史記 / 韓世家
太史公曰:韓厥之感晉景公,紹趙孤之子武,以成程嬰、公孫杵臼之義,此天下之陰德也。韓氏之功,於晉未睹其大者也。然與趙、魏終爲諸侯十餘世,宜乎哉!
新字:太史公曰:韓厥之感晋景公,紹趙孤之子武,以成程嬰、公孫杵臼之義,此天下之陰徳也。韓氏之功,於晋未睹其大者也。然与趙、魏終為諸侯十余世,宜乎哉!
書き下し
太史公曰く、「韓厥の晉景公を感ぜしめ、趙孤の子武を紹がしめ、以て程嬰・公孫杵臼の義を成す、此れ天下の陰徳なり。韓氏の功、晉に於て未だ其の大なる者を睹ざるなり。然れども趙・魏と終に諸侯たること十餘世、宜なるかな」と。
現代語訳
太史公は言う。「韓厥は晉の景公の心を動かし、趙氏の遺児・武に家を継がせ、それによって程嬰と公孫杵臼の義を成就させた。これこそ天下に対する陰徳である。韓氏の功績は、晉においてこれといって大きなものは見当たらない。それでも趙・魏とともに、ついに十余代にわたって諸侯であり続けた。もっともなことである」。
解説
「人知れず積んだ、隠れた善行(陰徳)は、その子孫にまで、長く、報いをもたらす」——司馬遷が、韓氏が長く栄えた理由を、その先祖の「陰徳」に見た、この篇の結びです。司馬遷は、韓の一族が、なぜ、長く栄えることが、できたのか——その理由を、彼らの、華々しい功績にではなく、その先祖が、人知れず、積んだ、一つの「隠れた善行」に、見出しました。かつて、晋の名門・趙氏が、権臣によって、一族皆殺しにされたとき——ただ一人、生き残った遺児(趙武)を、(程嬰と公孫杵臼という、二人の義士が、命を懸けて、守り抜いていました。)そして、その、隠された遺児の存在を、(危険を冒して、)晋の景公に、そっと、明かし、その心を動かして、趙氏の家名を、(滅亡から)再興させ、遺児・趙武を、正式な後継者として、立てさせた——それが、韓厥(韓氏の先祖)だったのです。司馬遷は、こう讃えます。「韓厥が、晋の景公の心を、(趙氏再興へと、)動かし、趙氏の遺児・武を、(家名を)継がせた。そのことによって、(命を懸けて遺児を守った、)程嬰と公孫杵臼の、あの、(壮絶な)義を、(無駄にせず、)成就させたのだ。——これこそ、天下に、誇るべき、『陰徳(人知れず積んだ、隠れた善行)』である(此天下之陰德也)」と。そして、司馬遷は、韓氏の、その後を、こう評します。「(正直なところ、)韓氏の功績は、晋の国において、(他の名門と比べて、)これといって、際立って、大きなものは、見当たらない。——それにもかかわらず、(韓氏が、)趙氏や、魏氏とともに、(晋を三分して、)ついに、諸侯として、十数世代にもわたって、長く、栄え続けたのは——(あの、先祖の陰徳を思えば、)まことに、もっともなことでは、ないか(宜乎哉)」と。ここに、陰徳についての教訓があります。第一に、人知れず、誰にも褒められることなく、(見返りも求めずに、)積んだ「隠れた善行(陰徳)」は——目に見える功績よりも、はるかに、深く、長く、その人と、その子孫に、報いをもたらすということ。韓氏は、際立った功績がなくとも、この一つの陰徳ゆえに、十数世代、栄えた。第二に、とりわけ、(他人の、)滅びかけた大切なものを、救い、(他人の、)尊い犠牲を、無駄にせず、成就させる——そうした、目立たない働きの、尊さ。第三に、そして、目に見える華々しい功績を、追い求めるよりも、こうした、人知れぬ善行を、地道に、積み重ねることのほうが、長い目で見て、確かな、実りを、生むということ。組織や人生で、人知れず見返りも求めずに積んだ隠れた善行が長く深い報いをもたらすと信じること、他人の大切なものを救い他人の犠牲を無駄にしない目立たない働きの尊さを知ること、そして華々しい功績より人知れぬ善行の積み重ねが確かな実りを生むと理解すること——司馬遷の「陰徳」評は、隠れた善行の力を教えます。
この章句が説くこと
韓厥陰徳天下之陰徳人知れず積んだ隠れた善行趙氏孤児を再興させる他人の犠牲を無駄にしない
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