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史記 / 秦始皇本紀

秦王覺,固止,以為秦國尉,卒用其計策。而李斯用事。十一年,王翦、桓齮、楊端和攻鄴,取九城。王翦攻閼與、橑楊,皆并為一軍。翦將十八日,軍歸斗食以下,什推二人從軍取鄴安陽,桓齮將。十二年,文信侯不韋死,竊葬。其舍人臨者,晉人也逐出之;秦人六百石以上奪爵,遷;五百石以下不臨,遷,勿奪爵。自今以來,操國事不道如嫪毐、不韋者籍其門,視此。秋,復嫪毐舍人遷蜀者。當是之時,天下大旱,六月至八月乃雨。十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙將扈輒,斬首十萬。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,破之,殺其將軍。桓齮定平陽、武城。韓非使秦,秦用李斯謀,留非,非死雲陽。韓王請為臣。十五年,大興兵,一軍至鄴,一軍至太原,取狼孟。地動。十六年九月,發卒受地韓南陽假守騰。初令男子書年。魏獻地於秦。秦置麗邑。十七年,內史騰攻韓,得韓王安,盡納其地,以其地為郡,命曰潁川。地動。華陽太后卒。民大饑。十八年,大興兵攻趙,王翦將上地,下井陘,端和將河內,羌瘣伐趙,端和圍邯鄲城。十九年,王翦、羌瘣盡定取趙地東陽,得趙王。引兵欲攻燕,屯中山。秦王之邯鄲,諸嘗與王生趙時母家有仇怨,皆阬之。

新字:秦王覚,固止,以為秦国尉,卒用其計策。而李斯用事。十一年,王翦、桓齮、楊端和攻鄴,取九城。王翦攻閼与、橑楊,皆并為一軍。翦将十八日,軍帰斗食以下,什推二人従軍取鄴安陽,桓齮将。十二年,文信侯不韋死,窃葬。其舎人臨者,晋人也逐出之;秦人六百石以上奪爵,遷;五百石以下不臨,遷,勿奪爵。自今以来,操国事不道如嫪毐、不韋者籍其門,視此。秋,復嫪毐舎人遷蜀者。当是之時,天下大旱,六月至八月乃雨。十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙将扈輒,斬首十万。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,破之,殺其将軍。桓齮定平陽、武城。韓非使秦,秦用李斯謀,留非,非死雲陽。韓王請為臣。十五年,大興兵,一軍至鄴,一軍至太原,取狼孟。地動。十六年九月,発卒受地韓南陽仮守騰。初令男子書年。魏献地於秦。秦置麗邑。十七年,内史騰攻韓,得韓王安,尽納其地,以其地為郡,命曰潁川。地動。華陽太后卒。民大饑。十八年,大興兵攻趙,王翦将上地,下井陘,端和将河内,羌瘣伐趙,端和囲邯鄲城。十九年,王翦、羌瘣尽定取趙地東陽,得趙王。引兵欲攻燕,屯中山。秦王之邯鄲,諸嘗与王生趙時母家有仇怨,皆阬之。

書き下し

秦王覚りて、固く止め、以て秦の国尉と為し、卒に其の計策を用ゐる。而して李斯事を用ゐる。十一年、王翦・桓齮・楊端和鄴を攻め、九城を取る。王翦閼与・橑楊を攻め、皆并せて一軍と為す。翦将たること十八日、軍の斗食以下を帰し、什より二人を推して軍に従はしめ、鄴・安陽を取る。桓齮将たり。十二年、文信侯不韋死し、竊かに葬る。其の舎人の臨む者、晋人なるは之を逐出し、秦人の六百石以上は爵を奪ひて、遷す。五百石以下にして臨まざるは、遷すも、爵を奪ふ勿かれ。今より以来、国事を操ること不道なること嫪毐・不韋の如き者は其の門を籍すること、此に視へ。秋、嫪毐の舎人の蜀に遷されし者を復す。是の時に当たり、天下大いに旱し、六月より八月に至りて乃ち雨ふる。十三年、桓齮趙の平陽を攻め、趙の将扈輒を殺し、首を斬ること十万。王河南に之く。正月、彗星東方に見る。十月、桓齮趙を攻む。十四年、趙の軍を平陽に攻め、宜安を取り、之を破り、其の将軍を殺す。桓齮平陽・武城を定む。韓非秦に使ひす。秦李斯の謀を用ゐ、非を留む。非雲陽に死す。韓王臣と為らんことを請ふ。十五年、大いに兵を興し、一軍は鄴に至り、一軍は太原に至り、狼孟を取る。地動く。十六年九月、卒を発して地を韓の南陽の仮守騰に受けしむ。初めて男子をして年を書せしむ。魏地を秦に献ず。秦麗邑を置く。十七年、内史騰韓を攻め、韓王安を得、尽く其の地を納れ、其の地を以て郡と為し、命じて潁川と曰ふ。地動く。華陽太后卒す。民大いに饑う。十八年、大いに兵を興して趙を攻む。王翦上地を将ゐ、井陘を下る。端和河内を将ゐ、羌瘣趙を伐ち、端和邯鄲城を囲む。十九年、王翦・羌瘣尽く趙の地東陽を定取し、趙王を得たり。兵を引きて燕を攻めんと欲し、中山に屯す。秦王邯鄲に之き、諸の嘗て王の趙に生まれし時に母家と仇怨有りしは、皆之を阬にす。

現代語訳

(尉繚が秦王のもとを去ろうとしたので)秦王はそれに気づき、強く引き止めて秦の国尉(軍事の最高責任者)とし、ついにその計略を用いた。そして李斯が政務を担うようになった。十一年、王翦・桓齮・楊端和が鄴を攻め、九つの城を取った。王翦は閼与と橑楊を攻め、それらの軍をすべて合わせて一軍とした。王翦が将となって十八日目、軍のうち俸禄の少ない下級の者を帰し、十人に二人を選んで従軍させ、鄴と安陽を取った。桓齮が将であった。十二年、文信侯の呂不韋が死に、ひそかに葬られた。その食客で葬儀に参列した者のうち、晋(三晋)の出身者は国外に追放し、秦の出身者で六百石以上の者は爵位を奪って移住させた。五百石以下で参列しなかった者は移住させるが、爵位は奪わないこととした。今後、国政を担って嫪毐や呂不韋のように道に外れた者は、その一族を記録して奴隷の籍に入れる。これを先例とする、と定めた。秋、嫪毐の食客で蜀に移されていた者たちを元に戻した。このころ天下は大日照りで、六月から八月になってようやく雨が降った。十三年、桓齮が趙の平陽を攻め、趙の将軍扈輒を殺し、十万の首を斬った。王は河南に行った。正月、彗星が東方に現れた。十月、桓齮が趙を攻めた。十四年、平陽で趙の軍を攻め、宜安を取って趙軍を破り、その将軍を殺した。桓齮は平陽と武城を平定した。韓非が使者として秦に来た。秦は李斯の謀を用いて韓非を引き留めた。韓非は雲陽で死んだ。韓王は秦の臣下となることを願い出た。十五年、大いに兵を起こし、一軍は鄴へ、一軍は太原へ向かい、狼孟を取った。地震があった。十六年九月、兵を出して、韓の南陽の仮の太守である騰から土地を受け取らせた。はじめて男子に年齢を登録させた。魏が秦に土地を献上した。秦は麗邑を置いた。十七年、内史の騰が韓を攻め、韓王安を捕らえ、その領地をすべて取り上げて郡とし、潁川郡と名づけた。地震があった。華陽太后が亡くなった。民は大飢饉に苦しんだ。十八年、大いに兵を起こして趙を攻めた。王翦は上地の兵を率いて井陘を下り、楊端和は河内の兵を率い、羌瘣は趙を討ち、楊端和は邯鄲の城を包囲した。十九年、王翦と羌瘣は趙の東陽の地をすべて平定し、趙王を捕らえた。兵を率いて燕を攻めようとし、中山に駐屯した。秦王は邯鄲に行き、かつて王が趙で生まれ育ったころに母の実家と恨みのあった者たちを、みな生き埋めにした。

解説

秦王政が統一戦争を本格的に始め、韓と趙を滅ぼす段です。冒頭では、軍略家の尉繚が秦王の人柄を見て去ろうとしたのを、王が強く引き止めて国尉に任じ、その計略を用いたことが記されます。そして李斯が政治の中心に立ちました。人材を引き止め、用いる決断の速さは、秦王の強みでした。一方で、韓非の最期も記されています。秦王は韓非の著作を読んで深く感銘を受けていましたが、使者として来た韓非は、かつての同門である李斯の謀によって獄に留められ、雲陽で死にました。優れた人材が、身内の嫉妬や警戒によって失われることもあったのです。呂不韋の死後には、その葬儀に参列した食客を出身地や地位によって処罰し、秦王は旧勢力の影響を徹底的に断ちました。韓を滅ぼして潁川郡とし、趙の都邯鄲を落とすと、秦王は自ら邯鄲に赴き、幼いころ母の実家と恨みのあった者たちを生き埋めにしました。私怨を公権力で晴らす姿には、後の苛烈な統治の片鱗がうかがえます。

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