害。」簡公乃止。田常出,聞簡公怒,恐誅,將出亡。田子行曰:「需,事之賊也。」田常於是撃子我。子我率其徒攻田氏,不勝,出亡。田氏之徒追殺子我及監止。簡公出奔,田氏之徒追執簡公于徐州。簡公曰:「蚤從御鞅之言,不及此難。」田氏之徒恐簡公復立而誅己,遂殺簡公。簡公立四年而殺。於是田常立簡公弟驁,是爲平公。平公卽位,田常爲相。田常旣殺簡公,懼諸侯共誅己,乃盡歸魯、衞侵地,西約晉、韓、魏、趙氏,南通呉、越之使,修功行賞,親於百姓,以故齊復定。田常言於齊平公曰:「德施人之所欲,君其行之;刑罰人之所惡,臣請行之。」行之五年,齊國之政皆歸田常。田常於是盡誅鮑、晏、監止及公族之彊者,而割齊自安平以東至瑯邪,自爲封邑。封邑大於平公之所食。田常乃選齊國中女子長七尺以上爲後宮,後宮以百數,而使賓客舍人出入後宮者不禁。及田常卒,有七十餘男。田常卒,子襄子盤代立,相齊。常諡爲成子。田襄子旣相齊宣公,三晉殺知伯,分其地。襄子使其兄弟宗人盡爲齊都邑大夫,與三晉通使,且以有齊國。襄子卒,子莊子白立。田莊子相齊宣公。
新字:簡公与婦人飲檀台,将欲撃田常。太史子余曰:「田常非敢為乱,将除害。」簡公乃止。田常出,聞簡公怒,恐誅,将出亡。田子行曰:「需,事之賊也。」田常於是撃子我。子我率其徒攻田氏,不勝,出亡。田氏之徒追殺子我及監止。簡公出奔,田氏之徒追執簡公于徐州。簡公曰:「蚤従御鞅之言,不及此難。」田氏之徒恐簡公復立而誅己,遂殺簡公。簡公立四年而殺。於是田常立簡公弟驁,是為平公。平公即位,田常為相。田常既殺簡公,懼諸侯共誅己,乃尽帰魯、衛侵地,西約晋、韓、魏、趙氏,南通呉、越之使,修功行賞,親於百姓,以故斉復定。田常言於斉平公曰:「徳施人之所欲,君其行之;刑罰人之所悪,臣請行之。」行之五年,斉国之政皆帰田常。田常於是尽誅鮑、晏、監止及公族之彊者,而割斉自安平以東至瑯邪,自為封邑。封邑大於平公之所食。田常乃選斉国中女子長七尺以上為後宮,後宮以百数,而使賓客舎人出入後宮者不禁。及田常卒,有七十余男。田常卒,子襄子盤代立,相斉。常諡為成子。田襄子既相斉宣公,三晋殺知伯,分其地。襄子使其兄弟宗人尽為斉都邑大夫,与三晋通使,且以有斉国。襄子卒,子荘子白立。田荘子相斉宣公。
書き下し
簡公、婦人と檀台に飲み、将に田常を撃たんと欲す。太史子余曰く、「田常敢へて乱を為すに非ず。将に害を除かんとするなり」と。簡公乃ち止む。田常出で、簡公の怒るを聞き、誅せられんことを恐れ、将に出でて亡げんとす。田子行曰く、「需つは、事の賊なり」と。田常是に於て子我を撃つ。子我其の徒を率ゐて田氏を攻むれども、勝たず、出でて亡ぐ。田氏の徒追ひて子我及び監止を殺す。簡公出でて奔る。田氏の徒追ひて簡公を徐州に執ふ。簡公曰く、「蚤く御鞅の言に従はば、此の難に及ばざりしに」と。田氏の徒、簡公の復た立ちて己を誅せんことを恐れ、遂に簡公を殺す。簡公立ちて四年にして殺さる。是に於て田常、簡公の弟驁を立つ、是を平公と為す。平公位に即き、田常相と為る。田常既に簡公を殺し、諸侯の共に己を誅せんことを懼れ、乃ち尽く魯・衛の侵地を帰し、西のかた晋の韓・魏・趙氏と約し、南のかた呉・越の使を通じ、功を修め賞を行ひ、百姓に親しむ。故を以て斉復た定まる。田常、斉の平公に言ひて曰く、「徳施は人の欲する所なり。君其れ之を行へ。刑罰は人の悪む所なり。臣請ふ之を行はん」と。之を行ふこと五年、斉国の政皆田常に帰す。田常是に於て尽く鮑・晏・監止及び公族の彊き者を誅し、而して斉の安平より以東瑯邪に至るまでを割きて、自ら封邑と為す。封邑は平公の食む所より大なり。田常乃ち斉国中の女子の長七尺以上なるを選びて後宮と為す。後宮百を以て数ふ。而して賓客舎人をして後宮に出入せしむる者禁ぜず。田常の卒するに及び、七十余男有り。田常卒し、子襄子盤代はりて立ち、斉に相たり。常諡して成子と為す。田襄子既に斉の宣公に相たり。三晋知伯を殺し、其の地を分つ。襄子其の兄弟宗人をして尽く斉の都邑の大夫と為らしめ、三晋と使を通じ、且に以て斉国を有たんとす。襄子卒し、子荘子白立つ。田荘子斉の宣公に相たり。
現代語訳
簡公は女たちと檀台で酒を飲んでいたが、田常を撃とうとした。太史の子余(しよ)が言った。「田常は乱を起こそうとしているのではない。害を除こうとしているのだ」。簡公はそこで思いとどまった。田常は宮殿を出たが、簡公が怒っていると聞き、誅されることを恐れて国外へ逃げようとした。田子行(でんしこう)が言った。「ためらうことは事を損なうもとだ」。そこで田常は子我を攻撃した。子我は手下を率いて田氏を攻めたが勝てず、国外へ逃げた。田氏の手下は追いかけて子我と監止を殺した。簡公は都を出て逃げたが、田氏の手下が追いかけて徐州で簡公を捕らえた。簡公は言った。「早く御鞅の言葉に従っていれば、こんな難に遭わずにすんだのに」。田氏の手下は、簡公が再び君位に戻って自分たちを誅するのではないかと恐れ、ついに簡公を殺した。簡公は即位して四年で殺された。そこで田常は簡公の弟の驁(ごう)を立てた。これが平公である。平公が即位すると、田常は宰相となった。田常は簡公を殺したので、諸侯が共同で自分を誅するのではないかと恐れ、魯や衛から奪っていた土地をすべて返し、西は晋の韓・魏・趙氏と盟約を結び、南は呉・越と使者を通じ、功績ある者を取り立てて賞を与え、民に親しんだ。そのため斉は再び安定した。田常は斉の平公に言った。「恩恵を施すことは人々の望むことであるから、君がそれを行われよ。刑罰は人々の憎むことであるから、わたしがそれを引き受けよう」。こうして五年たつと、斉の国の政治はすべて田常のものになった。田常はそこで鮑氏・晏氏・監止の一族や公族の有力者をことごとく誅し、斉の安平から東の瑯邪(ろうや)までを割き取って自分の封邑とした。その封邑は平公の領地より大きかった。田常はさらに斉国中から背丈七尺以上の女を選んで後宮に入れ、その数は百を超えた。そして食客や家臣たちが後宮に出入りするのを禁じなかった。田常が死んだとき、男子が七十余人いた。田常が死に、子の襄子盤(ばん)が代わって立ち、斉の宰相となった。常は成子と諡された。田襄子が斉の宣公の宰相となってまもなく、三晋が知伯を殺してその地を分けた。襄子は兄弟や一族の者をことごとく斉の都市や邑の大夫とし、三晋と使者を通じ合い、斉の国を手に入れようとした。襄子が死に、子の荘子白(はく)が立った。田荘子は斉の宣公の宰相となった。
解説
関連する章句
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史記 斉太公世家且つ其の違ふ者は数人に過ぎず。何ぞ尽く逐はん」と。遂に田氏に告ぐ。子行曰く、「彼君を得たり。先んぜずんば、必ず子に禍せん」と。子行、公宮に舎る。夏五月壬申、成子兄弟四乗にて公に如く。子我、幄に在り、出でて之を迎ふ。遂に入りて、門を閉づ。宦者之を御ぐ。子行、宦者を殺す。公、婦人と檀台に酒を飲む。成子、諸を寝に遷す。公、戈を執りて将に之を撃たんとす。太史子余曰く、「不利を為すに非ざるなり、将に害を除かんとするなり」と。成子出でて庫に舎る。公の猶ほ怒れるを聞き、将に出でんとして、曰く、「何れの所か君無からん」と。子行、剣を抜きて曰く、「需は事の賊なり。誰か田宗に非ざらん。子を殺さざる所の者は田宗有るが如し」と。乃ち止む。子我帰り、徒を属めて闈と大門とを攻むるも、皆勝たず、乃ち出づ。田氏之を追ふ。豊丘の人、子我を執へて以て告ぐ。之を郭関に殺す。成子将に大陸子方を殺さんとす。田逆請ひて之を免る。公の命を以て車を道に取り、雍門を出づ。田豹之に車を与ふるも、受けずして、曰く、「逆は余の為に請ひ、豹は余に車を与ふ。余に私有るなり。子我に事へて其の讎に私有らば、何を以てか魯・衛の士に見えん」と。庚辰、田常、簡公を徐州に執ふ。公曰く、「余蚤く御鞅の言に従はば、此に及ばざりしに」と。甲午、田常、簡公を徐州に弑す。田常乃ち簡公の弟驁を立つ。是れを平公と為す。平公即位し、田常之に相たり、斉の政を専らにし、斉の安平以東を割きて田氏の封邑と為す。平公の八年、越、呉を滅す。二十五年卒し、子の宣公積立つ。宣公五十一年にして卒し、子の康公貸立つ。田会、廩丘に反す。康公の二年、韓・魏・趙始めて列して諸侯と為る。十九年、田常の曾孫田和、始めて諸侯と為り、康公を海浜に遷す。二十六年、康公卒し、呂氏遂に其の祀を絶つ。田氏卒に斉国を有ち、斉の威王と為りて、天下に彊し。
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史記 田敬仲完世家晏圉魯に奔る。田乞人をして魯に之かしめ、陽生を迎ふ。陽生斉に至り、田乞の家に匿る。諸大夫に請ひて曰く、「常の母に魚菽の祭有り。幸ひにして来りて会飲せよ」と。田氏に会飲す。田乞陽生を橐中に盛り、坐の中央に置く。橐を発き、陽生を出だして曰く、「此れ乃ち斉君なり」と。大夫皆伏して謁す。将に盟ひて之を立てんとす。田乞誣ひて曰く、「吾鮑牧と謀りて共に陽生を立つるなり」と。鮑牧怒りて曰く、「大夫景公の命を忘れたるか」と。諸大夫悔いんと欲す。陽生乃ち頓首して曰く、「可なれば則ち之を立てよ。不可なれば則ち已めよ」と。鮑牧禍の己に及ばんことを恐れ、乃ち復た曰く、「皆景公の子なり。何為れぞ不可ならん」と。遂に陽生を田乞の家に立つ、是を悼公と為す。乃ち人をして晏孺子を駘に遷さしめ、而して孺子荼を殺す。悼公既に立ち、田乞相と為り、斉の政を専らにす。四年、田乞卒し、子常代はりて立つ、是を田成子と為す。鮑牧、斉の悼公と郄有り。悼公を弑す。斉人共に其の子壬を立つ、是を簡公と為す。田常成子と監止と倶に左右の相と為り、簡公に相たり。田常心に監止を害む。監止簡公に幸せらる。権去ること能はず。是に於て田常復た釐子の政を修め、大斗を以て出だし貸し、小斗を以て収む。斉人之を歌ひて曰く、「嫗や芑を采る、田成子に帰せよ」と。斉の大夫朝す。御鞅簡公を諫めて曰く、「田・監は并ぶべからざるなり。君其れ焉を択べ」と。君聴かず。子我は、監止の宗人なり。常に田氏と卻有り。田氏の疎族田豹、子我に事へて寵有り。子我曰く、「吾尽く田氏の適を滅ぼし、豹を以て田氏の宗に代へんと欲す」と。豹曰く、「臣は田氏に於て疎なり」と。聴かず。已にして豹田氏に謂ひて曰く、「子我将に田氏を誅せんとす。田氏先んぜずんば、禍及ばん」と。子我公宮に舎る。田常兄弟四人乗りて公宮に如き、子我を殺さんと欲す。子我門を閉づ。
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史記 田敬仲完世家晋の大夫欒逞、乱を晋に作し、来りて斉に奔る。斉の荘公厚く之を客とす。晏嬰と田文子と諫むれども、荘公聴かず。文子卒し、桓子無宇を生む。田桓子無宇力有り。斉の荘公に事へ、甚だ寵有り。無宇卒し、武子開と釐子乞とを生む。田釐子乞、斉の景公に事へて大夫と為る。其の賦税を民に収むるには小斗を以て之を受け、其の稟を民に予ふるには大斗を以てし、陰徳を民に行ふ。而るに景公禁ぜず。此に由りて田氏斉の衆心を得、宗族益々彊く、民田氏を思ふ。晏子数々景公を諫むれども、景公聴かず。已にして晋に使ひし、叔向と私かに語りて曰く、「斉国の政は卒に田氏に帰せん」と。晏嬰卒して後、范・中行氏晋に反く。晋之を攻むること急なり。范・中行、粟を斉に請ふ。田乞乱を為さんと欲し、党を諸侯に樹つ。乃ち景公に説きて曰く、「范・中行数々斉に徳有り。斉救はざるべからず」と。斉田乞をして之を救ひて之に粟を輸らしむ。景公の太子死す。後に寵姫有り芮子と曰ふ。子荼を生む。景公病み、其の相国恵子と高昭子とに命じて子荼を以て太子と為さしむ。景公卒す。両相の高・国、荼を立つ、是を晏孺子と為す。而るに田乞説ばず、景公の他の子陽生を立てんと欲す。陽生素より乞と歓ぶ。晏孺子の立つや、陽生魯に奔る。田乞偽りて高昭子・国恵子に事ふる者、朝する毎に参乗に代はり、言ひて曰く、「始め諸大夫孺子を立つるを欲せず。孺子既に立ち、君之に相たり。大夫皆自ら危ぶみ、乱を作さんと謀る」と。又大夫を紿きて曰く、「高昭子畏るべきなり。未だ発せざるに及びて之に先んぜよ」と。諸大夫之に従ふ。田乞・鮑牧、大夫と兵を以て公室に入り、高昭子を攻む。昭子之を聞き、国恵子と公を救ふ。公の師敗る。田乞の衆国恵子を追ふ。恵子莒に奔る。遂に返りて高昭子を殺す。
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史記 田敬仲完世家宣公四十三年、晋を伐ち、黄城を毀ち、陽狐を囲む。明年、魯・葛及び安陵を伐つ。明年、魯の一城を取る。荘子卒し、子太公和立つ。田太公斉の宣公に相たり。宣公四十八年、魯の城を取る。明年、宣公鄭人と西城に会す。衛を伐ち、毋丘を取る。宣公五十一年に卒す。田会廩丘より反す。宣公卒し、子康公貸立つ。貸立ちて十四年、酒・婦人に淫し、政を聴かず。太公乃ち康公を海上に遷し、一城を食ましめ、以て其の先祀を奉ぜしむ。明年、魯斉を平陸に敗る。三年、太公魏の文侯と濁沢に会し、諸侯と為らんことを求む。魏の文侯乃ち使をして周の天子及び諸侯に言はしめ、斉の相田和を立てて諸侯と為さんことを請ふ。周の天子之を許す。康公の十九年、田和立ちて斉侯と為り、周室に列し、元年を紀す。斉侯太公和立ちて二年、和卒し、子桓公午立つ。桓公午五年、秦・魏韓を攻む。韓救ひを斉に求む。斉の桓公大臣を召して謀りて曰く、「蚤く之を救ふと晩く之を救ふと孰れぞ」と。騶忌曰く、「救ふこと勿きに若かず」と。段干朋曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。之を救ふに若かず」と。田臣思曰く、「過てり君の謀や。秦・魏韓・楚を攻めば、趙必ず之を救はん。是れ天燕を以て斉に予ふるなり」と。桓公曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓自ら以為へらく斉の救ひを得たりと。因りて秦・魏と戦ふ。楚・趙之を聞き、果たして兵を起こして之を救ふ。斉因りて兵を起こして燕国を襲ひ、桑丘を取る。六年、衛を救ふ。桓公卒し、子威王因斉立つ。是の歳、故の斉の康公卒し、絶えて後無し。奉邑皆田氏に入る。斉の威王元年、三晋斉の喪に因りて来りて我が霊丘を伐つ。三年、三晋晋の後を滅ぼして其の地を分つ。六年、魯我を伐ち、陽関に入る。晋我を伐ち、博陵に至る。七年、衛我を伐ち、薛陵を取る。九年、趙我を伐ち、甄を取る。威王初めて位に即きて以来、治めず、政を卿大夫に委ぬ。九年の閒、諸侯并びに伐ち、国人治まらず。
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史記 斉太公世家将に大夫と盟ひて之を立てんとするに、鮑牧酔ふ。乞、大夫を誣ひて曰く、「吾、鮑牧と謀りて共に陽生を立てんとす」と。鮑牧怒りて曰く、「子、景公の命を忘れたるか」と。諸大夫相視て悔いんと欲す。陽生前み、頓首して曰く、「可なれば則ち之を立てよ。否なれば則ち已めよ」と。鮑牧、禍の起らんことを恐れ、乃ち復た曰く、「皆景公の子なり。何為れぞ不可ならん」と。乃ち与に盟ひ、陽生を立つ。是れを悼公と為す。悼公宮に入り、人をして晏孺子を駘に遷さしめ、之を幕下に殺し、而して孺子の母芮子を逐ふ。芮子は故賤しくして孺子少し、故に権無く、国人之を軽んず。悼公の元年、斉、魯を伐ち、讙・闡を取る。初め、陽生亡げて魯に在るや、季康子其の妹を以て之に妻はす。帰りて即位するに及び、之を迎へしむ。季姫、季魴侯と通じ、其の情を言ふ。魯敢て与へず。故に斉、魯を伐ち、竟に季姫を迎ふ。季姫嬖せられ、斉復た魯の侵地を帰す。鮑子、悼公と郤有り、善からず。四年、呉・魯、斉の南方を伐つ。鮑子、悼公を弑し、呉に赴ぐ。呉王夫差、軍門の外に哭すること三日、将に海より入りて斉を討たんとす。斉人之を敗り、呉の師乃ち去る。晋の趙鞅、斉を伐ち、頼に至りて去る。斉人共に悼公の子壬を立つ。是れを簡公と為す。簡公の四年春、初め、簡公、父陽生と倶に魯に在るや、監止寵有り。即位するに及び、政を為さしむ。田成子之を憚り、驟々朝に顧みる。御鞅、簡公に言ひて曰く、「田・監は并す可からず。君其れ択べ」と。聴かず。子我夕す。田逆人を殺す。之に逢ひ、遂に捕へて以て入る。田氏方に睦まじ。囚をして病ましめて守囚者に酒を遺り、酔はしめて守者を殺し、亡ぐるを得たり。子我、諸田と陳宗に盟ふ。初め、田豹、子我の臣たらんと欲し、公孫をして豹を言はしむ。豹喪有りて止む。後卒に以て臣と為し、子我に幸せらる。子我謂ひて曰く、「吾尽く田氏を逐ひて女を立てん、可ならんか」と。対へて曰く、「我は田氏に遠し。
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史記 斉太公世家景公立ち、崔杼を以て右相と為し、慶封を左相と為す。二相、乱の起らんことを恐れ、乃ち国人と盟ひて曰く、「崔・慶に与せざる者は死せん」と。晏子天を仰ぎて曰く、「嬰の唯君に忠にして社稷を利する者に是れ従はざる所の者有らば」と。盟ふを肯ぜず。慶封、晏子を殺さんと欲す。崔杼曰く、「忠臣なり、之を舎け」と。斉の太史書して曰く「崔杼、荘公を弑す」と。崔杼之を殺す。其の弟復た書す。崔杼復た之を殺す。少弟復た書す。崔杼乃ち之を舎く。景公の元年、初め、崔杼、子成及び彊を生む。其の母死し、東郭の女を取りて、明を生む。東郭の女、其の前夫の子無咎と其の弟偃とをして崔氏に相たらしむ。成に罪有り、二相急に之を治め、明を立てて太子と為す。成、崔に老せんことを請ふ。崔杼之を許すも、二相聴かずして、曰く、「崔は宗邑なり、不可なり」と。成・彊怒り、慶封に告ぐ。慶封、崔杼と郤有り、其の敗れんことを欲す。成・彊、無咎・偃を崔杼の家に殺す。家皆奔亡す。崔杼怒るも、人無く、一宦者をして御せしめて、慶封に見ゆ。慶封曰く、「請ふ子の為に之を誅せん」と。崔杼の仇盧蒲嫳をして崔氏を攻めしめ、成・彊を殺し、尽く崔氏を滅す。崔杼の婦自殺す。崔杼帰る毋く、亦自殺す。慶封、相国と為り、権を専らにす。三年十月、慶封出でて猟す。初め、慶封已に崔杼を殺し、益々驕り、酒を嗜み猟を好み、政令を聴かず。慶舎、政を用ひ、已に内に郤有り。田文子、桓子に謂ひて曰く、「乱将に作らんとす」と。田・鮑・高・欒氏、相与に慶氏を謀る。慶舎、甲を発して慶封の宮を囲む。四家の徒共に撃ちて之を破る。慶封還るも、入るを得ず、魯に奔る。斉人、魯を譲む。封、呉に奔る。呉、之に朱方を与へ、其の族を聚めて之に居らしむ。斉に在りしより富めり。其の秋、斉人、荘公を徙し葬り、崔杼の尸を市に僇して以て衆に説ぶ。九年、景公、晏嬰をして晋に之かしむ。叔向と私語して曰く、「斉の政は卒に田氏に帰せん。
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