師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 韓世家

十四年,與齊、魏王共撃秦,至函谷而軍焉。十六年,秦與我河外及武遂。襄王卒,太子咎立,是爲釐王。釐王三年,使公孫喜率周、魏攻秦。秦敗我二十四萬,虜喜伊闕。五年,秦拔我宛。六年,與秦武遂地二百里。十年,秦敗我師于夏山。十二年,與秦昭王會西周而佐秦攻齊。齊敗,湣王出亡。十四年,與秦會兩周閒。二十一年,使暴捐救魏,爲秦所敗,捐走開封。二十三年,趙、魏攻我華陽。韓告急於秦,秦不救。韓相國謂陳筮曰:「事急,願公雖病,爲一宿之行。」陳筮見穰侯。穰侯曰:「事急乎?故使公來。」陳筮曰:「未急也。」穰侯怒曰:「是可以爲公之主使乎?夫冠蓋相望,告敝邑甚急,公來言未急,何也?」陳筮曰:「彼韓急則將變而佗從,以未急,故復來耳。」穰侯曰:「公無見王,請今發兵救韓。」八日而至,敗趙、魏於華陽之下。是歳,釐王卒,子桓惠王立。桓惠王元年,伐燕。九年,秦拔我陘,城汾旁。十年,秦撃我於太行,我上黨郡守以上黨郡降趙。十四年,秦拔趙上黨,殺馬服子卒四十餘萬於長平。十七年,秦拔我陽城、負黍。二十二年,秦昭王卒。二十四年,秦拔我城皋、滎陽。二十六年,秦悉拔我上黨。二十九年,秦拔我十三城。三十四年,桓惠王卒,子王安立。王安五年,秦攻韓,韓急,使韓非使秦,秦留非,因殺之。九年,秦虜王安,盡入其地,爲潁州郡。韓遂亡。

新字:十四年,与斉、魏王共撃秦,至函谷而軍焉。十六年,秦与我河外及武遂。襄王卒,太子咎立,是為釐王。釐王三年,使公孫喜率周、魏攻秦。秦敗我二十四万,虜喜伊闕。五年,秦抜我宛。六年,与秦武遂地二百里。十年,秦敗我師于夏山。十二年,与秦昭王会西周而佐秦攻斉。斉敗,湣王出亡。十四年,与秦会両周閒。二十一年,使暴捐救魏,為秦所敗,捐走開封。二十三年,趙、魏攻我華陽。韓告急於秦,秦不救。韓相国謂陳筮曰:「事急,願公雖病,為一宿之行。」陳筮見穰侯。穰侯曰:「事急乎?故使公来。」陳筮曰:「未急也。」穰侯怒曰:「是可以為公之主使乎?夫冠蓋相望,告敝邑甚急,公来言未急,何也?」陳筮曰:「彼韓急則将変而佗従,以未急,故復来耳。」穰侯曰:「公無見王,請今発兵救韓。」八日而至,敗趙、魏於華陽之下。是歳,釐王卒,子桓恵王立。桓恵王元年,伐燕。九年,秦抜我陘,城汾旁。十年,秦撃我於太行,我上党郡守以上党郡降趙。十四年,秦抜趙上党,殺馬服子卒四十余万於長平。十七年,秦抜我陽城、負黍。二十二年,秦昭王卒。二十四年,秦抜我城皋、滎陽。二十六年,秦悉抜我上党。二十九年,秦抜我十三城。三十四年,桓恵王卒,子王安立。王安五年,秦攻韓,韓急,使韓非使秦,秦留非,因殺之。九年,秦虜王安,尽入其地,為潁州郡。韓遂亡。

書き下し

十四年、斉・魏の王と共に秦を撃ち、函谷に至りて焉に軍す。十六年、秦我に河外及び武遂を与ふ。襄王卒し、太子咎立つ、是を釐王と為す。釐王三年、公孫喜をして周・魏を率ゐて秦を攻めしむ。秦我を敗ること二十四万、喜を伊闕に虜にす。五年、秦我が宛を抜く。六年、秦に武遂の地二百里を与ふ。十年、秦我が師を夏山に敗る。十二年、秦の昭王と西周に会して秦を佐けて斉を攻む。斉敗れ、湣王出でて亡ぐ。十四年、秦と両周の閒に会す。二十一年、暴捐をして魏を救はしむ。秦の敗る所と為り、捐開封に走る。二十三年、趙・魏我が華陽を攻む。韓急を秦に告ぐ。秦救はず。韓の相国陳筮に謂ひて曰く、「事急なり。願はくは公病むと雖も、一宿の行を為せ」と。陳筮穣侯に見ゆ。穣侯曰く、「事急なるか。故に公をして来らしむるか」と。陳筮曰く、「未だ急ならざるなり」と。穣侯怒りて曰く、「是れ以て公の主の使と為すべけんや。夫れ冠蓋相望み、敝邑に告ぐること甚だ急なり。公来りて未だ急ならずと言ふは、何ぞや」と。陳筮曰く、「彼の韓急なれば則ち将に変じて佗に従はんとす。未だ急ならざるを以て、故に復た来るのみ」と。穣侯曰く、「公王に見ゆる無かれ。請ふ今兵を発して韓を救はん」と。八日にして至り、趙・魏を華陽の下に敗る。是の歳、釐王卒し、子桓恵王立つ。桓恵王元年、燕を伐つ。九年、秦我が陘を抜き、汾の旁に城く。十年、秦我を太行に撃つ。我が上党の郡守、上党郡を以て趙に降る。十四年、秦趙の上党を抜き、馬服子の卒四十余万を長平に殺す。十七年、秦我が陽城・負黍を抜く。二十二年、秦の昭王卒す。二十四年、秦我が城皋・滎陽を抜く。二十六年、秦悉く我が上党を抜く。二十九年、秦我が十三城を抜く。三十四年、桓恵王卒し、子王安立つ。王安五年、秦韓を攻む。韓急なり。韓非をして秦に使ひせしむ。秦非を留め、因りて之を殺す。九年、秦王安を虜にし、尽く其の地を入れて、潁州郡と為す。韓遂に亡ぶ。

現代語訳

(襄王の)十四年、斉・魏の王と共に秦を攻め、函谷関に至ってそこに陣を敷いた。十六年、秦はわが国に河外と武遂を返した。襄王が死に、太子の咎が立った。これが釐王(きおう)である。釐王の三年、公孫喜に周・魏の兵を率いさせて秦を攻めさせた。秦はわが軍を破って二十四万を殺し、伊闕で公孫喜を捕らえた。五年、秦がわが宛(えん)を攻め落とした。六年、秦に武遂の地二百里を与えた。十年、秦がわが軍を夏山で破った。十二年、秦の昭王と西周で会見し、秦を助けて斉を攻めた。斉は敗れ、湣王は国外へ逃亡した。十四年、秦と東西二周の間で会見した。二十一年、暴捐(ぼうえん)に魏を救わせたが、秦に敗れ、暴捐は開封に逃れた。二十三年、趙・魏がわが華陽を攻めた。韓は秦に急を告げたが、秦は救わなかった。韓の相国は陳筮(ちんぜい)に言った。「事態は切迫している。あなたは病気だが、どうか一晩で行ける秦まで行ってくれ」。陳筮は穣侯に会った。穣侯は言った。「事態は切迫しているのか。だからあなたを寄こしたのか」。陳筮は言った。「まだ切迫してはいない」。穣侯は怒って言った。「それでよく主君の使者が務まるものだ。韓からは使者の冠や車の覆いが途切れなく見えるほど続々と来て、わが国に危急を告げている。それなのにあなたが来て、まだ切迫していないとは、どういうことか」。陳筮は言った。「韓が本当に切迫すれば、方針を変えて他国(趙・魏)につくだろう。まだ切迫していないからこそ、こうして再びお願いに来たのだ」。穣侯は言った。「王にお目にかかるまでもない。今すぐ兵を出して韓を救おう」。秦軍は八日で到着し、華陽のもとで趙・魏を破った。この年、釐王が死に、子の桓恵王が立った。桓恵王の元年、燕を討った。九年、秦がわが陘(けい)を攻め落とし、汾水のほとりに城を築いた。十年、秦がわが軍を太行山で攻撃した。わが上党の郡守は上党郡をもって趙に降った。十四年、秦は趙から上党を奪い、長平で馬服子(趙括)の兵四十万余りを殺した。十七年、秦がわが陽城・負黍を攻め落とした。二十二年、秦の昭王が死んだ。二十四年、秦がわが城皋(せいこう)・滎陽(けいよう)を攻め落とした。二十六年、秦がわが上党をすべて攻め落とした。二十九年、秦がわが十三の城を攻め落とした。三十四年、桓恵王が死に、子の王安が立った。王安の五年、秦が韓を攻め、韓は危急に陥った。韓非を秦に使者として遣わしたが、秦は韓非を引き留め、やがて殺した。九年、秦は王安を捕らえ、その地をすべて取り込んで潁川郡とした。韓はこうして滅びた。

解説

韓の最後の百年ほどを一気に記した、韓世家の結びの段です。伊闕で二十四万の兵を失い、領土を削られ続ける中で、陳筮の話が光ります。救援を渋る秦の穣侯に「まだ切迫していない」とあえて言い、怒る穣侯に、本当に切迫すれば韓は趙・魏についてしまう、だから今のうちに来たのだと説いて、八日で援軍を出させました。魏世家の唐雎と同じ論法で、支援する側の利害に訴える交渉術です。しかし大きな流れは変わりません。韓の上党郡守が趙に降ったことが長平の戦いを招いたことも、ここで韓の側から記されています。最後に、法家思想を大成した韓非が使者として秦に赴き、引き留められて殺され、まもなく韓は秦に滅ぼされました。自国の思想家の書が秦の統一を支えたという皮肉を、司馬遷は淡々と書き留めています。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る